53〜62話

53話、竹村クリーニング店にやってきたジョーの声の調子も嬉しそうなら、迎えるるいの浮き立つ気持ちがその立ち姿から伝わる。二人の様子が少年少女みたいで竹村夫妻もまさかこの感じから結婚という言葉がその夏のうちに出てくるなんて予想できなかっただろうな。
子供らしく過ごせなかった二人なので、子供時代のやり直しのようでもあり、エデンの東の少年アロンと少女アブラのイメージで描いているのかな、とちょっと思いました。 衣装のシャツを汚してしまい、洗う手間もアイロンかける手間も一年前に見て知ってるはずなのに、サッチモちゃんの選んだ衣装で出ると我儘言って、それが嬉しそうなるい。幸せそうなことこの上ない。 余談:漫画CIPHER(ある意味映画版エデンの東より、小説のエッセンスをきちんと取り入れている)で、我儘嬉しいって言うやりとりがあるんですよね。。。
そういえば、27話で一緒におはぎを売りに行きたいるいに困って安子が「わがままあ言うんじゃねえ!」って言ってましたね。受け入れてもらえなかったるいが、ジョーの気持ちをちゃんと受け入れてるということでもあるんですね。

54話、竹村夫妻が53話のるいジョーと同じように映画館に行ってモモケンの映画を見る。和子さんの口調がちょっと甘えた感じで、あんぱん齧ってる姿を愛おしそうに見てる平助さんの二人が可愛い。竹村夫妻はるいとジョーの未来の姿、逆にるいとジョーは竹村夫妻の過去の姿でもあるよう。
トランペットと時代劇のカットバックだけでなくて、過去と現在未来、るいの洗濯アイロンがけとジョーのステージ、ジョーとトミー、東京と大阪、色々な対比。 字幕つけて見てたんですが、トミーが一番、までちゃんと字幕がついてました。
ジョーは正面からの着飾ったたくさんの黄色い声は飛んできてないけど、舞台の袖でいつもと同じ姿で心の中で応援してるるいがいる、そこまで対比しているようにも見えてきます。(いや本当はるいも席に座ってるはずだったんだけど)
(正確には袖じゃないですね) ジョーのサニーサイドを吹く姿に地蔵盆の時の言葉を思い起こしていて、るいがどれだけ大切に思っているかがわかって今となっては切ないです。
ステージの上のジョーはとてもかっこいいんだけど、お母ちゃんの話から書き起こしたんですよね、ひなた。黄色い声はなくてもお母ちゃんにはカッコいいお父ちゃんだった。

55話のジョー、「サッチモちゃんを僕にください」が、まるで少年のようであり、怒るるいを見つめている姿も子供っぽい。でもるいとのことだからちゃんとしようと思ってのことなのは竹村夫妻もわかっている。ジョーがサッチモちゃん、と呼ぶのは55話が最後。少年時代の最後のよう。
ここから56話にかけてのやりとりは、「エデンの東」の少年のアロンが少女のアブラと結婚したらどんな風なのかどう呼ぶのかの話を柳の下でしているのを踏まえてるところがあるなあと思ったりしてます。

56話、ジョーの、るいと初めてその名を呼んで今から慣れとこかなと思て、が微笑ましくも今までのサッチモちゃん呼びだったのと比べて大人の声に聞こえてきます。サッチモちゃん呼びは青春時代のスイッチかのよう。ベリーちゃんの「青春は終わりや」と合わせて。
ジョー、るいにも大月さんと呼ぶのやめへん?錠一郎とか、ジョーとか、と提案しているのは、多分最初に言った錠一郎と呼んで欲しかったのかなあと思ったりしたのですが、名前も書かずにたくさんの洗濯物を出して、本名がわかる前にあんなにジョーと刺繍したらもう「ジョー」さんそれしかないですよね。
錠一郎、定一さんが呼んで、定一さんから字をもらって漢字の名前を作って、トミーと違ってポスターだって大月錠一郎と書いている、思い入れがあって大切で、特別だから、みんなの呼ぶジョーとは違って錠一郎と呼んで欲しかったような気がしてます。(個人的には「定一さんは僕の中にいてくれてる」がとても響いたのですが、最初に定一さんの話をしたその回でなんでトランペット吹けなくなるんや、いや、そういう構成が見事なんですけど最初と最後で差がありすぎて途中で引き返しがちになります)

