BETWEEN THE SKY AND THE BLUE
あらすじ
旅にでた成人女性が迷ってある村にたどり着く。そこは空がどこよりも青く深い色をしていた。なぜそんなに空が青いのか。その空の色に魅せられた女性は、猫と会話をし、星降る夜を経験し、イモムシに出会っているうちに自分がよじれた世界に入ってしまったことに気がつく。元の世界へもどるための鍵を握るのは二頭のライオンであることを猫に知らされて、穴熊やベンチや星の子たちに出会いながら二頭のライオンを目指す旅をすることになる。二頭のライオンはいつも一歩先を行ってしまう。風の子たちに道を教えてもらい、長い旅の末にようやく二頭のライオンにであうのだ。
1.
どのくらい眠ったのかわからなかったが、寝ている間にどこかの駅についたのだろう。腕時計をみるとわたしが降りるべき駅への到着時刻はまだ15分ほど先だった。乗り過ごしたわけではない。安心したがもう眠気はなく頭は冴えていた。
駅舎は日本国中の地方都市にならどこにでもありそうな簡素な作りで駅名の表示がなければどこだかわからない。町並みもルールがあるかのように無個性だった。太陽の強烈な光がありとあらゆるものを白くしていた。わたしは駅舎のなかでサングラスをとりだした。白く霞んだ世界が輪郭を取り戻す。駅舎を出て線路沿いにすすむとあらかじめ調べてあったレンタカー屋がみつかった。この地域唯一のレンタカー屋だった。本来ならもう一つ先の駅で降りるはずだったが、その駅にレンタカー屋がなく一つ手前で降りたのだ。
レンタカー屋の屋根には周囲に高い建物がないにも関わらず、不必要と思えるほど大きな看板が立っていた。入り口にある自動ドアには吸盤ではりつく取っ手がついていて、手書きした「手で開けてください」という張り紙がガラスにテープでとめられていた。電気の通っていない重い自動ドアのガラスの扉を開けると呼び鈴がカラカラとなった。すると奥の引き戸があいて若者が出てきた。二十代くらいだろうか。車の整備士がよく着るようなつなぎの作業着を着ていた。引き戸が開けぱなしになったので部屋の奥が見える。一段たかい小上がりになっていて、そこは畳敷きで背の低いテーブルの上には食器があってどうやら食事中のようだった。
「えっと、ななにか、ごようですか」
レンタカー屋にきてなにかごようもないだろうと思ったが素直に答えた。
「車を借りたいのですが」
「そ、そうですよね。もちろん、ええ、うちレンタカー屋なんで」
男はすこしどもりながら言った。
「えっと、車種はなにがいいですかね」
「小さい乗用車でいいです」
「えっと、小型車は一種類しかなくて、シビック、ホンダのシビックなんですけど大丈夫ですか?」
なにが大丈夫なんだろうか。わたしは車に詳しくないので曖昧に頷いた。
「ええ、大丈夫だと思います」
「えっと、じゃあ、この紙に書いてもらう。いや書いてもらえますか?」
そういって若者はプリンターのカセットを引き抜き白紙を一枚とりだすとボールペンと一緒に差し出した。わたしが理解できずに戸惑っているとカウンターに置いた紙とペンをわたしの方へ押し出した。
「これ、白紙ですけど?」とわたしが聞くと、
「えっと、うちとくにないんで、これに住所とか名前を書いてもらえますか?」
「はあ」
わたしは白紙に住所と電話番号と名前を書いた。それはA4サイズの紙に不自然に居心地わるく乗っかっている。こういうときもっと字が上手だったら良かったのにと思う。罫線もなにもない空白にわたしの書いた文字がうねうねとのたうちまわっていた。
「じゃあ」といって彼はカウンターを回ってわたしの方へ来ると自動ドアを手で開けた。わたしはよくわからなくて立っていると「こっち」といって出て行ったので、バッグをかかえて彼のあとを追った。若者の後について裏手にまわると駐車場になっていた。彼は一台のハッチバックの前にくるとドアをあけて乗り込みエンジンをかけた。そして計器類を確かめてから運転席から出てきた。そのホンダシビックのボディは色が褪せていて、今では出がらしの煎茶みたいな色になっているが元はきっともっと濃いグリーンだったのだろう。
「じゃあ、どうぞ」
そういって若者は開けたドアから一歩さがった。
わたしは荷物を助手席に放り投げると運転席に座った。車内はみてくれよりもずっとよく整備されている。ふと左手をシフトレバーにのばして気がついた。
「あれ、これマニュアル…」
「あ、マニュアルだめですか。AT限定ですか?」
「いえ、違いますけどマニュアルなんて免許をとった時以来なので」
「ああ、このへん車少ないから大丈夫ですよ」
わたしは背中を冷や汗が伝わるのを感じた。ブレーキとアクセル以外にペダルがある。それがクラッチだ。
「それじゃ」といって若者が手をあげて歩き出した。わたしはあっと言って呼び止めた。
「そういえばいつまで借りるって言ってなかった」
若者はああという顔をして、いつまで借りるんですかと言った。
「一週間くらいいいかしら」
「じゃそれで。あ、ガソリン満タンで返してください」
若者は今度こそ行ってしまった。小走りに駐車場を出ていきもう姿が見えない。わたしは恐る恐るエンジンをかけた。ギアを一速に入れてそしてクラッチを踏む足を緩める。その瞬間車が前後に激しく動いてエンジンが停止した。息が一瞬とまってわたしはおおきくため息をつく。エンストだ。再びイグニションキーをまわしてエンジンをかける。今度はゆっくりとクラッチをつないでいく。車が動き出した。そのまま駐車場の出口までのろのろと走らせ車道の手前で停止した。見渡すかぎり車は一台もはしっていない。ゆっくりとクラッチをつないでいく。今度も大丈夫だ。車道にでるとアクセルを踏んでスピードをあげギアを上げてみる。車体がガクガクと震えたが無事にギアチェンジもできた。十数年ぶりの運転にしては上出来だ。
走りだしてからわたしは進むべき方角がわからないことに気がついた。そこで一旦車を路肩に停止させ助手席のかばんに手を伸ばした。かばんのサイドポケットから地図を取り出すと現在地を探す。年代物のシビックにカーナビなどついていないのだ。ようやく現在地をみつけ、目的地の方角を確認した。とりあえずずっと北へ進めばいい。そして今走っている道路は南北に伸びていた。再び車を発進させる。ギアチェンジの感覚がなんとなくわかってきた。慣れてしまえばマニュアルも怖くない。
市街地、といってもあまり市街地らしくないが、を抜けてしばらく田園がつづく。田園地帯の先には青々とした山がそびえていた。目指す温泉地は山の峠を超えた向こうにある。電車ならトンネルをくぐればすぐに着くのだろうが、車は峠を超えないといけない。上りになるとエンジンが唸り声をあげる。
「お願いだから壊れないでね」とわたしは車に話かけた。
くねくねとまがる峠道を登っていく。路面はそれほどきれいとはいえず、おまけに崖側のガードレールがところどころなくなっている。わたしは慎重にハンドルを切り、九十九折になってどこまでも続いていく道を上った。斜度が増すとエンジンが悲鳴のような音をたてた。道は車一台分ほどの幅しかなくなり、対向車がこないか心配になる。左右の木々は次第に密度を増して太陽を遮った。時折置いてある色あせた国道の標識だけが唯一わたしを安心させる。こんな道でも国道なのだ。わたしが正面を凝視して運転に意識を集中させているとフロントグラスに水滴が落ちてきた。雨だ。薄暗くなってきたのは森が深くなっただけではなかった。空をちらりと見やるとどす黒い雲が木々の隙間をうめていて、数滴の雨はまたたく間に土砂降りに変わった。わたしはワイパーを動かし、ヘッドライトをつけた。ワイパーでは掻ききれないほどの雨が打ち付けほとんど前が見えない。しかし斜面で車を止めるわけにも行かず、わたしは極端にスピードを落としてゆっくりとのぼった。短いカーブを何度も曲がるとようやく斜面が緩やかになってやがて平らになった。峠の頂上まできたのだ。そこは少しだけ道幅が広くなっていたのでわたしは車を左端に止めた。
この豪雨の中急斜面を下る勇気も自信もない。わたしはエンジンを切った。とたんに周囲は雨の音だけになる。サイドブレーキをめいっぱい引いてから座席のリクライニングを少し倒して目をつぶる。天井を打ち付ける少し響いた雨の音。ガラス越しにくぐもって聞こえる雨の音。ここには雨の音しかない。わたしは今雨音という幕に包まれているのだ。途切れることがないその音にだんだん心地よくなりいつしかわたしは眠りに落ちた。
眩しくて目が覚めた。太陽の光がフロントグラスを通して顔にあたっていた。先ほどまで降っていた滝のような雨はもうどこにもなく、澄み切った青空が広がっている。窓を下ろすと冷たい風が入ってきた。心地よく冷たい風だ。わたしは車から降りて伸びをした。風がふくたびに木々に乗っていた水滴がさらさらと落ちてきた。間違いなくさっきまで雨が降っていた証拠だ。空気はひんやりしていたが太陽の光は暖かい。わたしは深呼吸してから車に乗り込みエンジンをかけた。
峠の下りは上り以上に緊張した。エンジンブレーキというものがどういうものだったのかすっかり忘れていたからとにかくブレーキを踏んでいた。神経を尖らせて恐怖と緊張とに闘いながらなんとかふもとまで降りてきた。わたしの体は力が入りすぎて硬直しそのせいで肩が凝っていた。それでも無事に降りて来られた安堵感。山の傾斜が終わって平坦な道にでてから車を止めた。わたしは腕をフロントグラスのほうへ伸ばして伸びをした。固まった筋肉がほぐれていく感覚が気持ちいい。伸びをするとようやく遠くまで視線をあげることができた。目の前には一本の農道がどこまでも続いていて、見渡す限り広大な畑しかない。他に道がないので農道を進むことにした。農道は割れたコンクリートから草が盛大に生えており、盛り上がった中央部の草が車の底をなでる音がした。畑はいつしかトウモロコシ畑に変わっていて、両側を背の高いトウモロコシがずっと続いていた。突然車がボスンと音をたてて大きく揺れた。わたしは慌ててブレーキを踏む。ボンネットから煙があがっていた。エンジンが停止していたのでイグニションキーを回すも車はうんともすんとも言わない。その間にもボンネットの隙間から白煙がもくもくと上がっている。いくらイグニションキーをまわしてもまったく車が反応しないので、わたしは諦めて車を降りた。外にでると機械油の匂いがした。ボンネットの両脇から煙が漂っている。開けたところでわたしにはわからない。そしてその煙もエンジンを切ったせいか少しずつ少なくなっていた。
わたしは風が思いの外冷たいことに気がついた。見上げれば濃く深い青空が広がっていた。だいぶ下ったと思ったがまだそれなりに標高の高いところなのかもしれない。立ち往生しているこの車さえなければ完璧なのにと思った。わたしは農道のわきに腰を下ろした。足を投げ出して空を見上げた。エンジンが冷めればまた動き出すかもしれない。それにしてもこんなに明るいのに空が濃く深いブルーなのが不思議だ。雲ひとつなく、どこにも焦点が合わないからだんだん不思議な感覚になって青い空を見ているにもかかわらず目を閉じているような感じがしてくる。月でも見えればいいのに、と思ったが紺碧の空には紺碧の空以外なにもなかった。鳥の一羽も飛んでいない。そういえば音がしない。時折吹く風でゆらめくトウモロコシの葉がこすれる音を除けば、あたりは完全な静寂といってよかった。耳を澄ませば自分の血液が流れる音が川のせせらぎのように聞こえるかもしれない、そのくらい静かだった。わたしは仰向けに寝転がった。雑草のおかげで体は痛くない。完全な静寂は心地よかった。吹く風がたてる音はむしろ他者の存在を思い起こさせ、不安になった。けれど冷涼な風は快適だった。わたしはしばらく濃く深い青空を見つめていたが、やがて眠りに落ちてしまったようだ。
にゃお。
ああ猫が鳴いているわ、と夢と現実の間を行き来しつつだんだんと現実よりになってきてそれと同時に猫の鳴き声も大きくなってやがてわたしは目を覚ました。空は相変わらず濃く深い青空のままだった。にゃお。そうだ、猫の声がしていたのだ。あれは夢ではなくて現実のことらしい。わたしは上半身を起こすとあたりを見回した。するとまた、にゃお。大きな猫が一匹車の屋根に座っていた。白地に茶色と黒がある三毛猫だ。猫はわたしのほうをじっと見つめていてまたにゃおと鳴いた。
「ねこさん、こんにちは」
と話しかけてみたが猫はこちらをじっと見たままだ。
「あそうだ」
と言ってわたしは立ち上がった。わずかに立ちくらみを経験してから深呼吸をした。わたしは車に近づいてドアをあけた。助手席のバッグをあけてクッキーの袋を取り出した。車の外にでると猫は相変わらず屋根に座ったままだった。ずいぶん慣れている。飼い猫かしらと思った。わたしはクッキーを一枚取り出すと猫に差し出した。猫は鼻を近づけてしばらく匂いを嗅いだのち口にくわえるとパリパリと音をたてて食べ始めた。わたしは車に寄りかかってその様子を眺めていた。毛並みがツヤツヤと輝いていて触ってみたかったが、この猫には簡単に触れてはいけない雰囲気が漂っていたから、わたしは手を出さずに見つめるだけにした。猫はあっという間にたいらげるとまたわたしのほうを見るのでもう一枚クッキーを取り出してあげた。猫はこんどは匂いを嗅いだりせずにすぐに食べ始めた。そしてまたたく間に食べ終えると伸びをして毛づくろいを始めた。
「気に入ってくれたみたいね」
とわたしがいうと猫はわたしを見てにゃおと鳴いた。そしてすくっと立ちあがると軽やかに地面に飛び降りて足早に農道を横切りトウモロコシ畑のなかに消えていった。わたしはトウモロコシ畑の中を目を凝らしてみたが猫はもうみえなかった。
車の音が聞こえた。みればわたしが来た方角から一台の白い軽トラが走ってきていた。わたしは農道のまんなかに立って手を振った。まるで遭難した人みたいと少し思った。軽トラはわたしの合図に気がついたという返事のつもりか短くクラクションを二度鳴らした。そして立ち往生しているわたしの車の後ろまできて車を止めた。全開にした窓から男性のお年寄りが顔を出した。
「なんだい、故障かい?」
よく日に焼けた褐色の肌がいかにも農家のおじいさんといった風だ。その老人は半袖の白シャツを着ていてタオルを首からかけていた。
「そうなんです、急に動かなくなっちゃって」
わたしがそういうと老人は車から降りてきた。
「レンタカーかい?」
「ええそうです」
「ずいぶん年季が入ったレンタカーだなこりゃ」
老人はそういいながらドアを開けると運転席に乗り込んだ。そしてイグニションキーを回すも音一つしない。それからボンネットを開けてエンジンルームを覗き込んだ。
「だめだこりゃ、完全にいっちまってるよ」
「あのう、町まで乗せていただけないでしょうか」
ここでこの軽トラを逃したら次いつ人に会えるかわからなかった。
「ああいいよ。町じゃなくて村だけどな」
わたしは頷いた。
「その前にこの車をどけちまわないといけないな。ちょっと押すから手伝ってくれ」
そう言うと老人は片手でハンドルを押し、もう片方の手でドアを掴むと車を押し始めた。わたしは急いで車の後ろにまわって手伝った。車を路肩、といっても半分以上トウモロコシ畑の中だが、に移動させると老人がよしと言った。
「それじゃ乗ってくれ」
老人は軽トラに向かって足軽に戻っていく。見かけのわりに歩くのが速い。農家のひとは足腰が鍛えられているのだろう。わたしは助手席から旅行かばんを引っ張りだすとシビックのドアを閉め、念のため鍵もかけた。
「荷物は荷台にのっけてくれな」
「はい」と答えて荷台に放り投げるように乗せると助手席のドアを開けて乗り込んだ。
「すみません、でも助かりました」
老人は手を振った。
「あんた見ない顔だねえ、どこへ行くんだい?」
それでわたしは温泉にいく旅の最中だと答えた。すると老人から意外な答えが帰ってきた。
「そりゃああんた、道がちがうよ」
「え、でも道は一本でしたよ?」
わたしは驚いて言った。
「いやいやいや、峠のまんなかあたりで二手に分かれていたでしょ」
「え、峠で?」
あの大雨のせいで完全に見落としていたのだ。わたしは目をつぶって奥歯を噛み締めた。
「ま、ひとまず村へ来なさい。村だって旅館はあるし温泉もあるよ」
「すみません」
「なあに、あんたがわるいんじゃねえ。あんたべっぴんさんだから山にからかわれたのさ」
山にからかわれた、か。
「とにかく、今から山に戻るには遅いし足もないんだから村の旅館に泊まりなさい。旅館までのせてくよ」
「ありがとうございます」
そういってわたしは農道の先を見た。どこまでも畑がつづく真っ直ぐな農道だった。
永遠につづくかと思われたトウモロコシ畑だったが、ある地点で突然プツリと切れて集落が現れた。庭の広そうな平屋の民家がほとんどだが中心部には4,5階建ての鉄筋コンクリート製の建物も見える。それほど小さい村でもなさそうだ。農道はそのまま村の中心部につながっていて、通りにでると道路はきれいに舗装され対面通行可能な二車線に広がっていた。道路の両側には大きなプラタナスの街路樹が続いていて村の雰囲気はどことなく西洋を彷彿とさせる。
「すてきな村ですね」
「ああ、これかい? 村のメインストリートだよ」
不思議と農家のおじいさんが発音するメインストリートという言葉は自然だった。
「なんだか日本じゃないみたい」
「村長の趣味でね。はじめは違和感があったけどね」
老人はフロントグラスから頭上を見上げながら言った。
「慣れてみると案外いいもんだよ」
「すごくすてきです」
「道に迷った甲斐があったね」
そういって老人は笑った。たしかに道に迷った甲斐があったかもしれない。これも旅の醍醐味なのかなと考えた。
村のメインストリートをしばらく行って道をそれて民家の間を走り木々が茂ってきたところで車がとまった。
「着いたよ」
老人が右手をさす方向をみると豪奢な日本建築の建物がたっていた。
「立派、ですね」
わたしは驚いて言った。小さな村に不釣合いなほど大きな旅館である。さっきのメインストリートも驚いたが、この旅館もなかなかだ。
「これはね、税金で建てたの」
「はあ」
「村の一部を高速道路が通ることになってね。それで温泉宿が国の税金でできたわけさ。でもこんな村に泊まる人なんてほとんどいないから今日もあんた貸し切りじゃないかね」
「はあ」
わたしは車を降りて荷台にまわり荷物をおろした。そして運転席にまわって老人に挨拶をした。
「まあいいんだ、気にするな。それよりもレンタカー屋に電話して代わりの車を届けさせるといい」
わたしが再度頭を下げようとすると老人はすでに車を切り返し、走らせていってしまった。
わたしは荷物を持ち直すと旅館へと入っていった。門に大きな松の木があり、梢のどこかに巣があるのかオナガが出たり入ったりしていた。旅館の入り口は引き戸になっていて、音もなくすっと開いた。中に入ると暗く静まりかえっていて人の気配がない。すみませーんとかごめんくださーいとか控えめな声で言ってみたが誰も出てくる気配がない。ふとカウンターをみると呼び鈴がある。最初は小さめにチンと鳴らしてみる。耳を澄ます。誰も来ない。次に少し強めにチンと鳴らしてみる。まだ反応はない。三回目に思い切って力強く押して見ると想像以上に大きな音が館内に響いた。すると遠くのほうから足音が聞こえてきた。
足音とともに女性の返事も聞こえてきた。廊下の先からやってきた女性は五十代くらいだろうか。髪をたばねてあげていて、ほとんど客がこないと言うわりにきちんと着物を着ていた。
「あらお客さん?」
「ええ、予約はしていないのですが」
「いいのよ、どうせだれも泊まっていないんだから。おかしいと思ったの。村の人なら勝手にお風呂に入っていくから呼び鈴鳴らすなんて誰だろって走りながら考えてたのよ。久しぶりのお客さんでうれしいわ。わたしが女将のキクです」
「あ、どうも」
「さ、あがってちょうだい。部屋へ案内するわ。一番いい部屋にしてあげるわね」
そういって女将のキクさんは荷物を持つとどんどん進んでしまった。わたしはいそいで靴をぬぐと後をおいかけた。廊下の掃除は行き届いており、窓からみえる中庭も苔むしていて美しかった。しかし女将は足が速い。さっきの男性も足が速かった。この村の人達はみな足が速いのだろうか。わたしが横目でそれらの風景などをみながら小走りになって追いかけると大きな部屋に行き着いた。ゆうに二十畳はあろうかとおもわれる畳の部屋に選びぬかれた調度品が最小限に置かれている。ひと目でセンスのよい高級旅館をイメージさせた。一体いくらするのだろう。わたしは恐る恐るたずねた。
「一泊五千円でどうかしら?朝夕の食事付き」
「五千円ですか?」わたしは驚いた。
「そう、不満?」
「いえ、もっと高い部屋かと」
「いいのよ、ここは税金でまかなっている施設だから。それとももっと払いたいってこと?」
わたしはくびをふった。
「じゃあ、決まりね。なにかあったら内線で呼んでちょうだい。お風呂は掃除の時間以外24時間利用可能、夕食は6時半くらいでいいわね。料理もわたしが作っているから電話にでないときは直接厨房にきてちょうだい。昼間は村の人が温泉にくることがたまにあるけど、夜はあなた独り占めね。とりあえず温泉にでも入ってきてちょうだい。ここの温泉はけっこう自慢なの。その間にわたしは夕食の仕入れに行ってくるわ。それでいいかしら」
わたしがええと返事をすると女将はすたすたと部屋を後にした。広大な部屋に一人取り残されてみるとなんだか居心地が悪くなったのでわたしは言われたとおりに温泉に入ることにした。
温泉は言われたとおり豪華な作りだった。高い天井まで檜の円柱が何本かのびていて、それが大きな窓から差し込んだ光で斜めの影を作っていた。石が敷き詰められた床、温泉を囲む岩などもよい石を使っているように見えた。わたしは温泉に肩までつかり寝そべるような姿勢で足をまっすぐ投げ出した。浮力で足が浮いたり沈んだりするその感覚が好きだった。頭を角が丸い石の縁に乗せて体を完全に横たえて湯に浮かべる。完全に浮くには重すぎて、かといって沈みきるほどに重くはない。そんな体がいったり来たりしているままにして天井を見上げていた。
わたしはなぜここにいるのだろう。ここはどこなのだろう。わたしは一体なにをしているのだろう。けっこうな冒険をしてきたわりに、温かい湯に浸かっているとそれが遠い昔のようなことに感じた。ふと見上げていたのが天井ではなくて空だと気がついた。天井には大きな天窓があって深いブルーの空で埋め尽くしていた。そうだ。見たこともない碧い空だった。そうだ。トウモロコシ畑の端で猫にビスケットをやったっけ。あの猫は飼い猫なのかな。美しい毛並みの三毛猫ちゃん。それにしても青い空だ。まるで宇宙空間のような。焦点の合わない空。吸い込まれる。青い青い空。その時わたしの体が湯の表面に浮いていることに気がついた。さっきまで浮き沈みを繰り返していたのに。湯の表面に浮いているのは気持ちがよかった。そしてまた空を見上げる。青い青い空。その空に吸い込まれて消えてしまいたい。消えてしまいたい。なんでわたし今消えてしまいたいなんて考えたんだろう。あの青い空はどこにあるのだろう。どのくらい高く上がればあの空に届くのだろう。わたしの体は湯の表面を離れ空に向かって浮き上がっていた。ぐんぐんぐんぐん登っていく。あたりは碧さを増していくが、視線の先の青い空はいっこうに近づいてくる気配はなかった。ただ、わたしのまわりがどんどん青くなっていく。太陽の光がわたしを包み込み、虚空に漂いながらも寒さは感じない。紺碧の空の中、わたしは太陽の光をまといただずっとずっと登り続けていた。しかしそれでも視線の先の碧さはさらにもっともっと遠くにあるように見えた。
わたしの口に湯が入ってくるので気がついた。咳をしながら体勢を立て直し、腰を上げて縁に座った。心臓がどくどくと脈打っていて、目眩いが少しした。頭をさげて目を閉じ、呼吸が落ち着くのを待った。
目眩が収まってから天窓を見上げてみたが窓が曇って空は見えなかった。どこまでが現実で、どこからが夢だったのか。そもそもあれは夢だったのか。空高く浮かぶわたしのからだ。
部屋へ戻ると夕食用のテーブルが出ていた。わたしは窓際の籐椅子に座って待つつもりだったが、いつの間にか座ったまま眠りに落ちていた。
今日はよく寝る日だな、と思いながら目を覚ました。外は漆黒の闇で、窓ガラスに自分の顔が映っていた。わたしは両腕をできるだけ高く伸ばして軽くストレッチをした。それからゆっくりと立ち上がって座敷のテーブルを見るとメモ書きがおいてあった。
(起きたら台所へいらっしゃい)
ああキクさんだな。廊下は間接照明によって柔らかく照らされていた。暗すぎず、明るすぎず絶妙な明るさだなと思った。町の街路樹といい、この照明といい、この村のセンスはとても日本の地方という感じがしなかった。どちらかというとヨーロッパのセンスを感じる品の良さがあった。
玄関の前を通り、そこから最初にキクさんがやってきた方へと行ってみた。すると奥にひときわ明るい部屋がある。廊下もなんだかいいにおいがする。そしていい匂いもそこから漂ってきているようだった。そしてやはりその部屋は厨房だった。この部屋だけは蛍光灯で煌々と照らされていて昼間のように明るかった。
「あら起きたのね」
キクさんは丸い小さな椅子に座って本を読んでいた。キクさんは洋服に着替えていて、着物姿からは想像が付かないほどスタイルが良かった。髪型も洋服に合わせておろしており、長い髪がふんわりとウェーブしていた。
「きくさん、ですよね?」
「あら何言ってのよ、そうよキクさんですよ」
「いえ、あの、全然雰囲気違ったので」
「褒め言葉ってことにしておくわ」
そう言ってキクさんは立ち上がっててきぱきとガスのスイッチをひねったり、鍋を置いたりし始めた。
「お腹すいてるでしょ?」
「ええ、じつは、とても」
わたしはどうしてよいのかわからずに入り口に立っていたらキクさんが言った。
「そんなところで立ってないでどうぞおはいんなさい」
「えっと、はい」
厨房は広すぎると言ってもいいほど広かった。ぴかぴかに磨かれたステンレス製のテーブルやら棚やらがあって鍋や調理道具が壁に吊るされている。大きなホテルの厨房を思わせた。
「ずいぶん広いんですね」
「なにもかも無駄にね」
そういってキクさんはくすと笑った。
「すぐできるから座って待っててよ。もう作ってあるんだから温めるだけだからね」
わたしは先ほどキクさんが座っていた椅子とテーブルを挟んで反対側の椅子に座った。背もたれがない足が長い小さな丸い椅子だった。テーブルのステンレスの板はチリひとつなく天井の蛍光灯を反射していた。
「この部屋だけすごく明るい」
キクさんはてきぱきと動きながら器に盛りつけたり鍋をゆすったりしていた。
「料理するならこのくらい明るくないと」
わたしはキクさんが御膳に器を並べているのを見て言った。
「ここで食べてもいいですか?」
「え、ここで? もちろんいいわよ。わたしもちょうど話し相手が欲しかったところなの」
キクさんはにっこりと微笑んで言った。女のわたしでさえドキッとするほどキクさんには色気があった。
「キクさんって美人ですよね」
「うん、そうね。でもあなたもとてもきれいよ」
キクさんがあまりに素直に認めただけでなく予期していなかったセリフまで言われたのでなんだかわたしは恥ずかしくなった。
「あら、そのとおりなのよ。あなた知らないの?」
そういいながらキクさんはどんどん小鉢やら器をわたしの前に並べていった。どれも手が込んだ盛り付けでとても美味しそうだ。
「でも道に間違えたのはラッキーだったかもしれないわね」
「ラッキー?」
「だってこんな村に観光に来る人なんかいないし、もしかしたらあなたが初めてかもしれないわ。それにこの村も悪くないでしょう?」
そういってキクさんはまた妖艶に微笑んだ。わたしがもし男ならころっとだまされてしまいそうな笑顔だ。
「村全体がとてもお洒落なんですね」
「そうね、センスのある方が多いみたい。あなた明日丘を登ってみるといいわ。村が一望できるから。なかなかいい眺めよ。とても日本とは思えないと言うわ、きっと」
「ええ、そうしてみます」
「しばらくここにいるんでしょう、それともその温泉に行きたいのかしら?」
「うーん、正直わからないんです。旅行に出たのも温泉が目的ではないし」
「今はやりの自分探しというのかしら?」
「たぶんその安いやつ、です」
キクさんは空いた器を見つけると次々と洗っていって、最後に空にした器を洗い終わってからやかんを火にかけて戻ってきた。
「今コーヒーを淹れるわ」
「ありがとうございます、とても美味しかった」
「あなたすごくお腹すいていたみたいね」
「自分でも驚きました」
キクさんは再び立ち上がり電光石火のスピードでコーヒー豆を挽きドリッパーをセットしてコーヒーカップを二つ棚からとりだした。そして慣れた手つきでお湯を注ぎコーヒーを淹れるとわたしにひとつ渡した。
「明日丘に登ってみなさいよ。たいした登りじゃないし、でもそのわりに見晴らしは素敵よ。天気予報じゃ明日も晴れるっていうから」
「そうだ、この村に来て驚いたことがあるの」
わたしは突然思い出した。キクさんは少し驚いた顔をしたがすぐに口元に微笑みを浮かべた。
「なにを驚いたの?」
「空なんです。空。空がとっても碧いんです」
わたしがそう言ってもキクさんは笑みを浮かべたまま何も言わない。何かわたしが自発的に話すのを待っているような気がしたからわたしは続けた。
「峠を降りてトウモロコシ畑で見上げた時に気がついたんです。空がすごく濃いブルー。こんな深い青空なんて今まで見たことがないです」
わたしは青空を思い出そうと目を閉じてみた。
「まるで宇宙のような濃くて深い青。そうださっき温泉に入っていたときも天窓から同じ青空が見えました。どこまでも吸い込まれていきそうな青空に見とれていたら実際に吸い込まれちゃったんです」
わたしは首を振った。
「面白いわね」
キクさんはコーヒーの残りを飲み干すと腕を伸ばしてシンクに置いた。なんでも片付けないと気がすまない質のようである。キクさんは立ちあがると厨房の入り口近くにある机から紙とペンを持ってきた。
「丘までの道おしえてあげる」
そういってキクさんは地図を書き始めた。しかしそれは地図とよぶにはあまりにも簡単なものだった。旅館があって、そこから線がのびて丘まで続いている。丘のふもとには鳥居の絵がつけてある。それだけ。
「外に出て見ればわかるから普通は地図なんかいらないんだけど」そういってキクさんはわたしをちらりとみていたずらっぽく笑った。
「あなたには前科があるから」
わたしは地図を受け取ると小さく折りたたんだ。
「玄関に赤い自転車があるからそれ使っていいわよ。ふもとまでちょっとあるから」
わたしは礼を言って席を立った。「ごちそうさまでした」
「おやすみなさい」キクさんはそういいながらカップを洗い始めていた。わたしは厨房を出て部屋へと戻った。そして部屋へ戻るとそのまま布団に横になった。
(いつ布団が敷かれたのだろう)しかしそれ以上考えることはできなかった。強力な引力で布団に吸い付けられるようにわたしは眠りに落ちた。
2.
窓から差し込む日差しがまぶしくて、わたしは目を覚ました。体をおこし、左腕を見て昨日温泉に入る前に時計を外したのだと思いだした。そういえば昨夜何時に寝て今日何時に起きたのか、時間の感覚がない。日常が時間に縛られていた日々を考えるとなんと贅沢なことだろう。起き上がって洗面台で顔を洗い、歯を磨く。歯を磨きながら、そういえば昨日はもどってすぐ寝てしまったなと思いだした。
小さなバッグを肩からさげて玄関にでると隅に赤い自転車が壁に立てかけてあった。鍵はついていなかった。この村では盗難などないのだな、きっと。自転車を押して表に出ると濃く深い青空の向こうから朝日が降り注いでいた。ひんやりと感じる風が時折駆け抜けるほかはとても暖かい陽気だ。押していた自転車を見ると銀色の部品はぴかぴかに磨き上げられていて、太陽の光を反射してきらきらと輝いている。赤く熟したトマトのように真っ赤なフレームも同様にまっさらの新品のようだ。
自転車は風のように進んだ。冷たい風が頬をなで通り過ぎて行く。プラタナスの並木が終わると視界が開け、目の前にこんもりとした丘が見えた。なるほどこれなら道に迷うはずもない。キクさんの「地図」が大雑把なわけが理解できた。わたしは丘というと草原が山になった印象をなぜか持っていたが、この丘は森でできていた。
鳥居から五段までは石づくりだったが、それから先は木材で補強した土の階段だった。階段は丘を反時計回りに螺旋状に登るように付けられており斜度がゆるやかな分頂上まですこし距離がありそうだった。丘は中に入ると木々はまばらで木漏れ日が青々と広げた葉の間からこぼれ落ちている。ひんやりとした空気にときおりふれる太陽の光があたたかい。この丘ですらどこか日本らしくないなと思う。なぜだろうと立ち止まって頭上を覆う木々を見やる。見上げればシイノキがひろげる葉の間から深い青空がのぞいていた。すべてはこの空のせいだ。空が、空の青さがなにもかもちがうものにしてしまっている。わたしは再び階段を登り始めた。
さらさらと水の音が聞こえだし、すぐにそれは左手の山肌から清水が溢れ出ているのがみえた。水は勢いよく岩の割れ目からわきだしていた。そしてその周囲だけぽっかりと開けた土地のようになっていて太陽が湧き水に降り注いでいて、小さな黄色い花をつけた植物が群生し、太陽にむかって一斉に花をむけていた。わたしは両手を差し出すと水を受け止めた。そして思わず声をあげそうになった。骨にしみいるように冷たかったのだ。けれどもわたしは水をこぼすことなく口に運んだ。甘い水。冷たくて甘い水だった。それは口の中にいれたとたん瞬時に細胞に取り込まれるような感覚だった。わたしはもう一度水を受け止めて飲んだ。それからもう一度飲んだ。そしてもう一度飲んだ。最後にと思ってから三度飲んだ。ようやく息をついて手をみると水の冷たさで真っ赤だった。しかし不思議な事に口の中に入るとその冷たさは心地よいものにかわっていた。
湧き水の周辺にはクレソンがたくさん生えていた。茎をひとつ折って食べてみると芳醇な香りに包まれた。そしてあとからクレソン特有の辛みがやってくる。これほどに味の濃いクレソンは生まれて味わうものだ。わたしはクレソンの葉をつまんでは水を飲み、また葉をつまんでは水を飲んだ。クレソンはけっしてきらいな野菜じゃないが、こんなに夢中になって食べたこともない。そしてクレソンの辛さにともなって水はますます甘くなっていった。
水を飲んで落ち着くと、目の前を小さな蜂がホバリングしているのが目に入った。ミツバチよりもずっと小さい蜂だ。あたりを見回せば黄色い花の上を蜂が飛び回り、花の中に体ごと潜り込み、あるいは蜜や花粉を運んで飛び去っていた。そこでようやくこの水場が自分ひとりのものではないことに気がついた。多くの昆虫や動物たちにとってもこの湧き水はオアシスなのだ。わたしが独り占めしてはいけない。わたしは最後にもう一度だけ両手を吹き出す清水にさらしてその冷たさを確かめると立ち上がって歩き出した。木漏れ日に濡れた手のひらをかざすと太陽のぬくもりが赤く染まった指先をじんわりと暖めた。そして手のひらはみるみるうちに乾いていった。
反時計回りに螺旋状に登っている中で、人工物といえば階段の杭くらいだと思っていたが、ふと気がついてみれば左側に石垣ができていた。いつから石垣ができていたのだろうと振り返ってみると、視界に入る限りにおいてすでに石垣は出現していて、それはおそらくわたしがウグイスの声に魅了されているうちにはじまっていたに違いない。振り返ってもうひとつ気がついたことがある。それは道幅がずっとせまくなってきていることだった。カーブする角度も急になってきていてだからそれほど先までみえなくなっていた。頂上はちかいのかもしれない。
石垣の隙間からはたくさんの草花が芽を出し花を咲かせていた。赤紫色の小さな花をつけた植物はところどころで群生していた。湧き水のところでみた小さな黄色い花もいくつか咲いていたがここでは少数派だ。それからはっとするような深い青色をしたスミレのような花。そうだ、この花の碧さはここの空の碧さだ。空を仰ぎ見れば紺碧の空がそこにあり、その花は鏡のように空の碧さをうつしていた。わたしはその名を知らぬ花に手を伸ばした。どこまでいっても届かぬ空の碧さと違い、花の碧さには手が届くのだ。そして指先が花びらに触れるか触れないかのところでわたしは花に触れるのをやめた。瞬間的に触れてはいけないような気がしたからだ。この碧さは特別なのだ。今はまだ簡単に手が届いてはいけない。
そのかわり私は青い花の葉に手を伸ばした。濃いグリーンのその葉はエナメルのようにつやつやと輝いている。
石垣があることで木立の数が減り、太陽はより一層丘の中まで光を伸ばしていた。そしてその光を追いかけるように小さな草木が青々と生え広がっている。石垣はわたしの背丈をこえてきたが、ついにその高さを伸ばすことをやめた。そして土と杭でできた階段が終わり、石垣と同じ石でできた石段が現れた。十段ほどある階段を一段ずつのぼるごとに石垣が低くなりついに地面と同じ高さになるとそこは丘の頂上だ。
頭上を覆っていた木々はすべてが足下よりひくいところに見えて、一番高くそびえていたえのきだけが数本の枝をのばしてその葉の先端が石垣をこえていた。足下には足首が隠れるくらいの草が生い茂り、ところどころに抜け駆けしたあざみの仲間がひょろひょろと背を高く伸ばしている。丘の頂上はまさに草原だった。それもとても広い。想像していたよりもずっと広い草原が広がっていた。下草やそれをささえる地面が柔らかく、一歩一歩あるくたびに足首が包み込まれるような感覚があった。まだだれも歩いた跡がないつもりたての雪のように、草原は真新しい絹のように滑らかだ。遮るものがない頂上は太陽の光を一面に浴びて、つやつやと輝いてる。そして吹き抜ける風が光の帯を草原に走らせた。わたしの指の間を冷涼な風が抜けていく。それは真夏の風とは思えないほどに冷たく、指のかたちをなぞるように通りすぎていった。
草原を左手に見ながら端を歩いて行く。右側は見渡す限り田畑が広がっていて、さらにその先は山々に囲まれていた。自分が越えてきた山はどれだろうと立ち止まってみたがわかるよしもなかった。頂上の草原はその土台を石垣に囲まれていて人工的に作られた場所なのだろう。再び登ってきた石段が近づいてくると村がみえてきた。村の景観はその地域だけ特別に際立っている。そこに植えてある植物ですら周囲とは別物で、まるで西洋の中世を描いた風景画だ。わたしはしばらく村の美しさを味わい、そして草原の中心部に向かって歩き始めた。草原にはシロツメクサやスミレがところどころに群生し、海にうかぶ島のように生を主張していた。
草原の中心にやってくるとわたしは靴をぬいで裸足になって寝転んだ。視界には紺碧の空以外なにひとつない。空は濃紺とよべるほどに深く、この地域がとくべつに宇宙に近い場所であるという突拍子もない思いつきでさえ今なら信じられる。日差しはどこまでも柔らかくわたしを包み込み、太陽の光をいっぱいに吸収した地面はほんのりと温かい。考えごとはできなかった。目を閉じることもできなかった。空は、遠く深くわたしを誘っているようだ。わたしが空から目を離せないのは、空がわたしを見つめているせいだ。紺碧の視線から目をそらすことは不可能だから。手を伸ばせばすぐに届きそうなほど近いと同時に、けっして到達することのない遠くに空はある。
空の碧さが次第に強まって、濃紺とよべるほどに濃く深い色合いになった。それは太陽が照らしているなかでありながら、夜のように暗い。わたしはその空にむかって手を伸ばす。空よ、なぜこれほどまでにわたしを惹きつけるの?
