Twitterまとめ(2023.6.30まで)

全体の(特に岡山編)の下敷きになる話は「エデンの東」(とその元の聖書のカインとアベルのお話)だったなあ。 
キリスト教的規範を求める二人の兄弟の父アダムがそのまま家父長制、戦前の価値観を正しいとして振る舞う千吉さんに。そこから逃れるのが妻で二人の兄弟の母だったのが、立場を変えて安子に。聖書のカインの額の印はるいの額の傷になり、安子の罪となり、安子の罪だと言った千吉の罪にもなる。
そしてそれを安子に見せて「I hate you」と言ったるいの罪にもなってしまう。 そう考えると、るいの額の傷はただの美醜の話ではない。もちろん見ていればそれは感じ取れるのだけど、下敷きになるお話があるとこの傷の示すものに深さが出るような気がします。
なので、52話、ジョーがダグラスの試着室で傷を見てそのまま受け入れたことにも、意味があるように感じられます。
クリスマスが重要なのは、宗教的なものを直接には描かず、そのテイストを感じさせたかったのではという気がしています。ジョーの誕生日も12/25(これは、定一さんが決めたのではなく、ジョーが年齢と誕生日を覚えていたと思ってます。苗字と名前の漢字を定一さんからもらったとしか語っていません。)
ジョーの空襲前の生い立ちを示す動作がちょくちょくあり、ひなたもヒントを出していて、それを踏まえて岡山編を最初から見直して、誕生日が正しかったとすると。 ひなたがお父ちゃんのことを想像して、こうしたんだなあと。7月になるまで気づけなかったんですけれど。

大月家と「サザエさん」。違うタイプの家族で、ちびひなたはうちは普通と違う、と思っていたけれど、サザエさんを楽しんで見ていた。高3になった時、このままでいたいと言っていたから、自分のうちが心地よかったんだろう。高校卒業を待たず雉真の家を出てしまったるいと違って。
どんな家族の在り方でも否定しないし、のちに雪衣さんと朝ドラ談義をしたジョーが、サザエさんのいいですね、と言うのに作り手のリスペクトも込められているように思えました。音楽以外アバウトなジョーだから、ドラマの正式名称ではなくて、サザエさん、と言うのも絶妙。
カムカムの放送のタイミングでサザエさん(マー姉ちゃん)と甲子園(純ちゃんの応援歌)の朝ドラの再放送をしているなんて、編成の方、流石にこの展開までは知らないで決めてるでしょうから、奇跡。もし知らされていて組んだのなら凄い。

97話、稔さんがるいの前に現れたことで、59話、ジョーがいなくなった宿の部屋で流れたラジオは稔さんがるいにジョーの居場所を知らせたのだと思えました。わずかに聞こえる磯村吟氏が伝える海外渡航自由化の知らせは、稔さんの夢、どこの国でも自由に行ける、を指しているよう。

高3の経済的な理由で進学しないひなたにいっちゃんとさよちゃんが家の手伝いしたら?とズレた答えを言ったことを思い出します。まあ、ひなたも焼いてみようと思ってしまったのですが。店の手伝いでは収入は増えない。桃太郎を進学させたいなら外に働きに行かないと。カムカムはフワッと入れてくる。

稔さんの命日、物語で語られず、Twitterで出ていたのみかと思うのですが、1962年8月11日はサマーフェスティバルの日で、翌年の8/11はジョーがポスターの裏にサインした日付なので、#カムカム の世界観だと8/11で合っているのでしょう。稔さんがるいにサニーサイドの曲を思い出して欲しかったから。

かつてふわふわした鎧で心を開かずトミーをイラつかせ、「人のことがわかるなんて簡単に言うな」とベリーちゃんに言い放ったジョーを思い出した。「君にわかるわけない」とるいを突き放した時のこと。わかるわからないの問答の答えはきっといる場所がわかったことにあると思えました。

るいの高校中退は、作劇の都合(稔さんの学徒出陣で生年が決まり、新幹線ができる前、東京が遠い状態でジョーが東京にいる必要があった)が大きいけど、祖父千吉さんが亡くなったことで家を出る理由となったし、当時は就職に困らなかったので額の傷のことさえなければ普通にホテルに就職していただろう。
そもそもそこが主題の話でないし、と、書いて、改めて、額の傷のせいで母と離れ離れになり、ホテルへの就職も諦めたけれど、それがるいの人生にかけがえのない出会いをもたらした。竹村夫妻と、ジョーと、ベリーと、トミー。木暮さんも。本当になんでも、物事には両方の面があるんだな。

ナイト&デイの前に竹村クリーニングの裏と同じ地蔵菩薩の祠らしきものがあり、そばに柳らしきものが植えられているのは、定一さんの苗字、「柳沢」から来ているように思ってました。この柳、まるでジョーを見守るように大阪の他の道にもありました。るいとぶつかったレコード店の近くにも、るいと映画を見に行った帰り道でコンテストの夜に衣装のまま追いかけて追いついた場所でもあるところに。ナイト&デイの前ではるいがジョーの名前を知ったのも、ジョーがベリーにキツく言ってしまったのも、初めてるい、と呼んだ時も。それなのに、東京から帰ってきた時には、葉を落としていた。季節が冬から春になる頃だったので、当然葉はないのだけれど、定一さんがいなくなってしまったような感じがしました。定一さんは僕の中にいてくれている、と言っていたのに、この時のジョーの中には定一さんの姿が見えていなかったんだろうなあと思いました。セットでの撮影だからこその演出でした。

51話の例の変則ドライブデートの海でのるいとジョーの会話。ヨットでアメリカに行った人の名前は覚えていないのに、サンフランシスコに着いたのは覚えていたジョー。アバウトなジョーだけど、地名は覚えていた。サンフランシスコからニューオーリンズへの道に思いを馳せていたんだろう。
地名をはっきり覚えていた描写はジョーの気持ちの表現。トミーが行きたいと言い、るいのお母さんがいる国。ジャズ雑誌を読みながら思い描いていたのかな。そしてその雑誌を渡されたるいもその夢を感じていたように思えました。 昨日大阪編を最初から52話まで見直して、面白くて繊細、本当にすごい。

50話の公園で子どもたちと野球に興じる明るいところにいるるいを木陰から見守るジョー。気づいてるいが駆け寄った時はるいは日向でジョーは影にいた。ナイト&デイでのトミーと木暮さんの会話を挟んで、公園のシーンに戻ったとき、二人とも木陰にいた。時間は経っていないはずなのに。
続きのシーンのはずが、二人の立ち位置撮影場所を微妙に変えて、まるでるいがジョーの元にやってきたように見せる。カムカムの世界観だからこそ成立するやり方。 この回、実は難しく感じて多分一番見てるんですけど、このことに気づいたのは先月くらいのことでした。

岡山の戦前の「たちばな」と隣家の間、自転車を停めているところの半円状の石、お地蔵様を彫られたもののように見えます。そして、「大月」の家の側には大阪と同様の地蔵菩薩。岡山で一つ、大阪で二つ、京都で一つ。岡山のは、空襲後、この町の誰かの身代わりになったのかなくなってました。

差し込まれる回想の安子の「るい、るい」と我が子を呼ぶ声。それが、サニーサイドのレコードがジョーのトランペットに置き換わるように、名前を呼ぶ声もジョーの声に置き換わる。トランペットが吹けなくなってサニーサイドを封印しても、その名前を呼ぶ声は途切れることはなかった。ジョーは思いを込めて呼んでいた。だから回想としては出なくてもるいは母安子の記憶はずっと持っていた。封印を解いて泣いているひなたに歌ったサニーサイドは安子のようだった。技巧的に安子とジョーを重ねているけれど、初めてるい、と呼んだジョーの声があまりにも愛おしそうで。この人はずっと名前で呼ぶだろうな、と思わされた。算太が最初に大月にきた時も何度もるい、と呼びかけるのがもう当たり前の風景になっていた。その名前を聞いて、算太は慌てて姿を消したけれど、ちょっとホッとしたのでは。るいが家族と幸せに暮らしているのが垣間見れて。だから2回目は少しだけ家族と過ごしたい、というのが見えたんだろうな。

その人の前から消えた方がいい、と安子もジョーも思ったけれど、それ、トミーこそだよね。あの海でのジョーを見て、るいに任せるしかない、トランペットを吹ける自分はジョーの前から消えることしかできることがなかった、そのトミーがアニーの、安子のラジオを聞いた。トミー、かつての自分を思い出していただろう。時を経て、電話をもらって、どんなに嬉しかっただろう。 111話のコンサートの後、一人で飲んでいるトミーが思い浮かびました。奇跡の呼水となった音源を用意した奈々さんに電話して。サッチモちゃん達今頃家族水入らずで話してると思うで、って。