56話後半から59話まで一気に泣きながら見ました。 ジョー、自分のことはわかるわけないと言うけれど、るいには「わかってたから。そう言うとわかってたから言われへんかった。」(58話)って。るいの私にできること何でもしたかった。への答え、るいのことはわかっていると言っている。
58話のわかってたから、は、それだけるいが自分のことを愛してくれているとわかっているよという意味だったら、おこがましいような、傲慢なようでもあるけれど、それだけ愛情が欲しかったということでもあって、自分のことはわかるわけないはそれだけ孤独だったから。
るいのことは僕が守る、が吹けなくなってるいのためにできることはもう離れることしかないと、トランペットもるいも失くして絶望した。そんな気持ちがわかるわけない、に対してるいは海にきたジョーの元に駆けてきた。居場所をわかってくれたからようやくその心を話せた。
るい、海でようやく言葉としてはっきり気持ちを伝えたんですよね。ジョー、わかっていると言いながら、本心は不安だったんじゃないかなあ。守るって言われて、あなたと二人でひなたの道を歩いていきたいって言われてようやく救われた。
海にいることがわかった、だけでなくて、海に来るまでの道程に思い至った、ということなのかな。どんな思いでここまで来たのか、あんなに荒れ狂って傷つけてしまったのにそれでもここに来てくれたことに。辛かっただろうに。

60話。「しんどくならへん?」るいの話を聞いて大丈夫?と言いそうなところにこのジョーの言葉。るいがなるかも、と答えることができる。るいを自分のトランペットでアメリカに連れて行く、その一心だったジョーが、それが叶わなくなり、ようやくるいがやりたいことを聞いた。
ステージにいるジョーのそばにいるるい、から変わって回転焼き屋さんというるいのステージでるいを見守り寄り添うジョーに。賀茂川のベンチで自らるいに寄って行ったのが象徴的。それにしてもその行動だけでなく大阪編とは雰囲気の違うジョー。オダギリさんすごいなあ。
傷負う二人の雰囲気がありながらそれでも二人でいられて幸せな感じもあって、こんな佇まいの新婚の表現ってなかなかないんじゃないですかね、特に朝ドラで。起用する役者さんが40代になることも計算してそれを生かした物語になっている。

61話、舞台が変わって新しいスタートに合わせて、桃山団五郎が登場。TVの団五郎、江戸からコンコンチキチンと祇園祭のお囃子で京都へはジョーをなぞるようでもあって。スクリーンの向こうとこちらがテレビの向こうとこちらの話に。
回転焼きとチャンバラのカットバック、子供の頃に還る、の表現のようで、お菓子屋さんだったるいともしかしたらあったかもしれないチャンバラごっこをしていたジョー、吉右衛門ちゃん。ベリーじゃない一子さんに美味しいと言われてるいが嬉しそうなのを見て笑顔のジョー、好きが溢れている。

62話、回転焼きの仕事、いくら不器用なジョーでも、るいがその気になって根気よくやればできることも出てくるだろうに、そうしなかったんだと思うんですよね。るいの望みはジョーにトランペットを吹いて欲しいただそれだけで、お菓子屋さんはるいのやりたいことだったから。
るいはジョーがまともに学校に行っていなくてトランペット以外で働くことは難しいと最初からわかっていて、(もちろんジョー本人も重々それを承知していたから入水まで追い込まれた)周りの人がなんと思おうがただただ二人で生きていきたかったんだと思うんです。


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