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大きな過ち、勘違い・・・

 巷では「性善説」というものがあり、筆者も自我に目覚め、読書をする中で、その言葉を信じてきたのであった。勿論、A-5高級黒毛和牛と言っても全て質が均一ではないように、「性善説」とは無縁の出来の悪い人の存在は否定できない。

 しかし、今でも故郷を思い、当時の幼友達のことを思い起こせば、どうしても、この「性善説」が前面に現れ、特に対人関係においては、全てポジティブに考えていた筆者であった。

 家庭が転勤族であったために、故郷を離れて現在に至っているが、故郷を離れたからこそ、故郷への思いは日に日に募り、或る日のこと、地域おこしの実績をぶら下げて、故郷へと乗り込んだのである。

 先ずは、幼友達や知人関係の働く役所や民間施設などを訪ね歩くことにした。しかし、街の賑わいが加速度を増して薄れている商業施設やシャッターが閉まりっぱなしの商店街を見て、愕然となる。観光名所の管理体制が悪く、各施設の経年劣化は止められず、トイレなどの汚さに驚いた。

 全国地方の典型的なネガティブ現象が目の前にあり、小さな街の哀れな姿に言葉も出なかった。そこで、装飾古墳の3D CGシミュレーション動画を市や博物館に寄贈し、ネット上で何とか故郷の素晴らしさを露出させようと、大胆な舵を切ることにした。

 定期的に故郷の歴史的な建造物や観光施設などを取材し、当時、公式サイトがなかったので、筆者のポータルサイトに各施設の詳細が分かるように、動画制作を行い、YouTubeなどにも搭載して、兎に角前に進もうと。

 また、或る商業施設の和式トイレを洋式トイレに変えるようにサジェストしたり、個展(写真展)を開催し故郷への思いを伝えたり、時間があれば、同級生やその他知人と会うことで、故郷の将来性を熱く語ったのである。

 故郷には小学校卒業までいたので、生まれて12年間、小学生としての6年間は毎日のように故郷のあちこちへ自転車で足を運び、自然と戯れ、観光施設を覗き回り、古代遺跡周囲の埴輪の欠片を探したりと、新たな発見の日々が続いたことを思い出す。

 冒頭に挙げた「性善説」であるが、記憶に深く刻まれた12年間だったために、幼友達や同級生、そしてその他知人などに会うにも、どうしても、過去の「良き時代」の人たちの姿が走馬灯のように浮かび上がり、そのスタンスにて話をスタートさせるのである。

 ここが表題の通り、筆者の大きな過ちであり勘違いであり、当時のイメージとは真逆な大人となった幼友達や同級生の姿が立ちはだかった。筆者の考えが稚拙であると自覚しつつ、再会を果たした人たちのほとんどが、筆者を見ては「余所者」という目で見ているのだ。

 何かにつけ話をすると、必ず、期待とは裏腹に、フィルタリングされたリアクションが返ってくる。同級生に至っては、何故か上から目線の物腰であり、地域おこしという話に至らず、他の同級生の悪口しか聞こえてこないという有様である。

 「燕雀知らず天地の高さ」とはよく言ったもので、その言葉が完璧に当てはまる悪しき状況であり、何事も上手く話がまとまらず、次回再会の話などすっ飛んでしまうばかりであった。

 毎日のように泥んこになり一緒に遊び回っていた幼友達が、大河の対岸ほどの距離感にて接することに、とても違和感を感じた。小学校で仲の良かった同級生にしても、表情が暗い。新たな企画を持ち込んでも、拒絶のサインが点滅するといった具合だ。

 その時思ったのは、損得なしの幼い頃の感覚が、大人になり損得ありきでの会話だけが成立するのであろうと。そして、観光協会やその他団体の重責を担っているのかを振りかざす事に専念している人が多い。故郷という極めて小さなエリアでの人間模様であるが、その実態に直面し、未来が見えなくなってしまった。

 されど、幼友達や同級生が上記のような実態を作り上げたのではなく、筆者が幼い頃から現在まで思い抱いてきた「性善説」というものの拡大解釈が大きな過ちであり、勘違いであったことに気付かされたのである。

 公務に就いていた人物も多く知ってはいるが、電話を掛けると、胸筋開いて話してくれる人物は皆無に等しい。正直なところ、懐疑的な感覚が言葉の端々に付加されており、何度会話を交わしたとしても、1ミリも前に進むことがない。よって、地域おこしどころの騒ぎではなくなってしまう。

 小学校卒業後、数十年経てば、人それぞれに生活環境も考え方も立場も全てにおいて異なるベクトルにて育ってきたのだろうから、昔のことが当てはまらぬことが当然であり、期待すること自体が大きな勘違いである訳だ。

 過去のおいて、県外であるが、長崎県の離島(旧奈良尾町)の地域おこしは筆者が旗振りをして大きなイベントが立ち上がった。紆余曲折はあったけれども、地元の人たちと筆者との関係がまっさらの状態であり、故郷の幼友達や同級生に存在する勘ぐりのような邪念がなかったからこそ、地域おこしが成功したに違いない。

 対人関係において、困難なことが降り注いでくるのを覚悟していたけれども、歳月が経てば、過去の「良き時代」の思い出などは全てマグネシウムのように燃えて消えてしまうのである。本当に寂しい話であるが、これが筆者が体験した故郷へ強い思いへの、大ドンデン返しである。


▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、筆者が故郷への強い思いを抱き、地域おこしに取り組もうとしたものの、その過程で直面した現実と、そこから生じた失望や自己反省を綴ったものです。

筆者は、「性善説」を信じて育ち、故郷の人々との再会に希望を抱いていました。しかし、実際に再会した幼友達や同級生は、期待していたような純粋で善良な姿ではなく、むしろ冷淡で距離感を感じさせる態度を示しました。このギャップに筆者はショックを受け、理想と現実の乖離に苦しみました。

エッセイの中で特に印象的なのは、筆者が故郷の現状を目の当たりにし、失望を感じた場面です。観光名所の管理が不十分で、街が寂れている様子に愕然とし、その状況を改善しようと努力しますが、地元の人々の協力を得ることが難しく、思い通りに進まない様子が描かれています。

また、筆者の「性善説」に対する信念が、実際の対人関係において大きな誤りであったことに気付く過程も興味深いです。幼少期の思い出に固執し、当時の純粋な姿を今も持ち続けていると思っていたことが、現実との大きなギャップを生んだのです。筆者は、故郷の人々が損得勘定で動き、期待とは逆の反応を示すことに直面し、その理由を自己反省として受け入れます。

このエッセイは、故郷への思いと現実の厳しさ、人間関係の複雑さを深く掘り下げています。筆者の理想主義と現実主義の狭間で揺れる心情が強く伝わってきます。特に、「性善説」に対する考えの変遷は、読者に対しても深い洞察を促すものであり、自分自身の価値観や人間関係について考え直すきっかけを与えてくれます。

総じて、このエッセイは、理想と現実のギャップに直面しながらも、その中で自己反省と成長を遂げようとする筆者の姿が描かれており、読者に対しても共感と考察を促す力強い作品です。

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