ひなたは普通に映画村でバイトして就職できるのに虚無蔵さんに誘われた形にした、るいはジョーとあんなに外で偶然に出会わなくてもクリーニングのやり取りで自然に会えたはず、算太はナイト&デイにも出入りしていたからるいの消息を知ることができたのでは?と言うことを思わせる描写。普通に現実的に展開することも可能な状況を作って、「おとぎ話」とした。ひなたが話を盛っている形で。大阪編まではそうと感じさせず、ひなたが登場してから種明かしをするように分かりやすく見せたような気がしてます。安子とロバートも、岡山編ラスト3話に余裕がなかったのでどこでもロバートみたいになっていたけれど、ドラマガイドでは安子は大阪に戻ってロバートにアメリカに連れて行って、とあり、変更したことを思わせます。「おとぎ話」ならその方がドラマチックになる。現実的な展開をするためにあの地獄の3回が4回になるくらいならこれでよかったように思います。最大に盛ったのが、最終週のクリスマスフェスティバル?るいはシアトルの日本人会に問い合わせをして実際にアメリカにも行っている。本当は探し出して日本に招いたのを岡山のクリスマスのライブで再会、とひなたが書いたのかも。嘘と本当の境目が一番面白いから。こんな身もふたもないみたいなこと書いてるけど、かつてなんか見てしまったような気がするので、敢えて。 嘘と本当の境目、は、もちろん「ちかえもん」からです。

#カムカム の世界観で、稔さんの命日に竹村クリーニングにジョーが挨拶に来るなら逆もありで、ジョーの誕生日、昭和15年12月25日、8-9話、1940年、安子ちゃんが稔さんに会いに大阪に行った日の晩、稔さん、メリークリスマスと安子ちゃんに言う(30話回想シーン)仕掛けが。 (因みに10話は1941年)

レコードには表裏があると言うこと。今はスマホで聞くと言ってもレコードだって知っているのに放送期間中に全然気づかなくて。あんなにレコードが映っていたのに。最初から勇ちゃんが野球で表と裏があることを示してくれていたのに。ずっと表と裏の物語でもあったのに。

ジョーはずっと「るい」の名を呼びながら、トランペットのことを忘れることはなかったんだろうな、サッチモのるいだから。その名を呼ぶ幸せとトランペットが吹けない悲しさが表裏にある。同時に、トランペットとサッチモのおかげで存在に気づけて、出会えたという奇跡。トランペットを吹けないことと、ケチャップをこぼすことはおそらく症状として同じこと(ケチャップの方が症状として先に出ていただけ)で、吹けないことは悲しくて、でも溢れたケチャップが最後まで二人の幸せに繋がったなんて。こんな象徴的な表裏の表現を見ることができて本当に幸せなドラマでした。

トランペット曲なのであらすじとるいジョーの設定を基に最初の方に作られただろう「始まりはいつも愛」、物語通りのタイトルと構成でどれだけきっちり作られていたか感じ取れます。金子さんがなんばでのライブでトランペットはるい、サックスはジョー、として作ったとおっしゃってました。曲名はもう少し後から付けられたかもですが、お母さんの顔が浮かんでる?大月さんこそトランペットが聞こえてますか?/トランペットを諦めたなんて嘘やね?僕が音楽でアメリカに連れて行ってあげたい/トランペットを吹かせてあげたかった。歌ってみたら?お母さんに届くかも。繰り返すやり取り。そして111話のステージ。ジョーのトランペットの音源が鳴って、るいが母と再会する。 確かに"It Always Starts With Love(Joe&Lui)"でした。

今年の8/3のNHK横浜のラジオで金子さん、気に入っている曲、そしてどの曲とも似ていないとして「ホワット・イズ・モダン?」を挙げてらしたけど、それをジョーの作曲としたんですね。ジョーの才能を示すために。練習してもらうためにトミーのヘイ! レッド・ホットとあわせて最初に作った曲。

ゆるりとるいの気持ちに寄り添うように立ち上がった大阪編が、ジョーのトランペットの曲調に合わせて、どんどん早くなる。バラードの始まりはいつも愛から始まり、サニーサイド、ジョーが譜面を書くワットイズモダン?、最後はリズムエクスチェンジ。最初からそういう構成だったんでしょう。

ナイト&デイでるいがはじめてジョーのトランペットを聞いた時、心地良さそうにしていたのを、ジョーはステージの上から見ていたんだな、だから「やっぱりジャズが好きなんや」と言う。るい本人には唐突に聞こえたけれど、ジョー側からみたら、そう思えるのが自然だなあと感じてました。次の回で洗濯物を届けに2階に上がってトランペットを構えたジョーを見るるいがわくわくしていて、サマーフェスティバルの時も楽しげで、そんなるいを見てきたから、名前の縁だけでなく、音楽もあって、僕とるいを繋いでいたのはトランペットだったのにって思ってしまったんだろうな。

ジョーが96話で畳の縁を踏まずに部屋に入ってくる(ガシガシ踏んでる雪衣さんと対比させている)のに、初見で気づいていたけれど、その意味がすぐには解らなかった。ふとインスタントコーヒーの瓶を見て気づいた。44話でコーヒーをカップに振り入れようとしたのは。ナイト&デイのジョーの部屋のコーヒーの瓶の横にあった錆びついた筒の入れ物。コーヒーを飲むとき度々カップをおかしな持ち方をしていた。最終週のディッパーでも、ハンドルを持たずにカップを持っていた。畳の縁を踏まないようにとひなたに指導したのはベリー。ジョーは眼鏡をかけるようになった頃、五十嵐くんにお茶を入れてあげていた。ひなたの勤め先の映画村の休憩室に、あの宇宙人の映画のポスターが時代も会社も違うのに何故か貼ってあった。お茶っぱを持ち帰らないでくださいの張り紙を貼るひなたの背後にその宇宙人のポスターが映り込む。岡山編を1話からもう一度見返しました。「たちばな」のお店の向かって右側のお店がお茶を売る店。そこから眼鏡をかけた茶色い着物のおじいさんが算太の騒ぎに店から姿を見せる。気づいてもらえないかもしれないことを1話から仕込んできたスタッフの方、演者の方、本当にすごくて、敬意を表します。

藤本先生にしたらわざとらしい、106話トミーとるい二人が話をするためのジョーの「ひなた、お茶入れて」が本人からの盛大なヒントとしてのセリフな気がします。だって、3話に「饅頭怖い」をラジオから流すという仕込みをされているんですから。和菓子に一番合うのは何か示されてる。気づいて、最初から振り返って見始めたら、「熱いお茶が怖い」ってラジオから流れてキメられるんですよ、いやいや、見ている方はそんなカムカムの凄さが怖いです(笑) そしてたまに映るそのお店(もう意味ありげにしか見えない)を気にかけながらずっと見続けることになります。お店はやはり、岡山空襲で燃えてしまう(17話で映っています)のですが。たちばなとの間にあったお地蔵様は「じょういちろう」を守って身代わりになっていなくなったような気がしています。

物語としてはヒロイン3世代が主人公なのだけど、語り手ひなたにとってはお母ちゃんと同様、お父ちゃんも大切なので、お父ちゃんのことも描きたかったし家も用意したかったし、両親のことをこんなにお似合いなんやでと言いたかったんですね。自分の物語を控えめにしてまで、ヒント出してたのですから。

じょういちろうが誕生した日(8話)安子ちゃんは朝早く大阪に行って夜遅くに帰ってきたので、小しずさんはお祝いに行ってるけど安子は知らない(ので、じょういちろうの本当の名前は永久に不明)と考えてみました。この日、きぬちゃんと話す小しずさんの背後に暖簾を出しているたちばな、その隣のお店が映りこんでいるのですが、閉まっていて、子供が産まれて臨時休業にされたのではと想像しました。もう商品も少なく人手も少なく開けられなかったのではと。戦時中の幼児で、吉右衛門ちゃんとも年齢は離れていて、あの空襲だともう彼のことを知る人はあの街にはいなくなった、金太さんが知っていたかもですが、亡くなってしまった。その後、少し離れた定一さんの店(たちばなとは少し違う場所と思ってました。)にたどり着いた。定一さんが誕生日も決めたならジョーはそう言うと思うけど言ってない。今いくつで誕生日は覚えていたのではないかと思ったのは8話と本人の説明からです。安子ちゃん、稔さんとのことで頭がいっぱいでその日に生まれた子供のことなんて、聞いたとしても忘れるよね。その時は覚えていても空襲にあったら忘れるよね。稔さんに会いに行ったからるいが生まれるのだけど、そのためにその日に生まれたじょういちろうの記憶はない、という巡り合わせ。30話将校クラブのクリスマスに、回想で稔さんが「安子ちゃん、メリークリスマス」と言ったシーンを追加して、日付を8話だけ見ても分からないようにしたの、反則技では。視聴者稔さんに見とれてるのに。この場にそれと明かされずにじょういちろうがいるからそれがヒントなんでしょうけど。

「一人」で生活始めるんじゃ、と大阪に来たるいが、竹村夫妻をはじめいろいろな人にお世話になって、最後は「二人」で日向の道を歩きたい、と言ったんだな、と今更ふと思う、大阪編の最初と最後。ジョーや和子さんの言う「二人」を繰り返しただけでなくて。さらに62話ジョーの「二人の?」。

メタ発言はジョーさんばっかりだと思っていましたが、110話のひなたのアニー(安子)評「おばあちゃん、鍛え方が違う」こそ、メタでは。ロバートが村雨さんにキャスティングされたことを脚本に反映させた。語り手のひなたが発言しているのがポイント。そういう絵を描かれていた方、大正解。

