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【短編小説】雨が教えてくれたこと

雨の音が脳内にじわじわと染み入ってくる。

隣で眠っていた女がベッドを離れる気配に、ぼんやりと目を開けると彼女が窓を開けているのが見えた。

このフランスのアパートの小さな窓から、前の家の赤茶けたレンガの壁が見えた。

ベッドから起き上がったフランス女は窓際に立つと忌々しそうに小さく「チッ」と舌打ちをした。

「Il pleut」

怒りを含んだ女の言葉を訳すと、「雨が降っている」になる。

男は色のない光景をベッドからぼんやりと眺めているうちに、吐き捨てるように、不意に言葉がついて出た。

「俺はここで一体何をしてるんだ」

イライラしながらタバコを探す女に一度目をやってから、男は背を向けてまたベッドにもぐりこみ、丸くなった。

(いつまでこんな生活を俺は続けるんだ)

男は心の中でもう一度問いかけるように自分自身に毒づいた。



男は日本ではちょっとは名の知れた作家だった。

たまたま書いた小説が当たった。それだけだ。

ある程度稼いで金ができると、フランスへと飛んだ。

そこで男は創作活動という名目で自由気ままな生活を始めた。

「遊びたい」という気持ちもあった。

けれど、大して文才もないのに「先生」と持ち上げられたことに違和感を持ち、生活が成り立っている自分に嫌気が刺した。

フランスへ向かったのは、本当は、誰も自分を理解してくれないという苛立ちを、遠い異国で忘れたかったのかもしれない。



男は俳優かと思うほどの美貌の持ち主だった。

スマートな話術にも長け、場所はパリというおしゃれな街だ。

そこには世界中から集められた美味な食事と酒が溢れていた。

男は金目当てで近寄ってくる女性を次々と家に誘い、「週替わりの恋人」と「自由を謳歌する日々」を送っていた。

そんな生活を1年続けた。

酒と女に溺れ、最初は楽しく華やかだった生活は、日増しに乱れ、心は行き先を見失って、自暴自棄になっていった。

けれど、満たされない気持ちを持て余していても、日本に帰る気にはどうしてもなれなかった。


男はどうするのかわからないまま、靄の中を手探りで進むように、女を家に連れて帰っては刺激を求める日々を続けていた。



そんなある日、男が連れ帰った女性は、日本人だった。

絵を学びにフランスへ来た学生だという。

他の女たちと同じように、夜を一緒に楽しみ、朝を迎えた男は、雨音で目が覚めた。

隣の女も目が覚めたようだった。

彼女はベッドから起き上がると、いつかのフランス女と同じように、窓辺に近づき、窓を開けた。


フランス女と違ったのは、舌打ちがなかったのと、声のトーンだった。

彼女はやさしく、どこか懐かしい声を出した。

「あら、雨だわ」

少女のような、うれしそうな顔で空を見上げている。


その光景を見たとたん、男はいきなり頭を殴れらたような感覚を覚えた。


彼女は雨を受け入れている。


彼がベッドに誘った女たちは誰もが、雨を忌み嫌った。

けれど、日本人の彼女は、雨に対してまるで仲間にそこで会ったかのように優しい、穏やかな表情を浮かべていた。

そうかそうなのか。


日本人は雨と共に暮らしてきた。

雨を愛し、雨と暮らし、雨の文化を育んできた。

どれだけ、日本には「雨」のついた言葉があるのだろう。

小雨、大雨からはじまり

五月雨、時雨、残雨、梅雨、祈雨、にわか雨、驟雨。

霧雨、慈雨、小糠雨、晴雨、積雨、鉄砲雨、長雨。


雨をここまで細かく表現する民族は、世界広しといえども日本だけなのだそうだ。


彼女の雨を受け入れる柔らかな表情や言葉は、雨と共に生きてきた日本人のDNAなのだろう。

日本人にとって雨は当たり前のようにそばにいて、生活の中にあり、人々を生かし、やがて新しい命を産み出す。

言葉にできない、それは感覚なのだ。

彼は彼女の後を追うように窓辺に歩み寄り、ゆっくりと窓を開けた。

冷たい雨の空気が部屋に流れ込んできて、彼の顔を撫でる。

窓の外では、パリの街が雨に濡れている。
雨粒が石畳に落ち、それぞれが小さな音を奏でている。
街灯の光が雨に反射して、キラキラとした輝きを放つ。

この瞬間、都市はまるで魔法にかかったように美しく見えた。

彼は深く息を吸い込んだ。

雨に混じる花の香りや古い石の匂いが、彼の感覚を刺激する。

これまでの彼の生活では感じることのなかった新鮮な空気と自由が、彼の心を満たした。

この心地よさは、彼にとってまるで長い旅の後に家に帰ってきたような安心感を与えた。

「雨は、こんなにも心地よいなんて」


男はそこで男は初めて自覚した。


自分は本来の自分から逃げていたのだと。

自分から目をそむけ、自分を偽り、この国に逃げてきた。

本当の自分はDNAに刻まれた日本という国にあり、そこで目覚めさせなくてはならないのだと。

彼女と同じ、雨を愛するのと同じ感覚が自分の中に眠っていて、それが自分らしさであり、向き合うべきは、外ではなく、自分の内面なのだと。



帰ろう。日本へ。


そして本当の自分をとりもどそう。


そう思うと、自分の帰るべき道を思いだせてくれた彼女に対して、愛おしい気持ちがあふれ出して、止まらなくなった。


男は窓辺に近づくと、彼女を後ろから抱きしめた。

「俺は日本に帰る。君も、一緒に帰らないか」


彼女は振り返り、少し驚いた後で男を見上げ、優しく微笑んで静かに頷いた。


それは乾ききった男の心に染み込んでいくような、雨のように優しい笑顔だった。

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その後、日本へ帰った男はブランクをものともせず、あっという間にベストセラー作家になった。


そしてその隣には妻となった彼女がいつもそばにいて、生涯、彼を支えたという。


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お読みいただきありがとうございました。


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