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映画「ディア・エヴァン・ハンセン」感想

 一言で、一人の青年の死を通して、嘘は人を救うのか、それとも傷つけるのか、考えさせられる作品です。ただ、病やスクールカースト、人間関係の複雑さの描写は、生々しく、キツかったです。

※ここからは本編のネタバレなので、未視聴の方は閲覧注意です。尚、決して本作をネガキャンするものではございませんが、かなり重いテーマであること、またその扱い方に対する批判を含みますので、読みたくない方はブラウザバックを勧めます。

 高校生のエヴァン・ハンセンは、日常に不安や孤独感を抱える青年で、学校に友人は一人もいませんでした。マザーの母ハイディと二人暮らしで、父とは幼い頃に別れています。ある日、エヴァンは、セラピストからの宿題で「自分宛の手紙」を書きます。「ディア・エヴァン・ハンセン(親愛なるエヴァン・ハンセンへ)」から綴られた内容は、変わらぬ日々への落胆、自分の居場所を求める気持ち、そして魅力的な女子学生ゾーイ・マーフィーへの想いでした。しかし、その手紙は、よりにもよってゾーイの兄であるコナー・マーフィーに持ち去られてしまいます。それを嘆くエヴァンですが、後日、コナーが自ら命を絶ったことを知らされます。コナーの母シンシアと義父ラリーからエヴァンに遺されたのは、あの「手紙」でした。これが、「コナーからエヴァンへの最期のメッセージ」だと信じている二人に、エヴァンは「真実」を伝えることが出来ず、「自分はコナーと親友だった」と咄嗟に「思いやりの嘘」をついてしまいます。その「嘘」と、ありもしない「コナーとエヴァンの思い出」によって、コナーの家族は救われていきます。また、学校では、コナーの追悼式が行われ、エヴァンは「親友代表」としてスピーチします。その様子は人々の心を打って、瞬く間にSNSで世界中に「拡散」されたのです。一躍「人気者」となったエヴァンの人生は好転したかのように思われましたが、一方で、知らず知らずのうちに、「嘘に嘘を重ねすぎてもう引き返せない」状況まで足を踏み入れていたのでした。