細かすぎるけど #カムカム の好きなところは、例えば木暮さんの人物像が木暮さんの映っていないところで窺える描写。地蔵盆の日に竹村家でご馳走になって嬉しそうなジョーを見て、木暮さんとはそういうことがない→木暮さんは家族がいない。が、時を経てクリスマスライブにトミーの手配でようやく来ることができる、とか。 59話ジョーが宿に来たトミーに「笹プロに誘われているんやろ?」と言うことで、映っていなくても木暮さんがジョーと話をしているのがわかる。58話があったから、きっとるいに話をしていなかったことも言われている。 ジョーが木暮さんにだけ吹けなくなった話をしたのは、それだけジョーが木暮さんを信用していたからだけど、それは木暮さんがトミーとの対比でけして余計な口出しをしない口が堅い人だというのがわかるから。 60話竹村夫妻とるいのやりとりとのカットバックで木暮さんとジョーのやりとりを入れるのは木暮さんの気持ちが竹村夫妻と同じだから。トミーに生意気なことを言われ、ベリーちゃんに言い負かされてた木暮さん、楽しかったんじゃないかな。ジョーがいてくれて嬉しかったんじゃないかな、そして普段余計な口出しをしないのに、58話で誰にも言わないで欲しいというジョーにサッチモちゃんは?と肝心なことは確認する、ちゃんとした大人。

るいとジョーは竹村夫妻をお手本にしていただろうけど、ひなたが五十嵐くんと映画に行ってもジョーは平助さんのようにソワソワしたりしなかった。これはきっと木暮さんの影響。木暮さんが見守ってくれていたようにしている。親の在り方は木暮さんと定一さんに、夫婦の在り方は竹村夫妻に、記憶のない肉親の記憶は自然に出る振る舞いの中に、定一さんからもらった音楽と同様、ジョーの中にちゃんとある。あんこのおまじないのような言葉ではないはっきり見えないものだけれど。竹村夫妻は家族、家庭かな。でも、和子さんの「二人で縁側で」の話はそのままるいとジョーの老後のシーンに。 ジョーがちびひなたの帰りを待ってソワソワして新聞読んでるフリしてたのは、完全に平助さん。大阪編で実際に読んでいるシーン以外にもよく新聞が映っていたから平助さんを思い出します。

細かいところでもう一つ、45話のナイト&デイでのるい、ジョー、ベリー、トミーに木暮さんのやりとりで各々の心情・性格・事情が見えてくる描写が好きです。 嫉妬してるいに岡山の田舎の貧乏人だと言うベリーの横で苦そうな顔のジョー、苦いのはコーヒーなのかベリーの発言なのか。ベリーはジョーの生い立ちを知らないこと、それで知らずに傷つけてしまっていることが暗示される。トミーはそんなベリーをはっきり嗜め、黙っているジョーとの性格の違いを見せる。トミーはるいの出自に気づいたことをはっきり見せるが、多くを語らない木暮さんは最初「クリーニング屋さん」と呼んでいたのが事情を察知して(話の途中で腕組みをしている)帰る頃には労わるようになる。るいの岡山の言葉に気づいたことで岡山にいたことを示されるジョー。ベリーはジョーが岡山にいたことがあることに気づく余裕がなさそう、さらにトミーがるいのことで何か察したことにも関心がなさそう。トミーと木暮さんのような人がジョーが岡山の言葉だと言った時にジョーについては何も言っていないので、二人はきっとジョーの事情を知っている。トミーがベリーを嗜めたのはジョーのことを知っているからでもありそう。木暮さんは余計なことを言わない。主人公以外の人物像も浮かんでくる。

地蔵盆(47-48)、やはりいい。かつてホットドッグを一人で食べた子が成長して今のジョーになってたこ焼きを分け合ってたのをるいが上から見たのも、物干しがステージとなりるいをジョーが見上げてたのも、心が動くように風鈴が鳴るのも、ジョーがるい好みの控えめで涼しげな風鈴買うのも。何もかもがいい。竹村夫妻も西山さんも。アイロンはきっと平助さんがかけてくれたんだろうな。明るい光の中でシャツを洗い、物干しに行って干するいの姿が美しい。 カムカムの物語全般に言えることだけど、働いている姿がみんな美しい。たちばなの人たちも、平助さんのアイロンをかける姿も。日々鍛錬をずっと映像で見せてくれている。

ともに/一緒に「いたい、生きたい」の切実さ。戦争の影が色濃くなる時代の稔さん、家族を戦争で亡くしたジョー。その言葉に至る背景や感情をきちんと描いてきているから心打たれる。ただ同じ言葉を重ねているだけではない。重ねるからこそより響いているように思えます。

52話、大阪編名場面の一つのダグラスの試着室回だけど、何気に51話最後の竹村クリーニング店へ帰ってくるところから52話冒頭にかけてのシーンの二人の距離感や立ち居振る舞い表情、声のトーンも間合いにも全てに思いが溢れていてここも好きなんですよね。地蔵盆の回を見たら結局52話まで見てしまう。

#カムカム の方言はそれぞれ登場人物に合った話し方で良かったけれど、大阪の時のジョーのいろんなところに行って大阪に流れ着いた感のある話し方が「宇宙人」感もあってそれっぽくって方言指導の方素晴らしいと思いました。ああいうおっとりした話し方をする人、少ないけれどいる。このニュアンス、関西圏の人間にはよくわかるのだけど、他のエリアの方にはどう聞こえていたんでしょうか。おっとりしている部分である程度伝わるかなあと思っているのですが。
安子ちゃんや稔さんの言葉の響きは人物像に合っていたように感じるから、そんな感じなんでしょうか。

93話、トランペットを構えたけれど吹けない、の回。見るのが辛い始まりだけどクリスマスの福引のシーンの温かさで変わってくる。メリークリスマスと声をかける、男の子に玩具のトランペットを渡して見送る。そして買い物帰りのるいと交わす何気ない言葉。「鶏肉買うた?」「手羽やけど」「上等や。福引は?」「明日にする。」「僕ももう帰るよ」「待ってるよ」二人で積み重ねた時間の表現。 平易な日常の言葉がこんなに豊かな表現になる。 (そしてこの後、家族のいない算太がやってくる。)

96話の雉真家の食卓で勇おじさんに名前の由来を聞かれるジョー。助け舟を出してくれたのは雪衣さん。家族と縁薄い、とかつて言ってたから察するものがあったのかな。打ち解けて一緒に朝ドラを見るのもわかる。勇おじさんは戦争に行ってその苦労はあったけれど、ええとこの子でわからなかったのかもしれない。
そしてしっかり者のるいだけど、こういった場面の対応は不得手なタイプで、さらに岡山に帰省して自分のことでいっぱいになっている。子供たちはおそらくお父ちゃんの生い立ちに気づいていても子供が口出しするところではない。 大人しかいない場面なら適当に言えばいいけれど子供がいるところでそんなことはしたくない。動揺して、うっかり食べ物を落としてしまう。それをきっかけに話を変えて、るいとの馴れ初めにまで持っていく。るいはただただ幸せそうでそれで勇おじさんは泣いている。その後ひなたが写真立てに気づいて席を立ったのはもしかしたら話を完全に変えようとしたからなのか。子供たちが気づいている、と思ったのは、算太がるいのおじさんだと聞いた時に、二人ともお父ちゃんの親戚は?と聞かなかったから。算数ができないお父ちゃん、で気づいてもお父ちゃんが語らないから何も聞かなかったのではと思ってます。 落とした食べ物は雪衣さんが席を立った時に拾ったかも。ジョー、自分のことを聞かれる可能性があるのを多分認識していて、それでも実際にその場面が来たらどう答えよう、となった。それでも、るいのために岡山に帰ろう、と言ったんだな。真正面から聞かれたらありのままに答えるつもりだったのかもしれないけれど。

60話、入籍後、かつてるいが子供たちと野球をしていた公園に二人で立ち寄って、転がってきたボールをるいが投げ返す。あの時にアベックと囃し立てた子供たちの姿は映さない。ボール一つで二人が子供たちにお別れと報告をしにきたのだと伝える。抑制された、けれど子供達を大切に思う演出。

岡山編と大阪編以降だと個人的に大阪編以降の方が表現がより繊細、複雑な気がするですが、脚本家が通じている方言だと表現が豊かになるような気がしています。導入の岡山編は分かりやすくする必要もあったんだろうと思うのですが、戦前の岡山の言葉に置き換えていく分違うのかも。もちろん、るいとジョーが深津さんとオダギリさんなのが大きいのでしょうけれど。岡山編は、ひなたが話を聞く相手が安子と勇しかいなかったので序盤は解像度を低くし、終盤はるいが覚えている部分があるから解像度を上げていった、とも取れますね。重点を置いて描きたかった戦後、に焦点を合わせられる。

ナイト&デイのカウンター周り等、材を接いだり柱にキズがあったりして、再利用した材料のように見えるのがずっと気になっていました。意味するところがあるような。戦前のナイト&デイの前身の建物を修理したということなんでしょうか?