頭の上のほうからさらさらと音が聞こえ、それはすぐにわたしの体のまわりの草たちを揺らしながら足下へと去っていった。揺れた草花がわたしの顔を撫でる。とても小さなわたしを柔らかなガーゼに包むように。冷たい風が首すじを通り指の間で戯れる。
腕をおろしたときわたしは自分の体が宙に浮いているのに気がついた。おろした腕が地面に触れずやわらかいなにかに押し返されてはずんだからだ。はっとして空から視線をはずす。わたしの体は地面から二十センチほど宙に浮いている。いや、これは浮いているのではなくて、下草がわたしの体を持ち上げているのだ。わたしの体重でかんたんにつぶれてしまったはずの下草たちはいま、何百、何千という葉が合わさってその繊細で柔らかい葉の弾力でわたしを持ち上げて、ささえている。それは極上の寝心地だった。たぶんわたしは夢を見てるのだろう。どんな豪奢なベッドでさえこの下草のベッドにはかなうまい。わたしは驚いたときに緊張したからだを緩めて体重をあずけた。いまやわたしは二十センチだけ、あの青い空に近づいたのだ。
耳元に風向きとは違う方角からさらさらという音が聞こえた。そしてその音はわたしのちょうど顔の横でとまる。わたしの顔の横でねこが座っていた。それもわたしと同じ下草のベッドに支えられて。
「あらねこさん、こんにちは」
するとねこはさも当たり前といった口調でこういった。
「こんにちは、おじょうさん」
それは低くよく通る声だった。わたしは驚いて体をおこしたひょうしに声をあげた。下草のベッドがつぶれ、私は二十センチ地面に落下したからだ。
「なんだい、そんなに慌てなくたって」
ねこは二十センチ上空で背筋を伸ばして座り、わたしを見下ろしていた。
「しかし、珍しいこともあるもんだね。草に乗れる人間なんて久しぶりにみたよ」
「草に乗れる?」
わたしは体を起こしてねこにむきあった。
「そうさ、さっきまで乗っていたろう?」
「わたし、夢を見てるのかしら」
わたしがそういうとねこはめをつぶって首をふった。
「いやいやおじょうさん、あんたはちゃんと起きてるよ。そしてわたしだって起きている。昼寝はほんの五分前に終えたからね」
「じゃあ、なんでわたしねことお話しているの?」
「それはあんたが草に乗っていたからさ。私だって誰かれ構わず人間に話しかけるほど不用心じゃないさ。しかし草に乗っているあんたをみて声をかけずにはいられなかった。なんせ草に乗る人間を見たのは何十年ぶりだろうか」
夢を見ているにしては感覚があまりにも現実的すぎる。しかしこんなことってあるのだろうか。下草のベッドに浮いて、ねことおしゃべりをするなんて。
「いっておくけどね、あんたが信じるとか信じないなんて問題じゃないのさ。わたしだってまだ信じられない気持ちもあるんだよ。なんたってあの人間がね。穴熊がときどき月をながめるのに下草に座っているのはたまにみるんだがね」
「穴熊が月をみる?」
「そうさ、穴熊は下草にゆられて月をみるのが大好きなのさ。腕枕をしてね、足を組んでねっころがってさ。一晩中月をぼんやり眺めてることもあったね。わたしもあの晩あんまり暇だったんでどのくらいすわってるか見てたんだ。そしたら穴熊ときたら一晩中眺めてやがった。もっともわたしも途中であきて眠ってしまったがね」
「寝ちゃったのにどうして一晩中月を見てたってわかったの?」
するとねこは上をむいて肩をすくめてため息をついた。
「どうして人間てのは想像力がないのかね。そんなのはいくらだって。ほら、目を覚ましたときもまだ月を見ていたとか、あとで穴熊があの晩は一晩中月を見てましたって言いに来たとか、大松のてっぺんにいたアオサギが寝てるふりして見ていたとか、下草がいいかげんに疲れたと言っているのを風のたよりに聞いたとか、いくらだってあるだろう?」
「……それで、どれが本当なの?」
するとねこはあっけにとられた顔をした。
「まるではなしが通じないね。でもまあいいさ、人間がまともに会話できるなんて最初から期待していないよ。それよりかどうやって草に乗ったのさ。いったいなんて言ったんだい?」
どうやって下草のベッドに乗ったのか。どうやったのだろう。わたしはただ空をみつめていただけだった。どこまでも蒼く、吸い込まれそうなくらいの深い空。そう、まぶしいほどに太陽が照っているのに夜のように暗い空を見ていただけだった。
「……どうやって浮いたのかしら?」
「いやいや、浮いたんじゃないよ。草に乗ったのさ。乗るのと浮くのはだいぶ違うね」
「あなた、なんて言ったのって聞いたわね。それどういうこと?」
「だから草たちになんて言って乗ったのかって聞いたんだ。なんにも言わないで乗れっこないだろう?」
「わたし、なにも言ってないわ。ただここに寝そべって空を見ていただけだもの」
するとねこは関心したように小さく口笛を吹いた。
「草たちが自発的に乗せるなんてめずらしいこともあるもんだ。わたしだって一度もないよ。もっとも頼んで断られたことも一度もないがね」
わたしはそれとなく指をまるめて手を握ってみた。爪が手のひらに食い込む感触は現実感そのものだった。やはりわたしは本当に下草のベッドにのって、今こうしてねことおしゃべりしているのだろうか。手を開いてみると爪のあとが手のひらにくっきりとついている。ねこはわたしの仕草にきがついて言った。
「あんたもなかなかに疑い深いね。まあそれも無理はないさ。だけどね、いい加減現実を直視したらどうだ? 自分が信じようと信じまいと、好ましいとか好ましくないとか、そんなことと現実のありようはまったく無関係なのだよ。ときには無条件に受け入れてみるってことが実は大切なことなんだって習わなかったのかい?」
「そんなことだれも教えてくれなかったわ」
ねこは大きく口をあけてあくびをした。
「そんなことだれも教えてくれっこないさ。やれやれ人間というのはすっかり退化してしまったなあ。昔はもう少しマシだったと思ったが」
「……ごめんなさい」
わたしは言葉に窮して、おもわずごめんなさいと言ってしまった。べつにあやまる理由もなければ必要もないのに。ねこの顔をまじまじと見ていると、どこかでみかけたような気がした。それでわたしはおもわずあっと声をあげた。
「なんだい藪から棒に。そんな大声急にだしたら驚くじゃないか」
ねこは一瞬ぴょこんと飛び上がってまた下草に音もなく着地して言った。
「あなた、昨日とうもろこし畑であったねこさんじゃない?」
「おっと、その節はビスケットをどうも。あんたがあの時の人間とはねえ」
「なにか違うかしら」
「まるで別人さ。ねこがわからないくらいにね。なにしろ昨日のあんたときたら死にそうな顔してたもの。あるいは半分くらいは死んでいた。ところが今日のあんたはそうね」
とねこは言葉を区切った。
「そう、生きている」
ねこはまっすぐにわたしの目をみて言った。そしてねこは思慮深げに頷きながらわたしの様子を伺っているようだ。
「……ありがとう」
太陽はあたたかな光を送り続け、冷涼な風が首筋を抜けた。下草が風に沿ってさわさわと揺れて、乗っていたねこもゆらりゆらりと揺れていた。真上には相変わらず濃く深い空が広がっている。
「ねえ、ひとつきいてもいいかしら」
ねこはひげの手入れをしながらふふんと鼻をならして、わたしはそれをイエスと理解した。
「ここの空はどうしてこんなに碧いのかしら」
「ふん、蒼くない空なんてどこにあるかね。もっとも朝焼けと夕焼けの時間を除いてだ」
「そうじゃないの。わたしが知っている空はもっと水色、色合いがもっとずっと薄いのよ。でもここのはそうじゃない。深くて濃くて碧い。まるで宇宙をそのままみているような」
「続けてみな」
わたしは空を見上げて言った。
「ほら、太陽がこんなに照っているのにここの空はまるでその光を飲み込んでしまったように濃く深い碧なの。ふつう太陽のまわりは白くみえるでしょ? でもここでは太陽のまわりでさえ空が碧いのよ。こんな空いままで見たことないわ」
「それで?」
ねこはもっとと促すように前足をふった。
「それにね、碧いだけじゃないの。その碧さがわたしを引き寄せるのよ。空がね、もっとこっちにいらっしゃいって。でもどんなに手を伸ばしても決して届かない。その時だったわ。わたしの体が浮いたの。いえ、下草のベッドにのったのは」
空の碧さに手が届くのか。わたしは再びうでをのばして宙をかいた。しかし空はいつもどおりの高さにいて指先と空の間には永遠の距離がよこたわっていた。わたしは背筋を伸ばしておこして座り直した。
「なるほどそれで合点がいったよ。なんであんたが草に乗ることができたのかってね」
「どうしてなの?」
「そいつについてはわたしの口から教えてやることはできない。でもひとつ言えることは、あんたが空を見つめていなかったら草に乗ることもこうしてわたしとはなしをすることもなかったわけだ」
「ねえ、やっぱりここの空は特別なの?」
「そうさねえ、目のつけどころはまちがってないよ。やれもうこんな時間だ」
ねこは太陽をみて言った。
「あんまりここであぶらを売っているわけにもいかんのだ」
ねこはふわりと下草の上から飛び上がると地面に音もなくおりた。
「じゃあまたな」
「またあなたに会えるの?」
ねこはそれには答えずにかわりにしっぽを二三回ふると草むらの中に飛び込み、あっと言う間に姿は見えなくなってしまった。一人残されたという気持ちになった。わたしはその場で立ち上がると両腕を伸ばして伸びをした。そうだ、わたしは一人残されたんじゃない。最初からここにひとりでいたじゃないか。
ねこが去っていったほうへ歩いていくと、草原にあがってきたのとちょうど反対側にでる。そこには同じような石段がついていて石垣を降りきるとほとんど一直線に麓までおりる階段になっていた。段の高さはまちまちで時折飛び降りるような高さの段があったがたいていはまともな階段になっていた。上りで歩いた道よりも木々が深く太陽が遮られ薄暗くなった道をスポットライトのようにところどころに木漏れ日が落ちていた。頭上を覆う木々はますます濃くなりその木漏れ日すらも届かなくなる。
やがて目の前に鳥居があり、頭上を覆っていた森は終わっていた。しかしどうしたことか周囲の様子がいつもと違う。そしてそのことに気がつくまでわたしはたっぷりと時間を要した。そして気がついたとき、わたしは「あっ」と大きな声をだした。
3.
夜だった。夜になっていた。
夜であることはわかったが、どうして夜なのかわたしは混乱していた。丘の上では太陽は午前中の日差しのように輝いていた。それから言葉をはなす猫と出会い、丘のてっぺんを離れるときでさえ太陽は頭上でひかっていたではないか。そして丘を下るのに一時間もかかっていないはずである。それなのにどうしてもう夜なのか。いくら考えたところでわかるわけもなかった。とにかく麓におりたら夜だった。それだけのことだ。
「あっ」
わたしはもう一度声をあげてしまった。見上げた夜空の端から端にわたって天の川が光り輝いていた。写真や映像でみたことはあっても実物を見たのは初めてだった。夜空に横たわる乳白色の帯は圧倒的だった。わたしは最後の石段に腰を抜かすように座り込み天空に広がる数え切れない輝きに見惚れた。全体を見渡せばそれは白く漠然とした巨大な雲のようであるが、その輝き一つ一つの星々は鮮明で、だから決してぼやけているわけではない。細部までくっきりとみえる雲、といえばそれらしい表現になるが、実際にそんな雲など存在しない。わたしは手持ちの知識がどんなに寂しいものなのかこの天の川をみながら痛感した。天の川を眺め、それを表現する言葉が見つからない。天の川はその中心部ほど星々が密集して白濁している。そして川の端になるほど宇宙が透けて見えてくるのであるが、天の川以外の空もまた無数の星々が光っているために具体的な境界線を見つけることはできない。そして星々が輝く夜空はとてつもなく明るい。それまでのわたしにとって、夜空と言えば月ばかりが煌々と明るくその他は暗くて淋しいものだった。しかしここの夜空ときたら、昼間とはちがった活気に満ちている。さきほどから喉元まででかかってなかなか出てこなかったイメージがようやく浮かんで出てきた。そうだ、天の川はとても賑やかなのだ。昼間の、吸い込まれるような蒼い空は特別な魅力がある。だけどそこは太陽いがいにはなにもない孤独な空間でもある。それにひきかえ、この夜空のなんと饒舌なことだろう。石畳がしかれた通りの両脇は商店でひしめき、ガス灯が灯されたばかりの時間に多くの買い物客が行き交う。レストランの厨房からあふれる湯気が食欲を刺激し、売り子の威勢のいい声が通りに木霊している。冷涼な空気が指先をぬけ、くびすじを通っていく。子どもたちの声がする。追いかけっこをしてふざけあう子どもたち。カップルはゆびを絡ませ合い、会話の続きをする場所をもとめて歩く。天の川はとびきりロマンチックでとびきりわたしから遠い場所。
こんなににぎやかで魅力的な夜空を眺めることはとてもとてもすてきな体験なのだけれど、昼間の空のようにわたしを惹きつけはしない。むしろ賑やかな場所とわたしの間には川が流れ、わたしは対岸にたってその風景を眺めているにすぎない。わたしは渡ろうともしない。そう、元来わたしは孤独で、今も変わらず孤独だった。
夜空は雲ひとつなく晴れ渡っている。そういえば月はどこだろう。わたしはほとんど寝そべるような格好で石段に頭をあずけて夜空を見回した。月はちゃんとあった。しかし東京でみるような夜の主役のような顔はここではしていない。ひときわ大きく明るいけれども星々に遠慮するように控えめに光っていた。半月よりもすこし膨らんだくらいの月は都会の空なら煌々と明るいが、この土地では星々の明かりを弱めるほどに強くない。むしろ明るさという点で言えば、天の川を中心とした星たちのほうがずっとまばゆい。わたしは月にずっと親近感を抱いた。同じ夜空に浮かびながら、自ら光り輝く星々と交われぬ月に。
ひんやりとした風がくびすじを走り抜け、クスノキの葉がさらさらと音をたてた。つかのま、大きな風がやってきてざっと音をたてたかと思うと目の前に広がる田んぼの稲をなびかせながら過ぎ去っていった。わたしは顔にかかった髪をはらうのに姿勢を起こし座り直した。ふとみるとたんぼの脇をまわってくるひとつの光がある。その光はキーキーと音をたてながら近づいてくる。近づく光と音の正体は自転車だった。
「わ、びっくりした」
自転車はわたしが座っていた鳥居の少し手前で急ブレーキをかけてとまった。みれば十歳くらいの少年が乗っている。
「こんばんは」
「おねえさん人間だよね?」
真顔でといかける少年がおかしくてわたしは笑ってしまった。
「そうよ、人間よ」
「いやあ、こんな時間にこのへんはひとなんかいないからさあ」
少年はほっとしたらしく自転車を降りてわたしの前までひいてきた。
「おねえさん旅のひとでしょ」
旅の人、旅行者といえばなんでもないことも旅の人と言われると違う感じがした。
「そうよ、昨日来たの」
「知ってるよ。じいちゃんが乗せてきたっていってたもの」
「そうか、きみはあのひとのお孫さんか」
「きれいなひとを乗せたって言ってたからおれ会うの楽しみにしてたんだ」
「ありがとう。そして会えたね」
そういうと少年ははにかんであたりを見回した。
「ここでなにしてんの?」
「星を見てたの」
「星?」
「そう星。こんなにたくさんの星をみたの初めてだから」
「こんなのまだまだだい」
わたしが理解できないでいる顔をしていると男の子は言った。
「だっておねえさん、今日はまだ流れ星みてないでしょ」
流れ星、そういえばみていないかもしれない。
「あんまり星空がすごいんで気が付かなかったのかもしれないわ」
「ちがうよ、今夜は流れ星の夜だからみんな待ってるんだよ」
「ごめんなさい、言ってることがよくわからないわ」
少年はじれったそうに肩をよじった。
「もうじき星が降るんだよ」
「そうしたらすてきね」
「すてきなんてもんじゃないやい。あたり一面銀色にひかって本当にすごいんだから。みたらびっくりするぞ」
「そうか、それは楽しみだね。その星はもうすぐ降るのかな」
わたしは再び空を眺めて言った。無数の星が空を埋め尽くし揺れる風に明滅していた。
「もうすぐさ。だからぼくははやくいかなくちゃいけないんだ」
「行くってどこへ?」
「じいちゃんの畑だよ。これからじいちゃんととうもろこしの収穫をするんだ」
「こんな夜に? とうもろこしの収穫?」
「うん、星降る夜のとうもろこしは最高に甘いんだ。そうだ、おねえさんも一緒にくる?」
思わぬ少年の誘いにわたしは反射的にいくと返事をした。すると少年は自転車にひらりと飛び乗った。
「じゃあ来て。はやく!」
わたしは慌てて立ち上がった。赤い自転車は今朝停めた場所にそのままたてかけてあった。夜空の光を受けて自転車の色は深い紅色に染まっていた。自転車にのって走り出す。風が髪をたなびき、くびすじを冷涼な空気が吹き抜ける。前をゆく少年の自転車の明かりがちらちらと左右に揺れている。田んぼの水が天の川を写し、まるでわたしと少年の自転車は星空を走っているようだった。
やがて田園が過ぎ背の高いとうもろこし畑に風景は変わった。水面の反射を失って、視界が一瞬だけ暗くなったように感じたがすぐにそれは別の光にとって変わった。とうもろこしのつややかな葉が夜空の光を反射して銀色に輝きだしたのだ。そしてそれは何千枚、何万枚という葉に伝わりとうもろこし畑は銀色に煌めく絨毯になった。
「おうーい」
と少年が手を降った。
「おうーい」
と遠くで声がした。
「ほう、あんたも一緒だったんだねえ」
おじいさんがわたしをみつけて言った。わたしもあのときはどうもとお礼を言おうとしたが、少年の大きな声がかき消した。
「ねえ、ねえ。早く早く。早くしないと降ってきちゃうよ」
少年はそう言いながらとうもろこし畑に分け入っていった。
「たあぼうはせっかちだなあ。お星さまだって降る時分をわきまえているっていうのに」
おじいさんはそういってかごを背中に背負うとたあぼうと呼ばれる少年のあとを追う。
「あんたも来なさい。美味いところを食べさせてあげよう」
わたしは自転車を農道の脇に寝かせるとおじいさんのあとについてとうもろこし畑に分け入った。葉をかき分けるごとに葉についたつゆが銀色の飛沫となって飛んでゆく。
「おじいさん、とうもろこし畑がこんなに銀色に輝いて美しいなんてわたし知りませんでした」
「あんたはほんと変わってるなあ。空が青いと言ってみたり、こんどは畑が美しいだって」
「だって本当なんですもの」
おじいさんは明るく笑っていった。
「まだなんにも見てないさ。まだなんにも」
少年がわたしたちを待っていた。
「ここいらへんから収穫だろうねえ」
「そうだ、ここいらへんから収穫しよう」
「そろそろかねえ」
「そうだ、そろそろだ」
少年はわたしの横へやってくると手をとって言った。
「おねえさん、そろそろだよ」
「たのしみね」
わたしは少年が見つめる先を追いかけるようにして夜空を見上げた。空は相変わらず星に埋め尽くされていた。そのとき、一筋の流れ星が夜空を駆け抜けて、それはそのままとうもろこし畑に、それもわたしの目の前に落ちてきた。星を受けてとうもろこしは葉を震わせる。それはまるで身震いでもしているかのように全身を銀色に光らせてぶるぶるっと震えた。光の飛沫が舞い、星を飲み込んだとうもろこしの実が葉を透かして金色に輝き出した。
「うわあ…」
わたしは声にならない声をあげた。なにが起こったのか。眼の前に流れ星が落ち、とうもろこしが金色に光る。金色の光は実からあふれ、とうもろこしのひげを伝って外にこぼれだす。わたしはそっと手を伸ばしてそのひかりの粒を受け止めた。手のひらの中で光のつぶはころころと動き回りやがて弾けるようにして消えていった。わたしは少年のかおを見た。
「光が。わたし光に触ったわ」
少年はえへへとわらった。おじいさんも面白がるような顔つきでわたしをみている。
「さあ来るぞ」
おじいさんが空を見上げた。少年も頭をのけぞらせて空を見上げた。わたしもふたりに誘われるようにして空を見上げた。夜空にきらめきが起こる。流れ星だ。きらめきは次第に数を増やし、それは無数の流れ星となってとうもろこし畑に降り注いだ。畑のあちこちで金と銀の飛沫がはじけた。再び空を見上げると天の川は花火大会のような賑やかさで何千何万という流れ星が弾けている。そしてそれは滝のようにとうもろこし畑に降り注いだ。あたりは一斉に明るくなり、わたしは文字通り金銀の雨に包まれた。光のつぶはわたしの頭を、頬を、腕を、手のひらをくるくると転がりながら滑り落ちていく。畑の土が金色に輝いて消え、また輝いて消え、そしてついには消える間もなく輝き続けた。とうもろこしは銀色の葉を揺らして少しでも多くの流れ星を受け止めようとしている。そしてとうもろこしの実は星を溜め込んではちきれんばかりに金色の光を溢れされていた。
「さあそろそろ収穫しよう」
おじいさんは両手でかかえるほどに膨れ上がったとうもろこしを茎から切り取った。そしてかごに無造作に放り込んだ。切り口からは行き場を失った光がこぼれている。少年もせっせと収穫を始めていた。
「ほらあんたも手伝ってくれ。今夜はいくら人手があったって足りないんだから。こうして下に力をかければ簡単に折れるよ」
やってみるとあっけないほど簡単だった。ただ光を滴らせるそのとうもろこしはずっしりと重い。かごはまたたく間にいっぱいになった。
「こんな広い畑、わたしたちだけで収穫しきれるかしら」
するとおじいさんがすこし怪訝なかおをしてから笑って言った。
「三人で収穫するとなると気が遠くなるなあ」
そこへ男の声がした。
「げんさんかご持ってくよ。並べといたからね」
「ああ、すまないね。足の調子はどうだい」
「相変わらずさ。でも今夜だけは痛まないね」
「星のせいかい」
「ああ、間違いないよ。星のせいだ。まるで若い時分にもどったように軽々だ。かごの重さなんてちっとも感じないよ。毎日星に降ってもらいたいね」
「そしたらうるさくってかなわないよ」
「星がかい」
「なにいってる。しょうきちのことさ」
「ちがわないね」
そういってしょうきちと呼ばれた男は笑って農道へと向かっていった。背中に山盛りになったかごを背負って。
「よしつぎのかごに移動しよう」
げんさんとわたしがつぎのかごへとくると少年がすでにかごを半分ほどためていた。
「このかごはぼくがいっぱいにするよ。ふたりはも一つさきへいっておくれ」
そういってたあぼうはとうもろこしの葉をかき分けて入っていった。少年の姿はだいぶ奥のほうまでいったにもかかわらず光をすかしてよく見えた。そのときわたしははっとした。とうもろこし畑は金と銀の星の雨によってあますとこなく光が行き届き、とうもろこしが密集して植わっているにもかかわらずどこまでも見通しがよかったのだ。そして畑には多くの人が収穫にでている姿が今になってやっと見えたのである。とうもろこし畑は見通しが悪いという先入観が、流れ星が降り注ぐという非現実的状況を目の当たりにしてさえもわたしの目を曇らせていたのだ。
「ささ、どんどんとっておくれ。星が止む前までに収穫しないといけないんだから」
「は、はい」
わたしはあわてて手を動かした。
「あとどのくらい降り続けるんですか」
わたしはまとめてもいだとうもろこしをかごにいれながら聞いた。
「そうさねえ、どうだろうねえ。なにしろお星さまのことだからねえ」
しょうきちさんがもどってきていっぱいになったかごをしょってまた農道を戻っていった。ここではとうもろこしをもぐひとと運搬するひとに役割りがわかれているようだ。見渡すとかごをしょったひとが行ったり来たりして、その足取りも軽そうだった。みんな星のせいなのだろう。たあぼうが走って戻ってきて、わたしに手を振るとまた別の畝に飛び込んでいった。たあぼうの汗もまた銀色に輝いてチラチラと余韻を残しながら消えていった。星は相変わらず滝のように降り続けている。仰ぎ見るわたしの頬に星が積もる。溢れた星はころころと転がり落ちていく。ああ星はほのかに温かい。じっとしていると頬だけでなく、額や肩や手のひらもどんどん星が積もっていく。重さは感じない。ただわずかな温かさが皮膚を通して伝わってくるだけだ。降り注ぐ流れ星のせいで天の川は見えなかった。見上げる先は雨のように降りしきる星の光にあふれていた。そのとき背後から女性の声が聞こえた。
「あらあ、あなたも来てたのね」
振り返るとキクさんが立っていた。着物姿でなく洋服を着ていた。ジーパンにシャツというシンプルな姿なのにキクさんが着ると妖艶さをまとわずにはいられないようだ。
「キクさん。洋服姿のキクさんも素敵ですね」
「なにいってんのよ。でもよかった。あなたを誘おうと思っていたんだけど朝でたきり帰ってこなかったでしょう?」
「ああ。」
わたしは今日の出来事をみんなキクさんに話したくなった。宿に帰ったらみんな聞いてもらおう。
「あなたラッキーね。一年に一度の星降る祭にたまたま居合わせるなんてなかなかないわ。今日は村中総出で収穫に出てるのよ。このとうもろこし畑だけじゃないわ。畑という畑みんなよ。でもね、とうもろこし畑が一番美しいの。すくなくともわたしはそう感じるわ。背が高いとうもろこしがね、こう銀色に輝いて金色の星たちと交わるの。まるで踊っているみたいに。もちろん蕪や人参やトマトだってきれいよ。でもね、とうもろこし畑は別格。だからわたしは毎年収穫の手伝いはとうもろこし畑って決めてるの」
そういってキクさんは笑みを浮かべた。
「ねえあなた、なにぼーっとしてるのよ。まあ無理もないわ。みんな星のせいよ。とくにあなたのように初めてだとなおさらね」
「星のせいってどういうことですか?」
「星はね、生きる力そのものなの。あ、どうしてかなんて聞かないでね。そんなことだれにもわからないんだから。でも確かにそうなの。星は生きとし生けるものすべてを活き活きとさせる力があるのよ。若返りなんていうひともいるけどわたしは違うと思うわ。だってだれもちっとも若返ってなんかいないじゃない?わたしのしわが薄くなることもないし。それにたあぼうが若返ったら赤ちゃんよ」
そういってまたいたずらっぽく笑った。
「たあぼうのこと」
「あなたがここにいるってたあぼうに聞いたのよ。旅館に泊まっているきれいなおねえさんと一緒だっていうから、そんなひとあなたしかいないじゃない?」
キクさんはとうもろこしをもぎ始めた。なれた手付きでつぎつぎともいではかごに放り込んでいく。わたしもキクさんにならんでもいだ。つぎのとうもろこしにてをかけた瞬間わたしは小さく叫んで手を引っ込めた。
「あっ!」
「どうしたの?」
きくさんが覗き込み、わたしの視線の先にあるものをみて笑った。それは芋虫だった。だけどただの芋虫ではない。金色に光り輝く芋虫だ。芋虫はとうもろこしの皮の上をどちらに行こうか迷っているように頭を左右に動かしていた。
「やっぱりあなたは都会っ子ね」
「でもきれい…」
わたしは手を胸の前で握りしめたまま金色に光を放つ芋虫を見つめた。芋虫は左右に頭を振っていたが、やがてそれは調子をとっているのだと気がついた。わたしはますます金の芋虫に顔を近づけた。芋虫はとうもろこしの皮のわずかに隆起したでっぱりの上に腰をかけて陽気に歌っていた。
マージイマージイマージイさんはミラーノミラーノミラネーゼ
ヴィゴレッリの穴ん中で火を噴くぞ
真っ赤に熱した鉄の棒
つないでできるはテライオテライオアッチャイオ
「なあに、そのうた?」
わたしの声をきいて芋虫は体の毛を逆立てて飛び上がりきゅっと縮んでまたもとに戻った。
「ひゃー驚いた。いきなり話しかけるから驚くじゃないか」
「ごめんなさい、おどかすつもりはなかったの」
「あんたでっけーなあ。ずいぶんでっけーなあと思ったらあんた人間じゃないか。あ、そうか。星のせいだな」
「そう、きっと星のせいよ。わたしだって芋虫が歌うことができるなんて知らなかったもの」
「人間はものをしらないってうちの婆さんが言ってたよ」
「なにか同じようなことを昼間言われたわ。芋虫さんにもおばあさんがいるの?ずいぶん長生きなのね。わたしてっきりひと夏で死んでしまうのかと思ったわ」
「おいおい、本人を目の前にして死ぬだなんだってずいぶんじゃないか。婆さんはとっくに死んじまったが聞いたのは間違いないよ。卵のころに言ってたんだ。いいかい坊主、人間ていうのは図体ばかり大きくてね、空を飛ぶこともできなければ歌を歌うことだって知らないんだ。おまけに頭はすっからかんでね、お前たちをみつけちゃ踏んづけることしか脳がないんだから十分注意するんだよってね」
「あら、ずいぶんね。人間だって空は飛べないけど歌うことはできるわ。ためしに歌ってみましょうか?」
「おいおいそいつは今度にしてもらおうか。聖なる夜を汚しちゃいけないからな。それより俺に話しかけてきたってことはどうやら踏んづけるつもりはないよな。まあもっとも今となっては踏んづけることすら難しいがね」
そういって芋虫はニヤニヤと笑った。そのときわたしは気がついた。いつの間にかわたしはとうもろこしの皮の上に立っており、芋虫はわたしの背丈ほどの大きさになっていたのだ。
「まったくどうして。お星さまは罪なことをなさる。しかしそれにしても、卒倒しないところをみるとあんたはだいぶ図太いとみた」
わたしは目の前のこと、いやそれだけではない、自分自身に起こったことに頭の整理が追いつかずになにも言えなかった。ただできることといえば、あんぐりと口をあけてぽかんと目の前のわたしと同じくらいの背丈になった金色に輝く芋虫を凝視することだけだった。芋虫の体は内側から光り輝いていて、よくみれば内蔵が透き通ってみえるくらいだ。また体中に生えた細かい毛が芋虫が体を動かすたびに銀色に波打っていた。
「ほらほらちょっとばかしいつもと様子が違うからといっていつまでも驚いてばかりはいられないよ。なんだってそんなに大口をあけてまあ」
芋虫にそういわれてようやくわたしは深呼吸することができた。
「わたしが小さくなったの?それとも世界が大きくなったのかしら?」
わたしがそういうと芋虫は声をあげて笑った。
「こいつは最高だ。そして答えはそうでもあり、そうでもないということさ。つまり小さくなったかもしれないし、大きくなったかもしれないってこと」
「それじゃあ答えになっていないわ」
「いやなってるさ。あんたをもとにして考えれば世界は大きくなったのであり、俺をもとにして考えればあんたが小さくなったのさ」
「そんな基準をかえて言うのはずるいわ」
「だったらなにをもとにしたらいいのかい?」
そこで私は言いよどんだ。
「たとえば星とか」
降りしきる星をみておもわずそういった。すると芋虫は手を叩いて喜んだ。
「こいつは最高だ。星がもとだって?これほどもとにするには役立たずはないと俺なんかは思うがね。だってさ、お星さまときたら、途方もなく大きいこともあれば、飲み込めるくらい小さいことだってあるんだからね。まあいいさ、大きいだの小さいだの話はこのくらいにしようや。なんたって今夜は星降る夜なんだからね」
芋虫はそう言いおわると足のなかでも腕のように長い足でとうもろこしのひげを撚ってたばこのように吸い始めた。芋虫がひげを吸うとひげの先が金色にひかり、芋虫が吐き出すと金と銀のけむりのようなものがでてきた。
「あなたなに吸ってるの?」
わたしは好奇心から聞いた。むろん、いまここにあるすべてのことは好奇心を刺激している。
「ああこれかい?」
芋虫はひげをわたしのほうへゆらゆらとゆらしていった。
「ひげまきさ」
「ひげまき?」
「そうひげまき。星降る夜だけに吸える特別なものだ。おれたち芋虫の嗜好品さ」
「わたしも吸ってみてもいいかしら?」
「いいも悪いもそんなのは勝手だ。さ、やり方を教えてやるからこっちへきな」
芋虫はそういって自分が座る傍らを指さした。そこにはもう一つ皮の隆起がありちょうど腰掛けのようになっていた。わたしは芋虫のとなりに歩み寄った。芋虫の体のうねりが光の輪をつくりそれが脈動していた。
「心配いらないよ、毒はないからね」
芋虫は腰掛けを手で叩きながら促した。わたしが芋虫のとなりに座ると芋虫の体温を感じることができた。それともこれは星の温かみだろうか。
「さ、てきとうにひげをてにとって、こんなふうに撚るんだ」
芋虫はとうもろこしのひげをひとつかみとると器用にくるくるっとひとまとめに束ねた。見るのとやるのは大違いとはこのことだった。大きくなったひげは手に余り、あれほど柔らかにみえたのにまったく手に負えない。わたしは両手をつかって悪戦苦闘してようやくそれらしい形にまとめた。芋虫は憐れむような眼差しを向けたがなにも言わずつぎの工程へとうつった。
「そしたら糸をだしてこいつを縛るんだ。そのとき穂先のほうをゆるめにしておくのがこつさ」
「糸?わたし糸なんてもってないわ」
「ああいけねえ、忘れてた。あんた人間だったものな。じゃあかわりになにか出せるかい?」
わたしは首をふった。芋虫も首をふった。だけどそれは私への哀れみの表現だった。
「ああお星さま、人間は糸も吐き出せないのですね。それじゃあ俺の糸を少しくれてやるからそいつでもって結うんだ」
芋虫は尻から糸をしゅるしゅるっとだすとほどよい長さで切り取って渡した。わたしは芋虫の糸を手にとってみた。ほのかに金色に光っているほかは完全に透明で、両手で引っ張ったくらいではびくともしない強靭な糸だった。
「すばらしい糸だわ」
わたしがそうつぶやくと芋虫はまんざらでもない口調でいった。
「そうかい?まあそうだろう。そしたら糸をこうやって結びつけてだな、そうそうその調子だ。人間にしては上出来だぞう!」
そうしてわたしのひげまきは出来上がった。となりの芋虫先生の作品に比べるとだいぶいびつな格好をしているが芋虫は上出来だ上出来だと褒めてくれた。わたしは嬉しかった。相手が芋虫だろうとも、褒められたのがなんだかとても嬉しかったのだ。
「よしでは吸ってみよう。穂先と反対を口にいれて思い切り吸い込むんだ」
芋虫が実演した。穂先が金色に輝いた。それから芋虫は金と銀のけむりを吐き出した。それからわたしのほうを振り返ってにんまりと笑った。今度はわたしの番というわけだ。芋虫に言われたとおりに穂先と反対側をたばこのように加え吸い込んだ。穂先がぶわっと光ると同時に口の中へ甘い空気が入り込んできた。ただ甘いだけじゃない。はちみつとメープルシロップと黒糖をあわせてそこへスペアミントを加えたような甘さだ。空気が甘いというのは不思議な食感だった。そして今度は吸い込んだ空気を吐き出してみる。空気は鼻腔を伝わり鼻のずっと奥のわたしの脳みそまで到達する。すみれの香り、さくらの香り、梅の花の香り、トマトのあおくさい太陽の香り、セロリの香り、バラの香り。様々な香りが渾然一体となって脳髄を駆け上がる。そして吹き出した金と銀のきらめきはけむりとはまったく違うものだった。しいて言えば光っている空気。わたしは芋虫に振り返って言った。
「すばらしいわ。わたしひげまきとても気に入ったわ」
芋虫はスパスパやりながらわたしを見ていった。
「そうだろうそうだろう。そういうとわかっていたさ。ひげまきを嫌いだなんていうやつは穴熊ぐらいなもんさ。それもいちどだって吸ったことがないんだから食わず嫌いも甚だしいところさ」
「あらそれは残念ね、とてもすてきなものなのに」
「ああそうさ。そして星降る夜だけの特別なものなのさ」
芋虫はそれからこんどはゆっくりと吸い込んで口をすぼめ、細長く吐き出した。金と銀の帯が風に乗って飛行機雲のようにそよいだ。わたしもそれをみてもう一度吸い込んだ。甘い、あまい空気。この甘さはなんだろう。そしてわたしはふと同じような甘さをごく最近体験したことを思い出した。水だ。あの丘の中腹で飲んだ湧き水は甘かった。もちろん本当に糖分が入っているわけではない。しかし甘く感じた。その感覚とひげ巻きの空気は同じ種類の甘さだった。わたしはしばらくひげ巻きに夢中になった。目をつぶってひげ巻きを堪能した。芋虫も目をつぶって吸っているようだった。たとえ確認しなくてもそうした感覚は間違っていないという妙な確信があった。ひげまきは吸っても吸っても短くなったりはしなかった。
「どうだい、あんたにこれはできるかい?」
ふいに芋虫が話しかけてきた。そして口から金と銀の輪っかをこしらえて吐き出した。金と銀の輪っかはふわふわと広がって徐々に消えていった。
「すてき。あなたなんだってできるのね」
「そりゃいいすぎさ。でもわっかのひとつやふたつはわけないね」
わたしも何度か練習すると輪っかを吐くことができるようになった。
「お、見上げたものだ。人間にしては上出来じゃねえか」
芋虫は手を叩いて喜んだ。
「普段のわたしはこんなに器用じゃないのよ。これはきっと星のせいよ」
「違いねえ。きっと星のせいだ」
それからわたしたちは笑った。夜なのにあたりは昼間のように明るいが、夜の闇は厳然とそこに存在していて、光のすきまをしっかりと闇で埋めていた。降りしきる星は、明るいのに暗くもある不思議な世界を作り出していた。そんなことをわたしが芋虫に話すと芋虫は言った。
「人間とだけは絶対にわかりあえないと思っていたが、あんたとは友達になれそうだよ。もっともあんたが俺を踏み潰したりしないかぎりはな」
「もちろん踏んづけたりなんかしないわ。わたしもあなたのような友達ができてとてもうれしい」
そして二人はまたひげまきを吸うのに夢中になった。それからしばらくして芋虫が最後の一息をため息のようについて言った。
「友よ、おれはもうすぐさなぎになってそれから羽化をして羽ばたいていく。あんたはどうするんだ?」
「え?」
とわたしは戸惑った。あんたはどうするんだ?
「そうさ。友達と出会い、そして別れがやってきたのだ。俺はまもなくさなぎになって眠りに入り、再び目が覚めたときには殻をやぶって大空へと旅立たねばならん。友と出会えて本当によかった。ましてや人間の友ができるとは露程にも考えたことはなかった。つまり俺は他の芋虫たちよりもずっと幸せだということだ。人間にひげまきを教えてやることもできた。ふたりでひげまきを堪能し笑いあった。まことにすばらしい時間であった。そろそろ星降る夜もおしまいだ。星が止めば俺はさなぎになる準備に取りかからねばならん」
「でもたった今あったばかりじゃない。それにまた蝶になったら出会えるじゃない」
芋虫はわかってないという顔をしてそのとおりに言った。
「わかってないなあ。俺たちは友としてすばらしい時を過ごした。それも十分すぎるくらいに」
「そんな。たった今であったばかりなのよ」
わたしは語気を強めた。
「たった今か。つまりそれは、あんたが小さくなったのか、それとも俺が大きくなったのかというのと同じ問題だ。それに」
といってわたしが言いかけようとしたのを止めるように手を出した。
「それに、せっかく友達になったのだ。最後に喧嘩別れをすることもないだろう?」
「わたしはけんかがしたいわけじゃないわ。ただ、ただ寂しいと思っただけよ」
「人間というのはまことに理解しがたい生き物だなあ。俺はあんたに出会えて幸せいっぱいだというのにあんたは寂しがっている」
「わたしだってあなたのような友達ができて嬉しいわ。わたしが言っているのは、もう会えなくなると思うと寂しいってこと」
「さあて、そろそろ変化がはじまってきたようだな。なんだかお腹の中がぐるぐるいうぞ」
芋虫はわたしのことには答えずに腹に手をあててさすっていた。
「変化は止められないのだ。ただ順応し、適応していくのみだ」
芋虫はとうもろこしの皮でできた椅子から腰を上げると葉っぱのほうへと歩いていった。そして葉の根本にぶら下がるようにしてしがみつくとお尻から糸を吐き出し体に巻き付けだした。わたしはそばへよってその様子を眺めていた。透明な糸は時折金色の光を発している。芋虫は器用にそれを操って枝と自分の体をつなぎとめていた。
「ねえ、あなた。名前はなんていうの?」
芋虫は作業を中断してわたしをみた。
「俺だってそいつは聞かないよ。だからお互いに言いっこなしだ」
「どうして? せめてお名前くらい教えてくれたっていいじゃない」
「いや、そいつはいけないね」
「あらどうして?」
「どうしてもこうしてもないさ」
芋虫はそう言ってから首をかしげて遠くを見て、それからわたしに向き直って言った。
「だって友よ、そんなことをしたら深く記憶に残ってあとで寂しくなるだけじゃないか」
それから芋虫は糸をまきつける作業を再開した。やがてハンモックのように自分の体がとうもろこしの葉にぶら下がると芋虫は動かなくなった。
芋虫さん、とわたしが呼びかけても反応はなくなった。聞こえないそぶりではない、本当に聞こえていないのだとわたしはわかった。芋虫の体はもはや芋虫ではなく、さなぎになったのだ。わたしはしばらくさなぎを見つめていた。そのうちにふとまだ手にひげまきを持っていることに気がついた。ひげまきを一口吸うと甘い香りに包まれた。涙はでなかった。ただ、またひとりになったなと思った。
「ねえ」という聞き覚えのある声と、肩をゆすられる感じがした。
「ねえ、なにをそんなに真剣に見ているの?」
わたしが振り返るとキクさんだった。わたしはキクさんの顔が一瞬認識できなくて、それからキクさんだとわかってからもキクさんの顔を見つめ続けた。
「そろそろ収穫も終わりよ。星もだいぶ少なくなったわ。帰る準備をしましょう」
キクさんはにっこりわらってわたしを農道へと促した。流れ星は時折落ちてくる程度に少なくなっていて、夜の闇が再び力を取り戻したようにあたりは暗くなっていた。
「キクさん」
「うん、なあに?」
キクさんが振り返る。
「わたし、芋虫と友達になったの」
キクさんは一瞬戸惑ったような表情をしたがすぐに微笑みを持ち直してわたしの肩に触れた。
「そう。それはすてきね」
「うそじゃないのよ。本当なの」
「ええ、うそだなんて思ってないわ」
「でも、わたし、芋虫と友達になったなんて言っているのよ?」
そこでキクさんはとても落ち着いた声で言った。
「ねえ、星降る夜はなんだって起こりうるわ。どんなことだってね。だからあなたが芋虫とお友達になったと言ってもだれも驚かないわ。それよりも芋虫とどんなことを話したか教えてほしいと思うわ。だって、そんな体験だれにでもできるものじゃないもの」
そこでわたしは芋虫とのことを、最初からキクさんに話した。ひげまきのところでわたしは左手になにか握っていることに気がついた。それはまぎれもなくひげまきだった。わたしが大きくなるのと同じく大きくなったのか、芋虫たちが小さくなるときに小さくなりそこねたのか。あの芋虫ならそんなことどっちだっていいだろうと言うに決まっていた。でもわたしはそのことを考えずにはいられなかった。わたしはひげまきを口にくわえ吸ってみた。とうもろこしの風味がするだけだ。
「甘くない。甘くなくなってしまったわ」
わたしのがっかりした様子をみてキクさんがいった。
「みんな星のせいよ。星のせいなのよ。でもそれは芋虫さんからのすてきなプレゼントね」
それからわたしは芋虫が名前を教えてくれなかった話をした。そしてわたしの名前を聞くことも拒否したと。それは最初人間と芋虫の文化の違いかと思ったが、最後になって「名前を知ると寂しくなる」という芋虫の言葉を思い出してわたしは泣いた。涙には星の成分がまだ残っていて、それは金色の雫となって落ちていった。
農道に出ると白い軽トラックにはすでにおじいさんと少年が待っていた。キクさんとわたしの姿を認めるとげんさんは運転席に乗り込み、少年は荷台に飛び乗った。みると荷台にはすでに自転車が二台積み込まれていた。
「わたしたちも荷台にのりましょう。そのほうが気持ちいいから」
キクさんはそういって軽々と飛び乗った。わたしはキクさんに引っ張り上げてもらって乗り込んだ。エンジンが始動し、農道のでこぼこ道をゆっくりと進み始めた。冷涼な風が吹き抜けた。それはくびすじや指の間でくるくると渦巻いてから去っていった。そしてまた新しい風がやってきた。冷たくまったく透明な風。夜空の流れ星はすっかりやんでいた。そして天上にはふたたび宇宙いっぱいの天の川が横たわっていた。
「はい」
少年が大きなとうもろこしを差し出していった。
「ありがとう」
受け取ったそのとうもろこしはずしりと重かった。少年はキクさんにもとうもろこしを渡した。そして自分の分をとると皮をむきはじめた。
「わたしたちも食べましょう」
キクさんがそういって皮をむきはじめた。わたしは手にした大きくて重いとうもろこしの皮を一枚一枚丁寧にむいた。やがて大粒の実が姿を現した。これまでみたことのない大粒の実はお互いに押し合いへし合いをしているようにそとにむかってまさにはちきれんばかりに膨らんでいた。そうそうに皮をむき終わった少年がとうもろこしにかぶりついた。はじけた水分が金色にひかって散った。少年は夢中で食べ続けている。わたしもとうもろこしにかぶりついた。じゅわっと水分が口中に広がった。甘い!とてつもなく甘い。信じられないほどに甘い。わたしは金色の雫を垂らしながらとうもろこしに夢中になった。少年に負けないほどに一心不乱になって食べた。食べれば食べるほどにわたしは食欲が湧いてくるのを感じた。自分の食欲に驚いた。いったいいつ以来だろう。わたしは食べるということの充足感にひたっていた。食べ物が美味しい。ただそれだけでとても幸せな気持ちになれた。そうではない。食べることは幸せなのだ。わたしはいつしかそれを完全にゼロではないまでも忘れていたのだ。キクさんの手料理だって美味しかった。だけど、このとうもろこしの美味しさは格別だった。顎や腕をつたって肘から果汁が滴っているのはわかっていた。でもそれを拭うことすら煩わしかった。ただただわたしは夢中になってとうもろこしにかぶりついていた。
少年がわたしの顔を唖然とした表情で見ていた。今みたという顔ではない。さっきからずっと見ていたという顔だ、あれは。それからわたしはキクさんをみた。やっぱりキクさんもわたしのほうを向いていて、わたしと目があうとぷっと吹き出して笑った。それを合図にして少年も笑いだした。ふたりともわたしが食べる姿をずっと見ていたのだ。わたしも恥ずかしくなって、笑った。
「おねえさんみたいに美味しそうにたべるひとみたことないや」
少年はそういってからまたあははははと大きな口をあけて笑った。
「わたしの料理だってそんなふうに食べなかったわ。とうもろこしに嫉妬するわね」
「わたし、そんなつもりじゃ…。キクさんの料理だってもちろん美味しかったわ」
「冗談よ」
キクさんは手を振って言った。
「でも、あなたのとうもろこしは特別に美味しかったようね」
「はい、こんな美味しいとうもろこし初めて食べました。なんだか、とうもろこしじゃないみたい。もちろんとうもろこしの味なんだけど、とうもろこし以上というか、うまく言い表せないけど、命そのものを頂いているそんな感じがするんです。だから、食べている間、わたしはああ生きているんだなあという実感があって、そんなことを感じたのも初めてだったから……」
わたしは芯だけになったとうもろこしをくるくるとてのひらで転がしながら見つめていた。金のしずくも銀のしずくももうなくなっていて、そこにあるのはどこにでもあるとうもろこしの芯だった。
「あなたはその生きる力をもらったのね」
わたしがはっとキクさんの顔を見た。
「だって、あなたずいぶんしゃべるようになったもの。昨日ここへきたひととは別人のようだわ」
「キクさんわたし、今日はとてもすてきなことがたくさんあったの。みんなキクさんに聞いてほしくって。どれもみんな不思議なことだったのよ」
「宿に帰ったらコーヒーでも飲みながらゆっくりきくわ」
わたしは荷台のへりに頭をのせて空を見上げた。トラックの振動が頭に響いた。トラックはとてもゆっくりと走っているようでそれほどゆすられなくて済んだ。天上は満天の星をたたえ、お椀型に広がった宇宙をその星々できらめかせていた。つめたい空気が耳の横を過ぎさり、首の後ろをいったりきたりした。とうもろこしを食べて火照った体をつぎつぎとやってくる風たちが冷やしてくれた。指の間をくるくると風のこどもたちが追いかけっこした。それはみみをすませばきゃあきゃあとさわぐ声が聞こえてくるような気さえする風たちだった。
わたしは荷台を降りる前もう一度夜空を見上げた。木立に囲まれて狭くなった視界の先にわたしは白く光る月をみつけた。
「あ、月だ」
わたしの声にみんなも空を振り仰いだ。そして月をみとめるとなんでもないという風にした。
「東京じゃ月も珍しいのかい?」
おじいさんがきいた。
「ちがうんです。星いっぱいの空がみえるほどに晴れていたのに月が見えないから不思議に思っていたんです。そしたら今みたら月が見えた」
「そりゃあんた、星の時間に月はでんよ」
「星の時間?」
「そう、星の時間。そして星の時間がおわったから月も顔だしたんだよ」
またしてもわからないことが起こる。この村ではわからないことだらけだ。
「でも、雲もないのにそのあいだ月はどこにいたのかしら」
「おねえさんってほんと変わってるね」
少年が率直に言う。わたしはちいさく肩をすくめた。
「だってさ、月はずっとお空にいたろう? ただ光ってなかっただけなんだもん」
わからないことにわからないことがかさなってくる。
4.