1. SNS世代にとって、生きることは「辛い」のか?

 本作では、エヴァンを取り巻く、アメリカの高校生活にあるスクールカーストや人間関係の複雑さをリアルに描いています。今の若者達が抱える「生きづらさ」がとても伝わってきて、辛い場面が多かったです。
 エヴァンは内向的で友達がおらず、いつも一人で過ごしていました。序盤、森林公園での活動で木から落ちて骨折し、左腕にギプスをはめていますが、誰も彼を気遣う者はいませんでした。※一応、作中には、インド系でゲイのジャレッドが、エヴァンとの交流を持っているものの、彼は「エヴァンとは家族同士が友人」なだけで、少なくともジャレッドは、エヴァンを「友人」とは思っていません。
 また、エヴァンは社交不安の症状を抱えており、常に薬が手放せない状況でした。エヴァンのパニック発作はリアルで辛く、トイレに駆け込んで便器に顔を突っ込むシーンでは、かなりキツいものがありました。※直接的な「表現」(中身)は出ていませんが、嘔吐恐怖症や社交不安をお持ちの方は視聴注意かもしれません。
 そんな中、社交不安の症状に苦しむエヴァンを見ている母のハイディは、病院のセラピーを紹介します。そこで、エヴァンは、「『自分宛』の手紙を書く」ことをセラピストから宿題として出され、取り組みます。「自分の悩みや辛さや紙に書き、客観視する」という治療方法は、紙に書くという「生みの苦しみ」という面はあるものの、それを吐き出して「手放す」という「感情の解放」という別の面も持ち合わせています。薬に頼らない治療法としては、こういう方法もあるんだな、と知りました。精神医学というかなりセンシティブなテーマに踏み込む作品は珍しいので、この話は結構印象に残りました。
 それから、ハイディは、エヴァンに対し、「人と話す訓練」として、ギプスに友達から応援メッセージを書いてもらうように伝えます。しかし、友達がいないエヴァンには、それはかなり過酷なミッションでした。最初にジャレッドにも頼んだものの、「家族同士の付き合いだけで、君とは『友達』ではない」と断られます。※正直、「マジかよ、エグいな。というか、『お友達文化』キッツイなー」と胸が痛くなりました。
 結局エヴァンは誰にも声をかけることが出来ませんが、図書館でセラピストへの宿題を書いているとき、突然コナーに話しかけられます。コナーは、他者への加害性が強く、乱暴者で、常に周囲を恫喝していました。コナーは、おどおどしたエヴァンにも「恫喝」しますが、何を思ったのか、エヴァンのギプスに名前を書いてくれたのです。しかし、手紙をプリントしている際に、コナーはエヴァンの手紙を取り上げ、返さずに持ち去ってしまいました。その数日後、エヴァンはコナーの死を聞かされることになります。
 コナーの両親と妹のゾーイから、コナーも「孤独で、家にも学校にも居場所がない子」だったことを知らされます。※コナーの父が「義父」なのは、実父とは死別しているため。自分が知らない一面を知った、ある意味、エヴァンとコナーは「似た者同士」だったのです。尚、エヴァンは他者への加害性は弱いので、そこはコナーと異なります。
 コナーについては、「思春期の若者の衝動的な自死」だと思います。死因は明かされていませんが、終盤で彼が「薬の自助会」に行っていたことがわかるので、恐らく「オーバードーズ」ではないかと思います。
 やがて、学校では彼の存在を忘れないための「追悼会」が開かれ、クラウドファンディングで「彼の名前で記念果樹園を建立する」グループが設立されます。その中心にいたのはアラナという女子学生でした。彼女は司会やリーダー役など、学校では目立つポジションにいることが多く、良く言えば「頑張り屋」、悪く言えば「意識高い系」でした。目標を高く設定し、それを達成することに熱心になってしまうあまり、心身が疲弊してしまうけど、それを表には出せずにいます。やがて、そんな彼女が抱える生きづらさと、エヴァンの生きづらさは「共鳴」し、お互い本音を漏らすようになります。しかし、それはエヴァンが「築いたもの」を壊すキッカケとなるのでした。
 孤独な若者という意味では、「ロン 僕のポンコツボット」 の主人公バーニーと重なる部分がありました。現代は周囲の人間だけでなく、インターネットやSNSなどのソーシャルメディアサービスを通して、会ったことがない人間と簡単に「繋がれる」時代にはなっています。しかし、その反面、「孤独を感じる」、「生きづらさを抱える」人間が多いということなんでしょうね。

2. 虚構の関係とリアルな世界〜「バズる」とは?