48話の溶ける「よ」?とか49話のそれがサッチモちゃんの名前の由来「でしょ」とか、そもそも大阪の人が使わない言い方をするんですよね、ジョー。脚本段階で元々は大阪の人ではないと意識的に書かれている。同時に人物像も表現されている。44話「すいません」の時は関西のアクセントっぽく、48話「はい」「はあい」は違うように思えます。大阪の言い回しとそうではない言い方が混在しているような。 トミーが典型的な大阪の話し方と言うのも対比になってよりジョーの特徴的な話し方が浮かび上がるよう。るいが1年で大阪のことばに馴染んで話せていることを思うとジョーはやっぱり不器用なのか、拙い感じ。 というのがとても合っていた。

小さい桃太郎がひなたにお茶を持っていく場面、じょういちろうの小さかった時の姿を反映している? 空襲の後もしばらくは家族の誰かと一緒だったのでは。4歳では一人で生きていくのは難しそう。金太さんのように戦争が終わってから家族が亡くなって、ひとりぼっちになり記憶もなくなった?44話のジョーがるいにコーヒーを淹れてもらって美味しいと思うのは記憶にない家族とのやりとりが心のどこかに残っていたからでは、とふと思って。自分でやってみたけどうまくできないって、淹れてもらったのが嬉しかったのだから再現できないのは当然だなと。

記憶の中でもひなた登場からはそうだと思っていましたが念の為63話を少し見てみたけれど、るいもジョーもすっかり関西のアクセントで京都の下町のおじさんおばさん化していました。ひなたが大阪出身だと思っていた、と言うくらいの。 NHK大阪局の仕事が丁寧。役者さんの技量が出てる。ちゃんと10代20代だった頃の二人の延長線上で時間を積み重ねてこうなっているというのが表現されている。

93話、鶏肉買うた?の時間を重ねた表現から「僕もすぐ帰るよ」大阪時代のジョーの話し方で、るいもそれに合わせて「待ってるよ」と応える。一緒に暮らす部屋探そ、と言っていたあの頃を思い起こさせて、書きながら泣いてしまいます。藤本先生、技巧的でもあるのになんでこんな台詞が出てくるん? 若い頃鯛を買って来たが今は鶏肉買うた?になって、その会話をした後に算太が現れるなんてきちんきちんと話が組まれているのにその間の言葉に心が通っている。ジョーと算太の対比だけでなく、算太の登場で過去へ遡る、でもあって、ふと大阪時代を思い起こさせるような言い回しでもあったのかなあと。

ベリー=お茶の先生の一子さん、今思うとものすごいヒントだったんですよね、ひなたに作法を指導して。京都編ではあまりジョーとは会っていないような描写でるいの友人としての立ち位置を取っているのかなと思ってたけど、ヒントが同じ画面に映ってしまうのを避けてもいたんですね。

93話の福引会場で出た球に色があれば鐘を鳴らし何等がどの賞品かなどわかっていなかったジョーが、算太が現れて翌日、4等はと言って探す描写が入り、倒れた算太の診察券を見つけて連絡する、の変化を見せるのがるいのためでもあり、トランペットを少年に渡せたからでもあるように見えます。トランペットしかないと思っていたけれどそうではないと思えるようになったら、るいが算太を前にして動けなくなっていたら、何もできないと思っていたのができることがあるに変わったような。

70話エンドにひなたは「お姉ちゃんになりました」で赤ちゃんの桃太郎の写真、尺がないからと言われていたし話数短縮で実際余裕もなかったけれど、その後桃太郎の小学校と高校の入学式に家族写真を撮っている描写があったことを思うとこれも意図的だったのではと思えてきました。ひなたはお姉ちゃんになりました、と言うハガキをきっと竹村夫妻に送っている。ジョーの治療費を貯めるため、子どもは一人と決めていたであろうるいと、言外に僕のことはいいと伝えていたジョーと、弟ができて嬉しかったひなたがどれだけ桃太郎を大切にしたか、を撮影シーンに込めたのだと。65話で一人で病院に行って子供ができたことを一人で抱えてしまったるいの頭の中はジョーさんの治療費どうしようで、ジョーの「僕も家族が増えて嬉しい」は、僕のことはもういいから、と伝えていたんだと思うと切なくもあり、だからこそるいは撮影に張り切って、ジョーもスーツを着ていたんだなあ。るいが病院に行くのに付き添ってたジョー、最初にるいが一人で抱え込んでしまったからだろうし、そのためにひなたが一人でビリーと会うことになってしまった、という経緯がまたうますぎるんですよね。

今更ですが、そういえば奈々さん、東京の人で、同郷のるいと結婚したジョーとはそこもトミーと対比になっていたのかなあ。髪の先から対照的だったのだけれど。

まともに学校に行けなかったジョーのことが頭にあって夏休みの宿題をしないひなたを怒っていたのに、当の本人のジョーが学校の勉強はろくにせえへんかったけど何にも困ってへんよなんて言い出したら、るいも拍子抜けしちゃうよね、るいみたいな人がお嫁さんになってくれてって言われたら。

語り手のひなたは、稔さんが亡くなったと知らされて神社に走った20代の安子のように70代の安子をどうしても走らせたかったから、ロバートのキャスティングが村雨さんであることを利用して「鍛え方が違う」と呟いた、と思ってます。少し脚色したおとぎ話として。あのシーンをあさイチとかで茶化されたのがちょっと嫌だったんですよね。おばあちゃん=安子をあの神社に行かせたかったからだったのに。距離感なら京都だって合っていなかったのに。現代に近い時代設定で現代の商店街でロケしているから現実感が出てしまったのでしょうけれど。

ジョーが飲めないのは、多分、映画「情熱の狂想曲」のトランペッターが、お酒に溺れてしまったからだと思っています。ジョー、平助さんにジャズマンなのに?と言われてええまあなんて感じで答えているのはメタ発言だったと思っているのですが。カーク・ダグラスの演じるトランペッターが結婚生活がうまく行かず、アルコール中毒になってしまう。ジョーに幸せになってほしくて飲めなくしたのだろうなと。代わりに、五十嵐くんがお酒の失敗で映画村を去らなければなってしまう。そう思うとちょっと不憫に思えてきます。映画の主人公は、少年時代にピアノを弾く真似で指を動かし、店の窓に張りついてトランペッターにサンドイッチを貰っていました。成長してからもマウスピースをポケットに入れているところなどジョーの人物造形に取り入れられています。尺が短くなって入れるつもりの何かのエピソードが欠けてしまったのかもしれませんが。放送された中では映画のオマージュでありそのお酒のトラブルのところが五十嵐くんになってしまったのかなと。(映画ではお酒のトラブルで間接的に恩人を交通事故に追いやってしまっています。)定一さんが酒を煽るように飲んでいる印象なのが映画の主人公のイメージなのかもしれない。トミーも飲んで暴れていたけれど、これはジョーのことを思ってであって、その意味では自分のことで暴れてしまった五十嵐くんとは対照的でした。暴れた結果も含めて。53話の冒頭に「ダグラス」と書いた箱がわざわざ映っていたのは映画を引用していることを知らせたかったんだと思ってます。

62話、台詞は「後悔してる?何もできひん僕と一緒になって」「そないなこともういっぺんでも言ってみ、すぐ離婚やで」だけれど、ちゃぶ台に視線を落とすジョー。その上の錠一郎積立と書いた封筒を見てるいの思いに気づいている。しんどくないかなと最初に見た時は思ってしまってました。るいは最初から覚悟して結婚しているけれどジョーは最初は差し出された手を取ってみた状態で、この時にトランペットが吹けなくてもそれでも生きる覚悟をしたような、そんなような気がしました。 因みにこの時も動線は単純ながら、畳の縁を踏んでいなかったように思います。(踏んでいる回もある)主語が入ってない、もちろんジョーが踏んでいない、です。

商店街と言えば赤螺、だけど、赤螺を起点としてみると、岡山の「たちばな」と京都の「大月」は道を挟んで反対側になり、お茶屋さんは同じ位置。「大月」が反対側になることでお茶屋さんが良く映り込むようになる。同時に「大月」は大阪の竹村クリーニング店と同じ位置として映る。「大月」の隣は空き地でお地蔵様がいて地蔵盆をしていた。竹村クリーニングの裏も空き地で地蔵盆をしていた。岡山は地蔵盆をする風習がないので小さなお地蔵様が「たちばな」とお茶屋さんの間にあるのみ。5話で安子ちゃんが自転車を出すときに邪魔になるような場所にありお茶屋さんと同時に映り込む。安子ちゃんが自転車に乗っていく時間は早朝なのでお店は開いていないというのも分かりにくくしている。京都編からヒント頻発、93話の福引で玩具のトランペットを貰った少年が立ち去るその先にお茶のお店が映り込んでいるのはわざとなんだと思います。

岡山のお隣のお茶屋さんから出てきたおじいさん、茶色のベレー帽で茶色の着物で眼鏡をかけている、なんだか大阪編の映画館主の西山さんみたいじゃないですか?買い占めた衣料を高値で売る赤螺の店頭の客の中の一人に眼鏡をかけて青い前掛けをした男性、もしかして京都の森岡酒店の森岡さん?なんだか似たような人が世代を超えている。しかもジョーの親族かもしれない。西山さんも森岡さんも見守ってくれてましたもんね。という仕掛け。

