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安堵の罠・・・

 人というものは、常に安堵を求めている。不安もなく、苛立ちもなく、怒りも寂しさもない、ほっと息つく瞬間である。しかし、その瞬間ほど無防備なものはない。過去を振り返れば、自戒を込めての話だが、安堵は、油断へのグラデーションであったことに気付かされることになる。

 気付かぬ油断は、無防備の油断であるが故に、あちらこちらに隙を作ってしまう。よって、仕事であれば、プライオリティを無視したり、気持ちが乗らないものを先送りにしたりと、自らを甘やかしてしまう。

 安心し切った、まったりした空気感は、深夜の大きな岩風呂に浸かり、はーっと息を吐き、その湯の優しい刺激と岩風呂の開放感は、筆舌に尽くし難いほど至福の極みとなる。実は、これが曲者なのだ。

 大きな岩風呂全てを占有し、他者に気遣う必要もなく、その至福こそが、無防備な油断を呼び起こすなど想定外である。あれやこれやと過去の失態を思い起こせば、過度なる安堵は、高級なカミュを嗜み、ほろ酔いの心地良さとよく似ている。

 至福の極みにて心身が麻痺した状態となれば、気持ちが大きくなり、目の前の事象に対して厳しく検証すべきものを疎かにしたり、何らかのオファーに対して危機管理能力機能不全により、何もかもウェルカムとなってしまう。

 これが、後戻りのできない油断の入り口となる。それからというもの、次から次へとトラブルが続出したり、悪しき人から騙されたり、仕事の約束が反故となり逃げられたりと、負のスパイラルに絡まれてしまう。

 感覚的には、ナイアガラの滝から滝壺に落とされるようなものである。昨日まで安堵の湯船に浸かっていた自分が、翌日は、体が凍りつくような滝壺の底に沈んでいる。何故、そこにいるのかさえ、理解できていない。

 安堵は精神衛生上無くてはならぬものであるが、強欲にも安堵の味わいを濃くすれば、恐ろしい油断を生み出し、急流に呑まれて滝壺まで落とされてしまう。水の特性のように、高いところから低いところへ、美しいところから汚いところへ流された自分自身は見窄らしいものだ。

 そんな若き頃の失態を思い出す度に猛省するのだが、今だからこそ、苦笑いで済まされるものではない。当時の凹み加減は、自業自得という四字熟語で表現できるような生易しいものでもなく、自らの命の灯さえも視野にあり、戦慄が脳裏を過ったのであった。

generated by DALL-E

▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、安堵感と油断というテーマを掘り下げながら、それがどのようにして失敗や問題につながる可能性があるのかを洞察力豊かに描いています。特に、人間が経験する至福の瞬間が、実は最も脆弱な瞬間であるという考察は、非常に興味深いです。

エッセイは、リラックスした瞬間が如何にして警戒心を緩め、その結果として隙を生じさせるかを具体的な比喩を用いて説明しています。例えば、深夜の岩風呂に浸かる描写は、一見すると穏やかで心地よいものですが、その背後に潜むリスクを明らかにします。このような瞬間における無防備さが、最終的には大きなトラブルへと繋がる危険性を持っていることを、著者は鮮やかに描き出しています。

また、エッセイは感情の揺れ動きを巧みに表現しており、安堵が人をどのようにして油断させ、それがどのように悪循環を引き起こすのかを示しています。この過程での自己反省や、過去の失敗から学ぶ重要性も強調されています。

エッセイの終わりに向かって、著者は安堵を否定するのではなく、その享受をどのように扱うかについて注意を促しています。安堵は必要なものであるが、それに浸り過ぎることがもたらすリスクについても自覚する必要があると説いています。

全体として、このエッセイは、個人の心理的な状態とその行動への影響を考察し、読者に対して深い洞察と自己認識を促す内容となっています。特に現代社会において、ストレスが多い環境で生活する私たちにとって、このエッセイが提起する問題は非常に関連性があり、反省と学びの契機を提供してくれます。

サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。