目が覚めた。あたりはまだ暗闇に包まれていた。置き時計を手元にひきよせ、目を凝らしてみると午後十時をすこし過ぎたところだった。あまりにもたくさんのことがありすぎて眠れなかったのだ。そこでふとキクさんの温泉に入ったら一緒にコーヒーを飲みましょうという言葉を思い出した。わたしは温泉に入って、うっかり寝落ちしてしまったのだ。帰ってきたのが何時かわからなかったが、時計を見る限りたいして寝てはいないようだ。十時ならキクさんもまだ起きているだろう。わたしは浴衣の裾を直すと部屋を出た。キッチンから蛍光灯の明かりが漏れており調理道具の物音がした。わたしがキッチンの入り口に現れるとキクさんはすぐに気がついた。
「あら起きたわね」
キクさんの髪は束ねられてきれいに結んでいた。服装もゆったりしたものに着替えていた。
「もうこのまま起きないのかと思ったわ」
「うん? ちょっとうたたねしただけですよ」
わたしがそういうとキクさんは声をあげて笑った。これもわたしのわからないことだろうか。
「二十四時間ねることは普通うたたねとは言わないわ」
「二十四時間?」
「あらあなた、今日が昨日だとおもってるのね。とうもろこしを収穫したのは昨夜のことよ。あなた一日ぶっ通しで寝てたんだから」
そのときわたしのお腹がぐうと鳴った。
「ちょっとまって、いますぐなんか出してあげる。一日寝てたんだからお腹だってすくでしょう?」
わたしの身になにが起こったというのだろう。学生時代でさえ二十四時間眠ったことなどなかった。それが今、丸一日眠ってしまうというのは一体どういうことだろう。この村についてから不思議なことばかりがおきている。青すぎる空、言葉を話すねこ、星降る夜、友達になった芋虫。それらに比べれば二十四時間眠ることなどとるに足らないことかもしれない。しかし今、わたしの中でふつふつと言葉にならないなにかが生まれようとしている。それがなにであるかはまだわからない。今はとにかく、キクさんに昨日あったことをみんな聞いてもらおう。
結論から言えば、キクさんはたいして驚かなかった。わたしはキクさんの出してくれた料理を食べながら昨日の出来事をすっかり話した。キクさんの料理はどれもこれも手が込んでいた。客がわたしひとりしかいないのに手抜きは一切なかった。わたしがもっと簡単なものでいいのにと言うと、
「なにいってんの。うちに泊まっているお客さんにそんなことできないわ」
と言った。
「気にしないで、わたし作るの好きなのよ。それよりもあなたの話の続き聞かせてちょうだい」
「わたしうそ言ってないのよ?」
「わかってる。あなたがうそついてるだなんてこれっぽっちも思ってないわ。あなたは本当のことを言っている。みんな信じるわ、あなたの言ったこと」
「でも、ねこが話すなんてこと、ほんとにあるかしら?」
「あら、あなたが言ったんじゃない。ねこと話したって」
「そうなんだけど、そんな話聞いたことないわ」
わたしがそういうとキクさんは首をすくめていった。
「東京にないからといって、この村にもない証拠にはならないわよ?」
「東京だけじゃないわ。世界中にだってきっとないわ」
「あらあなた、世界のなにをしっているっていうの?」
「だってもしそんなことあったら、インターネットで話題になるでしょう?」
キクさんは目を細めて小さく首をふった。
「インターネットねえ。わたしもネットはよく使うけど、インターネットが世界のすべてを伝えてるとはとても思えないわ。むしろ大切なことほどネットに載っていないんじゃないかしら」
わたしはうーんとだまった。
「それに世界中っていったけど、この村だって一応世界の一部なのよ?」
「だって、ねこが話したのよ?わたし夢でも見てたんじゃないかしら」
どうしてかわたしは泣きそうになった。ねこがしゃべるのがそんなにいやなのか。いやそうではない。そうではない。するとキクさんがわたしの頭をやさしくなでた。
「たしかにあなたは奇想天外な体験をしたわ。だからまだ頭の中で整理がつかないだけよ。よくわからないことはなかったことにしたほうが楽なのはわかる。全部夢だったってね。でもね、あなたはかけがえのない経験をしたのよ。だれにでも起こることじゃないわ。正直いうとね、わたしあなたが羨ましいの」
「羨ましい?」
「そうよ。だってあなたはたった一晩で何十年もここで生活しているわたしよりずっと多くの奇跡を経験してしまったんだもの」
「奇跡」
「奇跡以外なにものでもないじゃない」
キクさんはコーヒーを一口すすってからとうもろこしのクッキーに手を伸ばした。
「あなたも食べてみて」
キクさんに促されるままにとうもろこしのクッキーをとり、一口かじった。甘いとうもろこしの香りが口いっぱいに広がった。畑でたべた生のとうもろこしの味がよみがえる。残りを口に放り込む。
「あなた、たべっぷりが男らしいわ」
キクさんがそういって笑った。これほどつややかに笑うひとがほかにいるだろうかという笑い方だった。わたしは恥ずかしくなってコーヒーでクッキーを流し込んだ。コーヒーの苦味ととうもろこしの甘さが絡み合って舌の上で踊った。
「最初に会った日はそんな食べ方しなかったと思うけど。お願いだから村に来て染まったなんて言わないでちょうだいよ。この村にだって慎ましく食べるひともいるんだから」
「あ、いえ…」
キクさんは冗談よというふうに手を振って笑った。キクさんにならなんでも話してしまえる、そんな気がした。なぜ旅にでようと思ったのか、わたしは誰なのか、みんな洗いざらい話してしまおうか、そんな気になった。キクさんならきっときちんと聞いてくれるだろう。アドバイスもしてくれるだろう。そうしたらわたしはすっかり楽になれるだろうか。わたしは楽になりたいのだろうか。楽になったらどんないいことがあるのだろう。それでも肩の荷を下ろすことが最善の策だろうかすらわたしにはわからなかった。
「ねえ、わたしの奇跡の話聞きたい?」
わたしの押し黙った空気を察したようにキクさんが話題を戻した。
「ええぜひ」
わたしは必死に笑みをつくって言った。こういうときのうそがとても苦手だ。自分でも作り笑いがじつに白々しいと思う。だけどキクさんはそんなこと微塵も感じてないというふうに話を続けた。
「でもあなたのと比べたらほとんど奇跡とはよべないわよ」
「それでも、おねがい」
じゃあいいわ、といってキクさんは話し始めた。
5.
その「奇跡」が起こったのはキクさんが十五歳のときだった。その頃村はどこにでもある日本の農村だったという。高校生だったキクさんは毎日二十キロの道のりを自転車を漕いで隣町の高校まで通っていた。「あの頃はねえ、二十キロなんてたいした距離じゃなかったのよ」とキクさんは言った。「あなたに貸した赤い自転車、あれに乗って毎日通ったの」
わたしははっと驚きの表情を出さずにはいられなかった。仮にキクさんが今五十歳だとすると自転車は三十五年も前のものだ。しかしとても三十五年も経っているとはおもわせないばかりかまるで新品のようにすらみえた。
「一度塗り直しをしているからぴかぴかなのよ」
キクさんはわたしのこころを読んだように答えた。わたしはキクさんの顔を見た。話の続きが聞きたかったのだ。十五歳のキクさんはどんなだったろう。きっと可憐な少女だったに違いない。夏の暑い頃だったわ、とキクさんが続けた。雑草の繁殖力はとても大きくてね、道の両側から覆いかぶさるようにして中心にむかって生えてきて、やがて左右から伸びてきた草同士がつながっちゃうの。すると道は小さなトンネルみたいになるのね。車が走るような道はもちろんそんなこと起きないわ。だけど自転車か歩いているひとしか通らないような小道はそんなトンネルがいくつもできちゃうの。でもね、不思議なことに左右の草がお互いにぶつかりあって二三日するとまた離れ離れになって道の両側だけで伸びるようになるの。不思議よね、不可侵条約でも結ぶのかしら。とにかくわたしたちはそれを知っているからむやみに草を刈ったりしないわけ。トンネルができていたら車が通る道を使ってトンネルがなくなったらまた小道に戻ればいいだけだからね。だけどね、わたし一度だけトンネルをくぐったことがあるのよ。その日はね、とくに急いでいたわけじゃなかった。学校の帰り、小道にさしかかると目の前を草のトンネルが覆っていた。朝普通に通れた道が夕方にはすっかり通れないほどに草が伸びている。両側から伸びた草は互いの身を預けるようにして支え合いそれがトンネルのようになっている。トンネルの背は高く、頭を低くして走れば通れそうにみえた。大通りに引き返すのが面倒ということもあったが、それよりも草のトンネルをくぐってみたいという欲求がわたしの中にふつふつと湧いてくるのを感じていた。わたしはペダルに足をのせてゆっくりと漕ぎだす。トンネルに近づくと頭をひっこめた。トンネルの天上は頭の高さぎりぎりではあったが十分通れる広さがあった。太陽が葉の隙間から木漏れ日を落としていたが色濃く厚く成長した葉は太陽の光を遮断してトンネル内部は薄暗かった。それよりも様々な水分が蒸発した草いきれ。むせ返るような湿度で制服が汗で肌に張り付くのが不快だった。わたしははやくトンネルを抜けようと速度を上げた。トンネルがカーブするたびにわたしは出口の光を見失って不安になった。進んでいくにつれ、差し込む光が少なくなっているような気すらした。草が厚みを増しているのだろうか。それでもまだトンネル内部は薄ら明るく、全体が緑色に染まっていた。これではまったくエメラルドシティね、とわたしは独り言を言った。悪い魔女にだけは会いたくないわ。小道は右へ左へくねくねと方向を変えた。変ね、こんなに道は曲がってなかったはずよ。それにどんどんトンネルも暗くなっていくわ。わたしは不安になって自転車を止めた。汗が頬を幾筋も伝っていく。後ろを振り返って見えるのはどこまでもつづく草のトンネル。前を向いてもトンネル。その先はゆるやかに左へカーブして出口は見えなかった。熱気と湿度のせいで呼吸が短くなっているのがまた不安を増していた。とにかく、このカーブの先に出口が見えなかったら戻りましょうトト、といって自転車のハンドルを軽く叩いた。それからハブダイナモのスイッチを入れた。ペダルに力をぐっと込めて走り出すとライトが瞬時に点灯した。生い茂る草が流れ出す。左に曲がったと思ったら今度は右、そして再び左、どこまでもどこまでもくねくねトンネルは続いた。左にまがって出口が見えなかったら引き返すんじゃなかったの!?こころでそうさけぶ声が聞こえたがペダルにこめた力を緩めることはできなかった。わたしはギアを変え、速度を増した。面白いようにスピードが上がっていく。自転車をこぐことだけで生じる風は生暖かく耳のうしろでひゅるんひゅるんと音をたてた。緑のトンネルは自転車のライトを反射して地面も天井も明るかった。わたしはスピードがでることが楽しくなってどんどんギアを変えていき、ついに一番重いギアに変速した。そしてさらに加速しようとした瞬間、ふいに天井がとぎれてわたしはトンネルの外に出た。
外の冷たい空気がさっと全身を駆け抜け、まるで冷たい水で洗い流すようにわたしの火照った体を冷ましていった。わたしはこぐのをやめて惰性で自転車を走らせた。そこはどこまでもまっすぐないつもの小道だった。冷涼な夜の風が汗を冷たくしていった。そう。トンネルを抜けたら夜だったのだ。自転車は速度をおとしてやがて停止した。わたしは片足をついて空を見上げた。満月だった。まんまるのお月さまが煌々と夜空を照らし、星たちは姿を潜めていた。なぜ夜なのかしら…。
後ろをふりかえってみた。百メートルほど先に草のトンネルが黒々とした口を開けているのがみえた。雑草たちがさらさらと音を鳴らし、やがて周囲の草がわさわさと騒ぎ立て、音を鳴らした風はわたしの体を抜けて小道の先へと駆けていき、先にある雑木林の葉を揺らしていった。風が行ってしまうとまったくといっていいほど静かだった。夏の夜といえば、あちこちでカエルが鳴き、虫たちの演奏が鳴り響く騒がしいのが普通なのに今夜はまるで冬の夜のような静けさだった。わたしはもう一度空を見上げた。いつになく大きな満月が頭上に佇んでいた。いままでに見たことがないほどに大きな月だった。肉眼でもクレーターがはっきりみえるような月。うさぎの餅つきや木の枝にぶら下がる欲張り者の姿など物語の面影なんていっさい感じさせないほどに月ははっきりとその姿を地球にむかって見せつけていた。
「おっきい月……」
わたしは思わず声をだしてつぶやいた。するとどこからともなく声が飛んでいた。
「ちょっと静かにしてくれないか」
つぶやくような控えめな声だった。しかしその声はしんとした静寂のなかではっきりとその意思を主張していた。わたしはあたりを見回した。周囲に人影はない。そよともゆれないくさっぱらがあるだけだ。
「だれ?」
わたしはすこし怖くなった。するとまた声がした。
「だからその、声をあげないでほしいんだ」
声は右手の原っぱのほうから聞こえてくる。わたしは目を凝らした。満月の輝きは雑草たちの葉を銀色に照らしている。原っぱは同じような背丈になった草で生い茂っていて、その上面は平らにみえるくらいだった。しかし一箇所だけひょこっと出っ張っている。それはまるで海原に飛び出た岩のように頭一つ分だけこんもりと盛り上がっていた。よくみるとそれはわずかに揺れている。そしてそれは揺れているだけではない動物的動作もしているようだ。つまり頭をふったり鼻を掻いたりするような。わたしは自転車を降りてそっと地面に横たえた。そして雑草と小道の際でもう一度よくそのこんもりとした影をみた。その影は頭のほうへいくにしたがって細くなり、時折みえる手は長い爪がついていた。大きさといえばちょうど猫とおなじくらいだろうか。それがわたしに背を向けるようにして―もちろん影しか見えないがどうしたって向こうをむいているように見える―草の上で揺れている。
「あなたなの?」
わたしはわざと声をあげて言った。そうしたらきっと返事をしてくれると思ったからだ。そして予想したどおりそのかたまりは返事をした。
「まったく困るなあ、そう声を荒げられちゃあ」
声の主は相変わらずこちらに背をむけたままで言った。わたしは草をかき分けて原っぱへと入っていった。雑草は思いの外高くどれも一メートルほどの背丈に生えていた。わたしは胸まで届く草をかき分けながら進んでいった。海原の岩を目指して。そして、さした労力を使わずに近づいた。
「あっ!」
わたしは声をあげずにはいられなかった。だれだって声をあげずにはいられないだろう。だからわたしが声をあげたって非難されるすじあいはない。だけど、そのこんもりさんは迷惑そうに言った。
「困るなあ。まったく困るよきみ、そんなにちかくまでよってさっきよりずっと大きい声を出すんだから。こんなに邪魔されたことないよ前代未聞だよ」
そう、目の前の主は穴熊だった。茶色のストライプがはいった模様、長く突き出した鼻―わたしが頭だと思っていたのは上を見上げた鼻だったのだ―、長い鉤爪。見間違うはずがない、穴熊だったのだ。わたしがどれだけ驚いたことか。目をみひらき、言葉をなくしているわたしを穴熊はじろじろとみて一度目をつぶってからうなずいて、そして突然目を見開いて叫んだ。
「わ、人間だ!」
そして穴熊はバランスを崩して転げ落ちると地面にどさりと音をたてて落ちた。わたしが急いで草をかき分けると穴熊は仰向けにひっくり返っていた。指でちょいちょいとつついてみたがピクリともしない。死んでしまったのかしらと思ったが胸が上下に動くのが月明かりにも見えたのでどうやら気絶しているだけだろう。わたしはそっと穴熊を抱きかかえてみた。そうすると猫よりも二回りほど大きいのがわかった。毛皮はごわごわしていて毛の先がちくちくと腕を刺激した。これじゃあとても人間のペットにはなれないわね、とわたしは独り言を言った。それにしてもあなたはいったいどこから落ちたのかしら。穴熊が落ちた場所にもあるのは背高くのびた雑草だけだった。突き出た岩もなければ木も生えていない原っぱだ。たとえ穴熊が後ろ足で立ち上がったって雑草のてっぺんから鼻先を突き出すのが精一杯のはずである。わたしが不思議に思って穴熊の顔をみると穴熊があわてて目を閉じるのが見えた。
「穴熊さん、死んだふりしてるの?」
穴熊は眉間にしわをよせて目を固く閉じている。わたしが空を見上げるふりをして目の端で注意していると穴熊は薄目をあけてこちらの様子を伺いだした。わたしは空を見たまま話しかけた。
「ねえ、わたしあなたとお話したいだけよ。お願いだからそんなふうに死んだふりしないでちょうだい」
すると穴熊は片目を薄くあけ、それから恐る恐る両目をあけてこちらをみてはみかむように歯をみせていった。
「あのう、すみませんがおろしてもらえませんでしょうか。ええ」
わたしが腰をかがめて下ろすと穴熊は長い爪で毛皮を丁寧に撫でて毛なみを整えた。
「オポッサムが死んだふりをするというのは聞いたことがあるけど、穴熊が死んだふりするなんて初めて見たわ」
「あ、すいません。オポッサムさんの件は存じ上げないですが、私達は時々やるんです、はい」
「それに急に丁寧になったのね」
「あ、それはもう人間さんなんで」
そういったとたん穴熊は大粒の涙をながして泣き始めた。涙の玉が毛皮に弾かれてまるでボールのようにころころと転がっていく。
「まあどうしたの?」
わたしが背中に手を当てると穴熊の体毛がさっと逆立つのを感じた。なにをそんなにわたしに怯えているのか。穴熊はしゃくりあげながら声を上げた。
「わたしを食べるんですね。わたしはきっと美味しくないです。さいきんろくに栄養も摂ってません」
穴熊はまるまるとした腹をしきりに伸ばして肋骨を浮き彫りにしようと努力したが厚い脂肪に阻まれた。
「あらいやだ。わたしあなたをたべようなんてこれっぽっちも考えてないわよ。それに今どきムジナ鍋をしているひとなんてそういないわ」
「ムジナ鍋! はひゅん!」
穴熊は一声そう叫ぶと後ろにひっくり返りそのまま気絶した。
今度はどうやら本当に気絶しているらしい。わたしは抱きかかえた穴熊の胸のあたりをやさしくとんとんと叩いた。
「ねえ、穴熊さん穴熊さん」
しばらく叩いたりさすったりしているとようやく穴熊はうっすらと目をあけた。
「…ここは天国ですか?」
「天国でも地獄でもないわ。まだ死んでないもの」
「月です…満月です…」
仰向けになった穴熊の真上は満月が光っている。それも特別に大きな満月だ。
「あなたのような寛大な人間に初めてお会いしました。あなたは一体どなたさまでしょう?」
そのときわたしの頭の中をパーンと弾けるような音がしてそれからバリバリバリと唸った。それはまるで雷でうたれたような衝撃だった。なぜなら、わたしは、わたしは、キクさんの話を聞いているはずのわたしだったからだ。
言葉をなくして目を見開いたままのわたしに穴熊は少し怯えたようだった。
「いえ、いいんです。わたしを食べないでいてくれただけでそれでいいんです。ではわたしはこれで…」
「ちょっとまって!」
穴熊がその場を立ち去ろうとしてわたしはあわてて呼び止めた。それが図らずも大きな声がでたので穴熊はその場でぴょんと飛び上がった。
「は、はい!なんでございましょう」
「おねがいだから、ちょっとまってちょうだい」
わたしは心臓の音が聞こえるくらいに脈打っているのを感じた。汗が毛穴から噴き出す。全身を鳥肌が駆け巡る。これはいったいどういうことだろうか。なぜこんなことが起こるのか。なぜわたしはここにいるのか。旅館のキッチンでキクさんの思い出話を聞いていたではないか。それが、なにが、どうして? わたしは強烈なめまいを感じた。世界がねじれた。地面に手を付き、そしてわたしは気絶した。
視界がぼんやりと明るい光に照らされている。光は最初ゆらゆらと揺れていたがやがて動かなくなった。ぼやけていた光はしだいに輪郭を取り戻し、それは月だった。まあるい月が夜空に光っている。
「あ、目を覚ましました! ああよかった死んだかと思いました。一体全体どうしたというんです?」
一匹の穴熊がわたしの顔を覗き込んでいる。わたしはもう一度目を閉じた。そしてまた開くとやはりわたしの顔を覗き込んでいる穴熊がいた。とても心配そうな表情をしている。わたしは上半身を起こして聞いた。
「ねえ、わたしはいつからここにいるのかしら」
「いえ、あのそんな時間は経っておりません。いまさっき突然お倒れになってほんのちょっとの間でございます」
穴熊は長い爪のついた手を短く振って言った。
「そうじゃないの。わたし…、あなたに会った時からわたしだった?」
穴熊はきょとんとしていた。わたしは穴熊が口をひらくまで見つめていた。そしてようやく穴熊が言った。
「えーと、なんともそいつは哲学的質問ですな。実際的なところから申しますと、あなたさまは最初からあなたさまでございます。しかし哲学的見地、或いは形而上学的見地から申しますと、それはわたしの想像の及ばぬところでございまして、つまり結局のところわたしにはわかりません、はい」
穴熊はたいへん申し訳なさそうにして顔を伏せた。そうじゃない。こんな質問をされたらだれだって困るにきまっている。わたしは穴熊に話した。旅館のキッチンでキクさんという女将さんの話を聞いていたこと、キクさんは自分に起きた不思議体験を話始めたこと、わたしはコーヒーとクッキ―を手に聞いていたこと、雑草のトンネルのこと、トンネルを抜けたら夜だったこと、あなたに会ったこと。わたしは話を反芻しながら不思議な気持ちに見舞われていた。草のトンネルをくぐったのもわたしだったのではないか。それよりも前、トンネルをくぐる前からすでにわたしだったのか。そもそもこんなことがあっていいのか!この村に来てから数多くの不思議な体験をしている。でもこれは中でもとびっきりに変わっている。人の話を聞いているうちにその話の中に入り込んでしまうなんてあまりに想像がつかなすぎてめまいがする。
「ねえ、こんなことってある? 人の話を聞いているうちにその物語の中に入り込んでしまうなんて?」
穴熊は困ったような顔をしてうーんと唸った。
「そうですねえ、ないと言えばないですし、あると言えばあるんではないかと」
「それじゃあ答えになってないわ」
「あ、あ、すいません。しかし実際問題わたしが最初から話していたのはあなたでして、一体なにをおっしゃっているのかさっぱりなんです」
穴熊の言う通りだ。穴熊はきっとわたしのことを頭のおかしい人間くらいに思っているのだろう。本当に頭が変になりそうだ。わたしは夢でも見てるのか?キクさんの話を聞きながらうっかり眠ってしまったのではないか? 夢ならこういうことはありえないことではない。
「どうやらわたし夢を見てるみたいだわ」
わたしは穴熊に声にだして言ってみた。
「ほう、夢ですか。しかしわたしは夢などみていませんよ。今夜のような月の夜に眠ってしまうなんてまるきり馬鹿げてますからね」
「いいわ。とにかくあなたはわたしの夢の中の登場人物なのよ」
「へえ、するとあなたはわたしが存在しないとおっしゃる。言っときますがね、ここは夢でもなんでもありませんからね。今夜は特別な満月をおがめる特別な夜なんです。わたしだけじゃない。ほら虫たちだって鳴くのをやめてお月見をしているじゃないですか」
穴熊はいつになく語気を強めて言った。
「ごめんなさい。わたし、あなたを怒らせるつもりなんてなかったの」
「では言っときますがね」穴熊はわたしの言葉を無視して続けた。「あなたは自分に理解のできない出来事に見舞われた。しかしそれを受け止めずに自分に解釈しやすい説明をこしらえて無理やり納得しようとしている。でもそんなことをしたってこの特別な満月の特別な夜にあなたが草むらで穴熊の月見を邪魔しているという事実は変わらないんですからね」
穴熊は吐き出すように最後は早口になって言い終えると肩ではげしく息をして、それから深呼吸をなんどか繰り返してようやく落ち着きを取り戻した。そして、あたりをきょろきょろと見始めたと思ったその矢先、突然背を向けると逃げ出した。わたしは思わず大声であっと叫び、草むらに立ち上がった。穴熊が逃げていく方角に雑草が不自然にゆれている。わたしはあとを追いかけた。ここで穴熊を見失ったらひとりぼっちになってしまう。そうしたら…そうしたらと思うとわたしは背筋が寒くなったのだ。雑草の揺れは草むらを縦横無尽にいったり来たりした。わたしはそのあとを必死に追う。しかし草のゆらめきは次第に遠のき、そして夜の闇に溶け込んでいった。風が吹いた。まるで櫛ですいたように草たちは整えられた。穴熊の走ったあとなど跡形もなくなった。わたしがかき分けた草もみわけがつかなくなった。わたしは原っぱの真ん中に立っていた。わたしはなにも考えられずにただ呆然とし、しばらくして空を見上げた。大きな月があった。みたことのない大きさだ。さきほどよりもさらに大きくなっている気さえする。いつも夜空にみる月の何倍も何倍も大きい。月があまりにも大きく明るくて、わたしを感動させた星々はすっかり姿を消していた。夜空は月一点の明るさのほか、なにもなかった。どうしてか急に、月夜はとてもさみしいわ、と思った。そう思うと途端に涙がこぼれてきた。一体どうしたのだろう。なぜこんなにさみしいと感じるのか。月夜のさみしさは得意だったではないか。月の孤独は親友だったではないのか。宇宙を埋め尽くす無数の星よりもひとり静かに光る月にこそ親近感を覚えたのではなかったのか。しかし今はさみしくてたまらなかった。月が大きければ大きいほど、明るければ明るいほどよりいっそう孤独感が押し寄せてくる。キクさんに会いたいと思った。それからおじいさんやたあぼうと呼ばれる少年にも会いたかった。会えるものなら芋虫や猫にだって会いたいと思った。ああこれが人恋しいという感覚なのかと思った。今までそんな感覚とは無縁だった。それだけ孤独を愛して生きてきたからだ。それなのにここへきて急にひとのぬくもりを知ったのだ。なにか大きな変化や行動があったわけではない。たまたま訪れてしまった村であった他愛のない会話、ちょっとした親切心、そんなことが自分のこころを動かすとは自分でも信じられないことだった。なにかがわたしの中で変わろうとしている。しかしそれはまだ漠然として霞をつかむようなものでしかない。でも確実に変化が訪れようとしている。或いはわたしが変化のドアを叩くのか。
わたしは夜空を見上げるのをやめた。そして草むらを出て農道へ戻った。そこには見覚えのある赤い自転車が横たわっていた。ぴかぴかの赤い自転車。わたしが乗ったのとなにひとつ変わるところがないように見える。ここがキクさんが十五歳のときの村なのか、それともわたしが自転車で散歩しているだけの村なのか、農道と原っぱだけの風景からそれを読み取ることはできなかった。だからどうしてここへきたかということさえ忘れてしまえば、宿に帰りさえすればいいのだ、と思ったところでふと考えを改めた。でもそれでは穴熊の言った自分勝手な解釈になってしまう。そうではなくて、どうしてかはともかく、わたしはキクさんの話の中に入り込んでしまった。でも今はその原因を求めるのではなくて―どうせ考えたところでわからないのだ―、この先どうしようかということを考えなくちゃいけないのだ。そして今わたしにできることといったら、自転車に乗って宿に帰ることだけだ。幸いなことに、村の方角はわかっている。
雑木林に入ると月光はまったく遮られてしまった。自転車のライトが頼りなく数メートル先の地面を照らしている。風は農道を伝って吹き抜けていく。クヌギの樹液がだす甘ったるいお酒のような香りが鼻腔をくすぐる。時折吹く風が起こす葉擦れの音がするだけで、林の中はまったく静かだった。わたしは時々自転車をこぐのをやめて滑走した。後輪がチチチチチ…とたてる音が今この雑木林にある一番大きな音だった。あんまりあたりが静かすぎるから、わたしは力強くペダルを踏んでは足を止めを繰り返して自転車の音を木々に響かせた。
雑木林は突然の終わりをつげ、私は再び月光の下にでた。そしてそこは草原ではなく、どこまでもつづくかにみえる畑が広がっていた。わたしは足をとめてしばらく滑走するにまかせていた。まんまるの満月はかわらず頭上に鎮座して青白い光を地面になげかけていた。やがて自転車は速度を落とし、わたしは再びペダルをゆっくりと踏んだ。おかしなものだわ、とわたしは思った。昨日は空一面に星が埋め尽くしていたのに、今夜は月しか見えない。あれだけ夜空に輝いていた星たちはいったいどこへいったのかしら。それからお月さん、あなただって変よ。あなたみたいに大きな満月なんてみたことないもの。まるで望遠鏡を通して眺めているみたいだわ。今夜は月がでて、明日はまた星が現れるのかしら。昼間の空にくらべて、夜はとっても忙しいのね。昼間の空は……。そのときわたしは思った。あの青々とした深く濃い空を。わたしをひきつけてはなさなかった紺碧の空を。夜空の下で昼間の空のことを思うなんてなかなか難しい芸当ではないかと思った。しかしわたしはひとたび青空のことを思うと夜空を見上げてなお太陽が降り注ぐどこまでも蒼い空が見えるようであった。ねえ。という声がした。行かないで。行かないでと言っている。わたしのまわりを太陽の暖かさが包みはじめてきた。それと同時にあたりがにわかに明るくなり青空が現れた。太陽の前に満月は姿を消した。空にはなにもない。あるのはどこまでも深い濃紺の青空だけだ。そう。という声がした。空にはなにもないのよ。空があるわ。いいえ、とその声は言った。なにもないのよ、あるのは不可分な世界だけ…。フカブン…?