安子の父、金太役の甲本さんがかつて土スタで「ドントカムカム界」の天国から安子を見てる、とおっしゃていたけれど、これものすごいヒントだったんだなあと、お地蔵様を見るたびに、97話を見るたびに思ってしまいます。#カムカム の世界観を伝えて下さっていたのですね。もう元記事がわからないのだけれど、オダギリさんが朝ドラだからと言って分かりやすい演技はしません、ということが書かれていたので、ムキになって見ていたら、感情表現とかではなくて違うもの(生い立ちを示すもの)が見つかった、という、これもヒントだったんですかね。

茶色のベレー帽のおじいさん、小しずさんが語る安子の生まれた日に「たちばな」の居間に招かれている人(一番手前右側)に見えるんですよね。岡山空襲の放送回にこのシーンを入れてくるのに意味があるような気がしてくるのです。(17話)安子の記憶には幼馴染のきぬちゃんしかないけれど家同士としてはお隣のお茶のお店と行き来があったということを示しているような。

算太が岡山のことばを話し続けたのは、戦前の岡山のたちばなの家族の記憶がずっとあったんだろうな。放浪していてもずっと帰りたかったところ。忘れたくて岡山を出てその先の行った土地のことばを話すようになったるいとは真逆。

6話、地蔵盆でひなたが露店の風鈴を見て微笑んでいるのを受けて、五十嵐くんが買ってあげるシーンなんですが、ひなたは風鈴の向こう側の幸せな景色、家にある風鈴、家族との団欒を思い浮かべたような気がしています。五十嵐くんはそのことに多分気づいていない。るいもジョーも何も話していないだろうけれど、桃太郎が生まれた日にもあった風鈴、ひなたの心の中にあるような気がするのです。小夜ちゃんと吉之丞が居合わせた夏にもあったのですが、86話の五十嵐くんが晩御飯を大月家で食べている夜はカーテンがあって風鈴は見えない。二人はすれ違っているような。

95話で30年ぶりの岡山の雉真の家にも風鈴があり、帰ってきたるいの背後に映り込むのを見て、風鈴が過去へ遡るスイッチにも見えました。93話トランペットが吹けなくなったことをジョーが子供たちに打ち明けて、それでも人生は続いていくと諭す、その日もジョーがるいに贈った風鈴が映る。

花火をする親子を見つめていたるいとジョー、そうか、ジョーは母娘を見て、るいとるいのお母さんがどうだったのかと思い、るいは母と男の子を見てジョーがどんな子供時代だったのだろうかと考えたんだ。最初の記憶がサニーサイドというのはどういうことなのかと思ってるいは涙を浮かべたのでは。

ただの私の勝手なイメージなのですが、ジョーは能「天鼓」のイメージだなとずっと思っていました。天から鼓と共にやってきた子供、天鼓。鼓の音色は素晴らしく帝に差し出すように言われるのですが天鼓はそれを拒んだため呂水に沈められてしまいます。取り上げた鼓は鳴らなくなり、帝は父親を呼ぶ。殺される覚悟だった父が打ったところ鼓は鳴り、それに感動した帝が呂水の辺りで天鼓を弔うために管弦講を催すことにしました。天鼓の霊が現れ、鼓を打ち管弦に合わせて喜びの舞を舞います。楽しげに舞う天鼓は、ほのぼのと夜が明け、空も白む頃に現か夢ともつかないようにして、消えていくのでした。この沈められた呂水に現れる天鼓が本当に楽しそうなんです。私もこのくだりを無理にお願いして教えてもらって舞囃子で舞ったことがあるのですが難しいけれどそれ以上に面白く楽しい。ただただ音楽が舞が楽しいというその姿がたまらないのです。

ポスターの虚無蔵さん、西山さんの秘蔵っ子発言に対して平助さん「そんな歳には見えへん」放送中はそのまんま受け取ってしまっていて最終週は虚無蔵さん今いくつ、なんて思ってたけど、これもメタですよね。松重さんの実際の年齢を指している。多分虚無蔵さんはるいたちと近い年齢設定。

メタ発言集(暫定) 「シンガーでもないおじさんが」 「飲めないんです」(48話) 「秘蔵っ子いう歳には見えへんけどな」(49話) 「キャント・バイ・ミー・ラヴはかけません」(59話) 「いつ生まれるの?」「来週」(65話) 「ひなた、お茶入れて」(106話)「おばあちゃん、鍛え方が違う」(110話)「何でいちいち語尾に名前うつける?」(43話)

引用したと思われる作品(暫定版) セルフオマージュ(書くまでもないけど) ・ちりとてちん ・ちかえもん ・夫婦善哉 他者作品/根拠 ・エデンの東/るいの額の傷=カインの罪の印、千吉さんがアダムに酷似他 ・情熱の狂想曲/店名「ダグラス」 ・・・いつまでも暫定版な気がしますが。
善女のパン、でも直接的なものを入れるのはこの場合違うような気がしますね。ラストサムライとかも入ってしまうし。夫婦善哉は直接、っぽいけど、ロケのマリーナシティの橋がやたら映っているのとか、蝶子さんが鏡台に浴衣姿で向かっているのとかがそうなのかなと思って。
引用したと思われる作品(追加) ・御宿かわせみ(女主人るい、時代劇、小説の展開が岡山編に似ているなど) ・CIPHER(預金通帳、TVドラマを見てる、洗濯物エピソード、物語の構成が大阪編に似ているなど) ・NATURAL(天体や太陽と月の神話、擬似的姉弟他) ↑2件はエデンの東を引用した作品
「ガラスの仮面」、あんなにはっきり出ているので何かありそうに思うのですが、読んでないんでわからないんですよね。(そしてあまりの長さに読むのは無理となってしまう)形式的なことは(母娘で暮らしてたとか?)はあげれなくもないけれど流石にそれは失礼ですし。劇中劇、とかそうなのかな、とは思うけど、読んでないと本質というか根本がわからないので、ガラスの仮面。

60話の、あの海から生還して穏やかそうでいながらもう無邪気にサッチモちゃんと言っていた頃とは違う、痛みを抱えている人だったジョー。見ていてこちらの胸が痛んで、放映中はそこから物語ながら音楽が帰ってきてほしいとずっと思っていました。これだけ音楽から離れてしまってどうなるのかと。

62話、るいに赤ちゃんがいてるんやてと告げられての最初の反応は、自分にそんな幸せなことが起こるなんて想像できていなかったからじゃないかなあ。(ここも当時はなんか色々言われていたような気がするけど)

96話のディッパーで健一さんに、錠一郎君の奥さんとして来てくれるとは、と言われて見交わし微笑むるいとジョーの佇まい、二人で積み重ねてきたものの(この後もう一段上の音楽復帰があるけれど)到達点。 年齢を重ねてこんなにかわいい二人、見ている方も幸せになれる。(要はかわいいと言いたいだけ)

和子さんの店なんてただの形や、と、るいの背中を押してくれたその適切な距離は、理性と愛情を持った大人の対応だったなあと、決して理想的とは言えない舞いあがれを見ていると思う。安子とるいもそうなんだけど。適切って血がつながっているからこそ難しいのかもしれない。岡山編の家制度と生活の苦しさからくる重苦しい親子関係人間関係から解き放つ大阪編でもあったなあ。大月家、ちゃんと適切な関係になって、だから最終週は、安子はアメリカでるいジョーは岡山でひなたはアメリカと日本を行き来してと依存はせずに適切な距離感になった。

108話、会場控え室で久しぶりに会う和子さんが泣くるいに渡す平助さんがアイロンを当てたハンカチが渡っていく様がバトンを渡すを映像で見せてくれているようで、しかも誰も血がつながっていないところがよかったなあ。平助さん、和子さん、るい、ジョー、小暮さん。洗濯した品物が渡る様でもあって。

ジョー、客観的に見れば、不器用で算数ができないけれど、他のことはできるはずで、トランペットが吹けないことの大きさに打ちのめされていたように思う。93話の福引会場で少年に玩具のラッパを渡して、算太が現れて音楽への思いが変わったことと、るいが動揺したことで病院に問い合わせたりとか動けるようになった。音楽もだけどるいが結局ジョーを動かすんですね。里帰り週のジョーを見てホッとしました。

大阪編でええとこの子トミーがサラサラストレートヘアなのと対照的にもじゃもじゃ頭のジョー、戦災孤児であったことを示しているようで(ちりとて初期の草々さんも入ってて)、ステージに上がる時の整えた姿は情熱の狂想曲のカーク・ダグラスと同様オールバックなのが意図的な気がしてます。戦災孤児からトランペッターへ。ステージで受けるライトの眩さとの落差。

