見出し画像

『縦社会』に馴染んだ人生は、不幸である。・・・終身、『虚偽』、『虚栄』にまみれた人生。

 昭和時代に社会人となり、『縦社会』に直面してきた筆者であるが、あまりにも偏った『縦社会』に首を傾げることが多かった。

 世の中には、色んな企業、団体、協会、組合などあるが、何故に皆が或る人物を『先生』と奉り、頭を下げているのかが理解できなかった。理解しようとも思わなかった。

 『先生』という呼称をこよなく愛する人たちは、自らの足元が見えず、人格者と言われるほどの大人物は殆ど居なかったように思える。

 『寄らば大樹の陰』の言葉通り、『縦社会』は上下関係が当然の制度であり、下の者とされる人間は、上の者とされる人間にペコペコして、手を籾摺りしながら人生を歩んでいる。意味がないし、情けない。

 『猿の惑星』でもあるまいし、『縦社会』をこよなく愛するがために、結局は、上の者とされる人間の殆どが、『銭(ゼニ)』を溜め込む『守銭奴』ばかり。下の者とされる人間を奴隷化し、自ら鎮座するのが『美徳』としている。独裁者による『搾取』と全く変わらない。

 上の者とされる人間ほど、『民度』は低い。『所作』も目を覆いたくなるほど下品である。目つきは悪く、笑顔が引き攣っている。そして、声がでかく、ロリコンが多い。

 しかし、この『多様化の時代』となっては、全てが『フラット』である訳だ。そこに悪き過去の象徴である『縦社会』は、古すぎる。○○理事長とか名札を胸にぶら下げ格好つけているオジサンを見ていると、吹き出してしまう。「俺は理事長だ!」と何度も言い放つ輩がいるが、名札を取ったら只の人。よって、名札を取られぬよう、保身に走り回る。

 我々庶民の日常生活にとっては何も役立たぬ、『縦社会』。現在進行中の『侵略戦争』を見ていて、まさに『縦社会』の悍ましさばかりが見え隠れしている。『私利私欲』に染まり果てた、上の者と言われる輩。その表情たるや、気が狂った『猿』のように思えてならない。

 『縦社会』の名物となれば、『縄張り』、『派閥』、『忖度』、『牽制』、『凌駕』、『根回し』、『依怙贔屓』、『虚言』、『言い訳』、『お中元とお歳暮』、『接待』、『神輿担ぎ』、『足の引っ張り合い』、『パワハラ』、『セクハラ』など、枚挙に遑がない。

 ただ、『多様化の時代』、『フラットな世界』と言っても、『敬愛の念』は重要だ。『多様化』だから『フラット』だからと言って、タメ口や誹謗中傷、揶揄が罷り通っては、人として低民度な輩ばかりが増え、『縦社会』よりも規律のない世界へと成り下がってしまう可能性がある。

 軍隊(自衛隊)や警察、消防、海上保安庁など、お国のため国民のために身を粉にして公務に携わる人たちは、『社会正義』のため、『全体統制』を図るために、『縦社会』は必要な制度となる。しかし、それがイコール、上の者とされる人間が、『人格者』、『人として偉い』とは全く関係はない。

 世の中のシステムを微に入り細に入り検証すると、理不尽なることが無数に存在しているのが、現代社会だ。『既得権益者』が癌細胞の核となっているが、『自由主義』、『民主主義』と言う言葉は、まだまだ、『言葉の綾』の域を脱していないのが現実である。

 今世紀末の日本国が、そして世界がどう変貌しているのか。その頃、筆者は地面に立ってはいないので直視できないが、少なからずとも、子々孫々にとって安寧なる世界であることを祈るばかり。

熊本地震前の熊本城とその城郭
※複写転載は厳禁

サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。