「どちらへ」
突然すぐそばで声がした。わたしは息を飲み込みブレーキをきつく握った。周囲は一瞬にして暗闇に閉ざされた。明るすぎると思った満月の光でさえ、太陽の前ではないも同然だった。だからわたしは突然視力を奪われて完全な闇に放り出された感覚だった。
「だれ?」
自転車をとめて片足をついて声のしたほうに顔をむけた。目を凝らし徐々に目が夜の暗さに慣れてくるのを待った。農道の端に道祖神があってその上にもこもことしたなにかがいる。それは、猫だった。
「よう、また会ったな」
月光の下に丘の上で出会った猫がいた。猫が動くと毛なみが月の光を受けて波打った。わたしは自転車を飛び降りるようにして猫のもとへ駆けつけた。背後で自転車がガチャンと倒れる音がした。
「なんだいそんなに息せき切って」
猫はまんまるの瞳をこちらに向けて言った。わたしは猫を目の前にしながらこの状況に混乱し、言いたいことは山のようにあるのに言葉がでてこない。それでやっと出てきたのが次の言葉だった。
「ねえ一体どうなってるの?」
猫は大きな目をさらに大きくさせて言った。
「おいおい文脈もなにもあったもんじゃあないな。一体どうなってるったあどういうことだい?」
「さっきまた会ったなって言ったでしょ?」
「ああ言ったさ。俺のこと忘れたのかい?」
「忘れるわけないわ。そうじゃなくて、そうじゃなくて、わたしは何十年も前にいるはずなのよ。あなたに会うよりずっと前。なのにどうしてあなたはわたしを知っているわけ?」
「おいおい落ち着けよ。だったらなんであんたは俺を知っているんだい?」
「それはあなたにおととい会ったからよ」
「なら俺だってあんたにおととい会ったんだよ」
「違うわ。わたしは今あなたに会うよりもずっと前にいるつもりだったのよ!?」
「おいおいさっぱり道理が通らねえや。ちょっと順を追って話してごらん」
それでわたしは猫に話した。穴熊に話したようにできるだけ細かく、旅館の台所でキクさんの話を聞きながらコーヒーを飲んでクッキーを食べていたこと。そしていつの間にか自分が物語の中にはいってしまったこと。そしてもちろん猫に会いたいと思っていたことも。猫はわたしの話を聞き終わってからもしばらくふんふんと鼻をならして頷いていた。それからやおら口を開きかけると再び閉じてまたふんふんと言ってから夜空を見上げ満月をじっと見つめていた。わたしはただひたすら猫が口を開くのを待っていた。
「まずひとつに」と猫がようやく口を開いた。わたしの体が思わず前のめりになる。
「キクさんのお話が何十年前だか知らないが、その話が始まるより先におとといはあって、だからお話より俺とあんたが会ったほうが古いのは間違いない」
「でもじゃあなんで…」
猫は右手を上げてわたしの言葉を制した。
「あんたの言いたいことはわかってるさ。こいつぁ俺にとってもなかなかの難問だってことさ。俺のばあさんの時代ならよくあったかもしれないし、そうした話を聞かせてくれたことだってある。だけどな、実際に体験するのは俺にも初めてなんだ。だからすこしばかり俺にしゃべらせてくれ。その中でもしかしたら答えが見つかるかもしれない。幸いまだ月は高い。いや高いどころかすこしだって動いちゃいないよ。これはまったく由々しきことなんだ。月が動かないで喜ぶのは穴熊くらいなもんさ。だってあいつらときたら月を眺めてさえいたら幸せなんだから。これで月が動かなかったら死ぬまで眺めてるだろうよ。なんだってあんなに月が好きなんだろうね。俺は空いっぱいに広がる満天の星空のほうがよっぽどいいや。だのに月が出ていると星たちはみんなどっかにいっちまうんだ。とくに今日みたいな特別に大きな満月の夜はだめだ。しかし今夜はいやにでかい月だなと思っていたらやっぱり普通じゃなかったな。こりゃ、月がそうしたのか、或いはあんたがそうしたのか二つに一つだ」
「わたしはなにもしてないわ」
「さてどうだか。自覚があろうとなかろうと」
「ねえ、それよりもあなたの考えを聞かせてちょうだい?」
「ああそれか」猫は舌をぺろりとだしてひげを舐め上げた。
「今しゃべりながら考えていたんだ。しかし、それより前にあんたに質問がある。今どこへ向かおうとしていたんだ?」
「わたし? わたしは…旅館に、旅館のほうに向かっていたの」
「ほう」猫は背を低くして上目遣いでわたしを見た。「それはどうして?」
「わからないわ。でも、もし旅館があればわたしは現代にいるし、なかったら過去にいるっていうのが少なくともわかると思ったのよ」
「ほう」とまた猫は言った。
「違うのかしら?」
わたしは不安になって聞いた。
「ちがう、とおもう」と猫は言った。「つまり、あんたは考え違いをしているんだよ。あんたさっき現代と過去って言ったろ?だけどこれは時間の問題なんかじゃないんだ。少なくとも俺はじゃないと思うんだ。もしこれが時間の問題で今があんたのいう過去なら俺はあんたを知らないはずだ。だけど実際は違っている。つまりこれは時間とは関係ないんだよ。ようは話の中か外かってことなんだ。なにかの拍子にあんたはキクさんの物語の中に入ってしまった。どうしてそれがそうなったかは猫にもわからない。いやばあさんの時代なら知っていたかもしれないが、俺にはわからない。猫にわからないんだから人間にわかるはずもない。まあいい。問題は今、ここは物語の中なのか外なのかってことさ。とここであんたに問いたい。ここは中か外か?」
猫はじっとわたしの目を見つめた。わたしはうろたえた。そんな、それこそ猫に教えてもらいたいことなのにと思った。わたしにはここが物語の中なのか外なのかなんの確信もなかった。わずかな手がかりさえもっていなかった。それなのに猫はじっとわたしの目を見つめて一番むずかしい答えを待っている。どうして猫はそれを教えてくれないんだろう。どうしてそこへきてわたしに問うのだ。冷や汗が毛穴からじんわりと染み出すのを感じた。
「わからない。まったく手がかりなしよ。第一こんなことってあるの?物語の中に入るとかなんとか、こんな奇妙でおかしなことってないわ」
わたしがやっとの思いで言葉を出すと猫は首を振った。
「言っておくが、物語に入り込んだといったのはあんたなんだぜ。俺が言ったんじゃあないんだ。俺はただ散歩しているときにたまたまあんたにまた会っただけのことなんだ。キクさんの話を聞いてたわけでもなけりゃ雑草のトンネルをくぐったわけでもないんだ。ただあんたが血相変えてそういうから真剣に相談に乗っているんじゃないか。それなのにあんたは奇妙だなんだといって自分で言ったことをまるで認めようとしない。そんならさっさと旅館に帰ってふとんに潜り込んで寝たらいいさ。真剣に相手をして馬鹿をみたよ」
猫は道祖神の上に立ち上がるとひらりと地面に飛び降りた。行ってしまう!わたしは慌てた。今猫を失ったら振り出しに戻ってしまう。
「待って。ごめんなさい。わたしが悪かったの。お願いだから行かないで」
猫は振り返ってしばらくわたしをじっと見たあと地面に腰を落ち着けた。わたしは猫の傍らにひざをつくようにして座ると小さく深呼吸をした。
「不思議なことが起こったことは間違いないわ。キクさんのお話だけじゃない。この村へ来てから不思議なことの連続よ。もちろんあなたとこうやって話をするのも十分不思議なことだわ。でもどうしてからしら。こんなに不思議な体験をしていながらどこかでそれを認めようとしない自分がいるのよ。」
「それはあんた、いまの器で理解しようとするからだ」
「今のうつわ?」
「とても理解できないことが起こったんだろう?だったら理解の器もそれに合わせて大きく広げなければいけない。なのにあんたは今の手持ちの器にしがみついて一生懸命受け止めようとしているんだ。もうその器は小さすぎて入りっこないのにね。無駄な努力ってやつさ。もっとも努力する方角が間違っているんだ。つまりね、端的に言えばあんたは傲慢なんだよ」
「ご、傲慢…?」
「そうさ。だって、自分には理解できないことはないって思ってるんだろ。さっきの器で言えば、自分はもうすでに一番大きい器を持っているから入らないものはない。入らなかったら入らないほうに問題があるんだって考えてるのさ。そいつを傲慢と呼ばないでなんと呼ぶかね」
猫はわたしの目を食い入るように見つめていた。わたしはどきっとし、それから恥ずかしくなって目を伏せた。そうしたら涙がこみ上げてきてそれはあっという間に涙腺を突破して瞳から溢れ出し、そう、わたしは泣いた。それも大声をあげて子供のように泣いた。猫は首をふってやれやれと思ってるかしら、それとも愛想をつかしてどこかへ行ってしまったかしらと思った。だけどわたしは泣くのをやめられなかった。涙は決壊した川のように頬を流れた。涙は湧き水のようにとめどなく、ただひたすら溢れ流れていった。わたしの声がわたしを包み、あとはなにもなかった。
猫はそこにいた。全身を丁寧に舐めあげている最中で、わたしが落ち着きを取り戻して涙をふきとり、呼吸も正常になって、泣いた疲れからすこしずつ遠ざかりようやくいつもの自分に戻ったと感じてからなお猫は毛づくろいを続けていたのでわたしはその様子をぼんやりと見つめていた。毛づくろいは細心の注意を払って行われており、まるで毛の一本一本を選別して解かしているかのようだ。その丁寧さはしっぽに入るとさらに磨きがかかり毛なみを一方向に整えたかと思うと次は毛を広げてその内側を丹念に拭き取りさらに螺旋を描くようにしっぽを回転させながら舌をそわせて磨いていくという念の入れようだった。そしてしっぽの先こそは毛づくろいの集大成と言わんばかりにその先を整えてはやり直し再び整えてはやり直しをしばらく繰り返した。先ほどとどれほどの違いがあるのだろうかとおもって注意深く見ていたがわたしにはその形状の違いはわからなかった。しかし猫はそのまとまり具合が気に入らないのか時折いらただしげに唸っては舐め直して形を整え上のほうをすこし立たせてみたり左右が細くなるようにしてみたり或いは下部を膨らませてふんわりさせてみたりした。わたしはそばに腰を下ろしてその様子を眺めていたがあんまり長く続くので猫の毛づくろいから目をはずして空を見上げた。
夜空には煌々と満月が浮かんでいる。月は……なんだろう、なにかが違って見える。わたしはしばらく月を見つめていてようやくその答えがわかった。月が小さいのだ。いつもの大きさに戻ったといったほうが正確だろう。あの大きすぎるほどに大きかった満月はなくなり、いつもどおりの月が夜空のほんの一点を照らしている。それは大きな満月に慣れた目には星のように小さく見えた。
「ねえ見て、月が小さいわ」
わたしは月を見つめたまま猫に話しかけた。猫は相変わらず毛づくろいをしていたがわたしの声を聞いて見上げたようだった。
「おやおや。月が動いたか」
「それってどういうこと?」
わたしが猫のほうを向いてそう言うと、猫は片目だけ器用にこちらをみて言った。
「特別な満月の時間が終わったってことさ」
「つまり…?」
「つまり、いつもどおりの満月に戻ったってことさ」
「それってなにか意味でもあるの?」
「意味はあるかもしれないしないかもしれない。少なくとも穴熊たちは巣穴に帰ったろうし、ほら」
と猫は言って耳をくるりと回転させた。
「なに?」
「聞こえるだろう?」
わたしは耳をすませた。聞こえてくるのは虫の声ばかりだ。
「虫の声しか聞こえないわ」
「どんな虫だい?」
「よく知らないの。コオロギかしら?」
「そう。エンマコオロギ、キリギリス、クツワムシ、スズムシ、カネタタキ。それから雑木林のほうからはアブラゼミの声もする。大合唱だ」
「色々いるのね。でもそれってどんな意味かしら?」
「意味意味ってうるさいね。さっきは聞こえたのかい?」
それでわたしははっとした。そしてそこまで言われなければわからなかった自分の鈍感さを恥じた。
「聞こえなかったわ。まったくの静寂だったもの。でもこうして虫の音がするのが自然なのよね。あの大きな満月の時はすべてが止まったようだったわ」
猫は口をにんまりとさせて笑った。
「ようだったんじゃないよ、実際に止まっていたのさ」
「でもわたしは動いていたわ。穴熊だって、あなただって動いていたわよ?」
「そうさ。でも時は止まってたんだ」
「そんなおかしなことってある?物が動けば時間が生じるんじゃないのかしら?」
「シッシッシッシッッシ。もっともらしい理屈をこねてきたな。でもな実際止まっていたんだ。もしあんたのいう通りものが動けば時間が生じるというのなら、動いてなかったんだ。動いているとおもったけど実は動いていなかったのさ」
「でも、でもわたしは自転車に乗ったし穴熊を追いかけたし、あなたと再会してこうして話をしてるわ。それのどこが動いていないっていうの?」
「動いていたなんていってないさ。俺は最初から止まっていたと言ったんだ。なのにあんたがものが動けば時間が生じるというからそれに合わせてやっただけじゃないか。さっき大泣きしたから少しは開眼したかと思ったがそう簡単ではないらしいな。でもわかってるよ、あんたら人間は因果律というやつにがんじがらめに縛られているということくらい」
わたしはどうしたらいいのだろう。なにをわかっていないのかまるでわかっていない。だから頭の中がまっしろになった。
「ヘイ、よく聞きな。因果律というやつは実に都合がいい。原因があって結果がある。こうなってこうなる。たいへんわかりやすい。しかし世の中にはその眼鏡をかけていたら決して見えない世界があるんだ。物心ついたころから眼鏡をかけているから外し方を忘れちまっただろうが、あんたが生まれたころはまだそんな眼鏡なんてかけてなかったんだよ。俺に言わせれば、人間というのは生まれたばかりの頃が一番聡明で年をとるごとにどんどん馬鹿になっていく。そんな生き物、俺の知ってる限り人間だけだぜ?」
猫はじっとわたしの目をみてからニッと笑って立ち上がった。
「さあ、行こう。あんたの言ったことが正しいかどうか確かめに行こうじゃないか」
猫が歩き出す。わたしも立ち上がってあとを追い始めてすぐに自転車のことを思いだして慌てて取りに戻った。自転車を起こして小走りに猫を追う。猫は農道の真ん中をすたすたと進んでいた。わたしは猫に追いついてから猫と並んで歩くようにした。自転車の後輪からチッチッチッチッという音が鳴った。しかしそれはもう孤独な闇で聞こえた音ではなかった。草むらのいたるところから聞こえる虫たちの盛大な合唱の合間を縫って時折聞こえるにすぎなかった。
「なあ」と猫が顔をあげて言った。「乗り物を押して歩くなんて変だぜ」
「でもそうしたらゆっくり走るのは難しいの」
「なに。俺をその先へ乗せてくれればいいじゃないか」
猫はひげで自転車のかごを指して言った。
「それはいいアイデアだわ」
わたしが自転車にまたがると猫は一瞬体を沈ませたあとにひらりと跳躍してかごに飛び乗った。
「いくわよ」
わたしはそういってペダルに力を込めた。空気が動き、風が吹いた。ライトがぱあっと農道を照らした。冷涼な風が首筋を抜けていき、髪が後方にたなびいた。畑をひとつ通り過ぎるごとに小さい雑木林をひとつくぐり抜けた。林の中はアブラゼミの声でいっぱいだった。何百というアブラゼミが同時に鳴く時、鳴き声はひとつのうねりとなって頭の中にわんわん響き渡った。さすがの猫もこの音には閉口しているのか、耳をたれている様子が光の輪郭からみてとれた。
「すごい声ね」
林をぬけて畑にでてからわたしは言った。猫はそれに答えなかったが少し伏せていた体を起こしてまっすぐ座り直した。月光が猫の毛なみを銀色に輝かせていた。それからわたしたちはいくつかの畑といくつかの林を抜けた。畑の間を走っていると眼前に黒々とした雑木林の輪郭が見える。漆黒の闇はすべての光を吸収し夜空と境界線を描いていた。空は黒が混じった濃紺で、満月の放つ光のせいで薄ぼんやりと明るかった。
「おいちょっととめてくれ」
猫は振り向いていった。わたしはブレーキを握り込み、停止して、足をついた。
「次の林は今までよりずっと長い。だからその前にすこし言っておくことがある」
猫はひらりと自転車から飛び降りると背伸びをして体をほぐした。
「さっきから考えていたんだが、もしかするとあんたの言ったとおりかもしれない。しかし―、月が動き出したことでそれも解けたかと思ったが、どうもそれだけでは不十分だったようだ」
「それはどういうこと?」
「あんたが言ったことは最初バカバカしいと思ったが、どうやら本当らしいってことさ」
「そうじゃないの。わたしが聞きたいのは不十分ってところよ」
わたしはハンドルによりかかるようにして腕を預けた。すると猫はああそのことかという顔をして話し始めた。
「だって村までこんな遠いわけないんだ。さっきからおんなじ林と畑を行ったり来たりしているような錯覚を感じるよ」
「でもあなたさっき今度の林はずっと長いっていったじゃない?」
「ああ。おんなじような気がすると言っただけで同じとは言っていない。いやもちろん違うんだ。俺たちはちゃんと進んではいたんだ。でもそれがどうも目指すところじゃないって気がしてきたんだよ」
「それじゃあわたしたちはどこへ向かって走っていたというの?」
「さあな」
「あなたにもわからないことがあるのね」
「そりゃそうさ。なんでも知ってると思ってるほどうぬぼれちゃあいないよ。それにもしあんたの言う通りだとすると、ここはあんたの世界なんだ。おまえさんはなにかこころあたりはないのかい?」
「皆無だわ」
わたしは首をすくめ、猫もまた肩をすくめてみせた。
「わたしたち、どうしたらいいのかしら」
「さあて、この先の森を抜けてからまた考えようや」
猫はそういうとなめらかに跳躍し自転車のかごへ飛び乗った。森へ入るとまたたく間に闇に包まれた。猫が行ったとおり出口が見えないほど深く農道はその真中を貫いていた。アブラゼミの合唱がうわんうわんうわんと頭に響く。一体この森だけでどのくらいのアブラゼミがいるのだろう。もしかしたら何百では足りないかもしれない。或いは何千か。何万か。さっきまでの林は鳴き声を我慢している間に通り抜けてしまっていた。でも今度の森はずっと長い。わたしは自転車のライトだけを頼りに必死に漕いだ。うわんうわんうわん。重層的に響き合うアブラゼミの声は耳ではなく直接頭の中に届いてくるようだ。声だけ聞いていると頭がおかしくなりそうだったのでわたしは必死で他のことを考えようとした。なぜこんなことになったのだろう。わたしは一体どこへいくのだろう。キクさんのいるところへ帰れるのだろうか。しかし、本当に本当にこんなことってあるの?でもセミの声は夢だったら目が覚めてしまうくらいうるさいし、肌に感じる風や自転車の感覚も間違えようがない。それに猫も。わたしはふと視線をかごに落とした。暗闇にも自転車のライトによって猫の輪郭がはっきりとみえるはずだった。わたしは慌ててブレーキをきつく握った。片足を地面につく。ライトが消える。わたしはかごの中に手を入れてすばやく手を動かした。かごに手が当たる。しかし猫はいない。猫がいない。
「猫さん!?」
わたしの叫ぶ声が自分自身の耳にも届かないほどにアブラゼミの大合唱がうわんうわんうわんと響いている。
「猫さん!」
それでもわたしは叫んだ。セミの唸るような音がわたしの声をでたすきからかき消していく。まるで無声映画のようにわたしはただ口をぱくぱくと動かしているだけだ。猫はどこへ?走っている最中に飛び降りた?ううん、ちがう。そうしたらバランスが変わって気がつくはずだ。いつの間にか消えてしまった。猫がいない!不安の波が一気に押し寄せてくる。どうしようどうしようどうしよう。うわんうわんうわん。うわんうわんうわん。けたたましい音だけが鳴り響く。猫は見つからない。みつけようがない。胸を締め付けるような不安は過ぎ去って、わたしは呆然とする。すべての音をかき消すセミの声がわたしから思考することを奪っていくようだ。考えるのが億劫になる。もうどうでもいいやという気分に包まれる。そしたら急に眠くなった。このまま眠ってしまおうかしら。そうしたらキクさんのもとへ戻れるかしら。そうよやっぱりこれは夢だったんだわ。ぜんぶ夢だったのよ。うわんうわんうわん。もしかすると、この村へ来たことも夢だったかもしれない。そんな不思議なこと起こりっこないもの。ずいぶん長い夢を見ていたんだわ。でもそれもこれで終わる。ようやく目覚めるのよ。うわんうわんうわん。うわんうわんうわん。うわんうわんうわん。……。
わたしは目をつぶっていたつもりでいたけれど、どうやら目は開いていたようだ。というのも、闇が深すぎて目を開けても閉じても違いがないから瞬きしているうちにわからなくなってしまったからだ。それなのになぜ目を開けているとわかったか。まず、突然セミの声が止んだ。それも一斉に。何千、何万というアブラゼミの合唱が一瞬で消えたのだ。わたしの頭はそれをすぐに理解することができなくてしばらく頭のなかでわんわん鳴っているような気さえしたが、静寂が体のうちに染み込むと頭の中の音も消えていった。そして次に、わたしの横を後ろから巨大なものがゆっくりと横切っていった。それは青白く仄かに光っている。大きさに圧倒されてわたしは左に自転車を寄せた。その巨大ななにかはわたしの横をしずかに通り過ぎていく。途中目があったような気がした。わずかに上下に揺れながら音を立てずにまるで滑るように空気の中を飛んでいる。そして思わず強烈な風を受けて自転車が倒れそうになって、わたしは力をいれて目を閉じた。再び目を開けたとき、それはわたしの前を進んでいた。あまりに巨大だったし、それにまるきりわたしの想像の範囲を超えていたから、それが行き過ぎて行ってしまうまでなにかわからなかった。しかしその巨大な物体が農道の真ん中をゆらゆらと漂いながら泳いでいく姿を見てわたしは息を飲んだ。それは、クジラだった。わたしは衝動的にペダルを踏んだ。車輪が回る。ライトがぱっと点灯する。ライトは農道やそれを取り囲む木々とともに正面のクジラを映し出す。クジラはゆっくりとひれを動かしながら悠々と空気のなかを泳いでいく。わたしは必死にペダルを踏んで追いかける。クジラの動作はとてもゆったりとしていたが、その体の大きさゆえにひれの一打ちであっという間に先へ進んでしまう。しばらく行くと左右の木々が張り出し農道が狭くなっている区間があった。大きなクジラは通り抜けようがない。そうおもって見ていると木々がさっと横に広がってクジラが通れる空間を作った。クヌギやコナラの太い幹がまるで風にそよぐ草のように次々と体をくねらせて道を広げていく。そしてクジラが通り抜けたそばからもとどおりになる。わたしは走りながら片手を伸ばして張り出している木にふれる。パシッとクヌギのゴツゴツした皮が手のひらに感じた。硬い。当たり前だ。当たり前でないことが目の前で起こっている。因果律なんて関係ないのよ!わたしは猫に言われたことを思い出して声にだして言った。言葉は息があがったわたしの口から切れ切れになって出ていった。クジラのゆったりとした動作とはうらはらにわたしとの距離は少しずつ離れていった。見失いたくない。見失ってはいけない。どうしてかわからないがとにかくそう思った。だからわたしはペダルを全身で回した。そのときふいに森を抜けた。
クジラは空高く泳ぎ始める。わたしが見上げた先に満天の星空が広がっていた。するとクジラの体から青白い光がはがれていく。ぱらぱらさらさらとそれは光る粉となってクジラのあとにたなびき、流星のしっぽのように光の尾をひいた。光る粉はわたしの上にも落ちてきた。手で受け止めるとそれはぱちぱちと弾けながら消えていく。ああこれは星屑だ、とすぐにわかった。星降る夜と同じ光り方だったからだ。クジラの体を包んでいたのは流れ星だったのだ。クジラは光をすっかり振り払ってしまうと広い空にその巨体を踊らせて何度も宙返りをする。クジラの体は濃紺だった。どこまでも深い碧。昼間見た空の、一番濃い碧。昼間の空の色をしたクジラが、夜の空を舞う。そこはきらめく星々が天蓋を満たす特別なステージ。クジラはそのつややかな肌に星の光を写しながら体をひねり尾びれで風を弾ませる。わたしはいつの間にか自転車をとめて見上げていた。クジラは空高く登ったと思うと今度は地表すれすれまで降りてきてわたしを驚かせ、また空に上がっていった。クジラはそうした泳ぎをまるで心から踊りを楽しんでいるように何度も繰り返す。もう一度地面に近づいた時、クジラはわたしと視線があった気がした。そしてそのときすこしだけ微笑んだのではないか。わたしがはっと息を呑んだ瞬間クジラは急上昇してそのまま空高く高く登っていってしまった。やがてクジラの姿が点になり視界から消えるまでわたしは目を離せなかった。見えなくなってなお空を見上げ続けた。しかしクジラは行ってしまった。夜空は天の川が横たわり、宇宙を賑わしている。騒がしい大通り、多くの人が行き交う商店街。星空をみているうちにふと安心感を覚えていることに気がついた。ああそうか、わたしはほっとしているんだ。ほっとしている。こんなことってあるだろうか。何日も前じゃない。ほんの一日二日のことなのに。月の孤独さこそが友人だとおもっていたのに。今では月の張り詰めた空気から逃げ出せたことに胸をなでおろしている。因果律なんかじゃないわ。わたしは声にだしてそう言った。そしてこれが自分に起きた一番不思議なことかもしれないと思った。
「やっと行ったか」
足元で声がした。声のほうへ見やると猫が座っていた。まるで最初からそこにいたみたいにいる。
「猫さん。どこへ行っていたの、心配したのよ」
「でっかい魚が来たんでさ、ちょっと隠れてたんだ」
猫は悪びれるでもなく言った。
「でもひとことぐらい言ってくれたっていいじゃない。とても不安だったんだから」
猫はちらりとわたしを見た。
「あんな騒がしくっちゃどうせ聞こえっこなかったろう?」
「そしたら振り向いて合図するとか…」
「あの暗闇でかい?」
わたしは肩をすくめた。
「まあいいわ。また一緒になれて嬉しいもの。それにあれは魚じゃなくてクジラよ」
「どっちだっておんなじだい。あのバカでかい口でなんでも食っちまうんだから」
「あら、そんなふうには見えなかったわ。とても優しそうな目をしてたわよ」
「目で食うわけじゃないからな。あんたが飲まれなかったところを見ると腹いっぱいだったんだろう」
わたしはそれを聞いて、空飛飛ぶクジラに飲まれたらどんなきもちだったろうと考えた。クジラの中は歩けるくらい広いのだろうか。また別の世界につながっていたりするのだろうか。
「あんたはついてるよ。もしあいつが腹を空かせてきてたらあんたは今頃あいつの腹ん中さ。もっともそうしたら今ここが物語の中か現実世界かなんて考える必要がなくなったんだけどな」
「もしわたしが物語の中で死んだら、わたしはどうなるの?」
「そしたらそれでおしまいさ。そのおかげでもとの世界に帰れるなんて思うのはやめたほうがいいと思うな」
「どうして?」
「死は結局のところ死でしかないからさ。死は無さ。死は決してどこかへ通じる門なんかじゃないんだよ。だからそれが物語の中だろうが外だろうが死んでしまったらそこでおしまい。死に続きはないんだよ」
「じゃあわたしはクジラに飲まれなくてよかったんだ」
「その通り。だからついてるって言ったのさ」
猫は音もなくひらりと自転車のかごに飛び乗った。
「さあ進もう!月は消えた。森も抜けた。あとは村に行ってこの目で確かめるのみ!」
農道はそのまま村の大通りにつながっていた。プラタナスが立ち並ぶその風景は村にきたときそのままのように感じた。しかし―、この村へきたのはほんの数日前であるはずなのに、すでに何日も何週間も経っているような気さえする。数日前とはなんだ。具体的に何日前に来たのか。そのことを正確に思い出そうとすることさえ今のわたしにはなぜか困難だった。わたしは出来事を数えながら日にちを遡ろうとしたが、猫がはなしかけてきたので断念した。
「見たところ、現在にもみえるし過去にも見える」
猫は背筋をぴんとのばして座り並木を見上げていた。
「そうね、わたしにもわからないわ」
「やはり旅館のあるところまで行ってみなければならんね」
わたしはええと言ったものの、風景の既視感に戸惑っていた。何十年も前から変わらない景色などありうるのだろうか。村が西洋風のつくりになったのはいったいいつのことかしら。わたしは疑問に思ったことをそのまま猫に聞いた。
「何年前かって?さあ、ずいぶん昔からじゃないかな。残念ながら猫は人間と時間感覚を同じにしないんでね。それに人間のすることに特別興味をもってみていたわけじゃないんだ。まあいいさ。旅館があれば今だし、なければ過去ってことだ」
猫はそういって再び前を向いた。
「ねえ、未来ってことはないの?」
わたしはなにげなく言った。猫はしばらく背を向けていたがやがてゆっくりと首をひねった。
「まあ今はこれ以上話をややこしくするのはやめようや。旅館がなかったらあんたが誰かん家たたいて日にちを聞いたらいいだろう?」
「ごもっともね」
大通りをそれて小道にはいる。何度か通ったからよく覚えていた。そう考えるとますます現代にしか見えなくなる。この道の先に旅館があるはずだ。森のなかに突然あらわれる。背の高い木々がじゃまして手前からみえることはない。あともう少し。そうしたら旅館だ。そうあの木、あの枝の張り出し。もう少し。そしてわたしは急にペダルを踏むのをやめた。後輪からチッチッチッチッという音が響く。ブレーキ。猫は背中をまるめて座り込んだ。本当のところ、過去と現在、どっちだったらわたしは嬉しいのだろう。もしここが過去なら、旅館はない。そしたらわたしはどうやってもとの場所へもどればいいのか。すべてがまた振り出しに戻る。もし旅館があればわたしは扉をあけて中へ入る。キクさんはキッチンにいるのだろうか。いなかったら自分の布団にもぐりこんで寝るだけだ。明日朝になればキクさんにも会えてすべてがわかるだろう。とても不思議なことが起こりましたよと言ったらキクさんはまた羨ましがるだろうか。しかしそれもこれも旅館があったらのことだ。もしなかったら…。
「怖いか」
わたしははっとして顔を上げた。いつの間にか猫がわたしの方をむいている。
「だったらどうする?ここでじっとしているのか?」
わたしは首をふった。
「そうだ。手持ちの情報は限られている。あんたにできることは旅館に行くことだ。ちがうか?」
猫がじっとわたしの目をみつめる。
「べつに怖かったんじゃないわ。ただちょっと止まっただけじゃない」
「いいだろう」
「行くわよ、猫さん」
わたしは強がってみせ、猫は笑った。ペダルに力を込めて走り出す。ライトがついてから止まっている間明かりが消えていたことを思い出す。左右を木々に囲まれながらも開けた上空から夜空を埋め尽くした星々が照らし、小道は一筋の白い川のように光っていた。冷涼な風が吹き抜けて松の木をゆらし、かさかさと音をたてた。そうだあの松の木だ。張り出した枝をくぐれば旅館が見える。そして果たせるかなわたしの目の前に旅館が現れた。
6.
旅館はそこにあった。なにひとつ変わらぬ姿で。瓦屋根が星空の光をうけて白く光っていた。猫は自転車のかごを音もなく飛び降りると旅館のほうへと近づいていった。わたしは自転車を降りて壁に立てかけた。
「旅館、あったわ」
わたしはガラス戸の奥が見えないか探るようにしてみたが、玄関の明かりは消えていて真っ暗だった。
「旅館はあった。つまりあんたの話がどうあれ、俺には関係がなかったということだ。そしてあんたも無事に帰ってきた。これでいいんだろう」
最後のこれでいいんだろうは聞いているのか納得しているのかわからなかった。しかし猫はくるりとまわるといま来た道を戻っていく。
「まって、一緒に中へ入らない?」
わたしは急に寂しくなって猫に聞いた。すると猫はまるきりそっけない風でこういった。
「いや、やめとくよ。人間の建物に入る趣味はないんだ。それにここまでくればあんたひとりだって大丈夫だろう?」
わたしは頷いてから言った。
「そうね、わかったわ。今夜はほんとうにありがとう」
わたしは内心不安でいっぱいだったが、口から出た言葉は反対だった。猫の姿はまもなくわたしの視界から消えた。猫が行ってしまってからわたしは再び旅館に向き合った。まったく謎だらけだわと思った。旅館を出たつもりは毛頭ないのに村をまわって旅館に帰ってくるなんて。玄関の引き戸に鍵はかかっておらず、手をかけるとするすると開いた。靴を脱いであがると板の間のひんやりとした感触が足の裏に伝わった。靴だってちゃんと履いているなんて!いったいいつ靴をはいて外へでたというの?
廊下にでると足元を照らす照明だけがついている。なにもなければ雰囲気たっぷりのおしゃれな旅館であるが、今夜の奇妙な体験のあとではすこし不気味さがつきまとう。廊下のずっと先にキッチンがある。今日ばかりはもう少し明るいほうがいいのにと思いながら廊下を歩く。はやくキッチンにたどり着きたいと気持ちは急くが、うらはらに足取りは重い。しかし一歩一歩確実に近づいている。キッチンの明かりがこぼれている。キクさんはどうしてるかしら。わたしが突然消えて驚いているに違いないわ。いったいどう説明したらいいのかしら。なにしろわたしにだってわからないんだから。キッチンの白々しい蛍光灯の明かりが廊下を照らしている。物音はしない。キクさんもう家にかえっちゃったかしら。きっとそうよね、もう何時間も経ってしまったもの。わたしはそんなことを考えながらキッチンにたどり着いた。そして目の前の出来事にわたしの思考は完全に停止した。
キクさんはいた。そしておだやかに談笑していた。そして、そして、そこにはなんとわたしもいたのだ。わたしはコーヒーとクッキーを手にキクさんの話を聞いていた。声は聞こえない。なにも音がしない。そして二人の姿はろうそくの炎のようにときおり揺らめいたり透けて消えかかったりまた現れたりしている。わたしはそばに近づきゆっくりと腕をのばしてわたしに触れようとした。しかし指先はなんの感触もなくわたしを突き抜けて空を切った。それから何度も何度も、しだいにぐちゃぐちゃにかき回すように腕を振り回した。しかしそこにいるわたしはまるでプロジェクターで投影された映像のようにただそこに居続ける。わたしの腕だけがむなしく空回りして、それによって生じた風をわたしの頬は感じたけれどももうひとりのわたしにはなにひとつ影響を与えなかった。わたしは絶叫した。なぜだろう。わからない。でも今は腹の底から声をだしきる必要があった。そしてわたしは顔を手で覆った。
外へ飛び出した。間接照明しかない旅館の室内よりも外のほうが明るかった。夜空をぎっしりと埋め尽くした星々が地面を青白く光らせていたからだ。外へ出てからどうして出てきたのだろうと考えた。でもそんなことに答えはない。旅館にいたところでどうにかなったとも思えない。だったら外に出たほうがいい、そんな程度だ。表に出るとひんやりとした風が髪を持ち上げ、指の間を抜けた。背中に服が汗ではりついていてそれが冷たく感じた。だいぶ冷や汗をかいたのだ。冷涼な風が汗を乾かしていく。そうしてわたしの気分もいくらかましになった。星空を見上げる。数えきれない星たちがキラキラときらめいている。それは星降る夜の前、わたしが丘の麓で感動した空とまったく同じ空だ。わたしは今どうしようもなくへんてこりんな状況におかれているけど、この星空はそのままだ。まだなんとかなる。まったく根拠はないけれど、夜空を見上げているだけでそんな気持ちになれるのだから不思議だ。そして一番最初に頭に浮かんだのは猫だった。
「よじれちまった。まったくよじれちまったよ」
そんなわたしの気持ちを察するかのように背後で声がした。猫は星の明かりをさけるように松の木の根本に座っていた。
「猫さん!」
わたしは振り返って猫の姿を認めると安堵の声をもらした。猫はまんまるに開いた瞳孔をギラギラさせて言った。
「まったく。こんなことってあるかね。こんなふうによじれちまうなんて」
「よじれてしまったってどういうこと?!」
猫は鼻をふんとならした。
「あんただって見たんだろう。そうでなかったら表に飛び出してなんてこなかったろう?」
「それじゃあ、猫さんもみたの?」
「ああ見たさ。夜道を散歩している俺自身をな。こんなたまげたことないよ。やっとあんたのお守りが終わったと思ったら目の前を俺が歩いてるじゃないか。しかもそっちの俺のほうはこっちの俺のことが見えてないときた。もちろん声をかけたさ。それでも通り過ぎようとするんで俺の前に出て行く手を塞いでやったのさ。そしたら俺の体を通り抜けていきやがった。度肝を抜かれるとはまさにこのことさ」
猫はわたしと同じ体験をしたのだ。
「でもどうしてここに戻ってきてくれたの?」
わたしは聞かずにはいられなかった。
「そりゃそうさ。こうなったのもあんたのせいだ。これだけははっきりしている。こんなふうによじれちまったのはあんたが原因だ。だから戻ってきたのさ」
「どうしてわたしが原因なの?」
「さあな。理由なんてわからんよ。でもこのよじれた原因になったのはあんただ。だから元通りにするためにはあんたと行動をともにしなければいけない」
「でもどうするの?わたしどうしたらいいのかさっぱりわからないわ」
猫はわたしの目をじっと見つめてから言った。
「俺にもわからん。だれかわかるひとを探すよりほかないよ」
「そんなひといるの?」
「ひとりだけいる。しっている“かも”しれないやつが」
「それじゃあはやく行きましょう。こんなめちゃくちゃなのってないわ」
すると猫はのんびりと伸びをしてから立ち上がった。
「まあそう慌てなさんな。急いだって急がなくたっておんなじなんだ」
「どういうこと?」
「どうもな。時間が動いてないんじゃないかって気がしてるんだ」
猫が星明かりの下に出ると毛なみが銀色に波打った。猫は顔に影をつくって上目遣いでわたしを見た。
「何言ってるの?もし時間が止まっていたら…」
「あんたも俺もぴったり止まってないとおかしいってか」
猫はわたしが最後まで言い切らないうちにわたしの言おうとしたことを引き継いだ。
「なあ、あんた…」
「わかってるわ、もうおかしなことばかりだもの。そんな理屈通用しないのよね。そんなことほんとうにわかってるのよ。でも口からでる言葉はすこし勝手がちがうのよ」
「口が勝手にしゃべってるっていうのかい」
「そうよ、そういうことがあってもちっとも不思議じゃないわ」
猫は取り合わないといった顔をして首をちいさく横に振った。もちろん、わたしだって口が勝手に喋りだすとは思っていない。こんなに不思議なことが次から次へと起こり、しまいには(これが最後かどうかわからないけど)自分が二人に別れてしまったにもかかわらず、まだわたしの頭の中は「標準的」な因果律で縛られているのだ。何十年もその考え方で生きてきたのだ。数日の不思議体験くらいで変われるほどわたしは柔軟ではない。でも、一方でなにかがわたしの中で変化してきているのを実感している。なんだろう。自分でその様子を思い浮かべようとするがうまくいかない。そうした変化は微細なため他人に指摘してもらわなければなかなか的を得ることはないのかもしれない。
「自転車で行こう」
猫が壁に立てかけてある赤い自転車に向かった。わたしも猫のあとを追った。そして自転車にまたがると猫はひらりとかごに飛び乗った。
「それでどこへ行くの?」
猫は背筋を伸ばして座ると言った。
「あの丘へ行ってくれ」
あの丘と言えばわたしが猫と出会った(正確には二度目に)丘のことなのだ、きっと。わたしはほかに丘をしらないし、猫は「あの」丘と言った。だからわたしはわざわざ確認することもなく自転車を走らせた。下り基調の旅館から続く道をわたしはほとんどこぐことなく降りていった。左右の木々が途切れるところどころで光が洪水のように溢れ出しアスファルトを白く染めた。夜空を埋め尽くす星々の光はさらに勢いを増して大通りに出る頃には自転車のライトは不要になった。
「この村には街灯がないのね」
「必要がないからさ」
「ええ、今その理由がわかったわ。でも雨の夜はどうするの?」
「そんな日は表へでないのさ」
「あなたの言う通りだわ。でもこの村に雨が降るなんて想像できないわ」
「雨は降るよ。ふるときゃそりゃあたくさん降るもんさ」
「きっと雨も素敵なんでしょうね」
「素敵なものかい。雨は雨さ」
「そう言えばあなた猫だったわね」
猫は水がきらいなんだった。わたしはふとこの村にふる雨を想像してみた。木々がしっとりと濡れ、うっすらと靄のかかった大通りはさぞや幻想的にみえるだろう。見上げれば灰色の雲がどこまでも広がっている。あの濃く深い青空も今日ばかりは見えない。わたしは厚い雲の先にある空を想像した。雨粒が顔にあたり表面張力でつぷつぷつぷとのっかっていく。わたしはふと雲のさきに青空はないのだと直感した。そんなことがあるはずもないと以前のわたしなら思いつきもしなかったことだった。しかしそれはほとんど確信のようにわたしのこころを支配した。そうだ。雲の上にあの青空はない。
「なあ、空見上げてないでそろそろ行こう」
猫が振り返ってわたしを見ていた。わたしは大通りの道の真ん中で自転車をとめていた。
「時間は止まっているのよ、焦ることないわ」
猫は舌打ちして言った。
「ちぇ。だからってここでぼんやりしていることもないだろう」
わたしはふたたび自転車を走らせた。人っ子一人いない道だ。大通りの真ん中で自転車を走らせるのは気持ちがいい。風が通りにそって吹き抜けていく。ひんやりとつめたい風だ。わたしたちは大きなプラタナスをいくつも通り越していった。
「そこを右へ曲がってくれ」
猫がひげの先で路地を指した。わたしはほとんど減速しないで角をまがり、路地へと入った。路地、といっても車がらくにすれ違えるほどの道幅で両側を生け垣やブロック塀が立ち並ぶ。人家だ。そういえばこの村にきて以来、旅館以外の人家を目にするのははじめてのことだ。どの家も真っ暗で明かりのひとつもついていない。もはや今が何時かすらわからないが、どんな時間だってまるきり真っ暗ということはないだろう。やはり猫いわくすべてがよじれてしまったのだ。わたしと猫はよじれた側の世界にいて、よじれてない方の世界はもしかしたらもう昼間かもしれないのだ。そういうことを考え始めるとわけがわからなくなり頭が痛くなるのでわたしは頬にあたる風に意識した。冷涼な風を鼻から思い切り吸い込むと頭がすっきりし心臓の鼓動が感じられた。そうだわたしはなにも死んだわけではない。
やがて人家が終わり眼の前は広々とした水田になった。水がはられた水田は鏡のように夜空を反射して、満天の星空が二重になった。
「うわあ、すごいきれい」
わたしは声にだして言った。猫はああと言ったかもしれないし、なにも言わなかったかもしれない。ただ背筋をぴんと伸ばしてかごに座わり風にひげをなびかせていた。
「どっちをみたらいいか迷うくらいよ」
猫は少しだけ首をかしげたように見えた。猫なりに返事をしているつもりなのだろう。わたしはそう思うことにしてひとりで喋り続けた。
「上か下かって意味よ。水田に映る星空も本物に負けず劣らず美しいもの」
猫はなにか言いたげに振り向こうとしたがすぐにまた正面に向き直ってしまった。
「あなたが言いたいことはわかるわ。べつに偽物って意味でいったんじゃないの。鏡に映る自分の姿が偽物ではないのと同じね。でもわたしひらめいたわ。こうして遠くを見るようにすれば、上も下も両方視界に入れることができるのよ。みて。そうしたらすごい景色よ」
どこまでも続く農道の先を見据えるようにすると星空と水田の反射が同時に見渡せた。それはどちらかが本物でどちらかが映しなのかという問いかけが無意味なほど一様に広がって、まるで天の川の中を自転車で走っているような錯覚さえ起こりうる。
「ねえ、見て」
そのとき前方に人影が見てとれた。農道の先に人が立っている。それも二人いるようだ。そしてどちらもまだ子供のように見える。
「止まらないでそのまま通り過ぎるんだ」
猫が正面を向いたまま言った。
「え、どうして?」
「いいから減速するな」
近づくにつれて二人の影が次第に明らかになっていく。ふたりとも少年のようだ。兄と弟、5歳と3歳、そんなところだろう。しかしそんな年頃の子供がこんなところでなにをしているのか。親はいないのか。少年たちに近づくにつれてわたしは自転車の速度を落としていた。猫はいらただしげに振り返ってわたしを睨んだ。しかしわたしはふたりの少年の前にくるとブレーキをかけずにはいられなかった。
少年たちの前で自転車を止める。大きい方でさえまだあどけなさが残る。もっと若いのかもしれない。
「ねえ、きみたちここで何してるの?」
そういってからわたしはふたりの顔をまじまじと見てはっとした。大きい方の少年は明るい栗色の髪をして、小さい方は完全に金髪だった。そしてふたりとも宝石のような青い目をしていた。しかし目鼻立ちはまるきり日本人なのだから不思議としか形容しようがない。またふたりの服装も変わっていた。ふたりとも全身をすっぽり包み込むような白い布をまとっていて、腰のところを鮮やかなグリーンの紐で絞っている。その白い服は夜空のせいか、それともそれ自体のせいかぼんやりと青白く光っているようにも見えた。足元は茶色いシワシワの革のブーツのようなものを履いていて、棒付きのキャンディを包む紙のように足を包み込んでいた。
「二人で川に石投げしてたんだ。どっちのほうがたくさん弾ませられるか競争してたのさ」
「ぼくのほうがたくさんはずんだよ。ぽんぽんはずんだよ」
小さい方が大きい方を見ていった。
「違うよ。たくさんはずんだのはぼくのほうさ。おまえのはすぐに沈んでしまったよ」
「ちがわないよ。ぼくの五個もはずんだよ」
「そしたら数を数えてごらん」
大きい方がそういうと小さい方が数を数え始めた。
「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお、ろーく、なーな、はーち、きゅーう、じゅー」
「いくつあったかい?」
「ご。五個あった」
「ほらみろ。おまえはまだちゃんと数が数えられないんだよ」
「数えられるよ。数えられるんだってば」
小さい方は大きい方に掴みかかろうとするが大きい方はするりと逃げてしまう。ほほえましいやり取りだったが小さい方が泣きそうだったのでわたしも声をかけないわけにはいかなかった。
「ねえ、あなたたち兄弟なの?どうして夜遅くにこんなところにいるの?」
大きい方は手を伸ばして小さい方の頭を押さえつけながら言った。
「そうだよ。ぼくが兄でこっちが弟さ」
「それでお父さんとお母さんはどこにいるのかな」
わたしがそういうと二人は急におとなしくなってしまった。兄は手を離し弟は兄の胴にしがみついた。
「もしかして迷子になっちゃったの?」
わたしは自転車から降りて自転車を農道へ横たえた。猫が跳躍して地面に音もなく飛び降りる。わたしは二人のそばによると膝を地面についた。うっすらと浮かべた涙が瞳の青さを際立たせていた。なんて美しい目だろう。
「にいちゃん、ぼくたちもう帰れないの?」
弟がさっそく浮かべた涙をぽろりぽろりと落とし始めた。涙のつぶはきらきらと輝きながら頬を伝って地面へと落ちていく。
「大丈夫よ、ちゃんと帰れるわ。どうしてここにきたか、きちんと聞かせてちょうだい。そしたらわたしたち力になれるわ」
猫はわたし「たち」というところでちらりとわたしを睨んだ。あれから猫は口を聞かない。なぜ子供たちと関わってはいけないのだろう。
「川で石投げをしてたと言ったわね、それどこの川かしら」
兄はちょっと困ったような顔をしてから空を見上げた。思い出せないのか。しかし水田があり、そこに水を引き込むための用水路があるのだから川もきっとそう遠くない場所にありそうだ。
「それじゃあ、お父さんかお母さんは一緒だったの?」
わたしがそうきくと兄のほうは笑顔になった。
「みんな一緒だったよ。お父さんもお母さんもみーんな」
「そう。それじゃあ、みんなきみたちを探してるわね」
すると兄は怒ったような顔になり、弟はさらに不安げな表情をした。
「探してなんかいやしないさ。ぼくたち捨てられちゃったんだから」
「捨てられた? 捨てられちゃったの?」
「ねえ、やっぱりぼく捨てられちゃったの?」
弟が兄にすがっていった。
「そうだよ。おまえはぽいされちゃったんだよ」
兄が冷たく言った。わたしはちらりと猫を見ると猫は目をそらして知らん顔だ。
「ぽいされた」といって弟ははげしく泣き出した。目から金や銀のたまがころころ転がり出て服の上でぽんぽんとはずんで地面に落ちていった。たまは地面におちるとすっと溶け込むようにして消えていった。そのときその周辺の地面がぼうと光るのが見えた。どこかでみた光景だった。そしてわたしははっとした。あまりにも奇妙だが、それしかないという確信めいたものを感じた。
「この子たち、星の子なのね」
猫はあくびをひとつしてようやく口を開いた。
「そうさ。流れ星さ」
「川というのは天の川のことなのね」
わたしはそういって夜空を見上げた。天の川が宇宙を縦断している。密集しているところは星々を区別するのが難しいほどに光がより集まり、周辺にいくに従って星と星の間に濃紺の宇宙が顔を見せるようになるが、濃紺のずっと先にも輝く星があって宇宙を闇にせしまいとうっすら光を届けていた。
「あそこに帰りたいというのね」
わたしは天上を指さして言った。
「帰れっこないさ、こいつらは流れ星なんだから」
猫が口をはさむ。さっきまで黙っていたくせにとわたしが無言で睨むと猫はどこ吹く風といった顔をしている。
「猫にいわれたかないや」
兄さんの星が言う。
「にいさん、どうしたら帰れるの?」
弟星が聞く。「ぼくまた石投げしたいよ。こんどはにいさんよりたくさんはずむよ」
「そうかい?でももう石投げはできないんだ」
「どうして?こんどはもっとうまくはずませられるよ」
「どうしてもさ。だってぼくらは川よかずっと下に落ちてしまったんだからね」
「川よか下ってどこ?ここは川の底なの?」
「川の底よかずっと下さ」
「わからないや」
「わからないかい」
それから弟星はしゃがみこんで地面をいじりはじめてしまった。
「あなたはわかってるのね」
わたしは兄星に言った。兄星はさみしげに笑みを浮かべ返事のかわりにした。
「俺は知ってるよ」
気がつくと猫はすぐ足元にまで来ていた。
「たかが猫だけどね、お前たちが天の川に帰る方法を知ってるんだ」
すると兄星の目が輝いた。弟星もそれをきいて飛び上がるようにして立ち上がる。
「猫、さっきはごめんよ。ぼくすっかりがっかりしていたからさ。気に触ったのなら謝るよ」
兄星は猫のまえに進み出て言った。猫はわざとらしくそっぽを向いていたがまんざらでもない様子だ。
「猫さん、わたしもお願いするわ。どうしたらこの子たちが天の川へ帰れるのかしら?」
猫は大仰に振り返って言った。
「さて、できるかな」
それを聞いて兄星は身を乗り出した。
「できるよ。またみんなのもとへ帰れたらどんなにうれしいだろう、なあ」
兄星は弟星のあたまをやさしくなでた。弟星は兄星の胴に両腕をまわしてしがみつく。
「いや、やめておこう。つらいんだから」
猫が首をふる。
「そんなあ。ぼくたちつらいのなんて平気さ。だってあそこへ帰れるんだろう?だったらどんなにつらいことだってへっちゃらだよ」
兄星は後ろでに天の川を指さして叫んだ。猫は相手の心中を推し量るように見据えてうなずいた。
「そしたら、どうして帰れないのかわかるかい?」
猫がそういうと兄星は押し黙った。弟星は兄星の顔を見つめる。わたしは息が詰まりそうになりながらも見守るしかない。
「重すぎるんだよ」
猫が口を開いた。
「あんただってわかっていただろう。落ちてくるほどに重いのさ。もときたとこへ帰るにはもっとずっと軽くなくっちゃいけない。そして……」
猫が続けようとすると兄星が口をはさんだ。
「軽くなるにはなにもかも手放さないといけない」
「なんだ、しってるじゃないか」
「むかし学校で習ったもの」
「そしたらなんでそうしないんだ?」
「だって、ぼくこいつが好きなんだもの」
兄星はそういって弟星を抱き寄せた。弟星はうれしそうに兄星の胸に顔をすりつける。
「それ以外の方法を知ってるのかと思ったよ」
「それ以外はないね」
猫はだまった。兄星もだまった。今度はわたしが口をひらく番だった。
「なにもかも捨てるってどういうこと?」
兄星は黙っている。そして猫が口を開いた。
「言葉どおりなにもかもさ。着ている服も靴も、兄にとっては弟も、弟にとっては兄も。そしてすっかり身軽になったら最後は形を捨てるんだ」
「形を捨てる?」
「ものとしての形さ。その形を捨ててはじめて空に帰れるのさ」
わたしは猫の顔をまじまじと見つめていた。
「あなた、どうしてそんなことまで知っているの?」
「おっと、疑ってるのかい?」
「違うわ。感心してるのよ。あなたのような物知り、今まであったことがないわ」
「猫ならみんな知ってるさ」
猫は涼しい顔して言った。きっと本当なのだろう。知らないのはいつも人間ばかりなのだ。
「お空に帰ったらまた石投げできるかなあ」
弟星が兄星を見上げて言った。
「そりゃあもちろん、いくらだってできるさ」
兄星はやさしい顔つきになって言った。でもそれはたぶん本当じゃないのだろう。空に帰ったら離れ離れなのだ。そして再び一緒になれるなんてこのひろい宇宙では不可能なのだ。
「ねえそしたらお空に帰ろうよ」
兄星はやさしい眼差しをたたえたまま弟星を見つめている。わたしは夜空を見上げた。お椀型の空を埋め尽くす無数の星。特別に明るい星、うっすら暗い星、赤い星、緑の星、青い星、白い星。星たちはみんな生きていて、そのうちの二つが今わたしの目の前にある不思議。視線を落とすと目の前にいた二人の兄弟はいなくなっていた。あるのは道端の石でできた道祖神だけだった。
「あのふたりは?」
わたしは心臓がどくんというのを感じて猫に振り返った。
「行ってしまったよ」
猫は地面に座り込んでやはり物憂げに道祖神を見つめていた。わたしはこころの中がすっと寒くなるのを感じた。ふたりが離れ離れになってしまうのが淋しかった。
「淋しいもんだな」
猫が言った。
「あらあなたも?最初は通り抜けろなんて言ってたくせに」
「だからだよ。こういう思いをしたくなかったんだ」
「でもあのふたりはわたしたちを待っていたみたいだったわ」
猫はそれには答えずに言った。
「でも当の本人たちはなんにも感じちゃいないんだから」
わたしが猫の瞳を覗き込む。
「なにもかも捨てていったんだ。記憶だってそうさ」
わたしは頷いてまた空を見上げた。この輝きのどれかふたつがあの兄弟なのかと思った。また一緒になれただろうか。その時となりあった二つの星が同時に光った。
「ねえ、あの星じゃない?いま一緒に笑ったように見えたもの」
猫は空を見つめていたがなにも言わずに立ち上がった。そして道祖神のそばまでくると前足で探るように土をかいた。わたしもそばにより目をこらしてみるとそれは地面に半分埋まるようにしてあわく光っていた。指先でやさしく取り出して手のひらにのせてみる。真珠くらいの大きさで金と銀が絡まるように合わさった玉だった。
「あの子の涙じゃない」
猫は手の中を覗き込んで言った。
「星の涙なんて珍しい。普通はみんな地面に溶けてしまうんだから」
わたしは涙の玉をそっとポケットにしまった。
わたしたちは再び自転車を走らせていた。両側に水田が広がる一本道をひたすら漕いでいた。冷涼な風が体にあたり、ひんやりとした空気が鼻腔を抜けていった。前方にあった黒い影の山が近づいてきた。夜空や水田の明るさに対してその山は完全な闇だった。光り輝く空間の中にまるでブラックホールのように闇がぽっかりと口を開けていた。
「ねえ、目指しているのはあの丘ね」
わたしは前カゴに座る猫に声をかけた。猫はにゃあと一声あげた。
「あなたと最初におしゃべりした丘よね」
「そうだよ」
こんどは人間の言葉で猫は返事をした。
「なんだかとっても昔のことみたい」
こんどは猫は返事をしなかった。わたしは再び視線を空に戻した。空は雲ひとつない晴天で星たちのきらめきはいっそう力を増したようでもあった。そのとき農道を横切るように水田から風が吹き抜けた。自転車が煽られてわたしはハンドルをきつく握った。一陣の風は水田の稲をなびかせながら遠くへと去っていった。わたしは態勢を立て直してペダルを回した。
「今の風、潮の香りがしたわね。ここって海近かったかしら?」
猫は乱れた髪を整えるかのようにしっぽで頭をひとなですると言った。
「いいや。しかし潮風だな、あれは」
「眼の前に海が現れたってもう驚かないわ」
わたしがそういうと猫は鼻でふんと笑った。空は相変わらず満天の星をたたえていた。その明るさは増々強くなり、そしてその光のもとをたどるとそれは足元からきていた。
7.