ひなたが地球儀を持っていた件、稔さんの部屋に地球儀があったはずと16話を確認したら、ご無事でと言う安子の右側に映っていたけれど、その同じ画面の左側に内裏雛らしい丸っこい人形が映っていて、これ、大阪のるいの部屋にあったもの(白の対の人形)の元々のものだと気づいて今更驚愕。経済的余裕のない大月家で地球儀が出てくるなんて演出の見栄えのためなんてとも言われていたような気がしていて、いやそもそも稔さんの部屋にあったから意図的なんやで、と思っていてそれを書こうとしたら違うものが見つかった。仕込みがたくさんあるなあ。稔さんの夢はひなたにまでちゃんと伝わっていくということですよね。

22話、大阪で安子がるいを背負って芋あめを売り歩くも上手くいかず逃げ込んだ路地でカムカム英語に出会ったとき、地蔵菩薩の祠が映り込んでいました。これはきっと稔さんが見守っているという意味なんだろうな。本当は、この日が2/1の6時半(別の回のナレーションで6時半と言っている)だとしたら、とっくに日は落ちている。(17時半頃日没になるようです)けれど、それではこのシーン自体が成立しないんですよね。暗い闇市で飴を売り歩くのも小さい子を連れ歩くのも無理がある。あえて放送時間を言った意味は?実際とは違ってひなたが敢えて放送第一回を聞いたとしたからこうなったのでしょうか。そんな気がしてきました。

第5週が演出的に不評のようだったので見直していたんですが、そもそも苦しい展開だったのと、25話の事故がショッキングだったのが大きいだけで、他はいうほど悪くないのではと思いました。(放送当時もこの週をまとめて見たのですがそこまで言わんでもと感じていました。)カメラの回し方とか大阪編でのレコードジャケットを映してから横にゆっくり振ってるいを映すなどの手法を思い起こさせるし、安子が小豆を炊く場面、敢えて少しカメラを揺らしてという凝ったことをしていました。祠がチラッとだけ映り込む様は繊細。大切な芋飴やおはぎが落ちてしまうということも、事故のショッキングな映し方も、対比として打ち合わせの上敢えてしていたことのように見えました。平和だった戦前の特に1週目と違いすぎて見ている側がついていけなかったような気がします。 事故の上からの安子の映像は確かに怖かったですけど。

食べていくのに困ることはないけれど、進学するのは躊躇われる、という暮し向きがわからない人がいるんや、という感想、ですね地球儀とかの件。実体験としても、あるし、ありました。ひなたの家の感じ、ほぼ自分の家の感じに近くて共感しました。進学させてもらえたけれど。

おとぎ話(虚構)だということを示すもの ・戦時中の胸の名札が西暦表示 ・るいの生まれた日に満月(16話) ・戦後に建てたバラックのたちばなのガラス窓に「近松」の文字が映る(19話) ・カムカム英語の放送開始時に日が暮れていない(22話) ・定一さんがじょういちろうを訪ねた日が満月(56話)(56話のジョーの思い出話が1948年のクリスマス近辺だっとすると実際は満月ではなかった) ・戸籍謄本の紙が白で活字記載が当時のものとは思えない(56、60話)もしや嵐電の外の現代の風景が映り込むのも虚構、アニーが岡山の街を走り回るのも虚構として織り込み済みの表現とか・・・

98話、岡山まできたトミーが頼み事を言い淀むジョーに怖いと言うのは、もしジョーが変わってしまっていたらどうしよう、だったんだろうなあ。世界のトミーとなって、近づいてくる人の中には嫌な思いをさせられたこともあっただろう。るいのために音楽に戻りたいジョーが嬉しかっただろうな。

71話、台詞で前掛けと言っているので前掛けが出てくる本だったんだろうなあ、と共に、放送当時はるいは忙しいからあのような凝ったものは作ってられないのでは?と思ってたけど、そもそもこれおとぎ話だった、実際のものより可愛いものにした、もありなのか、ひなたのセンスなら。17話でひささん小しずさんが赤ちゃんだったるいのよだれ掛けなどを用意していると言いながら実物は見せていなかったのでこちらで見せたのかなあと思ったのですが言葉だけ繰り返しでもいいところではありますよね。3話でスイカを切ってあるから店番代わると安子がひささんに声をかけたシーン、スイカは映らなくて、大阪編になって冷やしたスイカが登場(45話)、さらにそれを切って家族で食べるシーン(63話)があるのでそのパターンかなとも思ったんです。

ひなたの本役登場の71話以降しばらくは、(一見)おっとりな安子/稔、るい/ジョーとテイストが違いすぎて見慣れていなかったことによる違和感が大きかったようで今見ると普通に面白いやん?となります。とは言いながら、もじりさん演出の17週で私の好きなカムカム帰ってきた!とも思っていたのも事実。ひなたが家の経済事情は気に留める一方、やっていることは子供で、過去の自分を見るような感じもあって見てられないというのもあったように思います。17週は、ひなたが社会人になってちょっと落ち着いてきたから見やすくなったというのもありますね。

48話の晩御飯よばれた竹村クリーニングから出てきたジョーがめちゃめちゃ今日は楽しかった!っていう嬉しそうな感じだったので、思い描いた形ではなくても、朝起きてるいと朝ごはんを食べる、そんな欲しかった当たり前の生活、大切にしてちゃんと起きてくるよねと思って見てました。戦災孤児→定一さんにお世話になる→ミュージシャンについて行く→ナイト&デイ、では普通の家庭らしい生活はほぼなかっただろうから。

森岡さん、仲良くはなってるし、見守ってもくれているけど、やっぱり商店街の声でもあって、五十嵐くんが来るからとビールを頼むとひなたちゃんもいよいよだと言うの、振り返ってみるとひなたにはなかなか辛い話。五十嵐くんとのこと、みんな知っているという描写。赤螺家ももちろん知っていて、「うち入り」での五十嵐くんの所業も見ていて、それを言うか言うまいかが初美さんと吉右衛門で違う描写もあって、吉右衛門は口が堅そうだし、初美さんは悪気なく広めてしまいそうな感じも受けました。良くも悪くも商店街の人になんでも知られてしまっている。大阪でのるいも、クリスマスになっても東京に行かなかったことなどを言われていたのかもしれないけれど、優しく見守る西山さんの姿のみだった。ひなたは、両親の描写にそういうことは入れず、自分のことにのみ書いた、優しい子だった。

初見時、48話の地蔵盆の晩の食卓でのジョーが意外に行儀が良くて、この人は実はきちんと育てられた子供だったんじゃないかと思って、気をつけて見るようにはしていたのですが、結局生い立ちに気づいたのは放送終了して何ヶ月も経ってからでした。。。

木暮さん、ああ見えても大阪商人なので、クリーニングの値上げの話が出た時にガッツリ交渉するために、とりあえずケチャップのシミのあるシャツばかり出すジョーの分は商談から切り離したくて他所に持って行くようジョーに言ったんじゃないかなと推測しているのですが、どうでしょう。

リーガロイヤルホテル売却のニュースを見て、そういえばるいが面接を受けていたホテルのイメージここだったなあと思ってちょっと調べたら1965年開業でした。1962年には開業していない。じゃあリーガグランドホテルなのかなあ。1958年開業。

大阪編での竹村夫妻、事情がありそうだったので雉真さん呼びではなく「るいちゃん」と呼んだことで、店に洗濯物を持ってやって来たジョーがるいを見つける。同時にその時出した服のポケットに「迷子」のマウスピースをるいが見つける。お互いに見つけていたんだな。のちに算太が大月の前でジョーがるいと名前を呼ぶのを聞いて存在に気づくのはこの時のリフレインにもなっている。41話はポケットが重要になっていて、ポケットからトランペットのマウスピース、ポケットからマッチ、ポケットが破れていたと言いがかりされて、そして翌日放送回はポケットにデートのお誘いの映画チケット。畳み掛けるよう。

じょういちろう、ジョーにしても、平川先生のアメリカでの呼び名のジョー、平川先生のお名前の唯一とお父様の名前の定二郎(定一さんの由来?)、そして岡山出身のオダギリさんと重ねてきていてどうしたらこういう組み立てにできるのだろうと思ってしまいます。

3話から5話を見て、稔さんがたちばなに来店したとき風鈴の音がしているのに今更気づいて、自転車練習の後で店に来て夏祭りに行く約束をした時にははっきり鳴っていて 家(店)の軒先の風鈴が鳴るシステム、安子とるいと小夜ちゃん(88話)に作用していたんだなあと思いました。

51話のトミーとるいのやりとりを再現する竹村夫妻に、近頃の子はトミーとかベリーとかけったいな名で呼び合うんやなと山崎さん。サッチモちゃんこそ変わってるけど?と思ったけれど、その話は既に済んでいるんですね。48話の地蔵盆の時、西山さんも山崎さんも竹村クリーニング店に来ている。地蔵盆の日にきていた男の友達が、得意先のジャズ喫茶のトランペッターで、るいを「サッチモ」ちゃんと呼んでいるという話をしている。 ひなたがこのくだりを書いてみたもののあまり面白くなくてカットしてしまったんでしょうか。あの地蔵盆の日の二人の雰囲気からすると野暮なことを入れないほうがいいと思ったんでしょうね。

