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闘病しながらの学校生活と忘れられない先生

小学5年の時にSLEを発症した私は、その後多くの先生に大変お世話になりました。入院中は学校のプリントなどを持ってお見舞いに来てくださり、日々の学校の様子を知ることができました。退院して学校に通っている間は、身体を冷やさないこと、直射日光や疲労を避けることなどに気を配りつつ他の生徒と上手くコミュニケーションが図れるようご配慮頂きました。
私が発症した頃クラス内に重病の生徒が数名いて、常に入れ替わりで入退院している状態でした。この時の担任の先生は本当に大変だったと思います。
このクラスは6年も同じで、修学旅行にも行きました。旅行中も別室で過ごすことが多かったですが、参加できただけでも感謝しています。
残念ながら重病だった生徒のうち一人は、中学に上がってすぐに亡くなりました。病気になった時期が近く、体育や行事が参加できない時に一緒に過ごした時間が多く思い出も多かったため、とてもショックでした。

中学生になってからは入院期間が長かったので、それぞれの担任の先生に大変お世話になりました。その中でも一番忘れられない先生は、中学3年の時の担任のO先生です。O先生は生活指導もされていていつも元気で大きな声、そして先生っぽくない派手なシャツを着ているのが印象的でした。
新学年になってすぐに透析が始まり病状もなかなか安定せず、修学旅行も行けず辛く悲しい時期でした。そんな時にO先生はお見舞いに来て沢山のパワーをくださいました。学校に行けていないのに、クラスの生徒だと認めてもらえたことがとても嬉しかったです。
その後校長から出席日数の問題を指摘され、2学期からは支援学校に転校しました。必死に勉強をして成績は問題がなかったため、地元の中学校を卒業できないことは本当に悔しくて悲しかったです。

山の上にある病院で過ごしながら隣接する学校へ通うという孤立した生活が
始まりました。楽しみは音楽を聞くことくらいしかなく、行きたい高校に行くことを目標に勉強を続けました。週末に外泊はできるけれど、その病院に面会に来る人はほとんどいません。病院と言っても大きな治療はしないので寮のような雰囲気でした。
そんな中、O先生は面会に来てくださりました。その時の喜びは今でも忘れられません。沢山いる生徒の中、しかも実際に学校に行ってO先生に会ったのは一度あるかないかで、この時はもう実際には転校してしまっているのに。私の負けず嫌いの性格も知って「頑張るんやで!また顔見せにくるからな!」と励ましてくださったその言葉に本当に勇気づけられました。
支援学校を卒業した後、O先生が自宅に来られました。
「ちょっと遅くなったけど、、」と渡されたのは、私が卒業したかった地元の中学校の卒業アルバムでした。もちろんそこに私の名前も写真もありません。それでも最後までO先生が自分のクラスの生徒だと思ってくださっていたことが嬉しくて涙がとまりませんでした。

その後数年してから街を歩いていると大きな声で名前を呼ばれました。
聞き覚えのある声、、O先生でした。「元気そうで良かった!」
少しだけの会話でしたが、まだ覚えてくださっていたんだと幸せな気持ちになりました。今、O先生は中学校の校長先生をされているようです。今もまだあの時のような大きな声で元気にされているのかなと想像しています。さすがにもう年月が経ちすぎて忘れられていると思いますが、いつかお会いできる機会があれば直接感謝の気持ちを伝えたいです。

最後に。私が病気になってから、小学校から大学までの学校生活では本当に多くの方にお世話になりました。先生を初めとした学校関係者の方々、そしてクラスメイトのみんな。きっと皆さんにとってはすでに過ぎ去った一瞬の出来事だと思います。でも私にとっては忘れられない人生の一部で、これからも感謝し続けます。本当にありがとうございました。

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