 コナーの死後、エヴァンはコナーの両親から呼び出されますが、「手紙」と「ギプスの名前」から、エヴァンはコナーの「親友」だったという「虚構の事実」が生み出されてしまいます。しかし、エヴァンは、コナーの両親を傷つけたくない一心からそれを否定せず、逆に「二人の思い出を聞きたい」という彼らのリクエストに答えるため、その「虚構の事実」を貫くことを選択するのです。エヴァンはジャレッドと一緒に偽のメールを作り、ありもしない生前の「思い出作り」に奔走します。すっかりマーフィー家の家人と打ち解けたエヴァンは、やがてゾーイに対しても「積極的」になっていきます。
 「虚構の関係から始まったリアルな人間関係の構築」、また「カースト地位が低く冴えない男性と、カースト地位は高いけど実は何か事情を抱えた女性との恋愛」という意味では、「電車男」や「アラジン」と似た部分はあると思います。
 そんなエヴァンはコナー追悼式にて、「親友代表」としてスピーチします。震えながらもメッセージを読んだ様子を観客はそれをネットにアップします。この時、舞台へスマホのカメラが沢山向けられるシーンがあるのですが、これがかなり「怖い」です。こうして、瞬く間にSNSで世界中に「拡散」され、大「バズり」します。「僕も、私もそうだった。もう一人じゃない」、そうやってエヴァンに「勇気づけられた」人々は、コナーのインスタグラムをどんどんフォローしていきます。※ここの演出は、「竜とそばかすの姫」で、人々のアイコンやスクリーンが重なって一つの顔(ベルや竜)になる演出は、正直「似ていますね」。ここでは、 どちらが先でどちらが後みたいな話はしませんが。
 そして、すっかりゾーイとよろしくなったエヴァンは、プロムでゾーイをダンス相手に選びます。こんな性格の変わり様は、コナーの死が無ければあり得なかったことでした。
 しかし、ゾーイに夢中になったエヴァンは、そのうちクラウドファンディングチームへの参加が疎かになっていきます。また、時間が経つにつれて、故人は忘れ去られていきます。(コナーのロッカーに備えられた花は枯れていました。)そんな中、アラナはクラウドファンディング達成のための資金が少し足りないことに気がつきます。また集まりに来ないエヴァンに次第に不信感を抱き始めたアラナは、「ひょっとして彼は嘘をついていない?本当に親友だったの?」と疑い始めます。エヴァンはアラナと、「コナーの『遺書』は絶対にネットにアップしないで」と約束をしていましたが、エヴァンを信じられなくなった&どうしても資金が欲しいアラナは、何とその約束を破り、「遺書」をネットにアップしたのでした。
 案の定、その遺書に「感動」する人は大勢いましたが、同時に「批判」の声も大きくなりました。コナーのアカウントには中傷コメントが集まり、それを見た家族は精神的に参ってしまいます。それを見たエヴァンは、漸く自分の嘘を告白するのでした。

3. 敢えて「核心」に迫らない作風

 本作は、コナーの話は、マーフィー家の回想でしかわからず、コナーが自ら気持ちを表明するのシーンは一切ありません。つまり、「物語の核心である亡くなる前のコナー」のことは、登場人物も観客も全く「わからず」に進みます。こういう話の進め方は、朝井リョウ氏の「桐島、部活やめるってよ」や「何者」と似た構成です。朝井リョウ氏も、スクールカーストや若者の揺れ動く繊細な気持ちを描く作風が特徴的で、多くの支持を得ています。特に若者には、リアルタイムに「刺さる」作品として評価されています。

4. ミュージカルで表現する難しさ、世間への伝え方

 本作は、役者の演技や歌はとても良かったです。まず、エヴァン役の俳優ベン・プラットはなんと28歳です。2017年の舞台版でエヴァン役を演じており、トニー賞主演男優賞を受賞しています。何となく、老け顔の俳優さんだな、とは思っていましたが、作中ではそこまで気にならなかったです。孤独感を歌うシーンや発作が出るシーンは、リアルな辛さが伝わってきて、観客である私もキツくなりました。その反面、中盤から「調子に乗り出す」姿には、イラッとしました。こういうエヴァンの二面性の演技がとても上手でした。
 また、コナーの両親と妹のゾーイが歌う、「レクイエムは歌わない」は圧巻でした。コナー母シンシアの「息子に対する愛」、コナーの義父ラリーの「血が繋がっておらず、心も通じ合わなかった息子への複雑な想い」、ゾーイの「兄に対する憎しみや周囲から哀れまれることへの怒り」など、家族でもコナーへの想いが全く違うことを表現できていたのは凄く良かったです。
 歌唱シーンではありませんが、コナー母シンシアが、グルテンフリー食材やヴィーガンなど自然派生活に過度に傾倒する姿は、「エセ宗教にハマるタイプ」としてリアルな描写でした。
 その他の役者さん達も、良い仕事をしていました。等身大の若者の姿や、息子の死を乗り越えようとする姿は、とてもリアルで、まるで登場人物達が「実在」しているように感じました。良い面も嫌な面も含めて、「こういう人物いるな、自分にもこういう部分はあるな」と共感できる点はありました。

 しかし、本作は殆ど踊らないミュージカル映画です。「グレイテスト・ショーマン」や、「ラ・ラ・ランド」のスタッフが手掛けた作品ですが、これらの作品のようなダイナミックなダンスや歌唱パフォーマンスを期待すると、残念ながら肩透かしを喰らいます。

5. 評価が賛否両論な理由〜本当に「感涙する」話ですか?