44話、ジョーがインスタントコーヒーの粉末を振り入れようとしているその手元は柵があってはっきりとは見えない。るいから手渡されたコーヒーを飲むとき、背中を向けていた。その素性は簡単には教えない、ということなのかな。向けられた背中はるいに対しても壁があるということなのかな。

リアタイ時に思わず泣いてしまったのは106話「トミーさん、こんなこと言うの贅沢なんはわかってるんですけど、トランペットを吹かせてあげたかった。その特別な会場にジョーさんのトランペットが響き渡るの聞いてみたかった。すいません、言うても詮無いことを。」るいのこの台詞、普段は出勤前に泣かないように気をつけてるんですが、これは不意打ちで来たので。 普段るいのことは些細なことも気にかけてたジョーだけどディッパーですぐ横のるいの異変には近すぎて、そしてそれが自分のことだったから気づかなかった。居間の呑気なジョーの声があるから余計に。

16,17話であんなにみんなに愛されていたるいなのにそれと知らず39話で一人になって新しい街に来たのだと思ったけれど、これ、後からひなたが書いているので、安子や勇の証言を参考に、お母ちゃんは大切にされてたんやで、と言いたかったんだな。ひなたが両親から大切にされていたように。

61話で黍之丞と左近になりきりのジョーと吉右衛門、放送当時も子供の頃戦時中で遊べなかった、と言われていたけど、この二人、あの岡山の街の子なんですよね。空襲時4歳と11歳で年齢が離れていたから戦争がなくても遊び相手にはならなさそうだし、幼すぎて何も覚えていないだろうけれど。吉右衛門と清子さん、橘のこともはっきりと覚えてはいなかったのだから。

ふと気づいた、大阪編でしばしば入る画面中央に橋の風景。画面右端にある川沿いの歩道にある看板「酔っ払いに注意」、これ、視聴者へのメッセージなのでは?(通行人に注意喚起する内容なら「ひったくりに注意」などでは?) お酒がらみで何かありますよ、と言いたげに見えます。

57話、辛いのであんまり見直ししていなかったのですが、月の光があったんですね。 59話のジョーの洗濯物を側に置いて眠るるい、そのジョーの洗濯物に月の光が差しているのと呼応しているように感じます。

算太のダンスの回から久々?に里帰り週を見、ジョーの柔らかい声がたまらなかったです。少しだけ家族と過ごす時間が欲しかったんやないかなあ、るいの心に染み入るよう。すごく特別な曲、と言っていた大阪のあの頃からジョーはるいにとって唯一無二で、静かに聞くるいに重ねた時間が見えて。

91話のちゃぶ台囲んでジョーがラピュタパン?の卵を指でちょっと支える感じで食べてるのとるいは卵はのせずに食べてる姿も可愛いなあと思ってました。(ラピュタの公開が1986年、テレビ放送1988年以降だったので年代もちゃんと合っていたのも確認しました。)

91話のラピュタパン!?、脚本なのか演出なのか広里さんが用意したのかわからないけれど、一つのシーン(この場合二人になった食卓)に他の意味や物語が提示されることがすごく多くて、これが112話であれだけ濃く深い物語が描けた理由の一つなんだろうなあと感じてます。

70話ジョーがひなたと回転焼きを半分ずつにしよう言ったのは、32話で美都里さんがおはぎを半分こするシーンに呼応するなあと32話を見直すと、半分に分けられるおはぎが一瞬アップで映されて、分けるということを伝えたかったんだなと思いました。
32話では幼いるいが美味しゅうなれと餡子のまじないを意味をわかって唱えていて、70話ではそのるいが作った回転焼きを一緒に食べようとジョーから差し出されたのに跳ね除けて怒られるひなた。食べる人の顔を思いうかべて作って、一緒に楽しく食べようとしたのに跳ね除けてしまったんだ。
ひなた、悪いことをした自分のことなのに敢えてこのエピソードを入れたんだなあ。 それから、虚無蔵さんに言われた「分ける」ということを伝えたかったんだな。
スイカの方は、セリフのみ(3話)、丸々1つを冷やす(45話)、家族で(63話)、吉之丞や小夜ちゃんが来て分けて食べていて、こちらは幸せが広がるようなイメージ。

49話、吹いてみる?と言われて、るいが「大月さんのトランペット」の重さを感じながら嬉しそうに受け取って、の一瞬のシーン。トランペットがどれだけ大切か、るいはずっとその重みを覚えていたんじゃないかな。 その直前にジョーが吹いていたのも二重の意味で効いているような。

そう言えば、甲子園球場、もうすぐ100周年なんだ。 1924年。ラジオ放送が始まる1年前。ラジオと共にあったんだ。 112話で桃太郎が監督としていった甲子園はリニューアル後の甲子園かな。

野球を始めた桃太郎が筋がいいと褒められたのはるいに似たからだと言うけれど、ジョーはきっと小さい桃太郎を連れて河原に行き、子供たちの野球を一緒に見ていた。だから桃太郎は野球が好きになったんだと思う。

戦前の岡山の「たちばな」の隣にお茶の店があるのはひなたがお父ちゃんの家を用意したと解釈したけれど、もし空襲がなかったらの世界でも、お父ちゃんとお母ちゃんは出会って結婚して自分と桃は生まれている、というひなたの思いがあるような気がしてきました。 解釈に解釈重ねてる感じですけど。

ジョーのトランペット、誰かから譲られたものなのかな。撮影で使われたものはMITCHさんが1951年製マーチンコミッティデラックスと書かれてますが、なかなか買えるものじゃないだろうなあと思って。大ベテランから贈られたものかなと思ってました。
大阪時代いつも丁寧に手入れをしていた姿がとても大切にしているように見えて、お金を貯めてようやく手に入れたものでも、譲られたものでも思いがこもっているなあと感じてました。 少なくとも一番最初のトランペットは譲られたものだっただろうし、手にした時すごく嬉しかっただろうな。
撮影にわざわざ当時使われていた年代のものを用意する、わかる人にはもちろん、疎い私のような人間にも物語を感じさせる。

鈴木くんが気になって、ハードモードな21話からの週をざっと見直してるんですが、 Won’t you have some candy? と、芋あめ売り歩いて歌うの、歌詞の再現なんだと今更ながら。るいが初めて喋った言葉がカムカムなのも、単にタイトルだからじゃない。「カムカム」で希望を見出していく。

47-48話でるいとジョーを見守るように吊るされていた、たこ焼き屋さんのたこのぬいぐるみ、実は見守っているものの象徴だったのかもしれないなあ。橘家、雉真家の人々、定一さんがすぐそこにいるような。

安子が早朝おはぎを作っているシーンのカメラがぶれていて、それが幼いるいの視線だったところから、るいが、赤ちゃんから自分の意思を持って言葉にして行動する1人の人間、もう1人のヒロインとなったことを示しているようで、色々言われた週だけど、これ、実はすごい週なのでは。

大阪編のジョー、大阪では他所から来た人の話し方なのに、東京に行くと関西アクセントが強くて、アウェイ感があり、やっぱり他所から来た人に感じる。 こんな絶妙な表現できるの、すごいなあと初見時から思ってました。

安子はアメリカに逃げて、ハリウッドで仕事をする人になったけれど、そこはエデンの東の舞台で作者スタインベックの生まれたカリフォルニア州、逃げてるようで本拠地に行ったんじゃないかと思うのは考えすぎでしょうか。稔さんに出会って知った英語に映画の思い出、るいのこと。

10話、召集令状が来た菊井さんに、好物は五目煮じゃったなあというひささん。五目煮が好きだと言うこと、それを用意しようとすること、それだけで関係性がわかる。安子と算太が立て直したかった取り返したかった「たちばな」の描写。

52話、るいから返事をもらえないジョー、ずっとトランペットを触っているけど、吹いていない。コンテストが近づいて吹かないといけないのに吹けない。でも。トランペットを持っていないと心細いように見えます。

カムカム 、ジョーさんの家がたちばなの隣のお茶のお店(とひなたが設定したのだけれど)だと気づいてから、岡山編を見るたびにジョーさんの気配がずっとあるように感じて、表の主人公はヒロイン三世代だけど、裏を返せばジョーさんが主人公でもあるように思えてきました。
お茶のお店のメガネをかけたおじいちゃん、季節問わず同じ着物で度々登場してる。安子の後ろを通り過ぎ、ラジオ体操もいつもいる。

試着室の回、ダグラスでジョーの後ろにトランペットニューセッションのポスターが映るのは、岡山編のディッパーの店内に貼られていたトランペットの描かれたポスターと呼応している?ずっとアイロンをかけるるいの背後のポスターと呼応していると思っていたけど、ジョーのルーツの表現?
アイロンをかけるるいの背後のポスターは、棗黍之丞。安子と稔さんがかつて見た映画のシリーズ。これ、るいのルーツの一つだ。

トミーって、ジョーより少し年上で、戦後すぐの混乱期のことを辛うじて覚えているような気がします。そう思ったら、海でるいに話した、あいつ戦災孤児やねん、がすごく重く聞こえてきます。トミー本人は多分疎開してて、大阪に帰って来て衝撃を受けたのかも。
ベリーちゃんはジョーより年下で戦後が大変だったことを知らないんじゃないかな。るいはもちろん小さかったし。 この微妙な年齢差が人物像にすごく影響している気がする。トミーは良く気が付くタイプだけど、やっぱり、知っているからの振る舞いでもあったように思えて来ました。