わたしは自転車を止めた。農道は消えていた。水田も消えていた。ペダルから地面に足をつくとざくっと音がして砂の中に足が半分沈み込んだ。あたり一面まるで砂浜のように乳白色に光る小さな石の浜が広がっていた。わたしは自転車を横たえた。猫はすでに地面に降りていた。わたしはしゃがみこみ、手で石をすくった。石は透明だったり半透明だったりする水晶の粒のようだ。しかし不思議なことに手ですくった石はもはや光を発していなかった。
「ねえ」とわたしは猫に声をかけた。
「石が光っているんじゃなくて、地面の光を石が透かしているのね。これって水晶かしら?」
「そういうふうに見えるね」
「あら、そんな言い方めずらしいじゃない」
「いいから向こうをご覧よ」
猫はそういって視線を遠くに向けた。わたしは猫の顔の先を追うようにして目を向けて、息を呑んだ。乳白色の砂浜の先に砂浜とは違うなにかが広がっていた。わたしはそれが湖だと認識できるまで時間が必要だった。なにしろ湖面に広がるのは水ではなかったのだ。液体ですらない。しかしそれは波打っている。液体のような滑らかさはなく、カクカクギザギザと揺れていた。水面を無数の氷が覆っていたらこんな動きになるのだろうか。いや氷だってもう少し滑らかに動くだろう。そこに見えるのはまるでコマ落ちした映画のようだった。
「湖、よね?」
わたしは湖面から目を話せずに言った。
「水晶の湖さ。話には聞いていたが本当に拝める日が来るとは思わなかった」
「あなた本当になんでも知っているのね」
「中には本当かどうか怪しい話もたくさんある。この水晶の湖だって眉唾ものだった。しかしこうして目の前に広がっているのを見たとなっては信じないわけにはいかないさ。よじれていいこともあるもんだ」
わたしは一体どんな話しの中に水晶の湖がでてくるのか気になった。しかし湖を眺めているうちにそれよりももっと気になるものを発見した。人だ。湖畔に人が立っている。
湖のほとりに降りていくとその人が突き出た岩に片足を乗せ、なにか物思いに耽っているように見えた。男性の服装は星の子たちに比べたらずっと人間的だった。丈の長い紺色のコートは膝下まであって、その下から覗くクリーム色のパンツの裾をブーツにたくしこんでいる。コートのボタンは留めておらず、シャツの上にチョッキを着込んでいるのが見えた。男はたいへん痩せていて、なによりも背がとても高かった。もしかしたらゆうに二メートルはあるかもしれないなとわたしは思った。近くにくると男は物思いに耽っているのではなくて釣りをしていたことがわかった。背が高すぎて釣り竿が体で隠れていたのだ。
「なにか釣れますか?」
わたしがそう声をかけると男が顔をこちらに向けた。乱暴に伸びた頬髭が痩せた顔を縁取っている。なによりも印象的なのは男の瞳が銀色だったことだ。
「いやあまったく。しかしあともう少しという手応えは感じているんだ」
男は竿を振り上げて再び湖へと投じた。それからコートのポケットを探ったあとこういった。
「ところであんた、タバコもってないか」
わたしはかぶりをふった。すると男はたいへんがっかりした顔をして肩を落とした。白髪のまじった眉が伸びていて目にかかりそうだった。
「こういうときの気分転換はタバコが最高なんだがなあ」
わたしはこんなに空気がきれいなところでタバコを吸うなんて想像もつかなかった。男はコートの内ポケットやらズボンのポケットやら一通り手を突っ込んでから手のひらを見せて肩をすくめた。
「みんな吸ってしまったんですね」
わたしがそういうと男は釣り竿を握り直して言った。
「いやあそうじゃないさ。最初から持ってなかったんだ」
わたしは一瞬の間をおいてから質問しないわけにはいかなかった。
「じゃあなんでポケットを探したんです?」
「もしかしたら出てくるかなと思ってさ」
男は真顔で言っている。
「そしたら魔法のポケットですね」
「魔法なんかあるわけないさ。でも偶然出てくることがないわけじゃないだろう?」
ああこのひとも村のひとなんかじゃないんだなとわたしは思った。人間ですらないのかもしれない、またしても。わたしは猫をちらりと見たが猫はただ足元に座ってぎしぎしがくがく揺れる波間を眺めていた。猫はだまっているとどこにでもいる猫にしか見えなかった。あのしゃべっているときの聡明さはすっかり影を潜めていた。
「ここでどのくらい釣りをしているんですか?」
「ああ、せいぜいふた回りか三回りといったところさ」
わたしはああといって返事をした。おそらくとても長い時間なんだろうと想像した。
「それで一匹も?」
「一匹もさ。しかし」と男は言葉に力を込めて言った。
「今夜は釣れる予感がするんだ。今夜はどうも違うよ」
「それはよじれたからでしょうか?」
「よじれた?」男は尋ねた。
「なにがだい?」
「なにかがよじれてしまったのです。空間とか時間とかわたしにもわかりませんが、わたしが二人になってしまって、世界も二つになってしまったのです。わたしだけではありません。この猫だって二人になってしまったのです」
わたしが思い切ってそういうと男は声をだして笑った。それから奥歯でこみ上げてくる笑いを噛み潰しながらときおり喉を震わせて笑っていたが釣り竿を掴むと糸を引き上げた。糸はひらひらと宙を舞い、男はなんどか空振りしながらもようやく糸を掴んで引き寄せた。みると糸の先に針がない。
「ああ残念、もってかれちゃったんですね」
わたしがそういうと男は怪訝な顔をした。
「なにがだい?」
「だって針がとれちゃったじゃないですか」
それで男は合点がいったという顔をした。
「とれちゃったのじゃないのさ。最初からついてないのさ」
わたしはそれを聞いてあっけにとられた。釣り針がなくて魚が釣れようか。
「今まで針をつけないで釣りをしていたんですか?」
わたしがそう聞くと男はこともなげに「そうだよ」と言った。
「針がなかったら釣れないと思いますが」
わたしは当たり前すぎてどういったらいいか迷ったあげくいつもと違う口調になってしまった。すると男は口元に笑みをつくって首を振った。
「わたしの師匠なんてね、釣りに行くのに釣り竿すらもっていかなかったよ」
「それは釣りなんですか?」
「もちろんさ。師匠はいつも大物を釣ってきた。一度わたしもついていってみたことがあるがね、それはそれは見事なものさ」
釣り竿を持たずに釣りをする。わたしはその様子を想像してみた。釣り竿を持つ構えをして、竿があるつもりで湖に投げ入れる。糸はしゅるしゅると飛んでいき、餌のついた針がぽちゃんと湖面を揺さぶる。針が沈んでいく。やがてその餌に魚が食いつく。竿がぐぐぐっと引き込まれる。手に力を込めて竿を引き上げる。暴れる魚。左右に振られる竿。数分の格闘の末、魚を岸に引き上げることに成功した。なるほどこうして想像してみれば魚が釣れそうな気さえしてくる。しかし実際には針がないだけの装備ですら釣れていないのだ。なにも持たない状態で魚が飛び込んできたらはたしてそれは釣ったと言えるのか。わたしがだまってしまっているのをみて男が言った。
「ははーん、あんた疑っているんだね。しかしさきほどあんたが言ったよじれた話と一体どっちがほんとうかね。そして言っておくがわたしはこの目でみたんだからわたしの話は本当だよ。そしてそれでもってあんたも自分の目でみたから本当だというつもりだろう。つまりそういうことさ。それから言っておくとわたしはあんたの話を本当だと思ってないなんて言ってない。たしかに笑ったがそれは信じられないから笑ったのではなくて、どうりで合点がいったから笑ったのさ」
「よじれたことにですか?」
「よじれたという言い方が適切かどうかしらないよ。でもいい言い方だ。気に入った。わたしもそう呼ばせてもらおう」
男はそういってポケットに手をのばすとタバコを取り出した。そしてほらねという目をわたしにむけてタバコに火をつけて一服吸った。タバコの先から緑色の煙が立ち上り、湖からの風がまっすぐな煙を四方に薄めた。それはいつか写真でみたオーロラのような煙だった。
「さっきからなにも言わないのは口がきけないからかい?」
男は猫にむかって言った。猫はふんと鼻をならしてそっぽを向いた。
「猫ってやつは」そういって笑った。その笑ったのが猫は気に入らなかったのか男をじろりと睨んでからわたしに言った。
「こんなとこにいたって時間の無駄。さあ先へ進もう」
「あら時間なんて関係ないって言わなかったかしら」
わたしは男の話しの続きが聞きたくてしかたがなかった。
「時間の経過をここで議論するのは意味がないって言ったんだ。この男の話を聞くのが無駄だって言っているんだよ。だいたいさっきからちっとも核心にせまらないじゃないか」
猫はわたしが言い出せなかったことをすらすらと言ってのけた。そう、わたしはよじれたことの話の続きが聞きたいのだ。なのにこの男は偶然入っていたタバコを吸ったり猫に話しかけたりしている。
「そう、わたしもよじれた話を聞きたいわ」
「そうかい。それじゃあ」
と男はいってタバコを口にくわえると釣り竿をえいやと湖に向かって投げ入れた。針も餌も重りもついていない糸はひらひらと宙を飛んで湖面に落ちた。水晶の波はギシギシと音をたてて糸を飲み込んでいく。男は釣り竿を岩に立てかけて手を離した瞬間に竿がしなった。あっと三人が声をあげたのは同時だった。わたしは自分の竿でもないのに前のめりになったし、猫は思わずぴょんと飛び上がって毛を逆立てた。男はというとタバコを口からぽろりと落とし、落としたことにも気が付かずに竿を手に取るとぐいっと手前に引っ張った。竿がしなり、竿の先端がぐぐぐぐぐっと湖にむかって引き込まれていく。男は竿を右へ左へとあやつり糸をすこしずつ岸へとたぐりよせていく。ピンと張られた糸は都度湖との綱引きを繰り返しながらも確実に短くなっていた。そしてついに湖面が盛り上がり、ぱりぱりんと薄氷が弾けるような音を立てて魚が宙を飛び跳ねた。みたこともない魚だった。魚の鱗はガラスのように透きとおり、ダイヤモンドのようにキラキラと光を反射した。真っ赤な目はルビーのそれだった。男はその瞬間を逃さなかった。竿を一気に引き切ると魚は湖面を滑って岸へと揚げられた。体長はかるく一メートルをこす大魚だった。大きな口には尖った歯が立ち並びそのどれもがサファイヤのごとく青く輝いていた。男が魚の頭に手をあてて糸を引き抜いた。糸はどこにもかかっておらず、すっと魚の口から抜けた。男は満足げに手をあてて魚の大きさを測っていた。魚は尾をばたつかせ、そのたびに七色の光を振りまいた。男は魚の胴体に手をあてると鱗を一枚引き抜いた。それから思うところがある顔をしてもう一枚鱗をとった。そして魚を押して湖へと返した。大魚は波の割れ目を見つけると自ら体を潜り込ませてそして見えなくなった。わたしは魚がいなくなった湖面から目を離せなかった。湖はただギシギシと音をたてて揺らめいていた。
「ほら」と男は言って鱗を一枚わたしに差し出した。わたしはそれを受け取って夜空に透かしてみた。正面からみれば完全に透明で星空がそのまま見える。しかし角度をつけるとそれは七色に変化した。
男は釣り竿を何本かに分割して細長い袋におさめていた。帰り支度をすませてからポケットに手を突っ込むと今度は悲しそうに首を振って、それからゆっくりと岩に腰掛けた。
「さあてね」
男は顎のひげに手をやってよじるようにいじりながらわたしと湖をかわるがわる見た。
「わたしがなにか知ってるなんて思わないでもらいたいね。なにしろ知らないことにかけてはあんたと特に違わないんだから」
「あなたは何を見たのですか?」
「あんたさ」
「わたし?」
わたしは少し面食らった。
「そうあんた、それと猫だ」
「よくわからないわ」
「あんたがここにくるまで、この畔に訪ねてくるものなんてただの一度もなかったんだ。もっとも一度だけあの岸のはずれに」と男はいって指をさした。
「汽車がやってきたことがあったな。でもそれもしばらく停車したと思ったらまたどこかへ走り去ってしまった。今でも時折あの汽車の煙の香りをかぐことがあるがね」
そこで男は思い出したようにポケットをさぐると今度はタバコを一本取り出して微笑んだ。それから反対のポケットに手を突っ込むとマッチの箱を取り出した。男はそれを耳元で振ってからからなるのを確かめた。しかしすぐには火をつけず、手のひらでタバコを転がしていたがやがてわたしにタバコを差し出した。わたしが首を横にふると男は頷いてマッチを摺った。緑の煙がオーロラを作った。
「つまり、ここへひとが尋ねてくることが尋常じゃないんだ。だもんで、わたしも少しばかり饒舌になっとるわけだ。そこでわたしはどうやらなにかいつもと違っているなと推測しているのだ。ははーんこいつはなにか起こるべくないことが起こったに違いないぞ、とな。その時わたしは思ったよ。今日は釣れるってな。そして実際に本当に釣れた。たぶんこれはあんたが来てくれたせいだ。あるいはよじれたせいと言ってもいいだろう。だからお礼に鱗をプレゼントしたのさ」
「でもわたしはよじれてとても困っているんです。一刻も早くよじれた世界を抜けてもとの世界へ帰りたいのです」
男はタバコを深く吸い込むと細長く吐き出した。
「それで、その見込みはあるのかい?」
「この猫が知っていると言って、そこへ向かっているところです」
「それはどこだい?」
わたしはため息をついた。
「わたしたち、丘を目指して走っていたんです。そしたらいつの間にか湖の畔に来ていました」
「それでその丘になにがあるんだい?」
わたしはかぶりをふって、猫を見た。
「二頭のライオンさ」
猫は大きなあくびをひとつして言った。
「ライオン?」
わたしは驚いて聞き返した。
「そう、二頭のライオンだ」
「ほほう、こいつは驚いた。二頭のライオンをお探しとはな」
「あなた知ってるの?」
「ああ知っているとも。ついでに知っているのはあのライオンはもう丘なんかにいないってことだ」
それには猫も驚いたようだった。
「いない?」
「かの聡明な猫さんもよじれた世界に惑わされたか。今しし座はどこにある?」
男はそういって夜空を見上げた。天空いっぱいに広がる星々の中で星座を見つけるのは容易なことではない。そしてそれは猫も同様だった。
「西の果をみてごらん」
男は左腕をひろげて水晶の湖のかなたを指した。そして猫が唸った。しし座がどんな形をしているのかすら知らないわたしはふたりを交互に見つめるよりほかなかった。
「これもよじれたせいかもしれん。なにしろ星座がまったくでたらめだ。しかしひとつ確かなことは、二頭のライオンはこの湖の対岸にいる」
「この湖どのくらい広いのかしら。つまり対岸に周るのにどのくらいかかるのかしらってことだけど…」
「対岸に周る!」
男はたひーっとひきつった呼吸音をたててから素っ頓狂な声をあげた。
「あんたこの水晶の湖がどのくらい広いかしっているのかね。いや、もっとも知らないからそんなことが平気で言えるんだ。岸を走って対岸に周るなんてわたしなら考えないね」
男が驚くくらいだからこの湖は相当に広いのだろう。たしかに湖の彼方を見やれば水平線が見えていてドーム型の夜空の星たちと落ち合っている。取り囲む岸はといえば岩や木々によって視界が遮られてそれほど遠くを見通すことはできなかった。しかしどうしても対岸に渡らなければならないのだ。
「あんたならどうするんだ?」
猫が久しぶりに口を開いた。男は猫を見下ろして言った。
「ほう、猫が質問するとは珍しい。だいたい猫は質問しない生き物だ。なにしろなんでも知っているからな。あるいはなんでも知っていると思っているからだ。しかしその猫が質問したとなると相当切羽詰まっているに違いない。そして!」
と男は語気を強めた。
「猫に質問されるという名誉に預かった以上、それに応えなければなるまい。つまり、わたしならどうするかという事案を紹介するわけであるが、それには若干のためらいがある…」
男は急に物思いに耽った表情になって顎のひげをよじり、もう一方の手をポケットにつっこんで探しものをしたが今度は偶然はおきなかった。
「おねがい。このよじれを直さなかったら、わたしたちここから出られないの。それにあなただってよじれてないほうがいいでしょう?」
わたしはそう言いながらこの男がどれだけよじれたことに困っているのかわからなかった。男はあごひげをよじりながら奥歯をかみしめていたがようやく口を開いた。
「わたしだって猫の頼みを断るなんて不名誉なことはするつもりはないよ。ただね、そうしたことを軽々しくも口にしていいのかどうか自信がないのだ。なにしろわたしはこれまで黙りっぱなしの人生を歩んできたのだ。そして今日この瞬間に怒涛の如く言葉が押し寄せてきて、もしかするともう一生分話したかもしれん。そしてまた、ここでこの水晶の湖の対岸に渡る方法を教えたとなるとあんたら二人は喜び勇んで走り去ってしまうだろう。するとどうなる?」
男は最後は消え入りそうな声になっていた。そうかこの男はさみしいのだ。
「ねえ」とわたしはできるだけやさしい口調になるように言った。
「わたしたちもあなたとお話できてとても楽しかったわ。針なしで魚を釣るなんて初めて見たもの」
「師匠は竿なしで釣った」
男は頷きながら加えた。
「ええ、それでもすばらしかった。あなたもきっと次は竿なしで釣れるわ」
男は満足げに目を閉じてうなずいた。
「あなたに出会えて、わたしとてもうれしいわ。世界がよじれてしまったことには困っているけど、困ったなりによいこともあるってことよね。お願い、対岸に渡る方法をおしえてちょうだい。わたしたちきっと二頭のライオンに会って、このよじれた世界を元通りにしてみせるわ。そしたらまた出会えるかもしれない」
わたしは嘘をついていると思った。世界が元通りになったらこののっぽの男と再会することなどないのだ。
わたしは声をかけたいのをぐっと堪えて男が再び口を開くのを待っていた。猫は頭としっぽをまるめて寝ていた。おきていてはじれったくてとても待ちきれないのだろう。しかし猫もまた今男に声をかけるのは得策ではないと考えているのだ。わたしはふと星空を見上げた。あの少年たちは今どうしているだろう。天の川で石投げをして楽しんでいるだろうか。わたしにむかって微笑んだように見えた二つの星はもうどこかへいってしまった。なにしろ星空がめちゃくちゃなのだ。でもきっと兄弟は一緒にいるに違いない。そうあってほしい。わたしが見上げている間流れ星がいくつも夜空を横断していった。黄色い流れ星、緑色の流れ星、赤い流れ星。流れ星が一つ対岸に向かって飛んでいった。あの落ち行く先がわたしたちが目指す場所なのだ。海のように広い水晶の湖を越える方法がある。湖から吹いてくる風は冷涼さを増してわたしは首をすくめた。風は首筋の髪をはためかせ、指の間をくるくると回ってから去っていった。風が吹く度に星たちがちかちかと瞬いた。そしてようやくのっぽの男が口を開いた。
「向こう岸に渡る方法と言ってもなにも難しいことはなにもない」
猫は瞬時に目を覚まして耳を動かした。
「そうさ、難しいことなんかないんだ。ただ連絡船に乗ればいいだけのことなんだ」
「連絡船?」
わたしは聞き直さずにはいられなかった。
「そう、連絡船」
「船があるの?」
「日に一度往復しているんだ」
「でもあなたは汽車しか見たことがないって言ってたじゃない?」
「ああ」と男は言って手を振った。
「それはいつも見ないもののことさ。連絡船は毎日通るからとくに話題にならないだけのことじゃないか?」
「それはそうだけど……、まあいいわ。で、どこへ行ったらその連絡船に乗れるのかしら?」
「ここから岸沿いにいけばすぐに見つかるさ。なに、見失うことはないよ。あんなに目立つ塔もないからね」
男はそういって左手を伸ばして先をさした。
「今日の便はまだあるかしら?」
「なにしろよじれてしまったからね。いつからが今日でいつからが昨日なのかさえ定かでない。したがって、昨日便を見たとか、今日はまだ見ていないということさえ不可能なのだ」
「行ってみるしかない」
猫が立ち上がって言った。
「そう、行ってみるしかない」
男が片目をつぶっていった。
「ありがとう」わたしは手を差し出して言った。男の大きな手がわたしの手をやさしく包み込んだ。
「あなたに教えてもらわなかったらわたしたち、すっかり迷ってしまっていたわ。だからあなたには感謝しています」
「あんたらと別れるのは忍びないが、これもまた人生だ。しっかりやりたまえ」
男は手を離すとポケットに突っ込んでからタバコを一本取り出した。
「偶然にしちゃあ、どうも気前がいいな。よじれていいこともあるもんだ」
そういって男は笑った。わたしも笑った。猫は鼻でふんと笑った。
「ではわたしたちもう行きます」
男は手を上げて、わたしたちは歩きはじめた。
8.
足元で水晶の粒がきゅっきゅっと音をたて、時折ギシギシと波が打ち寄せる以外物音はしなかった。もっとも足音を出しているのはわたしだけで、猫は音をひとつも立てず、また足跡すらつけずに歩いていた。だからわたしは時々下を見てちゃんと猫が一緒にいるかどうか確認しなければならなかった。岸辺をさしていかないうちに目の前に黒々とした塔がそびえているのが見えてきた。塔はそうとうに高く、もしかしたら世界一高い電波塔よりも高いかもしれない。
「あんなに高い塔が今までどこからも見えなかったなんて、そんなことってある?」
猫はわたしの半歩先をスタスタと歩いていく。
「わかってるわよ。ここではどんなことだってありえるんだわ。わたしだってわかっているのよ。ただ言ってみたかっただけ。あなたも相槌くらいうってくれてもいいでしょう?」
わたしがそう言うと猫はニャアと鳴いた。
「ほんと可愛げがないんだから。それにしても船はどこかしら?」
塔はせまるにつれその巨大さがより明らかになってきた。塔は闇のごとく黒く、それは夜空に鋭角なシルエットを作っていた。わたしは塔に近づくにつれて不安になってきた。船が見えない。もしかしたらもう出てしまったのではないか。
「ねえ、船が見えないわ」
猫は足を速めることもなく緩めることもなく淡々と歩いていく。
「お願い、返事をして。あなた船が見える?」
「まだわからない」
「わからないってどういうことよ。もう行ってしまったとしたらわたしたちどうしたらいいの?」
声が上ずり、大きくなっているのが自分でもわかった。でもとめられなかった。心臓が高鳴り、冷や汗が背筋を伝う。
「とにかく、塔にまで行ってみよう。考えるのはそれからだ」
「あなた冷静なのね」
声に皮肉を込めずにはいられなかった。嫌味をいうつもりはなかった。でももしこのよじれた世界に一生閉じ込められると考えると気が動転する。ただ猫は賢明だった。わたしの言葉には耳を貸さずにただ塔にむかっていった。わたしも猫のあとを追うようにして塔を目指した。
塔に入り口はなく、あるのは一基のエレベーターだけだった。
「乗るしかないんだな」
猫はドアを見上げて言った。
「ねえ、その前に塔をぐるっと回ってみない?もしかしたら反対側に船があるかもしれないし、塔の入り口だってあるかも」
「ないな。ないよ。向こう側に回ったって入り口なんか見つからないし、船だって隠れてやしないよ」
猫がわたしの言葉をさえぎって言った。
「でも…」
「ねえ、あんた。ここはよじれた世界なんだ。そんなよじれてない世界で通用するようなことはここじゃあ役に立たないのさ。俺たちの前にエレベーターが現れた。俺たちにできることといったら四の五の言わずに乗ることなのさ。なんたって釣り針のない竿で魚を釣るところなんだぜ?」
猫はわたしの目をみすえて言った。猫の言う通りなのだ。じたばたしたって始まらないのだ。わたしだって頭の上ではわかっていることなのだ。ただ猫みたいに冷静に振る舞えないだけで。
わたしがおちついた様子を見て取ると猫は言った。
「さあまいろう。同士塔にいざはいらん。角笛をもっていないのが残念だ」
猫はエレベーターの前まで進む。
「なあに、それ?」
「ローランド童子の詩さ。もとの世界に戻ったら自分で探してごらん。さあ押してくれ」
わたしはエレベーターのボタンを押した。じじじっと音がしてエレベーター内部の明かりが点灯した。それはふるぼけた蛍光灯のように不規則に明滅を繰り返している。内部が透けて見えるのはエレベーターのドアが鉄の格子でできていたからだ。しかしドアがあく様子はない。
「……」
「……」
「……手動で開くんじゃないのか?」
「あ、そうか」
わたしが格子戸に手をかけるとそれは横にスライドして簡単に開いた。まず猫が乗り込み、次にわたしが乗り込んだ。
「当然閉める時も手動よね」
わたしは格子戸を閉じた。するとガコンという音がしてにぶい振動とともにエレベーターが上昇をはじめた。と思った瞬間、急上昇に転じ、あまりのスピードの速さにわたしは尻もちをついて立てなくなり、ものすごい速さでびゅんびゅん下方に流れていく格子戸越しの壁だけしか目に入らなくなった。エレベーターは一直線に塔の最上階を目指しているようだった。ようだった、というのは途中外光を感じることは一度もなく、このスピードならば最上階はおろかそれを突き破って宇宙にだって飛んでいけそうなくらいだったからだ。するとまたガコンという音がしてエレベーターが急減速するものだから、わたしと猫の体は一瞬宙に浮いてまたすぐに床に叩きつけられた。わたしはあまりの衝撃にすぐに状況が飲み込めなかったが、視界がまばゆい光に包まれているのを感じた。そして少しずつ意識も視界も明瞭さを取り戻した。
格子戸の向こうにまっすぐ桟橋が続き、その先に大きな船が桟橋に横付けしているのが見えた。そして桟橋の両側は、夕日を受けて滑らかに波うつ水面が広がっていた。わたしは言葉も出ずに格子戸を開けた。猫がまっさきにエレベーターを降りてトコトコと桟橋に向かった。わたしもあとについて桟橋に立つ。金色の夕日が顔を暖かく照らした。波はどこまでもおだやかにゆらゆらと金色の膜を揺らしている。猫はどんどん先に進んでしまうからわたしは早歩きになって追いついた。
「ねえ、いろんなことが不思議すぎてついていけないわ。でも夕日だなんてなんだか久しぶりじゃない?」
わたしがそういうと猫は足を止めて振り返った。
「夕日だって?それじゃあ太陽は一体どこにあるんだい?」
太陽?そう言われてわたしは日差しのやってくる方角を見回した。桃色にそまった空にオレンジ色の雲が差し色している。理想的な夕焼けというのがあったらまさにこの空をさすのではないかというほどに素晴らしい色合いだ。しかし、太陽がない。どこにもない。日差しは確実にわたしの頬を温め、波間をきらめかせている。だのにその元となる太陽がどこにもないのだ。雲に隠れているのではない。太陽を隠すほどに雲は出ていないし、日差しは雲の方角とは無関係にある。
「信じられないわ」
わたしはそう口にだしてからしまったと思った。もう信じられることのほうが珍しいではないか。
「まあ、そう言いたくなる気持ちもわからんではないよ」
猫がはじめて同情を示した。
「あなたがそういってくれてうれしいわ。なんだかはじめてわたしの気持ちをわかってくれた気分よ」
「とにかく、どういう形であれ船はまだ出港していなかった。眼の前で行かれてしまう前にはやく乗ろう」
船の近くにくるとひとの声がした。見れば旗が掲げられそうなポールの上に誰かが座っている。わたしは手で日差しをよけて見上げた。それは一人の男で、まるで猿のように器用にポールの上に座っていた。その体つきも猿に似ていて、猿の体に人間の頭を乗せたような姿をしていた。その男の目は異様に大きくギョロリとしており、口は耳まで裂けんばかりに大きく広がっていた。
「さあ出るよ。船がいよいよ出港だ。あっちの岸に行きたいひとはお急ぎなさいまし。乗り遅れたらあとはないよ。しかし出港出港言っててもいつまで経っても出やしない。いつ出たっておかしくないし、いつでなくたっておかしくない。それともここにあるのは形骸で、ほんとの船は出港済みか。あるのかないのかわからない。すっかりよじれちまってから、なにもかもがめちゃくちゃだ。さあ出るよ出るよ、いよいよ船が出港だ。今すぐでるからすぐに乗んなさい。それともずっと出る予定はないから乗んなくたってかまやしない。どっちがどっち。どっちも本当。嘘はいいっこなしだ。掛け値なしの本当だよ」
男はずっとしゃべり続けていた。しゃべるのをやめたら死んでしまうのではないかと思うくらい言葉が途切れることがない。もしかしたら話をとめたとたん本当に死んでしまうのではないかと思ったくらいだ。だから話かけるのはためらわれたが声をかけずにはいられなかった。
「おじさん」
男はピタッと話をやめた。そして今のところポールから落ちてくる気配はない。
「だれだい?今あたしに話しかけたのかい?あたしにはなしかけたのはだれなんだい?」
「下よ、こっち」
わたしは手を招いてみせた。
「あら乗客かい?だったら急ぎなはやく船に乗りなさい」
「この船はどこへ行くんですか?」
「こりゃ驚いた。どこへ行くってもちろん対岸さ」
「対岸てどこの?」
男は腕組みをして首をかしげた。これまた異様に長い腕で組んだ腕を背中にまわして再び胸で組めそうなほどに長い。
「あんたあたしをからかっているのかね。対岸たら水晶の湖の対岸に決まっとるでしょう」
「でもここは水晶の湖じゃないわ」
わたしは手を広げて金色に艶めく水面をさしていった。すると男は手をふってあっちへいけと手振りをした。
「まったく馬鹿らしい。そんな御託につきあってる暇はこっちはないんだよ。なにしろ船が出港するってときだ。乗り逃すひとがあったらたいへん。だからこうしてアナウンスを出しているんだ。お願いだから邪魔しないでくれ」
男は視線をもとに戻すと再び“アナウンス”を繰り返しはじめた。
「行こう」
と猫は言った。
「船に乗ればいろいろわかるさ」
そしてわたしと猫は船に乗った。
その船は大きな汽船だった。軽く百人や二百人は乗れそうなほどに大きい船に少なからずの乗客が行き来していた。男性も女性も年配のひとたちが目につく。みな一様に穏やかな顔をしていたが、同時にまたその印象も薄いものだった。
「こんなにひとをみるのも久しぶりな感じがするわ。それもみんな普通の人間のよう」
わたしがそういうと猫はふうむと返事をした。
「なによ。訳知り顔でふうむなんて言っちゃって。なにか知ってることがあるんならお願いだから教えてちょうだい」
「推測でべらべら喋るのは人間のすることさ。ちゃんと確証を得たら包み隠さず話しますよ」
「まったくもう」
わたしは怒ったふりをして腕組みをした。無事に連絡船に乗れたことで気分がよかった。船が行ってしまわなかったことに比べれば、出港するかしないかなど取るに足らないことだった。それに、これだけ乗客を乗せて出港しない船もないだろう。猫は足早に客席へ入っていくと窓際の席を陣取った。客席は六割ほどが乗客で埋まっていた。そのだれもが穏やかに微笑み、まるで眠っているかのように声をだしておしゃべりをしているものはひとりもなかった。
「どうしてだれもなにも言わないのかしら」
わたしもひそひそ声になって頭をさげ猫に言った。
「さあね」
「もしかして声がだせないとか」
「さあ。そうは思えないけど」
「けどなによ」
「しゃべる必要がないからじゃないかな」
わたしはあたりの様子を気にしながら猫に話しかけていた。わたしの話し声を聞いてもだれも反応する気配はみせなかった。ふいにスピーカーからハウリング起こす音がして、男の声が聞こえてきた。あのポールの上の猿男の声だ。
「みなさま、本日は、といいますか、いつから本日かもうすっかりわからないのでありますが、とりあえず便宜上本日はと申させてもらいまして、本日はお日柄もよく、といってもこの有様ですが、とにかく本日はお日柄もよくと言わないと挨拶が進まないもので、つまり、ついさきほど船長から出港の旨、承りまして、こうしてご挨拶させていただいている所存でございます。対岸連絡船、まもなく出港でございます。みなさまたいへん長らくお待たせいたしました、といってもたいして待ってないひともいますが、また長らく待っていたのが本当に長かったのかどうかすらおぼつかないありさまでして、これはもちろんあたくしのせいじゃござんせん。なにしろよじれちまってますから、そこんとこどうかご理解をいただきまして、あたくしのアナウンスに過不足なく満足されたとどうかお手元のアンケート用紙にご記入いただきたく、もっともそんなものがあればの話ですが、あ、ただいま渡り板へっこめられまして、もう今から乗船できません、降りたくても下船できません。もっともそんなひとはいないと思いますが、あ、あ、それではみなさんお気をつけて。もっとも気をつけることなどなにもないと思いますが。それはつまり便宜上…」
ザザザっという雑音が聞こえてスピーカーの音は途絶えた。すると船は細かな振動を伝え低音を響かせながら桟橋をゆっくりと離れていった。連絡船はほとんど揺れのないままに少しずつ速度を上げて日差しのやってくる方角へと舵をきっていった。窓から次第に遠のく桟橋とそれにつながる塔の先端の全景が露わになった。塔は海に不自然にある突起物であり、それほど高くないところに先端が見える。まさにここは塔の最上階だったのだ。塔から伸びる桟橋はその端を塔とだけつながっていて、波のゆらめきには微動だにしていなかった。わたしはその構造について頭を巡らすのをやめた。そもそもこの海にしたって十分わけがわからないのだ。
やがて塔も桟橋も見えなくなった。それは方角が変わっただけではない。この船は予想以上に速いのかもしれない。ほかの乗客たちは相変わらずひとりとしておしゃべりをするものはなく、外を眺めたり、組んだ手をみつめていたり、それぞれが思い思いに過ごしているようだった。気がつくと猫は体をまるめて眠りについていた。整えられた毛並みが呼吸でしずかに上下している。こうして寝ているところだけをみればどこにでもいる猫で、可愛らしさすらあった。わたしは猫の背中を撫でたくなる衝動をぐっと堪えた。そんなことをすればなにを言われるかわかったものじゃない。この猫はただの猫ではない。わたしの知る限り世界一聡明で、世界一頼りになる相棒なのだ。猫はわたしのことを相棒だと思ってくれるだろうか。
窓の外は太陽のない夕日を反射して水面がぬめらぬめらと金色に輝いていた。わたしは席を立つと客室から甲板に出た。船の速度から想像がつかないほど柔らかい風が頬にあたった。夕日に暖められた心地よい風だ。もう風でさえよじれてしまった。手すりから身を乗り出して下を見ると、なんと船は波しぶきひとつ立てずに水面を切り進んでいるではないか。海はまるでドロドロの液体のように船のあるところだけ切れ目が入っていた。その切れ目は船の後方で再びひとつに閉じていくのだろうか。
猫は目を覚ましていて、背筋をのばして椅子に座っていた。
「いよいよ到着ね」
わたしは隣に腰を下ろした。
「ねえ、わたし明るく前向きって言われたわ。あなたからもそうみえるかしら?」
「なんだい藪から棒に」
猫は眉をひそめて振り返った。
「生まれてはじめてそう言われたのよ。だからあなたにも確認したかったの。ねえ、そうみえる?」
猫はわたしの顔をじろじろと眺めて言った。
「まあ、前よかだいぶましになったんじゃないのかい?」
「まあつれないいいかたね。でもあなた流に褒めてくれてるって思うことにするわ」
その時船底からバリバリと何かが裂ける音とともに船がぐらぐらと揺れた。そしてバリバリゴリゴリ音を立てながら船は霧の中を進んでいく。
「懐かしい音だな」
猫は身じろぎせずに言った。わたしにも覚えのある音だった。水晶の湖の音に違いなかった。連絡船は今、さざなみひとつ立てない海から水晶の湖に入ったのだ。それがどのようにしてつながっているのかなんてまるで想像もつかないが、水晶の湖ということはもうまもなく到着するのだろう。そしてついに連絡船は停止した。立ち込める霧でなにも見えなかった。
「着いたみたいね。霧は晴れるのかしら」
「いや、晴れないね」
「どうしてわかるの?」
「ここは霧の町っていうんだ」
9.
