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「空白の150年」の真相に迫る!

日本の歴史には「空白の150年」と言われる、歴史の文献にも記録が残っていない期間があります。

それは西暦266年から413年までの時代。
その頃の日本に一体何が起きていたのか?その謎に迫ってみましょう。


◆2つの王朝

この空白の時代を歴史の教科書で確認すると、弥生時代の終わりから古墳時代の前期あたりとなります。

それではここで、スキャンリーディングを試みてみましょう。

規模を日本国内領域で設定すると、2つの王朝の気配が浮かび上がってきます。そしてこの2つの王朝は、並立していると出ました。

それは吉備王朝阿波忌部王朝です。

今で言う、岡山県と徳島県にあたります。2つの王朝同士は仲が良く、互いに親交を深めていました。

◆吉備王朝

吉備王朝の方は、古代の九州王朝の変遷の流れを経て、王朝が東に東にと時代を経て移動してきておりました。この時代では吉備王朝として成立していたと、ここでは推測することもできます。

◆九州北東部王朝

約3,200年前、九州の北東部の地域には、天照大神(アマテラスオオミカミ)が皇尊(スメラミコト)として天皇の役割のため生まれました。
ちなみに天照大神の現在をスキャンで確認すると、その存在は女性霊ではなく、男性霊という反応があります。

この時代の別の地域には、もうひとつの王朝も存在していました。その王朝の創設者は、国常立尊(クニトコタチノミコト)。

北九州北東部王朝が天照大神(アマテラスオオミカミ)の系譜であり、令和の皇室への遺伝子的繋がりの反応が強いという特徴があります。

◆阿波忌部王朝

それは聖徳太子より以前の空白の時代。
阿波忌部王朝に焦点を当てスキャンしてみましょう。

王朝を支える一族として、物部氏や阿波忌部氏の2つの種族の反応が強く出ます。高知には物部という地名もあり、それらの一族同士が協力し合って、
阿波忌部王朝が成立していました。

阿波忌部王朝の創設をスキャンすると、約6,000年前と出ます。
現在の徳島市周辺に阿波忌部王朝を創設した皇尊(スメラミコト)がいます。こちらの皇尊が、過去22万年にわたり日本神霊界を牽引してきた、まさに司令塔の存在!久しぶりに、人間として生まれられたようです。

◆空白の150年

吉備氏の王朝や阿波忌部氏の王朝は、そのままの勢力が保てず歴史的に消えてしまいました。どうして王朝は、関西地方に移っていったのでしょうか?

空白の150年、その後半の時代をスキャンリーディングすると、阿波忌部王朝が、関西に群雄割拠し始めていた中臣一族に戦争を仕掛けられてしまいます。紀伊水道をまたぐ大戦争の始まりです。

当時の関西地方では、中臣氏の他にも蘇我氏や秦氏などもおり、舞台は国際外交や権謀術数の渦に取り巻かれていたのです。

中臣氏をスキャンしてルーツを遡ったところ、愛知地方にいったん流れのルーツがありながら、さらにその前には長野や岐阜の方から愛知におりてきた反応があります。

関西地方で活躍し始めた中臣氏の政治的な狙いは、阿波忌部王朝を関西に遷都させ、その後は実質的に支配すること。

この流れを、当初にノーと言った阿波忌部王朝。
関西豪族を率いた中臣連合軍は壮大な規模であり、阿波忌部王朝は防戦及ばず、敗戦してしまいます。

その後、遷都が行われ、奈良や飛鳥地方が時代の中心として形成されていきます。

この流れで、阿波忌部氏や物部氏も関西地方に多く関係することになり、関西豪族の諸氏には、阿波忌部氏の遺伝子系統も少し入ることになります。

戦争前後の状況を、第三勢力として慎重に分析していた吉備王朝は、賢く立ち回ろうとしましたが、最終的には吉備王朝も遷都させられました。

空白の150年の記録については、この2つの王朝が栄えていた時代の存在自体を政治家兼陰陽師である兼藤原不比等が藤原家の支配を盤石とするため、歴史編纂で葬りました。

さらに「いつも王朝は1つであった流れである」という雰囲気で、藤原不比等が中心となり、古事記、日本書紀に編集されてしまいました。王朝並立のコンセプトは、これからの藤原家にとって非常に都合が悪かったのでしょう。

そして時代は、奈良の平城京を舞台とする新しい花が咲き始めます。ちょうど讃岐の国から、一人の少年が奈良に向かって上京する足音がまもなく聞こえてくるのでした。

※ちかみつミーティングでは皆さまからのリクエストに応じ、このような歴史スキャンもしております。詳しくは、ちかみつミーティング告知記事をご確認くださいませ。


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