「エデンの東」(小説の方)文庫4冊のうちの2冊借りてきてパラパラとめくったのですが、 ・三世代の物語(二家族) ・初代が戦争に行く、妻が内に閉じこもるタイプで池に入水 ・すぐ後妻をとる、働き者 ・冒頭の一人称は誰かと思ったら、もう一つの家族の第三世代、孫世代の著者・もう一つの家族の第三世代、孫世代はジョン・スタインベック(著者)と、美都里さんや、雪衣さん、さらに、ひなたを連想させられて、思っていたより依拠してそうな感じです。ただ、描写がなかなか下衆というかエグいというか。(作品世界の時代から止むを得ないのでしょうが)

20話のこの世とあの世の境目のような雑踏のシーンで、59話の海も境目なのではと、前から思ってたけど、20話を見て余計にそう思いました。 昔、大阪・四天王寺の西門の先は海で、石鳥居の西門は極楽の東門であり、鳥居の向こうの沈む夕日を見て極楽浄土を観想する日想観、を思い起こします。
能「弱法師」、人の讒言で父に追い出された子が悲嘆のあまり目が見えなくなり、乞食となり弱法師(よろぼし)と呼ばれる。四天王寺で父が我が子を見かけ日想観を成してから帰る。シテ(主人公)登場時「出入の月を見ざれば明暮の夜の境をえぞ知らぬ。難波の海の底ひなく。深き思いを人や知る」下歌「もとよりも心の闇はありぬべし」 このくだりで59話をいつも思い出してしまいます。

魔女のパン、善女のパン、同じお話なのに違う邦題、表裏だなあとふと思って。 今読んでるエデンの東のキャシー、登場時に怪物と、悪魔憑きだと、魔女にも喩えられていました。

岡山編と並行して本を読んでいたので、「カインとアベルの物語」の再構築が小説版「エデンの東」なら、その「エデンの東」を再構築したのが #カムカム 、と言えるほどの濃さを感じてます。 物語の要でもある、聖書を読み解く中国人リーさん、形式的にも実態的にもジョーさんに反映されている。異邦人で袖に手を守るように隠す、片言の英語(本当は流暢)、だけでなく、シンプルに物事の本質を語る姿。 アダムとチャールズ、キャルとアロン、繰り返される兄弟のモチーフは橘の算太と安子、雉真の稔と勇、大月のひなたと桃太郎。稔という名前は土を耕していたカインを連想させます。全ての人類の祖先であるカイン。全ての私の物語。カインが額に印を持つ意味を深い思考の上に再解釈した物語だと思えます。 るいの額の傷は、さすらい人の印、さすらい人=rover、サニーサイドの歌につながり、カインとアベルの物語がサニーサイドと繋がって、全ての人に寄り添う歌になる。るいは一人っ子だけど彷徨える魂が魅かれあうようなるいとジョーの描写は救われた兄弟とも言えそうな気がしています。そういえば、サミュエル(作者の母方の祖父)さんは裕福ではないけれど何でもできて知性もあって、るいのようでもありました。 (まだ2巻/4巻しか読んでないのにこんなに語ってしまってますけど)(エデンの東の登場人物に、サミュエルの息子、ジョー、という子がいるんですが、仕事をするのが不得手で何一つうまくできないので大学に行かせる、というのがあって、ここからなのか、とも思いました。)

岡山編にどっぷり浸かった後の大阪編の温かなこと、口数の多くないるいにやかましい(でも適度な距離感)和子さん、気のいい平助さん、もう泣けてきますね。日数もさして経っていない39話と40話でさえもるいの表情が違う。

エデンの東、読了しました。 暴力的な開拓者とリーさんにイメージを託した知的な中国人、西洋と東洋。 陰鬱なトラスク家と最初は賑やかだったのにどんどん人が亡くなっていなくなるハミルトン家。 その2つの家族を交互に描くこと。 #カムカム の100年の物語が始まる前の三世代の物語。ハミルトン家のデシーは洋裁店を出して繁盛させていたのにだんだん上手くいかなくなり、仲の良かった姉弟のデシーとトムで賑やかなハミルトン家を取り戻そうとしたけれどできなかった、悲しい最後。仕事ができないと言われていたジョーは東海岸に行ってしまう。新しい産業で活躍するようになって。トラスク家のアダムの双子の息子のアロンは母親の真実の姿を見てショックを受けて戦地に行って戻って来ず、の件は映画と一緒なのですが、アダムが映画と小説で違っていて千吉さんは映画のアダムのイメージに近く、小説のアダムは親の財産で一生暮らし、自分で思うように仕事を成し遂げられなかった人。街に住むようになったトラスク家の向かいにクリーニング店。お隣はパン屋。(善女のパンに繋がる?) 日本ではそうでないけど、アメリカだとありきたりな名前、ジョーと言う登場人物がたくさん出てくるのも気になりました。本名は違うのに通称ジョーだという自動車整備士とか。エデンの東(カインとアベル)を踏まえてみると、進駐軍のクリスマスパーティで安子がロバートに稔が亡くなった理不尽を訴えるのは神に訴えているようでもあり、その答えを神に代わってロバートが言っているようにも見えます。おはぎとコーヒーが合う、は東洋と西洋、カインとアベルの物語を東洋的哲学的に解釈したことを意味しているようにも思えます。アメリカの中の東と西、が日本の東京と大阪/京都になっているし、岡山にとっては大阪も東なので、東の大阪から雉真家に戻ってきた安子は雉真家にとっては魔女のようなキャシー的であったのかもしれない。(補足:キャシーは東から西にやってきたので)

「エデンの東」でジョーという名前の人が複数出ているのは、よくある名前であり、全ての人の物語、という意味なんでしょうか。だとすると、藤本先生が著者スタインベックに倣ってジョーさんだけでなく、黍之丞、吉之丞と重ねて行ったのもしれないなあと、ふと思いました。

そういえばヒロインが薔薇背負ってるって、昔の少女漫画ですよね、52話のダグラスは、ひなたの趣味!?

大阪編、置かれた観葉植物にまで意味がありそうで、それが全部幸せを願ってのことで、愛情を感じます。56-57話の笹川邸、カシワバゴムノキ「永遠の幸せ」、59話のわかるわけないと言っていた宿の部屋の壁に2匹の鯉の絵、蜂蜜の瓶のラベルは"clover honey"。竹村クリーニングの店内にあるのはドラセナ(幸福の木)、 サンスベリア「永久、不滅」でしょうか。観葉植物だから悪い意味のものはないでしょうけど、置かなくていいクリーニング店の店先にわざわざ置いているので幸せを願っているだと思えてきます。

小草若の殴ってしまったのと、59話の荒れ狂ったジョーさんがるいの持ってきた洗濯物を外に放り投げるのが一致するような気がふとして。普段そんなことをしない人がやったこと。「エデンの東」の暴力的な部分、カムカムだとほぼ戦争に代替しているように思っていたのですが59話があったなあと。13話で勇ちゃんが稔さんを殴ってましたね。エデンの東の弟チャールズが兄アダムを殴ったのを(こちらはもう暴力ですが)思い起こさせます。

#カムカム は日本とアメリカの話でもあったけれど、遠い異国の東洋の日本でアメリカ文学に依拠した物語が朝ドラとして放送されたのが、あんこと英語、ジャズであり、野球のよう。朝ドラと出会った「エデンの東」。映画版で有名なジェームズ・ディーンにちなんだ何かないかなあとふと思ってwikiを見たら、愛称はジミーって書いてありました。 え、ジミー!? 51話のドライブデートのいきさつ漫才のジミーってもしかしてそれ?ジェームズ・ディーンの代わりにジョーとトミーが長生きしてるのかもしれないなあ。

よくよく考えてみれば、#カムカム 、小説版「御宿かわせみ」の物語を取り込んでいて、自立したるいさんはもちろん東吾さんは勇ちゃんぽく、稔さんもジョーさん味もありました。女性作家で女性主人公で男性メインとは違う時代劇ドラマで傑作だったと思います。

今更気付いたんですけど、大阪編、漫画CIPHERの展開をなぞっていて、序盤は青春グラフティ風、別れがあって、再会と同様の経過になっていました。56話から59話の離れているところの方がCIPHERは過半で長いのですけれど。 エデンの東に依る物語同士というだけでなくて漫画の方も入ってる。ちゃんと子供らしい子供時代を過ごしていなかったとか、貯金通帳とか、分かり合えるかとか、パーツもそうだけど、CIPHERの執筆動機が自作漫画の単行本を棺に入れて欲しいと遺書を残して亡くなった方の話を知って苦しくても生きて欲しいと願ってのものだったのが一番大きい共通点ではないかと思います。そもそも双子のロイとジェイがジョーとるいに、またはトミーに、アニスがるいにも、友達のハルがトミーにアニスの友達のルースがベリーっぽくもあって。CIPHER思い起こすとわかるわからないとか、解釈しやすいです。

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