昼間でもなく、夜でもない。街頭がところどころで青白い明かりを灯し、周囲の霧が一方で光を吸収しまた一方で光のぼんぼりをつくって明るさをそのごく近くだけ増大させていた。つまり明るいのは街灯の周辺だけで、その明かりは地面にまで届くことはなかった。
客席に座っていたひとたちは思い思いに立ち上がるとそれぞれ客室を出ていった。わたしと猫も客室から甲板にた。ギシギシゴリゴリという音がするたびに船は左右に揺れた。桟橋から移動式の橋が船に伸びていた。今となっては対岸になる船着き場と似たようなものだった。ひとつ違うのは桟橋は岸から伸びていて、乗客たちは岸にあがるとひとりまたひとりと霧の中へと消えていった。わたしはあの男性がいないか探したが深い霧に隔てられてまともに探すことすらできなかった。
「ねえ、おねがいだからそばにいてちょうだい」
わたしは猫に言った。あまり霧が深すぎて少しでも離れると見失ってしまいそうだった。
「霧が深いのは浜辺だからさ。もう少し中へ入ったらさすがにこんなに深くはないだろう」
猫の言う通りだった。わたしは猫に置いていかれないように猫の背中だけを見つめて歩いていたが、やがてあたりの様子が見えるようになってきていた。地面は古い石畳で角がすっかりとれてつるつるになっていた。通りは一車線ほどの広さしかなく、両側に石造りの建物が立ち並び、そのどれもがまた古そうに見えた。街灯は一定の間隔でならんでおり、ほとんど青に近い白色の光を鈍く放っている。その光のせいで通りはやけに寒々しくみえた。
「今何時かしら?」
わたしがそういうと猫はさげすむような目でちらりとわたしをみた。
「しかたがないじゃない、そうおもってしまったんだもの。わたしだって時間に意味のないことくらいわかってるわ。でもこんな明るさの中にいてふと考えちゃったのよ。仮によじれてなかったら今何時かしらって」
そのとき猫はひげをぴくりと動かして叫んだ。
「走れっ」
猫につづいて通りを走り角を曲がって路地に入り抜けた先でまた通りに出た。猫は一瞬後ろを振り返ったが再び走りはじめた。わたしは息が上がっていた。しかし猫は速度を緩めることなく走り続けた。またいくつかの路地と通りをつないだところでようやく猫は歩みを緩めた。わたしは息があがり声を出すことができなかった。できれば止まって休みたかったが猫は止まらずにあるき続けていく。わたしは深呼吸するようにして息を整えた。やがて心臓が落ち着いてくるのがわかった。
「ねえ、どうしたっていうの?」
猫はようやく足をとめて振り返った。
「ろくでもない気配さ。岸についたあたりからどうもだれかに見張られている気がしたんだ。そしたらそいつがこちらに迫ってくる感じがしたのさ」
「でもそれは悪いひとなの?」
「さあね。でも関わらないにこしたことはないだろう」
わたしは猫の考えに納得がいかなかった。なのでそれをそのまま猫にぶつけた。
「もしかしたら二頭のライオンのところへ案内してくれるひとだったかもしれないわ」
わたしがそういうと猫は片方のひげを持ち上げてわたしを見た。
「そうかもしれんし、そうではないかもしれん。しかしそうではなかった場合、俺たちは一体どういう代償を払うことになるのだろうか」
「さあ、そればっかりは会ってからでないとわからないわ」
「死んでからやっぱりはなしだぜ」
「そんな物騒なとこかしら」
わたしはあたりを見回した。霧は岸に比べればだいぶ薄くなったとはいえ、霞がたなびくようなもやはそこらじゅうにあった。その霧のせいで商店や食堂と思わしき店も中を窺うことはできなかった。しかしひとの気配もそこらじゅうにあった。ここまで走ってくるときにも何人かにぶつかった記憶があるが、そのどの顔にも霧がかかったようにして判然としなかった。通りを往く人、すぐそばにいる露天商さえまともに輪郭を捉えることができない。それもすべては霧のせいだった。ところがひとの顔に比べて建物はよほどよく見えた。古い石畳の道に石造りの建物が並んでいる。建物はどれも相応の年月が経った風格を持っていて、窓のない木戸はたいていどこも閉じられていた。
「なんだかよそよそしい街ね。ひとがいるのにいないようだわ」
猫は肩をすくめてみせて、だから霧の街なのさと言わんばかりだ。
「ねえ猫さん、二頭のライオンがどこにいるのかあなた知っているの?」
「いや知らないよ」
猫はひとことそういうとあたりを見回した。
「知らないってあっさり言うのね」
「まあね。だって俺は丘にいると思っていたんぜ?この街にいると教えてくれたのはあの釣り人なんだから」
「それもそうね。そしたら見つける方法考えなくっちゃ。それで実はもう考えてあるんだけど」
猫は少しうんざりした顔をして言った。
「じゃあ言ってごらん」
「知ってるひとをみつけて聞くのよ。二頭のライオンはどこにいますかって」
「悪くないよ。さて誰に聞こうか」
「それが問題なのよ。聞きやすそうなひとを探そうにも顔が見えないんだもの」
猫とわたしは自然と歩きはじめた。石畳がペタペタと足音を立てた。不思議なことに通りをゆくひとの音もまた聞こえなかった。霧は姿だけでなく音さえも隠してしまうのか。しばらく歩くとすこし開けた広場に出た。広場の中央には小さな噴水があり、水が音もなく吹き上がっていた。猫は歩みを止め、わたしはあやうく霧のせいで猫を踏みそうになった。腹の横をわたしのくるぶしが擦り、猫はからだをよじってよけた。
「たのむから踏まないでくれよ」
「ごめんなさい。霧のせいでよく見えないのよ」
「あいつに聞こう」
わたしが質問する前に猫はすたすたと街角の三角になった建物へとむかった。その建物は入り口に三段ほどの階段がついてそこに誰かが座っているのが見えてきた。
そばへよってわかった。座っていたのはひとではなく猫だった。それもずいぶんと間延びした猫だ。ダックスフンドをさらに引き伸ばして猫にしたと言ったらわかりやすいか。ネコ科特有のしんなりした姿勢がさらにその胴体を長く見せている。
「どうも常連さん。常連さんですよね」
猫はそういって伸びた猫に話しかけた。
「うんああ?いかにもわしはこの街角の常連じゃが。おまえさんは新顔かい?」
「今日初めて来ました。まるきりの新顔です」
「そうかいそうかい、そいつは目出度いよ。ここんとこひさしく新顔が来ていなかったからね。それくらいわしは常連ってことさ」
「もちろんわかっています。あなたくらいの常連になるとこのへんのことはさぞやお詳しいとお見受けしましたが」
間延びした猫はまんざらでもないという笑みを作って長い胴体をくねらせた。
「詳しいか詳しくないかで言ったら詳しいに決まってる。なにしろわしくらいの常連になれば常連でなければわからないことを知っているという常連だ」
わたしは足元の猫にだけ聞こえるように言った。
「ねえ、大丈夫なの? 何言ってるかわからないわ」
「おやまあ!」
と間延びした猫は叫んだ。
「霞に隠れてみえなんだが、もうひとりいるじゃないか。そっちは人間か?まあいい。人間だって猫だって一緒だ。どっちにしろ新顔なんだから」
猫はひとつ咳払いをして言った。
「はい、こちらに人間もひとりおります。もちろん新顔でございます。常連さんの気にするところじゃござんせん」
「よし、新顔にひとつアドバイスをしてやろう。なんたって常連の言うことは聞くもんだ。なにしろこのへんの事情に詳しいことと来たら常連にまさるものなどいないからだ。それから新顔は常連に好かれなきゃあいかん。それには知ったかぶりは禁物だ。わしはそうして常連になれんやったやつのことをたくさん知っておった。今は知らん。もしおまえたちもわしのような常連になりたかったらたとえ知っていても知らないと言え。知らないことは気づきませんでしたと言え。気づかなかったことは思いもよらなかったと言え。思いもよらなかったことは……」
ここで間延びした猫はえーとかうーとかいーとかいって目をつぶってしばらく唸っていたあとようやく続けた。
「……知らないと言え」
それからふうと一息ついて再び口を開いた。
「それではこれから質問をするからそれに答えよ。おまえたちはどこから来た?」
わたしは堪えきれずに思わず答えた。
「船に乗って対岸からきました」
「違う」
間延びした猫はわたしが言い終わるかおわらないうちに口を挟んだ。
「正解は、知らないだ。では次。お前たちは何人だ?」
「二人に決まってるじゃない」
「違う。答えは知りませんだ。では次。お前たちは今どこにいる?」
わたしが口を開くより先に猫が言った。
「知りません!」
「正解。答えはわしが教えてやろう。ここは霧の街の街角じゃ。この街には街角がいくつもあるがその中でもとっておきの街角じゃ。なにしろ噴水がある街角はここだけだからな」
「バカバカしいわ。常連なら教えてちょうだい。二頭のライオンはどこにいるの?」
わたしがそういった途端間延びした猫は飛び上がって縮こまった。
「たひーっ」
それはまるでアコーディオンのようにぎゅっと短くなってそれから再び伸びたときにはもとよりさらに長くなっていた。
「に、二頭のライオンのことですか」
間延びした猫は改まった口調になって言った。
「するとお二方は二頭のライオンをお探しで」
「だから今そう言ったじゃない」
足元で猫がため息をついた。
「もちろんですもちろんです。もちろん知っております。なにしろわたしは長いこと常連をやらせてもらっていますから。二頭のライオンのことを知らなかったら常連とは呼べません」
「どこへ行ったら会えるのかしら?」
「えーと、この先を右へ行って左へ行ってぐるっと回って三丁目。どぶ板またいで一丁目。そのどんつきもちつきつきっきり。となりは蕎麦屋でうらめしや……」
間延びした猫はよろよろと後ろ足で立ち上がるとそのぐにゃぐにゃの胴体をどうにかこうにか垂直に保とうと努力しながらも弓なりに猫背になって後ずさり、ひとつおおきくでんぐり返しをしたかと思うとこんどは四つの足をつかって一目散に逃げ出した。わたしは唖然とし霧の中へ消えていく姿を見送るしかなかった。猫が足元でもう一度大きくため息をついた。
「いいかい。常連っていうのは持ち上げて持ち上げて持ち上げ過ぎなくらいのところでようやく情報を貰えるんだ。なのにあんなにムキになるなんて。せっかくの機会をふいにしたよ」
わたしは霧を見つめていたがやがて視線を落として言った。
「ごめんなさい。わたし、ただふざけてからかわれているだけかと思ったの」
「いや、最初に言っておかなかったのがいけなかったんだ」
猫はあるきはじめ、わたしもあとを追った。しばらく行くあてもなく通りを歩いていた。猫はだれかを捕まえて訊ねるでもなくすたすたと先をいった。
「ねえ、あの伸びた猫、知っていたと思う?」
わたしは思い切って聞いてみた。
「さあね。それはわからんよ」
「ねえ、あなたは自分がどこを目指して歩いているかわかっているの?」
「もちろん二頭のライオンのところさ」
「そうじゃなくて方角のこと。さっきからまるで知ってるみたいにすたすた歩いているわ」
「ああ、おれ得意なんだそういうの。知らない街でも知ってるかのように歩くのがさ」
「ちょっとやめてよ、そういうの。一旦止まって考えましょう?」
そしてわたしたちは止まった。ちょうど歩道にベンチがあり街灯が照らしていた。わたしはベンチに座り、猫は飛び乗った。わたしは肩の力をぬいて息を吐いた。霧は濃くなったり薄くなったりを繰り返し、あたりにまだら模様を作っていた。どこか高いところに登りたい、そうわたしは思った。そうしたら街全体が見渡せるからだ。霧は視界を狭め、見通しの悪さに息苦しさを感じるほどだ。もっとも高いところに登ったところで街中を霧が立ち込めていたら結局なにも見えないのだろうが。しかし少なくとも街の輪郭くらいはわかるだろう。とにかく、わたしはこの閉鎖的な環境から一刻もはやく抜け出したいと思うようになっていた。
「さあ困ったわ。二頭のライオンがこの街のどこかにいるとしても、その居所を知る方法がわからないんですもの。でもどうしてあなたはそう平然としていられるの?」
猫は後ろ足で耳の裏をかいてから言った。
「だって慌てたって仕方ないだろう。おれたちは確実に二頭のライオンに近づいているんだ。ちょっとばかし街で迷ったからって一体なんだっていうのさ。それともあれかい?対岸に着いたら二頭のライオンがお出迎えでもしてくれるとでも思ったかい?」
わたしがすぐに言い返せなかったのは、お出迎えまではないとしても到着したらすぐに出会えるものだと勝手に考えていたからだった。しかしよくよく考えて見れば、猫の言う通りなのだ。今までだってすんなりことが運んだことなど一度もないではないか。ましてやここは霧の街だ。霧がかくれんぼを難易度の高いものにしている。
「あなたって、いちいち言う通りなのね。お願いだから誤解しないで。あなたのような冷静な相棒をもって幸せっていう意味だから」
猫は答えないかわりに舌で顔をぬぐった。そのとき背後から声がした。
「ずいぶんと騒がしいと思ったら人間と猫が喧嘩しとら」
わたしは驚いて振り向き、猫は毛を逆立たせた。しかしなにも見えない。
「だれ? いま話しかけたのはどなたかしら?」
「ああ、あはあはあは。見えないのは霧のせいじゃないよ。見えないのは心が曇っているせいだよ」
「霧の街で心まで曇らせていられるか。あっ」
猫は気がついたようだった。そしてわたしの顔をみてにんまり笑っている。
「あはあはあは。猫は見つけたよ。猫は見つけたよ」
「先入観を捨てないとね」
猫はいたずらっぽく言う。わたしはもう一度―すでに何度もやっているが―ベンチをくまなく見回した。そしてそれを発見したとき、きゃあと叫んで飛び上がった。
喋っていたのはベンチだったのである。背もたれについた皺は木目ではなく目や口だったのだ。
「信じられないわ」
わたしは腰をかがめてその顔をよく見ようとした。するとベンチの顔が消え去り、こんどは猫が座っているそばに現れた。
「やめてくれい。そんなに近くで見るない」
猫は驚いて立ち上がり一歩うしろへ下がった。
「自由自在なんだな。あんたもしかして歩けたりするのか?」
「あはあはあは。この猫も馬鹿だな。歩けるベンチがどこにいるよ。みたことあるかい、ベンチが通りを歩いているところ。あはあはあは」
「そんなに目と口が動かせるんならもしかしてと思っただけさ。じゃああんたはずっとここにいるんだな」
「ずっともそっともねえや。おれはもともとただのベンチで、あるときふと気がついたら見えるようになっていて、ふと気がついたら口がきけるようになっていたのさ」
「八百萬の神ね」
「なんだいそれは?」
ベンチがわたしを見ていった。
「日本ではね、ものがずっと古くなるとみんな神さまになると言われているの。だからあなたもとても古くなって神さまになったのよ」
「ほう、そいつはいいや。そんなふうに言ってもらったのはこのかた初めてだ」
「あるのは目と口だけかい?」
猫が興味深げに聞いた。
「あんたがそれを目と口と呼ぶんならね」
「すてきだわ」とわたしは言った。
「でもなんだか恐れ多くってとても座れなくなったわ」
わたしがそう言うとベンチはのけぞるような目つきをしていった。
「よしてくれやい。座れないベンチなんてベンチじゃないよ。ベンチっていうのはみんなが座ったり寝っ転がったりするためにあるんだ。座れないベンチになんの価値があるんだい?目と口がついたってベンチはベンチだ。さあ遠慮しないで座ってくれ」
断る理由が見つからず、仮に断りでもしたらベンチをたいへん傷つけてしまうと思いわたしは腰を下ろした。ベンチは目と口を背もたれに移動してわたしたちと話しやすいようにした。
「あんたらはここいらのものじゃなさそうだ。どこからきたんだい?」
そこでわたしはよじれた話、連絡船で渡ってきたこと、そしてこのよじれを直してもらうために二頭のライオンに会いにここまできたことを手短かにはなした。ベンチはよじれについてはとくになにも感じていないと言った。
「あんたらが探してる二頭のライオンだがね、先日このベンチへ来たよ」
「え、なんですって?」
わたしは思わず身を乗り出した。みれば猫も前かがみになっている。
「ああ。決して座られ心地はいいもんじゃなかったけどね。毛がゴワゴワしてね。でも間違えようがないね」
「先日っていつのこと?」
わたしがそうきくとベンチは困ったような表情を作った。
「ああ。そう言われてみると先日がいつのことだったか。昨日だったか、それとも一昨日だったか。言われてみれば今日は一体いつから始まったんだい?」
「ああ」と猫が言った。
「それがよじれてるってことさ」
「二頭のライオンのこと、くわしく話してくれない?どっちへいったとか」
わたしはベンチが急に救世主のように見えてきた。それもそうだろう。これまで手がかりゼロだったのが、急に目撃者が現れたのだから。しかしベンチは時間のことで手間取っていた。
「昨日一昨日一昨昨日、それとも去年だったか。或いは今日という気もしないではない。いやはやこれまたおれとしたことが迂闊だった。それもこれも年がら年中ベンチでいるせいだ。この場所に据えられた時分からずっとじっとしているんだ。時間なぞ気にしているほうがどうかしている。つまりおれは正常なベンチなのだ。しかし二頭のライオンについてはどうも生々しい記憶だ。つまり四十年前ということはあるまい。三十年前でもない。二十年前でもなければ十年前ですらない。わりと最近の出来事だった。うーむ、ごにょごにょ……」
ベンチはついにだまりこくってしまい、おまけに目も閉じてしまったのでただの古臭いベンチになってしまった。わたしはベンチの目地を眺めていたがふと視線の先にひらひらゆれるものを見つけた。それはベンチの端に引っかかっており綿毛のようだった。わたしが手を伸ばしてそれを取り、近くでみるとその毛は日差しのない中でも金色に輝いているのがわかった。
「ああ。二頭のライオンはさっきここへ来たんだな」
猫が覗き込むようにして毛鞠を見ながら言った。
「そうだ。そうだそうだった。二頭のライオンはあんたらがやってくるちょっと前に来たんだったよ。あはあはあは」
ベンチの目と口があいて晴れ晴れとした顔つきで言った。
「二頭のライオンがここに」
わたしが思わず手から毛鞠を落とすと、それはベンチに落ちる前にちりちりと光の粉になって消えてしまった。
「ベンチさん、二頭のライオンはどっちへ行ったのかしら?」
「さあて」ベンチは打って変わって冷たく言った。
「もっとも、この通りだ。右に行こうが左に行こうがそれを知ったところで意味はない。それからすぐ別の角を曲がっているかもしれない。追いつけるわけもなし」
猫がそれを聞いて言った。
「もっともだ。どっちに行ったの質問は意味がない。それよりあんた」
といってベンチを向いた。
「二頭のライオンとはなにか話してないのか?」
「話してないかって?話さないわけがないだろう。こちとらこの場所から動けないんだ。話し相手がくるとなりゃ話さないベンチがあるかい?」
「わかったわかった。で、どんなことを話したのさ」
「ずいぶん久しぶりじゃないかってことよ。この前来た時はおれはまだ話せなかったけど今はこうして話せるようになってあんたと話せてうれしいよとか、毛がだいぶ硬いじゃないかあんたも年取ったなとか…」
「わかったわかった。それで二頭のライオンはなにか言っていたかい?」
「えらく口のまわるベンチだなとさ。毛が硬いのはここの霧のせいだとさ。それでこんどはなにしにここへ来たんだと言ってやってのさ」
「それで?」
猫とわたしは同時に声を出した。
「星のまわりとかなんとか言っていたな。あいつの話は小難しくていけねえ。それよか話をしたいのはおれのほうだったからいろいろ話を聞いてもらったよ」
わたしはがっかりしてベンチに寄りかかった。
「あなた、そんなぞんざいな口の聞き方してライオンが怖くないの?」
「あはあはあは。ライオンを怖がるベンチがどこにいるか。どんなに獰猛な怪物だってベンチを食うやつはいないよ。どんなに強いやつもベンチに座る時は弱いやつと同じさ。どんなに悪いやつだってベンチに座るのは正しいやつと変わらない。ベンチは平等なんだ。みんな腰掛けるだけなのさ」
「ベンチは平等ね」
わたしはうなずいた。
「名言だわ」
わたしは通りをなんとはなしに見た。石畳の通りの向こうに石造りの建物が並ぶ。よく見ればそれぞれが違う造形をしているのだが、ぱっと見る印象は一続きの壁のように見えた。霧は濃かれ薄かれ街全体を覆っていて、その濃いところはひくいところに垂れ込めた雲のように見通しを塞いでいる。それでわたしは江戸時代の日本画のようだなと思った。雲は絵の省略であると同時に構成要因のひとつでもある。この街の霧もまたこの霧なくして街は成り立たないのだろう。わたしは最初この街に降り立って感じたのは閉塞感だった。これまでの道のりはどこも見通しのよいところばかりだったせいで、視界のきかないこの霧が鬱陶しくてしかたがなかった。鬱陶しいばかりでなく、息苦しさすら感じていた。けれども今こうしてベンチに―しゃべるベンチに―腰掛けて眺めてみると、霧もまた変化に富んで興味深い対象であることを認めないわけにはいなかかった。満天の星空やどこまでも深い蒼色の空とは趣きがことなるけれど。
見通しが悪いのは霧だけのせいではなかった。通りは一車線ほどの幅しかなく、すぐ向こうの壁のような建物がその先を見渡す邪魔をしている。通りは右も左もそれぞれに大きくカーブしていてその先は完全に見えなかった。わたしたちが座っているベンチは建物の壁に面していて、頭を預ければそのままゴツゴツした石の壁にぶつかるくらいだ。ベンチはところどころで散見したが、そのどれもが口をきくのかはわからない。偶然を引き当てたのか、それともどのベンチも話し相手がくるのを今か今かと待ち構えているのか。というのも、このベンチが他のベンチにくらべてとりわけ古そうにはみえないからだ。
はて上はどうだろう。ふとそう思い、わたしは空を見上げた。思えば霧の街へきて初めて空を見上げたと思う。或いは意識して見上げなかったために気が付かなかっただけなのか。わたしは自分が見ているものが理解できずに思考が停止した。これはなんだろう。わたしは一体なにを見ているのだろうか。再び時計の秒針が動き出すようにしてわたしの思考はめぐりだす。なんということだろう。空は晴れていた。もはや懐かしいとさえ思える濃く深く蒼い空が、あった。しかし、わたしの思考を固まらせたのはそれだけではなかった。わたしの理解が追いつかなかったのは、その青空に天の川が広がっているからだ。そんなことがあるだろうかという疑問が愚問なのはわかっている。でも、実際にその光景を目の当たりにするとそう思わずにはいられなかった。漆黒の闇の中でしか天の川を拝むことができないという常識をあざ笑うかのように、昼間の空に満天の星が輝いてる。それは非常識に美しかった。
「ねえ、見て」
わたしは見上げたまま声をかけた。すると猫が言った。
「ワォ」
「どうした、なにがさ?」
とベンチが言った。
「空よ。こんな空みたことないわ」
「空がどうした、一体なんだっていうんだ?」
「あなた今までこんな空見たことがあって?」
「ああ、あるよ。前にもこんなことがあったさ。そういえば以前に二頭のライオンが来たのはこんな空の日だったかな」
「いよいよよじれの最終章だな。これはすこし急いだほうがよさそうだ」
猫があごをあげたまま言った。
「これがそのサインなの?」
「あんまりいい予感はしないね。もっとも俺にも初めてのことだから、確証はないけども」
「ねえ、今以前に二頭のライオンに会ったのもこんな空だったってあなた言ったわよね」
わたしはベンチの言葉を思い出して聞いた。
「あはあはあは。そうだそうだ、こんな空だったさ。だからおれは驚いたりしないね。あんたらには初めてでもおれには初めてじゃないからね」
「そのあとどうやってもとに戻ったの?二頭のライオンはなにをしたのかしら。この空のときにこの街に来たということはどこか特別の場所があってくるのじゃないのかしら」
「ふむふむ」
と猫はうなずいた。
「ねえあなた」とわたしはベンチの目を見ていった。
「二頭のライオンはこの街のどこにいったの?たくさんおしゃべりしてなんにも言わないなんてことある?きっと秘密の場所なんかじゃないわよね。だったら最初からまっすぐその場所に向かうはずだもの。でもベンチで寄り道なんかしているもの。きっと行き先だって話したはずよ。だって、あなたが尋ねないはずがないじゃない?」
「おじょうさん」ベンチは改まった口調で言った。
「もちろんおれはここへ来るものはみんなどこから来たかどこへ行くのか尋ねているよ。だってそうするのが会話の糸口だからね。それに、だれひとりだってこのベンチを目指してきましたなんてやつはいないんだ」
ベンチは自分でそういってから少し寂しそうな顔をした。
「いいんだいいんだ。ベンチというのは目指してくるところじゃない。途中で疲れたから休んでいくところだ。それがベンチの宿命であり、定めなのだ。そんなこたあ気にするやつはとてもベンチなどやっていけない。しかし、そんなおれでも若かれしころは自分に会いに来ることが目的のものはないか考えたものだ。しかしそんなことはないのだよ。来る日も来る日もどこそこから来てどこそこへ行く、そんなものばかりなのだ。そしておれは悟ったのさ。ベンチを目的にくるやつなどいないとな。一度悟ってしまえば辛いことなどなにもなかった。おれはただここへ座るものとおしゃべりを楽しむだけなのだ。とは言えおれもひとつのベンチさ。一度くらいおれに会いに来るやつがあってもいいんじゃないか?」
ベンチは言い終わる間もなくおいおいと泣き出した。目から大粒の涙が溢れ出しベンチを濡らした。涙は板の隙間から地面にぼたぼたと流れ落ちた。わたしは立ち上がるとベンチのよこへかがみ込んだ。
「ねえ、ベンチさん。そんなに泣かないで。あなたみたいな素敵なベンチ初めてだわ。座り心地も最高だし、なによりおしゃべりができるじゃない。もしわたしがこの街に住んでいたらきっと毎日あなたに会いに来るわ」
わたしがそういうとベンチは閉じていた目を片目だけあけてわたしを見た。
「本当に毎日会いに来てくれるのかい?」
「もちろんよ。もしこの街に住んでいたらだけど…」
「でもあんたは住んでいない」
ベンチはまた声をあげて泣いた。
「ほら、よく思い出してちょうだい。毎日決まった時間に猫が遊びにきていたりしない?或いは犬でもいいんだけど」
するとベンチはまた片目をあけてわたしを見た。
「そういえば街角の猫がいつも同じ時間に来て座っていくよ」
「それよ。その猫はあなたに会いに来ているのだわ。あなたの常連さんなのよ」
「しかしこれからどこそこへ行くだの言って決しておれに会いに来たとは言わなかったぞ」
「それはそうよ。その猫さんはあなたに気を使っているのだわ。あなたがもっとも気楽に接しられるように」
「ははーん、そう言われてみればそういうそぶりは隠せるものじゃない」
「ええ、もちろんよ。でなかったら毎日あなたのところへ来たりしないわ」
「考えてみればそのとおりだ。あの猫ときたらおれに会いに来てやがったのか」
すでにベンチの口元は緩んでおり固く表情を作ろうとしてもどうしてもにやけてしまうのであった。
「明日にでも言ってご覧なさいよ。おれのベンチの常連さんって」
「なるほどそいつはいい。やつの照れる様子が目に浮かぶようだ」
ベンチはあはあはあはと笑った。泣いた形跡はすでに影も形もなく、流れた涙もすでに乾いていたからわたしは再びベンチに座った。猫は背もたれの上に避難していたが座面に降りてきた。問題は明日が来るのかということなのだ。わたしは声にこそ出さないでいたが、よじれた世界を直さない限り明日も来なければ自分の世界に帰ることもできないのだと考えずにはいられなかった。だからなんとしても二頭のライオンに会わなければいけない。しかしわたしの焦りとは反対にベンチの話は遅々として進まなかった。わたしが頭を悩ましている間にもベンチはなにやら話を始めていて、わたしはその冒頭を聞き逃した。
「
「それで二頭のライオンはどこへ行くって言ってたかい?」
「ああそれがね」
ベンチはそういって言葉を区切った。
「ああそうだったそうだった、駅へ行くって言ってたな。そう駅へ行くって言ってたよ」
「そうか、それはありがとう」
猫はひらりとベンチを飛び降りたので、わたしも立ち上がった。
「それじゃあ」
猫はそういうとスタスタとベンチから離れていく。わたしがどうしようかと戸惑っていると猫は振り返って言った。
「ところで何番線かね?」
するとベンチはきょときょとと落ち着きのない目をしていった。
「三番線さ、三番線。二頭のライオンが駅へ行くっていったら三番線に決まってるんだ」
通りは再び両側を建物に挟まれて薄暗くなり霧も元通りの濃さを取り戻していた。わたしは猫を見失うまいと後を追った。いくつかの横道を通り過ぎたところで猫はピタッと動きを止めた。全身の毛がふわっと逆立つのがみてとれた。
「しまった! 走るぞ。いや、もう遅い」
猫は舌打ちをしてわたしをみてそれから顎でしゃくった。わたしがその方角を見るとひとつ先の横道からなにかがこちらに向かって勢いよく走ってくるのが見えた。それは霧に消えたり現れたりを繰り返してついにはわたしたちの眼の前にやってきた。穴熊だった。穴熊は肩で激しく息をしていたがほとんど仁王立ちの姿勢でわたしたちをとうせんぼするように立ちはだかっている。
「や、やっと捕まえました。なんだって逃げることないじゃないですか。ほんとうならもっとはやくに会えていたのに、どうしたって逃げるんです?」
穴熊は息を切らし途切れ途切れになってなお一生懸命に喋ろうとしていた。
「あなた、あのときの穴熊さんかしら?」
それはもう遠い昔の出来事のようだった。もう何年も前の話のようだった。しかし現実にはそれほど古い出来事ではない。もっとも時間という概念がなくなった今では古いも新しいもないのだが、それでもやはりつい最近会ったのは間違いないことなのだ。
「あら、わたしが追いかけたとき、あなただって逃げたじゃない」
わたしの穴熊に関する記憶が急に蘇ってきた。満月を眺めていた穴熊。逃げてしまった穴熊。
「あのときはまさかこんなことになっていたなんて想像もしていなかったんです。あんたから逃げたあとだれが自分自身と出くわすなんて想像できますか?」
「そうか、じゃああんたも見たんだな」
猫が穴熊に言うと穴熊は興奮してまくしたてた。
「おったまげたなんてもんじゃないですよ。目がテンになった。それでも礼儀正しくしなくちゃと思って挨拶しましたよ」
そこで猫は舌打ちをした。
「それなのにもうひとりの自分はスタスタ行っちゃった。こっちが見えてないようでした。とんでもないことが起こったと思いましたね。それでピンときました。さっき会った人間のせいに相違ないって。それであとを追いかけてきたんです。水晶の湖で、水晶の湖なんて生まれて初めて見ました、なんていうかって聞いたら釣り人がこれは水晶の湖っていうんだって教えてくれました。そしてあんたらが対岸に渡ったっていうもんだから急いで対岸へ来たのです。そしたらあんたらはまだ着いてないようでした」
そこでわたしは口を挟んだ。
「ちょっとまって。どうやってわたしたちよりさきに対岸に渡ったの?」
すると穴熊ははははと笑って言った。
「あんたらは湖にむかって左手に行きましたね?でご丁寧に連絡船に乗ってきたんだ。でもね、あの湖は右手にちょっとばかし進めばもう対岸なんですよ。あの釣り人はなんで連絡船のことなんて話したのでしょう?遠回りさしたかったのですか?」
わたしは返す言葉がなかった。あれだけ友好的な振る舞いをした釣り人がわざわざわたしたちに遠回りさせるようなことはするはずがないと思った。しかしげんにこうして穴熊は近道をしてきている。わたしはなにをどういうふうに考えていいのかわからなくなっていた。
「それよりも、どうして俺たちがこの街に着いていないってわかったんだ?」
猫は訝しむように眉をひそめて言った。
「そりゃあ二頭のライオンに聞いたんですよ」
「二頭のライオンですって?」
わたしは声をあげて言った。しかし穴熊はそれをなんでもないように話を続けた。
「二頭のライオンはなんでもお見通しですからね。それに人間と猫のセットなんて珍しいですから、二頭のライオンじゃなくたってわかりそうなものです。それで波止場で待っていたんです。するとやがて連絡船がやってきてね、あんたらがおっちらほっちら降りてきました。そしたらあれだ、突然走って逃げてしまった。なにも逃げるこたあないじゃないですか」
あのとき走ったのはこの穴熊から逃げるためだったのか。しかしなぜ穴熊から逃げなくてはならないのだろう。それをわたしが聞く前に猫が口を開いた。
「穴熊ってやつは苦手なんだ。慇懃無礼は血統だろう。聞いていてムズムズする。あんたを船着き場で見つけてね、もう逃げなくちゃって思ったよ。本能的にさ。悪気はないよ」
「でももし逃げなかったら二頭のライオンの居場所がわかったんじゃないの?」
わたしがそういうと猫はかぶりをふった。
「いや、それはないね。俺たちの居所は聞いたろうが、二頭のライオンの定宿までは聞いちゃいないさ。な、そうだろ?」
「へっ、そりゃそうです。どんな理由で今日はどちらにお泊りですかなんてきけますか?それにどうしてそんなこと聞かなきゃならないんです?」
「わたしたち、二頭のライオンに会いにここまでやってきたの」
「ほう、なんで?」
「あなたこそ、わたしたちに追いついてどうしようってつもりだったの?」
「どうしようもこうしようもないですよ。こんなめちゃくちゃな状況を元通りにしてもらうためです。だってあんたに会う前は普段どおり変わるところがなかったんだ。どうしたってあんたのせいだと思うのが筋ってもんでしょう?」
「いいわ。でもわたしにもどうすることもできないの。でもよじれた世界―あなたが言っためちゃくちゃな状況をよじれた世界って呼んでいるわ―を二頭のライオンが直すことができるかもしれないのよ。だからわたしたちはなんとしても二頭のライオンに会わなきゃならないの」
「ああそうですか。なら私も一緒に行きます。とにかくこんなめちゃくちゃなことってないですよ。穴熊類歴史開闢以来はじめてのことですよ、きっと」
猫はチッと舌打ちして顔をそむけた。あたりの霧は濃さを増し、数メートル先も見通すのがやっとというくらいにたちこめていた。
「ねえ穴熊さん、わたしたち駅へ行かなくちゃいけないの。あなた駅がどこにあるか知ってるかしら?」
わたしがそういうと穴熊は腕組みをして細長い顔を空に向けた。
「駅ですか。なるほど駅ねえ。あっちいってこっちいってそいでぐるっと回って、いや待てよ、こっちからいってあそこでこうでそういってああいって、いや違うな、やっぱりこっちから行ったほうが……」
そして穴熊はうーむとうなって黙り込んでしまった。
「知らないんだよ」
猫がいらただしく言った。
「わたしもそう思うわ」
そう言ったものの、さてこれからどっちへ行けばいいのかわたしも猫もわからなかった。わたしは霧に息苦しさを感じて空を見上げた。空は相変わらず紺碧の青空に満天の星が輝いている。あまりに不思議と言えば不思議だがもう見慣れてしまった。こんどは普通の夜空の星をみたら驚くかもしれないなと思った。
「ところで駅の名前は何というのかしら?駅だっていろいろあるじゃない」
「そうだな、この町に駅がいくつもあったらたいへんだ。少なくとも駅名くらいはあのベンチに聞いてくるんだった」
猫は自分の迂闊さに腹を立てているようだった。もちろん猫のせいではない。わたしがもっとしっかりしなくてはいけないのだ。
「あなたのせいじゃないわ。わたしもきちんと聞かなかったのがいけないのよ」
穴熊はまだ腕組みをしてこんどは下をむいてうんうんうなっていた。するとそのとき背後から声がした。
「霧の谷さ。霧の谷駅って言うんだ」
驚いて声のする方に振り返ってみると、なんとそこにベンチが立っていた。ベンチは二本の足で器用にたち、細長い体をゆらゆらとさせながらこちらに向かって歩いてきた。わたしは開いた口が塞がらなかった。ベンチはわたしたちの目の前までくると歩みを止めてみんなを見回した。
「霧の街には駅が二つある。一つは霧の谷駅、もう一つは霧なしの丘駅というんだ。二頭のライオンは霧の谷駅のほうへ行くと言っていたよ」
「……あなた、歩けたの?」
するとベンチは自分の足を持ち上げて言った。
「ああおれも知らなかったんだが、いっちまったあんたらにどうしても離れたくなくって気持ちだけでも追いかけようとしたら足が動いたんだ。そのときおれの驚いたのなんの」
「でしょうね。わたしたちの驚きなんて吹けば飛ぶような小さなものよ。想定外すぎるわ」
わたしはベンチをまじまじと眺めた。本来座面である木製の部分が胴体になっていて、あれだけ硬い板が今では柔軟性を持っている。ちょうど猫背のひとのようにベンチは背中をまるめていた。手すりと一体型の足のうち二本を歩く足として使って立ち上がり、頭上に移動した残りの足は腕のようにすら見える。いやきっといつの間にか腕になってしまうのだろう。ただ目だけは相変わらず都合のいい場所に移動してぱちくりしていた。
「歩けることなんて、歩いてみればどうってことないさ。なるほどその方法を知らなかっただけで、一度覚えてしまえばどうしてもっと早く歩かなかったんだろうってなる」
わたしはベンチが急に歩けるようになったわけがわかったような気がした。もちろん以前から歩けたはずがない。よじれてしまったせいなのだ。ただベンチの場合、よじれただけでは歩けるようにはならなかった。
「さあ、行きましょう。ベンチさん、霧の谷駅はご存じなの?」
するとベンチは神妙な顔になっていった。
「いや。なにしろ今の今まで歩けなかったんだ。ベンチに座りにくるひとの話で知っているだけさ。そして二頭のライオンが言っていたんだ。霧の谷駅へ向かうって」
わたしは腕組みをして息を吐いた。
「それだけわかれば十分だ。霧の谷っていうくらいだ。谷を探せばいいんだろう?なら坂という坂をずっと下った先にあるに決まってるさ」
猫はいつもの聡明さを取り戻していた。
「もちろんあなたも来るんでしょう?」
わたしはベンチを見上げた。
「そうしてもかまわないかい?」
ベンチは急におどおどして言った。
「もちろんよ」
「もちろんだ」
猫も同意した。するとベンチは急に元気になって言った。
「そうこなくっちゃ。おれたち友達だもんな」
ベンチは真鍮製の腕でわたしの肩をやさしく叩いた。友達か。そうだ、こんなけったいな友達は世界中探したってどこにもいないだろう。しかし今やわたしは三人の特別に変わった友達を持っている。わたしは嬉しくなって猫に言った。
「猫さん、あなたとわたしも友達よ」
すると猫はそっけなく言った。
「今更なにいってんだ。とうの昔にそうだろ」
わたしは猫を抱きしめた。猫はうわっとか言ったがとくに抵抗せずに抱きしめられていてくれた。涙が目尻にあふれてそれを風がさらった。
「あのう、わたしも友達ですよね?」
穴熊が不安そうな顔をあげてわたしを見ていた。
「そうよ、あなたも友達よ」
猫はけっと言ってそっぽを向いた。穴熊は照れたように長い爪のついた手で頭をかいていた。
「おやおや」
とベンチは言った。
「どうしたの?」
「風さ。風が吹いてきた」
乾いた風が霧を押し流していた。あたりは急に明るくなり視界が開けていた。霧は風から逃げるように下へ下へと降りていった。足元の石畳があらわになると通りは僅かに傾斜のついた坂道だったことがわかった。
「ほらね」
と猫はいってあるき出した。もちろん坂の下に向かってだ。残りのわたしたちも猫のあとを追うようにしてあるき出した。通りは次第に傾斜が大きくなって、両側にたつ建物は階段状に段々をつけて建つようになっていた。風はやむことなく霧を谷の底へと押しやった。霧は霧で風に追いやられるようにも見え、またわたしたちを道案内しているようにも見えた。谷底に近づくに連れて霧は再びその濃さを増した。風も谷の深さまでは届かないのだ。
「なんと運のいいことだろう。通りを下っていくだけで駅につけるなんて」
ベンチはにこやかに微笑んでいた。
「この道の先が駅という確証はあるんですか」
と穴熊が鼻先をくんくんいわせて言った。
「これだけ深いんだから間違いないでしょう」
「もっと深い谷があるかもしれませんよ」
「穴熊くん。いけないなあ、そんな弱気でどうするんだい?ぼくらがそう信じなかったらだれが代わりに信じてくれると言うのさ」
「信じてそうなるのならわけないです。わたしはもっと確実な、そう地図がみたいものです」
「あはあはあは」
とベンチが笑った。わたしはベンチのその笑い方を少し懐かしく思った。
「この街に地図なんかないんだよ。なにしろ一年中霧に覆われているんだ。どうしたら地図なんか描けるんだい?」
谷の底はこれまでにないほど濃い霧に包まれていた。街灯の明かりが霧を照らし、それがまるで白いぼんぼりのように通りに沿って浮かんでいた。ぼんぼりはやがて霧に吸い込まれるようにして消えてなくなり、街路樹になっている木々がその黒々とした枝葉を霧の隙間からのぞかせている以外めぼしいものがなにかあるようにはみえなかった。だから駅舎が突然視界に現れたとき、それはあまりにも唐突すぎて駅を見つけたという喜びが湧き上がってこらず、ただただ目の前の駅舎に圧倒された。
10.