 しかし、私は本作を手放しに「感動・絶賛」は出来ず、「妙な気持ち悪さと違和感」が強く残る作品だったと感じました。日本版の「感涙ミュージカル」は、正直「宣伝詐欺」では?と感じるところはありました。
 まず、これらはどこから来るのか考えたところ、作中に蔓延する「ヒーロー願望とメサイア・コンプレックス」ではないかという結論に至りました。登場人物全員、「誰かを救いたい」というヒーローやメサイア状態に酔っていて、結局は「そういう行為をしている自分が可愛い、良い思いをしたい」ベクトルに気持ちや行動が向いている部分が「無いわけじゃない」のです。それは、皆のコナーへの「追悼」の気持ちだったり、「エヴァンのマーフィー家への救い」だったり、「シンシアのハンセン家への学費援助提案」だったり。※勿論、それが全て100%ではありません。最も、日本ではこういう事実は「隠そう」とする傾向が強いですが、本作のように「故人を忘れない、同じように苦しんでいる人を救いたい」という気持ちからここまでのムーブメントを起こす行動力は純粋に凄いです。
 ただ、アラナの「コナーの遺書」をアップした行動は「コナーへの尊厳」と「グループ(ひいては自分)への利益・名声」を天秤にかけて、後者を取った行動ですね。これは流石に「大目に見る、見逃す」ことは出来ませんでした。しかし、実際周囲から再度「孤立」したのは嘘を告白したエヴァン一人だけで、アラナには特にお咎めは無かったように思います。
 また、デジタル・タトゥーの危険性についても描写が不十分です。デジタル・タトゥーは、知らないところで拡散し、何度も「魚拓」されることで、消えないから問題になるものです。本作のように、問題の動画を消したから、コナーの生前の動画で「上書き」したからラッキーではないですよね?
 そして、本作は、「嘘」で物語が進行し、「真実」を告白することで物語が終わります。しかし、「ついていい嘘とそうでない嘘」というものは、世の中には確実に存在します。「人の死にまつわる嘘」は、後者でしょう。「嘘も方便」という言葉は、これには当てはまりません。つまり、「傷つけたくないから言わない」行為は、回り回って人を「傷つける」というメッセージは一貫しているのかもしれません。
 さらに、「故人への尊厳」についても違和感が残ります。正直、追悼式がネットにアップされ、フォロワーが「感動の渦に巻き込まれる姿」は、第三者から見れば「狂気」です。しかも、そこで歌われる「You Will Be Found」が何となく聴いていると、「感動的なメロディー」に聞こえてしまうから尚更、怖いと感じました。このように、「感情が批判を薙ぎ倒す」状況は、リアルでも起きていますね。結局、コナーは時が経つにつれて、「死んだら良い人」になって祀り上げられ、ラストではクラウドファンディングによる記念果樹園は設立されました。
 結局、物語が進むにつれて、登場人物達が、「人の死を踏み台にする」ように感じてしまい、ここに「当事者にとっての見え方」は考慮されているのか、引っ掛かりました。「精神疾患患者」や「自死遺族」にとってはどう映るんだろう?これって傷つけていませんか?
せめてものの、エンドロール後の「一人じゃない」のテロップは、「配慮」でしょうか?でも、本当に「配慮」になっているのでしょうか?エヴァンは孤独を感じていても、気にかける母や、家族ぐるみの付き合いのジャレッド、その他の「仲間」がいました。しかし、コナーは(家族はいれど)本当に「孤独」だったのです。

 本作、上映時間は2時間半と結構長い作品で、途中で「眠くなった」箇所はありました。(すみません) また、ミュージカルの演出上、仕方ないのですが、シリアスな場面で歌い出すのは、ギョッとする時もありました。勿論、ミュージカル映画としてのクオリティーは高いことは認めています。決して本作を下げようという気持ちは一切ございませんが、「よく」考えてから御覧になることをお勧めします。本音を言うと、色んな意味で鑑賞が「キツい」作品でした。だから、積極的に「お勧め」は出来ないです。

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