「駅よ」
とわたしが言った。
「駅だ」
と猫が言った。
「駅です」
と穴熊が言った。
「これが霧の谷駅ですよ」
とベンチがしたり顔で言った。
「さあさあなにを佇んでいるのです。はやく中に入りましょう」
ベンチが三段ほどの石の階段を足取り軽く駆け上がるとドアを開けた。最初に猫が、続いてわたしが通り抜け穴熊があとを追うようについて入るとベンチは身をかがめてドアをくぐった。
駅といってどんな駅を想像するだろう。大きな駅に違いないが東京駅などとはその趣きからするとだいぶ違う。高い天井はその上のほうにステンドグラスによる採光窓が大きく取られているが霧によってあまり用をなしていない。そのかわり巨大すぎるシャンデリアがいくつもぶら下がっていてオレンジ色の光を落としていた。天井からの照明はそのシャンデリア以外にそれらしいものはみえないが、駅舎内は十分な明るさに保たれている。わたしはこの駅がどこかに似ていると感じ、一度だけ行ったことがあるパリの北駅を思い出していた。もっとも印象が似ていると感じる程度で実際には似ても似つかない。
駅構内は大きな駅というだけあって多くの人が行き交っていた。しかし、まったくといっていいほど話し声は聞こえなかった。聞こえるのは足音や服がこすれる音、椅子がきしむ音。列車は駅に入線しておらずプラットホームにまで続くドーム状の屋根がかなり先の方まで伸びているのが見えた。
「さて、霧の谷駅に着きました。みなさんはわたしに二頭のライオンの居所を聞きたいと思っているでしょうが、先に言っておきますと、わたしは知りませんからね。ええ、駅へ行くというのは聞きましたよ。でもその駅のどこへいったかなんてどうしてわたしが知っているとでもいうんです?」
ベンチは開き直ったようにやたらに明るくなっていた。
「そうね、ベンチさんの言う通りだわ。でもこうして駅まで来れたのだから、だれかに聞いたらいいのよ。駅にはこんなにたくさんの人がいるんですもの」
と言ってみたものの、わたしは心配でいっぱいだった。この状況は対岸(今ではこちら側だが)に渡るための連絡船と同じだった。人々はただ安らかに佇んでいるだけなのだ。話しかけてもにこやかに微笑むだけで答えてくれるわけもない。かれらは静かにただ行き先を目指して進んでいく。それが一体どこなのかわたしにはわからない。もしかしたら彼らにもわからないのかもしれないが。
「あそこにバーがある」
猫はいうが速いが歩きだしていたから、わたしたちは引きずられうようにして後を追った。猫がバーがあると言ったのは駅構内のずっと奥のほうにある中二階で、入り口付近に立っていたあの場所からよく見つけたものだと関心した。壁伝いの階段は凝った装飾のついた木製の手すりがついていてニスが何層にも塗られてそこへ多くの人が触ることで磨かれてピカピカと光っていた。わたしはそのつるつるの手すりをさわりながらどれだけたくさんの人がここを通ったのだろうと想像した。中二階ゆえにたいして階段をあがらないうちにフロアへつくと、奥の方にカウンターがあり、客席が宙へとはりだして設置されている。まるで駅を一望できるかのように座席が設けてあって、そこでもまた多くのひとが静かにお茶だのコーヒーだのを飲んで佇んでいた。ある人は眼下を見下ろし、ある人は目をつぶり、ある人はどこをみるでもなく。このカフェにおいてもまただれひとり話をしているものはない。まるで図書館の中のような静けさにコーヒーマシンの出すスチームの音だけがけたたましく騒いでいた。
カウンター越しに店員がひとり忙しそうに体を動かしているのがみえた。それは、まだまだ子どもとよべるような年頃の男の子だった。わたしたちがカウンターに近づくとその男の子は大きな声をだして言った。
「今注文きくからちょっと待ってて!」
店員さんはわたしたちに背中をむけてスチーマーでミルクを温めたりコーヒーを淹れたりといくつもの注文を同時にこなしているようだった。あれだけ喋らないひとたちはどうやって注文するのかしらとわたしは不思議に思った。少年が忙しそうなのでわたしはカウンターに背をあずけてカフェを見回した。階段を登って新しい客が三人やってきた。しかし彼らはカウンターへは注文に来ずそのまま各々席についてしまった。ウエイターでもいるのかしらと思ったが、どうさがしてもそれらしい人影はない。というよりも、ここで働いているのはカウンター越しにいる少年ひとりしか見えなかった。カウンターに振り返れば相変わらず少年が忙しそうに立ち回っている。少年はトレイにカップとソーサーを手早く並べるとコーヒーだのミルクだのを順繰りに注いだ。そしてカウンターの下をくぐってこちら側にやってくるとエプロンをはたいてしわをのばし優雅な手付きでトレイを腕にのせて客席へ向かった。客は相変わらず無言のままだったが、少年をみると小さく会釈した。微笑んでいたようにも見えた。少年は慣れた動作ですばやくしかし落ち着いた動作でカップを客の前に並べていった。すっかり並べ終えると少年は客席の間をすり抜けるように歩いてまた戻ってきた。少年の動きがあんまりスムーズなのでわたしはすっかり見入ってしまった。そして少年がやってくると声をかけずにはいられなかった。
「とっても慣れているのね、あんなふうに優雅に振る舞う店員さんわたし初めて見たわ」
すると少年はわたしの顔をまじまじと見てはにかむような仕草をした。
「わからないかなあ」
「え、なにが?」
少年はもじもじしながらもまたわたしの顔を見上げた。その目は透き通るように青く、その髪は金と銀が入り混じって美しくカールしていた。そしてわたしははたと思い当たった。
「あなたもしかしてお星さまの子?あのときたんぼで出会った?」
わたしがそういうと少年はあははははと快活に笑った。
「まだぼくのこと覚えていてくれたんだね。てっきりすっかり忘れちゃったのかと思ったよ」
わたしはまったく信じられない気持ちでいっぱいだった。もうずっと遠いむかしの出来事のように思える。しかしこの少年の顔を見ているうちに記憶が少しずつ戻ってきた。
「だって、あなた弟さんと空へ帰ったんじゃなかったの?」
「うん、一度はね。弟とは隣り合わせに戻ったよ。みんながまったく奇跡だって言うんだけど、ぼくは奇跡なんかじゃないと思った」
「それならどうしてまた降りてきたりなんかしたの?」
「だって、こっちのほうが面白いんだもの。ここの暮らしに比べれば空なんてまるきり退屈だもん」
「弟さんはどうしたの?」
「おいてきたさ。それに一緒に来るかいって聞いたら嫌だっていうからね。弟はお母さんと一緒のほうが安心なんだ。でもぼくはだいぶ大きいからね。ひとりでもまるきり平気だよ。でも降りてきたとこがここだろ?まるで様子が違うからどこかほかの世界へ来ちゃったのかと思ったよ」
少年はわたしがこのカフェに来た時にすぐに気がついたこと、わたしたちほどに変わった人たち(おねえさん以外を人と呼べるのならね、と少年はウインクして言った)は会ったことがないことなどを矢継早にしゃべった。それでわたしはお決まりのように世界がよじれてしまったこと、二頭のライオンに会いにここまで来たことを少年に伝えると、二頭のライオンかあと少年は目を輝かせて言った。
「あったことあるの?」
わたしは自分の心臓の音がのどをつたってくるのがわかった。
「うん、あれもずいぶん変わってた。歩いていく様子がここからよく見えたさ」
「それで、二頭のライオンはどっちへいったかしら?」
すると少年は顎に手を当てて考えたのちこう言った。
「ねえ、それを説明するのはちょっと手間なんだ。温かい飲み物淹れるからちょっと待っててよ」
少年はさっとカウンターへ身を翻すとまた慌ただしくカップを出したり温めたカップにコーヒーを注いだりしだした。わたしはすぐにでも二頭のライオンの居所を聞き出したかったが、だまって椅子に座ることにした。カウンターによじ登った猫が小声で言った。
「あいつ、本当に知ってるのかな」
「知ってるわよ。信じましょう、それにここまで来たんだから慌てたってしょうがないわ」
不思議なことにどんなに気が急いていてもひとに言うと落ち着くものである。猫はてきぱき働く少年をしばらく眺めていたがやがて背中をまるめて目を閉じた。ベンチと穴熊もそれぞれカウンターに据えられた椅子に腰をおろしていた。穴熊はわかるがベンチが椅子に座るというのは奇妙な光景だった。もっとも自分自身に座ることはできないのだからそうするよりほかはないのだ。普通のベンチなら考えたことなどないだろうが、彼は立って歩けるベンチなのだから。
「おまたせ」
少年はカップを手際よく並べた。ベンチと穴熊には甘い香りのするココアを、猫にはミルクを、そしてわたしにはコーヒーを淹れてくれた。わたしはカップをみつめ、ゆっくりと手にとった。熱を指に感じる。湯気が鼻の頭を湿らせる。新鮮なコーヒーの芳醇な香りにうっとりした。コーヒーを飲むなんていつ以来だろう。そもそも世界がよじれてしまってからなにか口にいれたことなどあったかしら。一口すすると苦味と甘みが同居した液体が喉をつたって胃の中へ落ちてゆく様子が手に取るようにわかった。もう一度口を近づける。コーヒー独特の香りが湯気とともに鼻腔を抜けて脳髄を刺激する。チェリーとチョコレートとはちみつを合わせたような香りだ。口に含めば好意的な苦味の奥から甘い味わいが染み出してきて舌の上で流転した。
「こんなに美味しいコーヒー飲んだの初めて」
わたしはカップをソーサーに置いて言った。少年は嬉しそうにカウンター越しに聞いていた。
「うん、ぼくもそんなに美味しそうに飲む人はじめてみたよ」
「あら、だって本当に美味しいわよ」
そういって隣をみると猫もベンチも穴熊も出された飲み物を夢中で飲んでいる。
「みんなも同感のようね」
最初にベンチが飲み干した。ベンチはういーといってまるで酒でも飲むかのように一息つくと満足そうにこちらをみた。次に穴熊が飲み干した。穴熊はカップの底をじっと名残惜しそうにみつめてから長い舌をつかってペロペロとなめだした。猫は広い皿に出されたミルクをゆっくりと舐めていた。こちらは飲み干すまでにしばらくかかりそうだった。
「ねえ、二頭のライオンのこと、お話してくれないかしら」
「もちろんさ」
少年はそういってカウンターをくぐるとこちらに姿を現しわたしの隣に腰を下ろした。
「まずそれにはぼくが空にいたときのことを少し話さないといけない」
少年は懐かしそうに天井を見上げると話し始めた。
「空に戻ってみて、最初に驚いたのは弟はすっかり地上のことなんて忘れてしまっていたってことさ。なにひとつ覚えてなんかいなかったんだ。だからぼくのいうことはまるきり相手にしようとしなくてね、両親だって夢でも見てたんだろうなんていう始末さ。でも夢なんかじゃないのは確かさ。それでどうしても腑に落ちないから星の長老に会いに行ったんだ。星の長老っていうのはとんでもなく古くからいる星のことさ。自分では宇宙と同時に生まれたなんて言っているけどほんとのことはだれも知らないくらい古いのは間違いないよ。その長老が言うにはね、本当はそういうことは忘れてしまうのが普通だけれども、なんかしの手違いでぼくには記憶が残ったんだろうってことさ。もしかしたらおねえさんのいうよじれた世界が原因かもね。とにかくさ、空は戻ってみると退屈でね。ぼくおねえさんに会えたことが忘れられなくてね。ほかの人間にも会ってみたいってすごい興味が湧いてしまったんだよ。それでなんとかしてもう一度人間たちがいる地上へ戻りたいと思っていたんだ。でもそれって簡単なことじゃないんだよ。流れ星みたいにただ飛んでいけばいいってもんじゃないんだ。どんなふうに難しいかっていうと、落ちた先がいつも人間たちの地上とは限らないってことさ。空から見てるとね、落ちることができる惑星の数なんてそれこそ星の数ほどあるんだから。まったく宇宙は広いんだよ。それに上も下もないんだから飛んでいくったってどっちの方角へ飛んでいけばいいのか皆目検討がつかないってものさ」
わたしはこどもにしては難しい言葉を知っているなと思ったが、星のこどもというのは人間にしたら案外年齢が行っているのではないかと思い直した。こどもらしさと知性は同居しても不思議ではない。少年はなおも語り続けた。
「もっというとね、空からみるとこの星がどこにあるのかさえわからないんだ。見えないんだよ。不思議だよね。ここから空をみあげればぼくのお父さんもお母さんもみることができるのに向こうからはまるきりみえやしないんだから。これでぼくの気持ちわかるだろう?闇雲に飛んでいったって命中する確率は万に一つもないんだから、まったく途方に暮れちゃうよ。でもさ。そう思えば思うほどこの星に来たくてたまらなくなったのさ」
それでどうしたのとわたしが聞くまでもなく少年は話を続けた。
「ぼくはね、もう一度長老のところへ会いに行ったんだ。なにしろ一番知恵のある星といったら長老なんだもの。きっと長老ならなにか解決策を見つけてくれると思ってさ。ところが長老が言うにはね、目に見えもしない豆粒みたいな星を探し出すことなど不可能より難しい、っていうんだ」
少年は声を震わせて音調を変え長老のものまねをしながら言った。
「不可能より難しいだってさ、可笑しいでしょ。普通に不可能だでいいんだよね。ぼく長老がそういうもんだから自分が間違っているのか疑っちゃったよ。でもね、さすが長老さ。飛んで見つけるのは不可能より難しいが二頭のライオンに教えを請えば不可能に道が開かれようって言ったんだ」
わたしは二頭のライオンという言葉を聞いて注意が散りかけていた自分の集中力が高まるのを感じた。
「あの二頭のライオンさ。でもそのころぼくは二頭のライオンを知らなかったから、なんですかその二頭のライオンというのはって質問したんだ。すると長老は説明はできんでもいる場所は教えようって指し示した先のしし座の麓に二頭のライオンはいたんだ」
少年はふうと一息ついた。しかし今までの饒舌さとは裏腹に言葉を切り出そうとはしないでカウンターの縁を見つめていた。急に静寂があたりを支配した。それからお湯が沸く音がかぽかぽ聞こえてきた。だれかがコーヒーカップをソーサーに置いたカチリとした音が響いた。誰かがコーヒーをすする音さえ聞こえてきた。少年は焦点の定まらない目でカウンターの先とも手前ともいえない空間を見つめていた。猫はミルクを飲むのをやめて顔をあげ、わたしに向かって眉をひそめた。ベンチと穴熊は寝息をたてて居眠りをしていた。後ろで椅子で床をひく音がした。誰かが立ったか座ったかしたのだろう。しばらくわたしもその沈黙に付き合っていたがどうにも話し出さないので声をかけた。
「それでどうなったの?」
すると少年は夢見心地のような目から我に返ると言った。
「言葉を失うとはまさにこのことだったのさ。だからぼくはそのときのことを思い出して言葉を失っていたの」
掴みかけていた手がかりが遠のいていくとはこのことなのか。二頭のライオンは見つからないだけでなく、話の中からも抜け出してしまうのか。少年は手短にあまりに手短に結論だけを述べて話を終わらせてしまった。つまり二頭のライオンによってこの世界、この場所にくることができたのだと。少年はにこにこと微笑みながらわたしを見つめ、またどこか視点の定まらないところを見つめた。
(それで、二頭のライオンは今どこにいるの?)わたしの中にこのセリフがこだましている。(二頭のライオンはどこ?)しかしその言葉はあまりに直截すぎて少年の話のあとに続けるには無粋な気がした。それでもそれが唯一のわたしの知りたいことでもあった。思い切って切り出してみようかと何度も何度も考えた。なぜ聞けないのか。単純なことではないか。ためらうことなどあるのか。二頭のライオンを探しにここまで来たのだ。そしてその手がかりを知っていそうな人物に出会ったではないか。(それで、今二頭のライオンはどこにいるの?)わたしがためらう理由はただ一つだった。わたしが聞けばそれは少年との別れを意味する。知っていようが知っていまいが、その質問はさよならと同義だ。少年の楽しげな気持ちがわたしに質問を思いとどまらせる。
猫が咳払いをした。そしてわたしはほっとした。少年ははっとした。それからえへへと笑って言った。
「二頭のライオンがね、この駅へくるなんて思ってもいなかったよ。でもやって来たんだ。そしてね、駅の中をずっと通り抜けて森のホームへ入っていったよ」
「森のホーム?」
わたしは本来わたしが言うべき言葉を言わなかったことに恥ずかしさを感じ、少年が切り出したその勇気に感謝していた。
「駅の西のはずれにあるホームだよ。こっからだってみえないことないや」
少年は言うが速いが椅子からぴょんと飛び降りると宙に張り出したテラスから身を乗り出して指さした。わたしも追いかけるようにして少年の指す方角を見た。広大な構内は相変わらず多くの人が無言で行き交っていた。プラットホームはいくつか伸びていてわたしにはそのどれが森のホームなのかは区別がつかなかったが、少年が見えているというのだからどれかのひとつなのだろう。
「ちょっとどのホームかわからないけど」
わたしがそういうと少年は首をかしげた。
「そしたら行ってみればわかるさ」
少年はテラスの柵から飛び降りる。わたしは彼に向き直って膝をつき目線をあわせた。少年は照れたように目をそらし、それからはにかんだ。
「ありがとう」
わたしは少年の手をとって言った。
「また会えるなんて思っていなかったけど、あえてとても嬉しかったわ」
「ぼくだってそうさ。人間に会いたいと思って来たけれど、一番会いたかったのはおねえさんなんだから」
少年はあっという声をあげた。
「そうだよ。おねえさんに会わせてくれたのも二頭のライオンのおかげだよ」
「きっとそうね」
「きっとなんかじゃないよ。だってぼくお願いしたもの。それに二頭のライオンが駅に入ってきたと思ったらおねえさんたちがやってきたんだよ。ああどうしてそれにいままで気が付かなかったのだろう」
「わかったわ。あなたの言う通りね」
「そしたらもうぼく行かなくちゃ」
「引き止めてごめんなさい。仕事があるものね」
「そうじゃないよ。もう帰るんだ星に」
だってあなたここで暮らすんじゃないのとわたしは声に出さずに聞いた。少年は金と銀の涙の粒を大きな目からころころと湧き出させながら一生懸命微笑んでいた。そうではないのだ。期間限定の願いだったのだ。そしてわたしと再開することで願いは聞き届けられ、少年の旅は終わるのだ。わたしは少年の肩を引き寄せてそっと抱いた。少年は小さな手でぎゅっと握りかえしてきた。さようならと少年の声をきいたような気がした。かすかなぬくもりを残して少年はいなくなっていた。
「さあ森のホームへ」
猫が素っ頓狂な声をあげて叫んだ。ベンチと穴熊は飛び上がって起き、客席で息を呑む音がして、わたしは笑った。
「さあ行きましょう。目指すは森のホームよ」
猫はカウンターから飛び降りると真っ先に階段を駆け下りた。次にわたしが、そしてベンチと穴熊があたふたと続いてきた。
「ついに二頭のライオンの場所がわかったんだね」
ベンチが鼻息荒く聞いた。
「あの少年はどこへいったんですか」
穴熊が立ち止まって言った。
「うちへ帰ったのよ」
穴熊はふーんと長い鼻を振った。
「じゃあまた明日ですね」
「明日がくるかどうかもわたしたち次第よ。さあ行きましょう」
少年が指し示した方角へわたしたちはあるいた。駅は広大でプラットホームを何本も通り過ぎた。通り過ぎざまにホームの名前を確認した。海のホーム、霧のホーム、谷のホーム、島のホーム、風のホーム……おおよそわたしが知っている数字とアルファベットだけの無機質なホームとはかけ離れた名前だ。そしてついに森のホームが現れた。森のホームだけゲートがあり名前の書かれた木札が下がっている。
「森のホームよ」
「森のホームだ」
猫とわたしはお互いに確かめあった。ゲートの先にはついたてがあり、そこを回り込んでいかないと中に入れないようだった。友人たちを見回すと彼らの視線はわたしに集まっていた。猫以外は。猫はゲートのほうへ向いたままじっとしていた。わたしは一度目をつぶり深呼吸をした。それから目を開けると同時に一歩ゲートへと踏み出した。
11.
ついたてをまわると薄暗い空間があるだけで行き止まりだった。ついたてをまわって反対側へ出るとゲートを挟んでわたしは友人たちと向かい合った。
「……なにしてんの?」
ベンチが代表して言った。
「……行き止まりだったのよ。ホームへ出られないわ」
わたしは再びゲートを出るとゲートに向き合った。森のホームの札があるのだから森のホームに違いない。しかしゲートの先にはなにもないではないか。背後でベンチと穴熊がなにやら喋っているが耳に入ってこない。それはきっとどうでもいい雑談の類だ。わたしがゲートの先へ行けなかったことで彼らの緊張の糸が切れたのかもしれない。或いはホームへの入り方を議論しているのだろうか。そうだとしても話が終わらないところをみると結論がでるには時間がかかりそうだった。わたしはついたてを見ていた。なぜ入り口についたてなぞ置いてあるのだろう。ホームを外から見せたくない作りなのか。しかし肝心のホームへの入り口がないではないか。森のホームまでやって来て中へ入れないとは一体どうしたものか。それともわたしは難しく考えすぎているのだろうか。わたしは今一度ゲートを眺めた。ゲートがある。そしてあるべきものは入り口だ。……。
「わかったわ」とわたしは正面を向いたまま言った。ベンチと穴熊はおしゃべりをやめた。
「ついたてなんかじゃないのよ。あれはドアよ」
「ドアだって?」
ベンチと穴熊が口を揃えた。
「いい読みだな」
猫は背筋を伸ばして言った。
「ゲートの正面にあるんですもの。ドア以外にないわ。あれが森のホームへの入り口なのよ」
わたしは自分の言葉を行動で証明するようにあるき出しゲートをくぐりついたての前にたった。手を伸ばして触れる。それは一枚の板だった。背の高い板だ。これがドアで開けばベンチは体を曲げずに通ることができる。それくらい縦に長い板だった。まずわたしは板を押してみた。右を押しても左を押しても真ん中を押してもびくともしない。忍者の戸板返しのようなことも期待してみたが板そのものが回転する様子はない。引き戸の可能性も考えたが左右どちらにもスライドしなかった。わたしは仕方なく猫にアドバイスを求めた。
「しかたないわ。あなたならどうする?」
猫はあごでわたしを見るように見上げて言った。
「仕方ないだって?ずいぶん成長したじゃないか。以前なら俺に頼りっぱなしだったのに」
猫はニヤニヤと笑みを浮かべた。
「まあいいさ。これがドアであることは俺も間違いないと思う。それにドアではないかと気がついたのはあんたがここをぐるぐる回ったときさ」
「ぐるぐるなんてしてないわ。ぐるっと一回まわったきりよ」
「とにかく。押してだめなら引いてみなだ」
「引くったって掴むところがないわ」
「ほらそこ」
と猫が言ったのは掴む場所を指して言ったのではなくわたしに対してだった。
「条件反射で答えない。これがドアだってとこまで自分で掴めたんだろ。もう一歩じゃないか?」
猫にそう言われてわたしは再び板に向き合った。立派な一枚板だった。相当に大きな木だったのだろう。表面は限りなく滑らかに仕上げられている。押してだめなら引いてみなと猫は言った。引くために手をかけられそうなところはどこにもない。わたしは一歩下がってみた。ドアのはずの板が少しだけ遠くになって視界が広くなった。押してだめなら引いてみな……。わたしは猫のほうを向いて言った。
「わかったかもしれないわ」
最初に行ったように板の裏側へ回った。こちらから見る板も表と同じく表面はつるつるだった。わたしはその滑らかな板に右手をあてて、押した。
わずかな抵抗があり金属的な音がなってドアが、開いた。ドアの隙間から日差しがこぼれ、薄暗い空間を照らしていった。すこしの力で、あとは自然にドアが開いていった。日差しに目が慣れるとドアの先は下草が生い茂り小さな小川のせせらぎがきらきらと陽光を弾かせていた。わたしはドアの向こうへ踏み出す。そこは森の中にぽっかりと開いた小さな空間だった。柔らかな下草は白や黄色の小さな花を無数につけてその周辺を蝶や蜂が忙しげに飛び回っている。幅が一メートルもみたない小川が森からやってきてこの空間をくねくねと走りまた森へと吸い込まれていった。小川の水は透き通り砂地の底から湧き水がぽかぽかといくつもいくつもあたりの砂を押し上げている。
「ご明答」
猫の声がして、振り返ると仲間がみな揃っていた。
「まったく驚いちゃったよ。ドアが開いてさあ、あんたが立っているのが見えたんだ。ドアはまるっきり素通しみたいだったさ。だから立ってるあんたがちょいとばかりまぬけに見えたさ。ところがさ、あんたが一歩踏み出した瞬間、あんたの姿は消えちまったのさ。まったく驚いちゃったよ。それで慌ててみんなでこっちに来てみればこの変わりようだ。」
ベンチは一気にまくしたてたあとはあはあと息をついた。それからよほど疲れたのか驚いたのか草の上に尻をついて座ってからはあはあと上がった息を整えていた。
「押してだめなら引いてみろって言ったじゃない。でも引手なんてどこにもなかった。それでふと思ったのよ。反対側から押したらそれは手前から引いたことにならないかしらって。そしたらこの通りだわ」
「冴えてるじゃないか」
と猫が言った。
「でもあなたはとっくにわかっていたのよね」
とわたしがいうと猫は首をふった。
「ひとつの可能性としてだ」
「しかし、なぜこんな入りにくいドアなんかにしたのかしら」
「人間を基準に考えればね。これが当たり前というものもいるんだろう。もっとも猫にとっても入りやすいとは言えないが。それでも猫のほうが人間よりも少しばかり当たり前に近かったようだけど」
「とにかく森のホームに入ったわ。ちっともプラットホームらしくないけど」
「少し距離があるのかもしれない。とりあえずそこの美味しそうな水を一杯頂こうじゃないか」
猫はそういって小川に近づくと顔をよせて水を飲み始めた。それをみてわたしも急激に喉が乾いているのに気がついた。わたしは小川の端へ膝をついた。柔らかな下草がひんやりとした。両手で水をすくい口に運ぶ。陽光を受けてキラキラと輝く湧き水はきんと音がするほど冷たい。口に含んだ水が喉元に落ちていく間もなく体に吸い込まれていく。甘い。わたしはもうひとすくいした。水の冷たさで両手が真っ赤になった。口へ運ぶ。甘い。溢れた水が顎を伝い首筋を流れ胸元へと冷たい線を作っていく。わたしは夢中になって水を飲んだ。その水は太陽の香りがした。太陽の香りってなにかしら。でもこの香りは太陽の香りとしか言いようがなかった。柔らかな日差しが作り出す特別な香り。それから甘い水の味わいも喉の乾きが癒えるとともに感じるようになってきた。ミネラル、ハーブのニュアンス、それからハチミツ。水を口に含ませていると次々と味わいが変化していった。こんなに複雑で味わい深い水は今まで飲んだことがない。いや違う。この水をわたしは知っている。どこかで飲んだことがある水だ。わたしは水の味わいに既視感を覚えたが、今はそれ以上思い出すことができなかった。冷えた水で指の感覚がなくなりかけたころ、ようやくわたしは顔をあげることができた。穴熊とベンチはまだ夢中になって水を飲んでいた。猫がいない。わたしが目線をあげると猫は少し離れた草の上に寝転んで日差しに背中を向けて日向ぼっこをしていた。わたしはもうひとすくいだけするとそれをゆっくりと飲み干して手の甲で口をぬぐった。
わたしは猫の傍らにこしをおろした。猫は眉一つ動かすことなくじっとしていた。わたしは猫とは反対に太陽に顔をむけていた。日差しはこれ以上はないというほどにやわらかく、そしてあたたかい。
「こんな感覚思い出せないほど久しぶりよね」
わたしは目を閉じて日差しを全身で味わっていた。
「ずいぶん水を飲んだんだろうね」
猫が緩慢な声で言った。
「ええ飲んだわ。とても甘い水。どこかで飲んだことがあるような水」
「どこでだい?」
わたしはすこし考えてみた。
「それがうまく思い出せないのよ。なんだかぼんやりしちゃって」
「ああ、それは困ったね」
「ところがあんまり困った感じもしないのよ。日差しが気持ちよすぎるせいかしら」
「ああ、それは困ったね」
「なんだか眠くなってきたわ」
「木陰に移動したほうがいいな」
「どうして?」
「だって眠くなってきたんだろ?」
「どうしてあなたは移動しないのってこと」
「頭がまわるうちになんとかしないと」
「眠くなってきたわ」
「寝てはいけないよ、寝ては」
そういいながら猫は静かに寝息を立て始めた。わたしは猫の寝息を聞きながら少しずつ意識が遠のいていくのを感じていた。日差しはあまりにもやさしかった。せせらぎは耳に心地よく、それ以外に音はなにもない。
ベンチは立ち上がってあたりを見回していた。すぐとなりでは川べりに半分落ちかかるようにして穴熊がいびきをかいて眠っていた。視線をあげてぐるっとひと回りしないうちに猫と人間が寝ていた。猫は体を伸ばしてだらしなく口をあけて寝ていた。人間は膝を立ててその中に顔を落っことすようにして眠っている。なぜみんな寝ているのだろうとベンチは考えた。それからなぜ自分は寝ていないのだろうと考えてみた。しかし寝ているのは眠たいからで、寝ていないのは眠たくないからだという理由以外にもっともらしい答えを思いつくことはできなかった。ベンチはみんなを起こしては悪いと思い、なるべく音を立てないように歩こうとした。しばらく歩いてみてそれは意味のない行動だということに気がついた。なぜなら柔らかな下草が歩く音をすべて飲みこんでしまっていたからだった。それに気がついてからベンチは大胆に歩き始めた。まず陽のあたっているあたりを一周しその広さを確かめた。ベンチの観測によれば、それはゆうにベンチが十五おける広さであった。その計算方法についてベンチは生涯を通じて口にすることがなかったから誰にもわからない。それからベンチは森の奥深くを覗き込みながらまた一周した。三六〇度のうち三五五度は完全な闇でその森の奥深さを物語っていた。しかし、残りの五度だけが森の奥に光の痕跡を認めた。そして小川は光がやってくる方向から流れてきていた。
「よしこれで我々の行く先が決まった」
ベンチは高らかに宣言した。小川のせせらぎ以外に音がなかった空間にベンチの声が朗々と響いた。それは今までのどの空間よりも荘厳に響いたため、ベンチは同じセリフをもう一度言わずにはおけない衝動にかられた。もちろんベンチはそうした。
「よし、これで、我々の行く手が、決まった!」
区切ってみると増々音の余韻が良いことに気がついてベンチは続けざまに七回同じセリフを言わないわけにはいかなかった。かすかに残響する自分の声に酔いしれたあと、ベンチは誰一人自分の声を聞いていないことに気がついた。そして誰もが眠りこけていることに腹がたってきた。
「これはまことにいかん。遺憾である。我輩の美声にして誰も彼もが眠りこけるとはまったくけしからん。起こしてやろうかしらん」
このときもベンチは無意味に(ベンチにとっては無意味ではなかったが)声を大にして空気を震わせた。そしてベンチは森の奥にじっと耳を澄まし、自分のこだまがすっかり聞こえなくなるまで待ってから手近にいた穴熊を揺さぶった。ベンチがどんなに揺さぶっても穴熊はただぐんにゃりしているので、ベンチは揺さぶりすぎてもしかして殺してしまったのではないかという不安に襲われた。しかしよくみると穴熊の白い腹はかすかに上下し、しばらくするとまたいびきをかきはじめたのでベンチは安堵した。ベンチは穴熊を諦めて今度は猫と人間に向かった。最初ベンチは猫に手をかけかけたが、思い直して(何を思い直したのかベンチは生涯口にしなかったので誰にもわからない)人間の肩に手をかけた。
眼の前は紺碧だった。しかし色はあれど焦点はどこにもあわなかった。それが壁であれば壁を見ているという認識があるはずだった。海であればうねりを見て取れるはずだった。しかし今目の前に広がる紺碧は色以外になにもなかった。奥行きがあるのかどうかもわからなかった。奥行きの目印になるようなものはどこにもなかった。わたしはただ深い青に視線をさまよわせた。さまよわせたところで見える世界が変わるわけではなかった。ただ一面のブルーがあるだけだ。その蒼さはわたしの視線の先にあるのかすらわからなかった。もしそうならわたしは青の外にいるし、視線よりも手前にあるならわたしは碧の中にいることになるなと考えてはみたものの、結局どっちが本当なのか区別がつかなかった。眼の前に青は見えているものの、なにも見えていないような錯覚。そのときふいに周囲がぐらぐらと揺れたように感じた。貧血のような立ちくらみ感。めまい。平衡感覚の消失。わたしはこみ上げてくる吐き気を感じ目を閉じた。揺れは増々大きくなっていった。きつく目を閉じた裏側で光が幾筋も稲妻のようにほとばしった。ぐあんぐあんぐあん。耳の内側で太鼓を叩いているような音がなりだした。ぐあんぐあんぐあん。ぐあんぐあんぐあん。キーンという耳鳴りが起こり、すこしずつ遠のいていった。同時に太鼓の音が耳の外へと離れていくのがわかった。そしてそれは太鼓の音ではなかった。明瞭さを得るにしたがって理解できる言葉に変化していった。聞き覚えのある声だった。
「ねえ、起きてくださいよ。ねえ、起きてくんなまし。ねえ、起きなさいってば。ねえ、起きないんですか。ねえ、起きろ起きろったら。」
どうしようもなく頭が重かった。何度も意識が遠のきかけたが、その度に揺さぶりと声が降ってきて、わたしを青から引き離した。そしてようやくわたしは目を開けた。ベンチがいた。
「あ、起きた。ねえ、ちょっと聞いてくれよ」
ベンチが言いかけているのを手で制して止めた。視界が明瞭になると同時に頭が回るようになってきた。わたしは立ち上がって周囲を見た。森にぽっかりとあいたオアシスのような場所。湧き水をたたえた小川。小川のほとりでは穴熊がひっくり返っていた。ふと足元をみると猫が眠っていた。わたしは猫を揺さぶった。
「猫さん起きて。猫さん起きて起きて」
猫はぐんにゃりとしたまますーすー寝息を立てていた。
「そんなやり方じゃ起きませんぜ。あんたを起こしたのと同じくらいでないと」
そこで私は声をあげて猫の耳元で言った。
「猫さん起きて。お、き、て!」
ベンチはわたしの肩に手をおいて静かに首をふった。そしてわたしをわきへ退けると猫の体をがっしりとつかみぶんぶんと振り回した。
「おーきーてーくーだーさーい!」
ベンチは終わりざまに猫を空中へ高く放り投げた。猫は放物線の頂点をすぎ、降下を始めたところで目を覚ました。そして今自分に起こっていることを瞬時に理解すると体をひねらせて音もなく着地した。それから猫は大きなあくびを一つすると言った。
「こんな乱暴な起こされかたをするのは初めてだ。しかしそうでもなかったら永遠に眠っていたところだよ」
「ねえ、俺が起こさなかったらそうなっていたさ。でもなんでみんなして眠ってしまったりしたんだい?」
「水さ」
「水よ」
猫とわたしは同時に言った。
「水?」
「小川の水よ」
「あの水なら俺だって飲んだのに?」
「あなたは、本当の意味では飲んでいないわ。みんな板の隙間から流れていってしまったのよ」
「しかしなんだって小川の水を飲むと眠くなるんだい?」
わたしは首をふった。
「さあね。そんなことをしたって誰の得にもなりゃしない。もしかするとこれもよじれた性かもしれないな」
猫が小川をじっとみつめて言った。
「穴熊も起こしてくれ。はやくここを出よう」
穴熊はベンチに何度も放り投げられてようやく起きた。落ちても下草が柔らかく受け止めてくれたので穴熊は怪我ひとつしなかった。
「さて問題はどの方角に向かうかだ」
猫はわたしにむかって言ったが、そこへちょうど穴熊を起こしたベンチが戻ってきた。
「それならわけないよ。俺たちが向かう先はひとつしかないんだから」
そしてベンチはこのオアシスを一周して光が差す方角は一箇所しかないことを語った。
「信じられないというなら自分で調べてみるといい」
「信じてるさ。それでも確認しておくのは悪いことじゃない」
猫はそういってあるき出したので、わたしもあとについていった。原っぱの縁、森が始まる際までくると森奥深くに視線を向けながらぐるっと一周した。やはりベンチの言ったとおり光のやってくるところは一箇所しかなく、それは小川の流れてくる方角と一致していた。ベンチは小川のほとりに立って満足げにうなずいていた。
森に足を踏み入れると明るさは一変した。先に光が見えるとはいってもそれはずっと奥のことで、頭上は木々が覆い太陽を遮っていた。小川は漆黒の流れに変わった。薄暗い足元は木の根がいたるところで張り出し、石がごろごろしている。わたしは躓かないように気をつけながら足を進めていった。小川に沿って歩いているというだけで道などないのだから。
「なあ。おかしいと思わないか。おれたちは道を下っているのに小川の流れはまるきりあべこべなんだぜ」
そう言われて小川を覗き込んではっとした。川はわたしたちの向かう方向から流れてくる。しかし、歩いてきた道はずっと下り調子だったのだ。そしてそれはこの先も変わりそうにない。ベンチも川をみて驚いているようだった。
「これもよじれたせいかしら」
「
わたしたちは一言も言葉を交わさずにひたすら光にむかって歩いた。猫と穴熊は荒れ地に慣れているのか少しずつわたしより先を駆けるようにして差を広げていった。ベンチは足場の悪さに苦戦しているようだった。さっきまで聞こえていた激しい息遣いが次第に遠のいていった。猫と穴熊はほとんど走っていた。そして光の中の影となり点となりやがて視界から消えた。
ずっと下り調子とはいえ、わたしの息が上がってきたのがわかる。先を急ぎたい気持ちが先走ると決まって木の根に足を取られた。足元の注意を怠ればまるでわざとやっているかのように木の根がわたしの足を引っ掛けにくるようだった。そしてついに木の根はわたしの右足を捉え、わたしは前のめりにころんだ。手をついた先は原っぱとは別物だった。ゴツゴツした石は手のひらをしびれさせた。膝は擦りむいて血が滲んだ。わたしは深呼吸をしてその場で少し休むことにした。光はこぶしほどに大きくなったけれども外の世界が見えるほどにまだ近くなかった。焦ることはない。時間はないがあるのだ。焦ってさらに大怪我をするよりも落ち着いてゆっくり行ったほうが結局速いのだ。うさぎとかめうさぎとかめ。
わたしは立ち上がって小川のほとりに向かった。逆向きに流れる川。低い方から高い方へと流れる川。そんなことが本当にあるのかしら。そう思ってわたしは水の中へと手を入れた。混乱。今なにが起きているのかすぐには理解できない。なんだこれは。どういうことなのか。わたしは手を引っ込めて濡れる手を握って川を見つめた。そして再び手を川の水へと差し込んだ。今度はわかった。川は見えているのと反対の方向に流れていたのだ。つまり、高い方から低い方へだ。しかし目に見える川面は逆流しているとしかみえない。これがわたしを混乱させた原因だ。視覚と触覚が一致しなかったからだ。わたしは川の水を手でかき回してみたが、なにも変化は起きなかった。つまりあべこべのままということである。これがよじれているということなのか。しかしよじれているのはどちらのほうなのだろうか。普通に考えれば見えているほうがよじれていると考える。水は高い方から低い方へ流れるからだ。しかしここの世界は普通ではない。すると実際に流れているほうがよじれているのか。そこでわたしははたと実際がどちらを指しているのかさえわからないことに気がついた。
「まったくわからないわ」
そう声に出していうより仕方なかった。そうやって声にだしてこの問題をなにかに預けでもしなかったら自分自身の頭がどうかしてしまいそうだった。
「まったくわからないわ」
声は反響することもなくどこかに文字通り音もなく吸収されてしまった。そして再びわたしはあるき出した。目指す光は徐々にその大きさを増していった。
小川のほかにみるべきところのない森だった。前方に左右に大きくゆれる影をみつけそれがベンチだとわかったからわたしは歩く速度を落とした。光は次第に色彩を帯びてきた。出口が近づいている証拠だ。森のホームはこの先にあるのだろうか。ホームの入り口がホームに通じていないなんてことがあるのだろうか。しかしここではなんでもあり得るのだ。入り口の先にホームがないことくらい大したことではない。二頭のライオンは……、二頭のライオンは果たしてどこで出会えるのか。そしてよじれた世界を抜けて元の世界へ帰れるのか。元の世界……。わたしは元の世界がどういうところなのか忘れかけていた。そしてこの世界により現実味を感じている自分に気がついた。驚かなかった。苔むした岩の湿った手触り。足元に執拗に絡んでくる木の根。ベンチの雑言。それらのリアリティに比べれば元の世界は今や夢の国そのものだった。
ベンチの後ろ姿を捉えた。同時に出口の先の景色が目に入った。そしてまずベンチが次にわたしが森のトンネルをついに抜けた。あまりの眩しさに目を開けていられなかった。目を閉じ、隙間から入る光に徐々に慣らしながらあたりを伺った。草原。今度は道があった。土むき出しの茶色い道が草原を貫き、石垣へと達していた。人工的なものはその石垣しかない。草原の真ん中にある長さの石垣が建っている。石垣は大して高くもなく、おそらくわたしの胸の位置くらいだ。そしてその向こうはまた草原が広がっていた。
「よし行こう」
猫が前方をすでにあるきだしていた。穴熊もあとに続いていった。眩しさにとまどっていたベンチとわたしはあとに続いた。ようやく目がなれて猫に並んだ。
「こんどはどこまでいくのかしら」
「この道の行き着くところだ」
「石垣で行き止まりだわ」
「ああそれでいいんだ」
長く伸びた石垣が次第に近づいてきた。石垣のそれは……、見覚えのある形をしていた。プラットホームだ。石垣がいよいよ目の前にくると草に埋もれたレールが現れた。猫は一飛でホームに飛び上がった。わたしもホームによじのぼった。穴熊も軽快に飛び上がった。ベンチは足の長さが足りなくてわたしと穴熊が手助けをしてどうにかのぼった。猫は首をふってあごをしゃくった。見ればホームの反対側に階段があった。当たり前だ。ここは列車のホームなのだ。なにも列車側からよじ登ることはなかった。しかしわたしたちはあらゆることが不自然なことに慣れすぎていて、レール側から登ることに違和感を感じなかったのだ。階段の存在を知ってわたしと穴熊とベンチは吹き出した。猫だけがレールの彼方を心配そうに見つめていた。
わたしは猫の隣に立った。それから猫のみやる方角を眺めた。レールは緩やかに左右にうねりながらもほぼまっすぐに伸びていた。そしてそれは反対側もまた同様だった。
「さて、どうするかな」
猫はひげをなで背伸びをした。そしてわたしははっとした。
「二頭のライオンはもう乗ってしまったってこと?」
猫はようやくかという顔をして言った。
「ここにホームがあって、だれもいないとあればね」
「わたしたち乗り遅れたのね」
わたしの背中を冷や汗がつーと伝うのがわかった。
「小川の水を少しばかり飲みすぎたな」
「時間の止まっている世界で電車に乗り遅れるなんて洒落にもならないわ」
「時間だけが止まっているんだ。ほかのなにもが止まっているわけじゃあない。事実おれだってあんただって、それに列車だってさ」
「わかってるわ。ただどうしても言わずにはいられなかったの。さあ困ったわ。しかし考えなくっちゃ」
「さてなにを考えるね」
猫の問いにわたしは答えなかった。そのかわり目をつぶり腕組みをした。どこからともなく天啓がおりてくるとはとうてい思えなかった。だから自分でどうにかするのよ。しっかりしなさい、わたし。
日差しはまるく柔らかにわたしの背中を暖めていた。時折冷涼な風が首筋や指の間を通り抜けてさっきの冷や汗をひんやりとさせた。風はくるくる踊るようにしてわたしの髪を揺らしまつげを震わせた。風の子たちがいたずらをしているのかしらと思った。耳をすませば風の子らの歌声が聞こえてくるに違いないわと思った。それはどんな歌かしらと考えた。
つくつくつくねが焼けた。
ツクツクボウシのつくねが焼けた。
わたしは小さく声にだして笑った。我ながらなんとセンスのない歌詞だろう。わあと小さな子どもたちが一斉にたてる笑い声を聞いたような気がした。
つくつくつくねが焼けた。
ツクツクボウシのつくねが焼けた。
子どもたちが合唱する声。そして笑い声。冷たい風が指の間を行ったり来たりした。それからまた子どもたちが歌う声がした。
つくつくつくねが焼けた
ツクツクボウシのつくねが焼けた。
目をあけると半透明の衣をなびかせた小さな子どもたちが無数にわたしのまわりと飛び交っていた。親指ほどの小さな小さな子どもたちだった。そのうち何人かがわたしの目の前で止まる。
「おねえさん面白い歌知ってるねえ。その歌たいへん変わってるねえ」
それからケタケタと声をあげて笑った。そしてまたわたしのまわりをクルクル飛び回った。わたしは驚いたのではなく、うれしい気持ちがこみ上げていることに気がついた。子どもたちの体はまとっている衣と同じように透き通っていた。それが光の具合でまるきり透明になったり半透明になったりしているように見えた。
「あんまりおかしいんでぼくら笑っちゃった」
ひとりがそう言うとまた周囲からけたけたけたという笑い声が響いた。わたしはしばし子らに見とれていた。わたしの周りを優雅に飛び交う風の子たちは見飽きることがなかった。彼らは飛んでいるというよりむしろ泳いでいるようであった。空中を飛ぶというにはあまりにも滑らかで、空気という流体の中を泳ぐアザラシやペンギンを想像させた。
それからまたこんどは三人がわたしの目の前でとまった。
「ねえ、それでなにを知りたいんだい?」
子らは目配せをしながらはにかんで言った。
「知りたいってどういうこと?」
わたしは素直に聞いた。
「なにかを知りたくってぼくらを呼んだんだろう?」
真ん中の子がいたずらっぽく笑って言った。わたしはすぐに答えずに頭を整理してから言った。
「そうね、なにをおしえてくれるのかしら」
「そいつぁ聞いてみないとわからないよ」
両端の子らが声をあげて笑った。お腹をかかえて空中に寝っ転がって足をばたばたさせて笑った。
「そうね。どうしたら二頭のライオンに会えるかしら」
ぷーっとひとりが吹き出した。子らはけたけたけたと笑った。
「二頭のライオンならさっき列車に乗っていったよ」
ようやく落ち着いた子が言った。
「ええ、それは知ってるわ。わたしたち乗り遅れたの。だからどうすれば二頭のライオンに追いつけるのか知りたいのよ」
風の子らはいつの間にか数を増やして十人ほどになって互いに肩を組んでいる。
「追いつけっこないよ。だって列車は風よりも速いんだから」
全員が合唱するように笑った。
「じゃあ、どうしたら二頭のライオンに会えるのかしら」
わたしは質問を変えた。すると子らは笑うのやめて互いに顔を見合った。そして中央の子が代表するように話しだした。
「先回りすればいいのさ。そしたら列車より先に着けるよ」
「風よりも速い列車の先回りができるというの?」
「そうさ。列車は速いけど遠回りなんだよ。いそげばまだ間に合うんじゃないかな」
「秘密の抜け穴でもあるのかしら」
「べつに秘密でもなんでもないさ。ただ知ってるか知らないだけ」
「お願い教えて、それはどこにあるの?」
「お姉さんの立っているところさ。駅は次の駅とつながっているんだよ。誰も知らない有名な話さ」
「誰もしらないのに有名なの?」
「そう。誰もが知ってるから誰にも聞かないだろう。誰もが知ってるから口にもださない。そしたら誰もが知ってることだけど、いつの間にかだれも知らないことになっちゃった」
「あなたたちは忘れてなかったのね」
「だれも忘れてなんかないさ。ただだれも聞かなかっただけ」
「そう。とにかくありがとう。これでまた希望がでたわ」
「こちらこそおかしな歌をありがとう」
風の子らは口々にありがとうありがとうと言ってわたしの前を通り過ぎさきほどわたしがつくったへんてこりんな歌を合唱しながらひとりまたひとりと視界から消えていった。
「ああそうだ」
最後のひとりが立ち止まって言った。
「日が暮れる前だよ。暮れたら間に合わないよ」
最後の子は片目を不器用につぶってウインクをするとひゅっと音をたてて消えた。
風がわたしの髪を揺らすのを感じた。わたしは鼻から空気を吸い込んでゆっくり吐くとゆっくりと目を開けた。あたりはオレンジ色の光で満たされ、わたしの影が線路を横切って草原へと伸びている。さっきまで青々と茂っていた草は今緋色に染まっていた。今のは夢だったのだろうか。だとしたらあまりにも都合がよすぎる夢である。風の子らは現実だったのか。だとしたらあまりにも都合がよすぎる現実である。しかし…と、ふと振り返りホームの反対側まで歩く。太陽は今まさに沈まんとしていた。ここでは太陽が沈むのか。ホームの下を除くとはたして鉄でできた入り口が見えた。わたしはもう一度太陽に背を向けて猫のそばへとやってきた。猫は眠っていたようだが、わたしの影を感じると耳をヒクヒクと動かして起き上がりわたしを見上げた。
「ねえ、猫さん」
とわたしは話しかけた。それからさきほどあった風の子らの話をした。そして本当にホームの下に入り口があることも聞かせた。
「それならなにを迷うことがあるんだい」
と猫は言った。
「するどいのね」
わたしは線路の彼方を見つめた。夕日がレールにあたり、それは一条の光となってどこまでも続いていた。
「こんなのってないと思うの」
わたしは地平に目を据えていた。レールの光は徐々に力を失いつつあった。
「二頭のライオンを追いかけて、ずっと追いかけてきてあともう一息ということろで先を越されちゃうの。これって偶然なの、それとも二頭のライオンはわたしたちから逃げているわけ?それだけじゃないわ。いよいよ見失って途方もなくなるとどこからともなく助けが現れるのよ。もちろん親切だしありがたいと思うわ。だけど…だけどなにか違う感じがするのよ。そしてその違和感は風の子らで決定的だったわ。いくら世界がよじれてるからといって、こんな都合のいいことってあるかしら。それで察しがついたのよ。こんな親切ってみんな二頭のライオンが仕向けてるってこと」
「ふーむ、それは大胆な仮説だ」
「ええ、大胆かもしれないわ。でももしそのとおりだとしたらわたしたちは絶対に二頭のライオンには追いつかない。遊ばれてるのよわたしたち」
「でも間違っていたら…」
「間違っていたら今度こそ絶体絶命ね」
レールの光は失せ太陽は地平線の彼方へと消えていった。日暮れまで、と風の子らが言ったそのときは今まさに過ぎたのだ。それはいまさら地下通路を通って先の駅へついても列車はすでに過ぎ去っているということだ。しかしもしわたしの仮説が正しければ、たとえ地下通路を行ったとしてもあと一歩のところで列車を取り逃し、結局二頭のライオンには会えないことには変わらないのだ。そしてその仮説をわたしは仮説とは思っていなかった。それは確固たる事実として以外受け取りようがないほどにわたしのこころを支配していた。猫はなにも言わなかった。ただ一度切り太陽のほうへ顔を向けてその空にもう太陽の姿を認めないことを知るとまだらに忍び寄る闇に向かってまんまるの目を見開いていた。わたしはベンチの方へ顔を向けた。ベンチは眠っていた。長く伸びた身をホームに横たえていた。足を曲げて寝ていたため、座面がホームに直にふれていた。まるで足のないベンチがホームに置き去りにされたような格好だった。穴熊はそのベンチに座るわけでもなく、ただその背もたれに寄りかかってホームに座って寝ていた。猫が仮説と呼んだわたしの考えが正しければ、ベンチもまた二頭のライオンがよこした使いというわけだ。ベンチはそれを知っているのか。だとしたら大分悪どい行為と思わざるをえないが、おそらく知らないのだろう。みな、二頭のライオンの魔法かなにかにかかってそうしているだけなのだ。ベンチがそれほどまでに自分の真意を隠し通せる演技ができるとは思えなかった。そして実際わたしはベンチがそうした人物でないことを知っていた。さて穴熊はどうか。いや穴熊は二頭のライオンとは無関係だ。穴熊は旅の道連れにすぎない。もちろん今ではよき友人の一人だ。穴熊は純粋だ。ベンチも純粋だ。彼らのためにもはやく二頭のライオンに会わなければならない。今わたしのとった行動は、そのチャンスを不意にしてしまったのだろうか。わたしはかぶりを振ってその考えを頭から追い出した。出て行け。出て行け。出て行け。わたしは正しい。わたしは正しい。わたしは正しい。両目をぎゅっとつぶって、目の中のチカチカが無数に飛び回るのをみた。それらが四方に飛び散ったあと、ぐるぐると流れる赤と黒の色合いを見た。それらが凪ぐと、青が見えた。どこまでもどこまでも深い蒼。その碧をみてわたしは懐かしいと感じた。長く忘れていた青だった。新鮮な気持ちが胸いっぱいに広がり、冷涼な空気が肺を満たしていくのを感じた。わたしが手を伸ばすと青は指先から逃れるようにして遠ざかった。永遠に届かない碧。今度は腕をぐっと曲げてこちらに蒼を手繰り寄せるような仕草をした。こっちよ。こっちにくるのよ。手を伸ばしても届かないならあなたが来ればいいのよ。次第に青はわたしを満たしていった。視界の先はどこまでも蒼で染まり、引き寄せた指先にさえその青が絡みついた。
12.
その時だった。遠くで汽笛が鳴った。はっと目を開けると彼方に光の点がついていた。そしてその光がこちらに向かってまたたく間に迫ってきた。汽車は滑るようにレールを走り、ホームに入線するなり盛大にブレーキの音をたてて減速し、そして止まった。それはほとんど急停車に近かった。それまでの優雅な走りとは対照的になんとも不格好な停止だった。ホームの端までいった先頭の蒸気機関車は停車した後も激しく真っ白な蒸気を撒き散らしていた。眼の前の客車のドアが開く。室内から緋色の光がこぼれた。わたしは猫の顔を見た。猫もわたしの顔を見返す。
「列車の時間かえ?」
後ろからベンチの声がした。ベンチも穴熊も汽車のけたたましい音で目を覚ましていた。
「これに乗っていくのですね」
穴熊が納得したように言った。
「いいえ、違うわ。来たのよわたしたちのところに」
客車の入り口に向かってなにかが近づいてくる気配がわかった。それは客車の細いドアを体をよじるようにしてすり抜けてでた。そして出てみるとその姿はわたしを見下ろすほどに大きくなった。四本の足は太く、その爪は深い毛並みに埋もれてなお鋭さが際立ち、金色の毛皮が客車から漏れる光によってより一層その輝きを深めている。なによりもそのひとつの体から首が二股に分かれ、二つの頭がそれぞれに乗っていた。毛皮よりも一段深い金色のたてがみが両の頭をまんべんなく覆っており、その毛並みは胸まで達していた。わたしは目の前に現れたそれに文字通り息を呑んで見つめていた。そして本当に息をとめていたことに気がついて空気を吸った。そのとき気道がスパと音がするほどわたしは息をつめていたのだ。
「言うまでもなく」
猫が見上げていった。
「ええ。二頭のライオンだわ」
二頭のライオンはそれぞれの頭でわたしたちを一通り眺めるとくるりと背を向けてふたたび客車へと乗り込んでしまった。客車はわずかに傾いでみせたがすぐにその揺れも収まりあたりはしんとなった。
「乗るわよ」
わたしは言葉に力を込めて言った。二頭のライオンを前にしてあの猫でさえ威勢の良さが消えていた。ベンチと穴熊にいたっては震えてがたがたと音を立てているくらいだ。ライオンといったって野生のライオンとは違う。神様みたいな存在なのだからまさか食べられたりはしないだろう。それよりもわたしは列車が行ってしまわないかのほうが気になっていた。
「行くわよ」
わたしは大きく息を吸うと客車のステップに足をかけた。一段、二段、三段。階段を上りきると右手に手動式のドアがある。客車へ通じるドアだ。ドアには小さな窓がはめ込まれていたが表面がでこぼことしたすりガラスで中の様子はわからない。また深呼吸のしなおしだわ。わたしは腹の中で毒づいた。わたしは深く息を吸うと躊躇しないでドアを開いた。
わたしはまばゆさに目を細めた。あんまりまぶしいので手でひさしをつくり目を細くあけて見た。当初の鮮烈な眩しさが収まり、少しずつ周囲の輪郭がはっきりしていく。しかしその状況を整理するのに時間がかかったのは、眩しいだけではなかった。ようやく光に慣れて目から鼻から肌から今わたしがどこにいるのかを理解した。わたしは下草の生い茂る草原の只中にいた。
草原の、わたしから二十メートルほど離れた先に岩があり、二頭のライオンはその上に身をよこたえていた。冷涼な風が膝丈の下草をなびかせ、さらさらという音を伝えていった。やわらかな日差しが降り注ぎ、見上げれば濃紺の空が広がっている。そして、またしても、太陽がなかった。
「こう草が深いと、見通しが悪くていけないね」
猫がそういうやいなや猫の体は下草によって持ち上げられた。
「おほ、なんだか懐かしいね。下草のベッドだ」
猫だけでなかった。ベンチも穴熊も、わたしも下草のベッドによって持ち上がられて、するすると送られるようにして二頭のライオンの前まで運ばれてしまった。やっやっやとベンチが言った。わっわっわと穴熊が叫んだ。しかしわたしは声を出すことすらできなかった。二頭のライオンはわたしたちを見ているのかその先を見ているのか視点の定まらぬ風にこちらに向いていた。たてがみが風になびき日差しを受けて輝いた。そのときわたしは悟った。二頭のライオンのたてがみは金色なのではない。金なのだ。それは星の子の涙の雫のように。
わたしは草の上に立ち上がった。両手を握ってみたが、言葉がなかなか口をついてでてこない。なにから話せばいいだろう。なにをはなしたらいいのだろう。心臓が極端にはやくなり、どこどこいう音が聞こえてきそうだ。二頭のライオンはわたしを見るでもない風にして顔だけはこちらに向けている。とにかく一番訴えたいことを最初に言えばいい。その先はその先だ。わたしはそう腹にくくると息を吸って口を開いた。
「二頭のライオンさん、このよじれた世界を元通りにしてください」
二頭のライオンは二つの頭で同時にあくびをするとむにゃむにゃと口を動かし、そして片方の頭が言った。
「まったく、よじれてこの方どうも頭が働かなくっていけない。あんたは見るところ人間だね。それに猫に穴熊に…ベンチ。奇妙な組み合わせだね。まあいい。それで、あんたはわしによじれた世界を直してほしいと、そういうのだね」
するともう一つの頭が口を挟んだ。
「わしにはよじれた世界をもっとよじれさせてほしいそう聞こえたがね。そら何回かよじってみれば元通りになるかもわからん。つまりそういうことだろう」
「頼むから寝ていておくれ。おまえさんがああでもないこうでもない言うから頭がこんがらがるんじゃ。よじれたものをいくらよじったところでもとになんか戻るわけがない。そんなこと考えるまでもないことなのに」
「頼むから眠っておくれ。わしの考えがあっちこっちいってしまうのもおまえさんが目を覚ましたからにほかならないのだから」
「ねえ、二頭のライオンさん。一体どうしたというの」
二頭のライオンは互いの顔を見合わせると諦めたように首をふった。そして片方の頭が言う。
「猫、お前が説明しろ」
猫は急に名指しされて飛び上がって起立し直立不動で返事をした。
「ははははい。おおせのとおりでございます」
そして猫はわたしに説明した。二頭のライオンの二頭ともが目を覚ましていることが異常事態だった。通常片方の頭は眠っている。二頭のライオンは二つの世界を同時に俯瞰できる唯一無二の存在だった。こちらの世界では片方の頭が起きていて、もう片方が寝ている。あちらの世界ではその反対の状態になっている。したがって頭の混乱を来すことなく二頭のライオンは常に両方の世界を同時に生きているのである。ところが世界がよじれたせいで、こちらの世界で寝ているはずの頭が目を覚ましてしまった。それはもう片方の世界でも同様であり、二頭のライオンが「いつもとはちがう」状態にあるのだという。
二頭のライオンは猫の説明をぼんやりした眼差しで聞いてたが始終欠伸をしっぱなしだった。それもそのはずで眠ることができないからである。それでいて眠気のほうは襲ってくるものだから始終欠伸ばかりすることになった。
「つまりはこういうわけなのさ」
猫がわたしに語り終えたとき、二頭のライオンはとびきり大きな口を開けて欠伸をし、研ぎ澄まされた鋭い牙が所在のない陽光にきらめいた。猫はそれを見て毛のさざなみが全身を巡った。二頭のライオンは両方の頭を何度か振り眠気を追い払おうとした。それから四つ足で立ち上がると空を見上げそして視線をわたしたちに落とした。しかしそれからなにか言うでもなくじっとわたしたちのほうへ顔を向けるばかりであった。わたしは落胆していた。ようやくたどり着いた二頭のライオンは双頭のライオンであることの驚き以外はとても期待に応えてもらえそうになかったからだ。そしてその驚異も新鮮味を失うとともになくなっていった。つまり見慣れたということだ。わたしの目の前には頭が二つあるライオンがいるだけだった。襲ってこないだけましだわとまで考えるようになっていた。そのとき二頭のライオンが思いがけないことを言った。
「さて、そろそろこのよじれた世界を元通りに直してもらおうか」
二頭のライオンは明らかにわたしにむかって言っていた。
「なんですって?」
わたしは思わず聞き返した。だってそうだろう。わたしが、わたしたちこそがよじれた世界を直してもらうために二頭のライオンのところまで旅をしてきたのである。それなのにいま二頭のライオンはなんと言ったか。わたしに直せと言わなかったか。
「世界がよじれたのはお前のせいだ。だからお前が直せと言っているだけではないか。なにをそう取り乱すことがあるか?」
二頭のライオンは日常のルーティンをこなすがごとくさも当たり前にそういった。
「おっしゃっている意味がわかりません。わたしたちはあなたにこのよじれた世界を直してもらうためにこうしてここまでやってきたのです」
すると二頭のライオンは大きくかぶりを振った。もっともそれはとりついた眠気を振り払うためだったかもしれない。
「いやいや。もしわたしに直せるのなら、お前が来ずともとっくに直している。このよじれはだれにとっても不都合でしかないのだ。この私にでさえ」
わたしは言葉を失っていた。なにも考えることができなくなっていた。しかし二頭のライオンが言うことももっともなことだった。しかし、でも、だけど……。
「しかし、それではここまで長い旅をしてあなたに会いに来たのはなんだというの?」
「お前が会いに来たのではない。私がやってきたのだ。それはお前がそう望んだからにほかならない」
「おっしゃっていることがまるでちんぷんかんぷんだわ」
そう言いながらわたしはわかりはじめていた。駅のホームで確信めいた感覚があった。そしてそれは正しかった。しかし腑に落ちないこともあった。
「それじゃあ、もしわたしがもっと早くにあなたに会うことを望んだらあなたは来たって言うの?」
二頭のライオンは笑いながらもちろんだと答えた。
「ここまで来るのに大変な旅をしてきたのよ。あなたこそわたしに早く会いに来たらよかったじゃない」
「それはできない。私は求められれば現れるが、自分から赴くことはない。お前は旅することを望んだのだ。だから私はお前の求めるままに一歩先をいったのだ」
わたしは頭にきてしまった。
「なによそれ。みんながあなたを神様みたいにあがめるのはなにかの間違いね。ただの主体性のない天の邪鬼じゃない」
「おいおい、ちょっと口を慎めったら」猫がわたしの靴を噛んで言った。
「そうだ。私は在ると同時に無い。主体であると同時に客体である。相反するすべての存在なのだ。そしてその存在もない」
二頭のライオンは当然の口ぶりでそういった。
「ずいぶんもったいぶったものね。自分で言っていて意味がわかっているのかしら」
二頭のライオンは静かに笑った。
「威勢のいいのが来た」
「まあまあまあここはひとつわたくしにお任せください」
猫がわたしのスカートの裾を引っ張って背を向けさせた。
「おい、あんまり調子に乗るな。二頭のライオンの前であんな口をきくやつは初めてだぞ。これだから人間だ。いいか、二頭のライオンの力を見くびるな。神様だって二頭のライオンの前では膝をつくぞ。もっとも神様がいればの話だけどな」
「でも二頭のライオンはわたしに直せって言ったのよ。これ以上なにを期待したらいいっていうの?」
「それじゃあ聞くけどな。あんたはよじれた世界の直し方を知っているのか?」
「知るわけがないことはあなたが一番知っているでしょう?」
「そうだ。では誰が知っているのか?」
猫の答えは一人しかいなかった。二頭のライオンである。わたしがそう答えなくても猫はうなずいた。
「いいか。無駄な問答は無用だ。ようやく訪れたチャンスは最後のチャンスだと思え」
猫はもっと言いたそうであったが口をつぐんだ。わたしは再び二頭のライオンに向き直った。わたしは大きく息を吸った。そして口を開こうとしたその時、ベンチの声がした。
「あのう。おほん。僭越にしてまことに恐縮ながらわたくしめに話す機会をいただきたくお願いしたくかしこまりたくたくたく」
「ベンチ」
とひとこと二頭のライオンは言った。
「ははい」
ベンチは飛び上がった。
「わたくしの言いたいことはつまりその世界がよじれなくなったとき、わたくしは一体どうなるのでしょうか」
ベンチは起立して目一杯足を伸ばして言った。
「それはベンチだろう」
「やややはりそうでありますか」
「ベンチ以外になかろう」
「ももももちろんそうであります。ただわたくしが申し上げたかったことは、こうして立ったり歩いたり手を振ったり腰をそらしたり物を見たり口をきいたりすることが直ったあとも叶うのでありますでしょうかということでしょうか」
「それは叶わぬ」
「すすすするとここでベンチとして一生を過ごすことになるのですか。こ
こには人っ子一人おりませんでそれはあんまりだと思います」
ベンチは泣き出した。涙が座面を伝い地面へと流れ落ちていった。となりにいた穴熊までもが泣いていた。
「どこならいいと言うのか?」
二頭のライオンの低い声が響く。
「ねねねねがいを聞いてくださるというのですか。わたくしはできればあちらの世界へ行ってみたく存じます」
「移ったかといえ、お前にその知覚はないぞ。それでも行くか」
「はははい。あちらとこちらをまたいだベンチとしてベンチ史に名を残せれば満足でございます。それに誰も座ってくれるひとがいないベンチなどどんな価値がございましょうか。座ってもらってこそのベンチであります」
「よかろう」
二頭のライオンはうなずいた。穴熊が長い爪をいっぱいに伸ばして手を上げていた。
「わたわたわたくしの願いも聞いていただけますでしょか」
「私は聞いてもいるし聞いてもいない」
「だ、だだだだだだ、だっだっだ」
穴熊は緊張のあまり卒倒した。わたしが駆け寄ったとき、ベンチが穴熊を抱きかかえていた。穴熊は夢うつつにもにゃもにゃとつぶやいていた。
「穴熊は大丈夫だ。おれが見てる」
ベンチは力のこもった声で言った。わたしは穴熊のお腹にそっと手を触れた。穴熊の腹は温かく静かに上下していた。
「猫はどうするか」
二頭のライオンは眠たげな目を猫に向けて欠伸した。
「いえ、猫は気の向くまま風の吹くままです」
二頭のライオンは軽くうなずくとわたしと目が合った。二頭のライオンはその場で足踏みをして両の頭をぐるぐると回した。
「まったく眠くてたまらん。そして眠れないのだからもっとたまらん」
下草が再びわたしを持ち上げた。するすると波打つようにしてわたしを二頭のライオンの前に運ぶ。冷たい風が吹き抜けて下草をさらさらと鳴らした。光源のない陽光が二頭のライオンのたてがみを輝かせている。二頭のライオンの目は青色だった。それは深い深い蒼だった。四つの目に見つめられると、わたしはどの目を見ていいのかわからなくなり、思わず伏し目になった。ライオンの大きな前足が目に入った。深い金色の毛皮の間から真っ白な爪がのぞいていた。わたしは思い切って顔をあげ、そして言った。
「どうすればわたしにこのよじれた世界が直せるのかしら」
二頭のライオンは二つの鼻から同時に息を吐いた。
「あなたならきっと知っているでしょう。どうかわたしに教えてください」
ライオンの目は光を受けてなおいっそう濃く深く碧くなった。
「私は何でも知っているし、同時に何もしらない。私は何でもできるし、同時に何もできない。してお前の望みはなんだ」
「よじれた世界をわたしが直せるとあなたは言ったわ。だけどその方法がわからないの。一体どうしたら元通りにできるのでしょう」
「私はよじらせた本人がお前だと言ったまでだ。そしてそのよじれはよじった本人でなければ直すことはできないのだ」
二頭のライオンの目はことさらに深みを増し、わたしはその蒼のなかに吸い込まれそうになる。
「話し続けろ。黙ってはいけない。言葉から答えを探し出すんだ」
猫がいつの間にかわたしの足元にきて言った。その言葉でわたしはライオンの目からそらすことができた。二頭のライオンは両の頭で同時に欠伸をするとまた首をまわした。
「わたしはキクさんの思い出話を聞いていただけだった。それが気がついたときにはキクさんの話の中に入り込んでしまった。おそらくその瞬間に世界がよじれてしまったのよ。ただ話を聞いていただけだったのよ。そんなことってあるかしらって何度も考えたけど、とにかくそんなことになってしまったのよ。それからすぐに猫と再開してあなたを探し始めたの。二頭のライオンさん。ええそうよあなたに会うためにずっとここまで旅をしてきたの。それなのにあなたはわたしに直せっていうじゃない。正直面食らったわ。こっちはあなたが元通りにしてくれることしか考えていなかったのだもの。だけどわたしにはわからないわ。あなたの言う通りわたしがよじった張本人だとしてもよ。そうしようと思ってそうしたんじゃないんだもの。だからお願い。わたしたちを助けて」
二頭のライオンは二三回かぶりを振った。そしてわたしを見据えるような目をして言った。
「して、お前の望みはなんだ」
わたしはそのとき初めて二頭のライオンに恐怖を感じた。それはライオンに襲われるといったような怖さではない。瞳の奥の光にそこはかとない畏怖を感じたのだ。そしてその恐れがわたしの口を閉ざした。即答してはいけない。よく考えろ、そう言っている目だった。望み。それはもちろんよじれた世界を直すこと。それには間違いはない。しかし再三にわたってわたしはそう訴えてきたではないか。その上でなお二頭のライオンは聞いてきたのだ。
ふいに右の頬が暖かくなった。日差しが強まったかのような暖かさだった。そしてわたしが暖かさを感じた方角へ顔を向けるとなんと太陽があった。今まで光源が不在の一様に降り注いでいた光はみな太陽から発せられる方向へと変わっていた。左に影が生まれた。
「太陽だわ」
みな太陽を目を細めてみつめていた。気絶していた穴熊でさえ目を覚まして太陽を眺めていた。二頭のライオンに目を向けると二頭のライオンだけは興味なさげに首を振っていた。
「ねえ、どうして太陽が戻ってきたのかしら」
二頭のライオンは足踏みをして大きな欠伸をした。
「よじれが少し戻ったんだ」
答えたのは猫だった。
「まあすてき!そしたらこのままよじれが直るのかしら」
わたしがそう言い終わらないうちに太陽は姿を消してしまった。そして空中から光が一様に降り注ぐ。
「消えたわ。こんな期待のもたせ方ってある?」
猫はかぶりをふった。
「どうもよじれた世界は不安定でいけない。それがねじれた輪ゴムなら勢いで戻ってしまうのだろうが、世界はそうはいかない。よじれたり、もとに戻ったり、裏返ったり表になったり、ひっくり返ったり起き上がったり。そして同時にどちらの状態でもある」
二頭のライオンは二つの頭で代わる代わる言った。それから真っ白な爪をむき出しにして体をごりごり掻いてから体を大きく震わせた。二頭のライオンから抜けた毛が陽光を受けてきらきらとあたりをきらめかせながら落ちていった。そして金色の毛は下草に落ちると金の筋となって地面へと吸い込まれてしまった。どこかで見た風景だわとわたしは思った。それから急に星降る夜のとうもろこし畑のことを思い出した。それははるか遠い昔の出来事のように思えた。しかし、あの夜はつい数日前のことなのだ。あれ、数日前だったかしら。それとも昨日かしら。おととい……?
あの夜がいつのことだったのかすぐに思い出せない。しかし遠い昔に思えてつい最近の出来事なのだ。
「あなたの毛はまるで流れ星のようね」
地面に金の筋が吸い込まれていくのを眺めながらわたしはそういった。言葉にしなければ時間感覚に迷いめまいがしそうだった。ともすればまだ一日も経ってないような気さえした。しかしここまでの長い道中を思えば、いや、時間について考えるのはよそう。なにしろ世界がよじれてしまっているのだから。
「わたしは今どこにいるのかしら」
そんな言葉がふとついてでた。二頭のライオンは間髪入れずに答える。
「それはお前が望む場所にいる」
「そうね。ずっとあなたを追いかけて来たのだからいいようによってはあってるわ。でもわたしが言っているのはそうじゃない。ここが一体どこなのかってことよ。よじれる前のもとの世界だったらちゃんとどこの場所なのか言えるじゃない。でもここは一体どこなの。この世界は一体どこにあるの。もとの世界に帰ろうと思ってもここがどこなのか検討がつかないんじゃ帰りようがないわ。西へ行けばいいの。それとも東。あるいは北と南どっちへ行ったらいいのかなんてここがどこかわかってからの話じゃない?」
二頭のライオンはたてがみを大きく揺さぶると両の頭で大きな欠伸をひとつし、そしてわたしをじっと見据えた。あまりの凄みのある眼力にわたしは思わずたじろぎそうになったが必死にこれをこらえた。今ここで怯んではいけない。相手がどんなであれ、怯むのは今じゃないわと右手をぎゅっと胸の前で固く握った。
「つまりお前の望みはここがどこであるかを知るということか」
二頭のライオンは朗々とした声で言った。
「そうよ。あなた結局なにも教えてくれないじゃない。だからせめてここがどこだかわかれば自分で帰ってみせるわよ。なぞなぞめいた問答なんてうんざりだわ」
猫がぎゃっと飛び上がってわたしをまんまるの目で見た。わたしは何よその目と見返した。わたしは腕を組んで足を開いて下草の上にふんばった。少しでも気を抜くとへなへなと腰が砕けてしまいそうだった。それほどに二頭のライオンの威圧感はすさまじい。すると二頭のライオンは両の頭で笑い出した。響く声で笑い、それは実際空間全体が震えたほどだった。二頭のライオンの笑い声で下草は驚いてさっとベッドを引っ込めた。つまりわたしたちは地面に落ちたのだった。わたしは尻もちをついてひっくりかえった。二頭のライオンはまだ笑いを燻ぶらせていた。口を閉じていても歯の間からまだ笑いが漏れていた。わたしは立ち上がって乱れたスカートを両手ではらった。そして顔をあげ二頭のライオンに視線を向けた。二頭のライオンは時折思い出したようにしっしっしと歯の間から笑いをこぼれさせたが目に光が戻りそれはわたしに向けられていた。
「なかなかいいじゃないか。そんなふうに口を聞いたのは後にも先にもお前が初めてだ。それはもともとかそれとも旅がそうさせたのか。いずれにせよいいじゃないか。おかげで眠気が少しとれてきた。こんなに可笑しくなったのも記憶にないくらいだ」
もともとなんかじゃないとわたしは思った。自分でもこれほど大胆なことが言えることに驚いていた。旅のせいだわとわたしは胸の内で言った。旅がこんなふうにわたしを大胆にしたのよ。しかし気分はよかった。すっきりした心持ちになっていた。わたしはそれをそのまま口に出していった。すると猫は目をつぶりため息をついて首をふった。
「すっきりしたのはあんただけだよ。二頭のライオンにあんな口をきくなんて。もうおしまいだ。こんなひどいことこの世の終わりだ」
「その肝心なこの世がよじれてしまっているのよ。終わりにするにしたってとにかくよじれを直してからじゃなきゃ」
猫はまたため息をついて落胆の意をしめした。
二頭のライオンは思い出し笑いを続けていたが、最後にふうとため息をつくとまた眠そうな顔に戻っていた。さっきまでの光が宿った眼差しも消えている。拍子抜けするくらいにもとのぼんやりとした心ここにあらずという表情で欠伸をした。なんということだろう。二頭のライオンの眼差しはわたしにわずかばかりの期待を抱かせるものだった。そのまま良い方向へと進んでいくと信じられるものだった。それなのに。なんということだろう。まったく振り出しに戻ってしまっている。
二頭のライオンはそれぞれの頭をぐったりと下げて、まぶたが半分降りた状態で、所在なげな視線を漂わせていた。もっと悪くなっている。わたしはそう直感した。最初に出会ったときはまだ会話が成立していた。なのにもう二頭のライオンとは話すことすらできないだろう。どうしてかわからないが、それは間違いのない事実のように思われた。猫も同じように感じたのだろう。すっかりうなだれている。そしてわたしが見ているのに気がつくと言った。
「もう諦めた」
そして体を地面に横たえると四つの足を伸ばして動かなくなった。
「猫」
猫の腹が上下に動いている。猫は眠っていた。長い旅の末にこの結末である。猫なりの現実逃避なのかもしれなかった。見ればベンチも穴熊も眠っていた。うらやましいと思った。こういうときわたしは眠れない。いっそのこと眠りに落ちてしまって目が覚めたらもとの世界に戻っていて、全部夢だったなんてことがないかしらと都合のよいことを考えてみればみるほどわたしの目は冴えてしまう。眼の前には眠いのに眠れない二頭のライオンがいる。しかしそれはただいるだけだった。足元に生えている下草と変わらないじゃない。そんなふうに考えてから自分にとって役に立たなくなった存在を意味のないものと切って捨ててしまう自分に嫌気がさした。そうじゃないのよ。そんなふうに考えてはいけないのよ。わたしイライラしているわ。いけないと思ったから、声に出して言った。
「わたし、イライラしているわ」
仲間たちは寝てしまったし、二頭のライオンは聞いてなどいないのだ。今わたしの声を聞くものはだれもいないのだ。
「すこしだけ、がっかりしただけだわ。すこしじゃないわ、かなりがっかりしたわ。だって、あなたに会えればすべて解決するものと思っていたもの。一事が万事あなたに会うことが目的だったもの。でも違ったのよ。あなたはわたしの期待していたのとは違ったの。でもだからといってあなたのことを悪く思ったのはよくないことだわ。あなただけが頼りだったの。でもそうじゃないってことなのよね。わたし、なんだかわかったような気がするわ。だからわたしはみんなにお礼を言わなくっちゃ。だって、仲間たちは寝てしまったし、あなたは寝ている以上にひとのはなしなんか聞いていないんだから。そして、だれも聞いていないと思うからこうして声にだして話せるのよ、わたし。イライラしていることもイライラしてるって言えるし、頭に浮かんだことぜんぶ言葉にしてしまうことなんて普通ならできないじゃない。でも今はそれをしてもだれからも咎められないのよ。それって、そんなにあることじゃないじゃない。それでわたしわかったの。あってるかどうかなんていいのよ。わたしがわかったと感じたの。そもそも、誰かに頼ろうと思っていたのが間違いだったってことよ。いいこと、あなたが頼りなかったってことじゃあ全然ないんですからね。ここはどうか誤解しないでちょうだい。そうじゃないのよ。問題は常にわたしにあったってことなの。自分の大事なことを他人に依存してきたのよ。しすぎてきたのよ。頼ることは悪いことじゃないわ。でも頼りすぎることはよくないの。そしてわたしはなんにしてもそんなふうにしてきちゃったのかもしれないってあなたと会ってそう思ったの。あなたの目に光が宿ったとき、とても期待したわ。でもそうね、これは自分自身の問題だから自分自身で解決しなきゃいけないってことなの。それにわたしはずっと逃げてきたんだわ。ずっと逃げてきっぱなしだったからいまさら自分でどうやろうかなんてすぐに思いついたりしないわ。でもきっとそういうことでしょう」
二頭のライオンは眠たげな頭をゆらゆらと揺らしている。時折なにやらぶつくさ言っているように聞こえたがもちろん意味までわからない。きっと意味などないのだろう。
「困ったわ。正直とても困っているの。だって、実際どうしていいのかわからないのだもの。自分でなんとかしなくちゃっていうことだけはきっと確かなの。でも一体どうすればいいっていうの。なにもないのよ」
しゃべっていれば何かが生まれてくるわけではなかった。ただ頭の中で逡巡しているよりはすこしましなだけだ。そしてわたしは言うことがなくなった。ただひとつわたしのやるべきことはこのよじれた世界を直して自分の世界へ帰ることだが、どうやってという部分がまるで抜けていた。下草は微動だにしていない。風がないのだ。猫は腹を上にして眠っている。穴熊とベンチも眠っている。二頭のライオンは半分眠ったようにしている。あたりはどこからともなく降り注ぐ光で明るかった。それからわたしは空を見上げた。見上げると紺碧の空が広がっていた。空はどこまでも濃く深い蒼をたたえていた。そのときわたしははっとした。この空に見覚えがあった。そう、この濃厚な青空にこころを奪われたのだった。それは。それはそうだ、ここへ来る前村で見上げた空だった。村へ来たときの印象は空の印象と同義だった。空の青さに感動し、そのあまりに深い碧さに吸い込まれそうになって、実際いつしか吸い込まれたのかもしれなかった。見上げていると冷涼な風が吹き抜け指の間を踊り首筋を抜けていった。透明な風は下草をさざ波のようにゆらして下草もまたさざ波のような音をたてて風を運んでいった。空気が一段冷たくなったように感じた。降り注ぐ光線はガラスのように光の量はそのままに温度をなくしてしまった。空に視点は定まらず、その先を見よう見ようとすればするほど空はまた一段とその碧さを増していく。この世界の空もまた村と同じ空なのか。あらゆるものがよじれてしまった世界の中で空だけがその存在を確固たるものにしているようだ。太陽は姿を隠し、光だけがさまよい降りしきるへんてこりんな世界の中で、あなただけはそのままなのね。わたしは見上げた空にそんなふうに思った。空というもっとも掴みどころのないものが、今唯一ゆるぎのない存在だった。ものというものすべてが揺らいでいる中で、ものですらないものがもっともものらしい。わたしは手を伸ばした。空をつかめると思って伸ばしたのではない。ただもっと空を身近に感じたい衝動がわたしに腕をのばさせた。空に境界はない。この地球を飛び出しさえしなければ内側に向かって地面に触れるまでずっと空は続いている。視界の先に広がる空は遥か彼方にあるが、腕にふれる空はすぐそこにある。蒼は遠く、空は近く。
「ねえ、わかったわ」
わたしは見上げるのをやめ猫のほうへと顔を向けた。
しかしそこに猫の姿はなかった。それから自分が見ているものを理解するまで一拍の時間がかかった。そこは草原ではなかった。両脇にとうもろこし畑が連なる農道の真ん中にわたしは立っていた。二頭のライオンが座っていた岩の場所には車が一台止まっていた。その車がわたしがレンタルした古いシビックであることを理解するのにいちいち頭の回転を停止させなければならなかった。振り返るとやはりとうもろこし畑が農道沿いに広がりベンチと穴熊がいた場所も青々としたとうもろこしで遮られていた。わたしは何度もあたりをぐるぐると見回して見返してようやく状況を受け止められるようになった。
わたしは車まで歩くと運転席のドアを開けた。そしてそのまま乗り込んでハンドルに手をついた。太陽がまっすぐこちらを照らしていた。わたしは眩しくて日除けをさげた。キーは車に刺さったままになっており、ひねるとエンジンが何事もなかったのようにかかった。窓を下げると冷涼な空気が車内に飛び込んできた。わたしは助手席の窓も開け放った。通り道ができて風が吹き抜け髪を揺らした。わたしはドアにより掛かるようにして空を見上げた。どこまでも深い蒼の空だった。
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