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掃除の不可解

料理は腑に落ちる。掃除がわからない。

料理は、やるほど身についていく感覚があるし、「つくる」のは楽しいことだし、やる気のある日もない日も、うまくできる日もできない日も、全てが少しずつ、蓄積していく感じがある。

やり方のバリエーションも豊かで、どの道をいってもそれぞれに良い。さっと簡単に、たまごかけご飯にするだけでもおいしい。一晩かけて素材を漬け込んで焼いたり、ブイヨンやルゥから自分でつくってスープを煮込んだり、じっくり手間と時間をかけてもいい。

もらいすぎた柿はジャムにして、拾った栗はご飯に入れて、ぐるっと目に見える近所の風景とも食卓は繋がるし、季節によって店に並ぶ魚も野菜も変わって、いろんな国の食材も手に入れることができるから、食卓は遠い海とも行ったことのない場所とも繋がる。

お店に食べに行けば、家では再現できない、圧倒的に洗練された、探究に満ちた味に触れることもできる。

でもそういう味と、たまごかけご飯、どっちが上って比べることはできなくて、両方おいしい。大変に洗練されたプロの味と比べられないおいしさが、たまごかけご飯にあることに、料理のミラクルな素晴らしさがあると思う。

どの道からいっても、おいしさは自然の大きなふところに繋がっていて、ほれぼれするありがたみを感じられる。卵かけご飯がおいしいって、その凄みに気づくと、凄いことじゃないですか。難しいことをしなくても、家庭でも、料理は料理を料理たらしめてる凄みに触れられるから、おもしろい。

何をしても、最後には食べるものができあがる、やったことに対する報酬も大きい。食べたものは体をつくるのだし、とにかくプラスに重なっていく。

一方の掃除は、マイナスの蓄積みたいに感じてしまう。

日々の掃除は、マイナスをゼロに戻すだけ。さらには、ものは経年劣化していくから、正確にいうとゼロにも戻らない。生活することで汚れて、大きくマイナスになるのを掃除でゼロに戻そうとするのだけど、完全に戻ることはなくて、ものは少しずつ目減りして、汚れは少しずつたまっていく。手入れするほど味わいを増す建材の家に住むことも、しっかり手を入れ続けることも、なかなかハードルが高い。

料理の番組も、本も、雑誌もたくさんあって、みているとワクワクする。わあって高まる。それが掃除の話になると、とたんに色気がなくなって、生活感そのものという感じがしてくる。

生きているだけで汚れる。いくらきれいにしても、終わりはなくて、生活すればまた汚れる。

その繰り返しの掃除ってなんなんだろうと思って、とりあえず、修行と思うと少し腑に落ちた。なんでとか、どこがとかは、まだ言葉にできない。ものと身体の触れ合いとか、ものの性質や段取りの学びとか、脳に蓄積されるある種のゴミが手を動かすことでリセットされるとか、それっぽいことは浮かんでも、まだよくわからない。

職人の工房ではチリやホコリは製品の傷や汚れの原因になるから、掃除はものづくりのための環境づくりだ。店だったら、品物に気を入れるため1日1回は必ず製品に触れたほうがいい、みたいなことがあるから、掃除には掃除以上の意味がある。でも家の掃除って、何なの。

掃除の本を検索してみたら、想像以上に禅がヒットした。やっぱり掃除は修行なのか。修行って何なのか。

掃除が禅修行なのだとしたら、掃除界における、「たまごかけご飯がおいしい」的な、誰にでも開かれた道はないんだろうか。掃除、あんまり好きじゃないけど、でもやるとすっきりする気持ち良さもある。家電がいくら進化しても、生きてる間に掃除フリー生活にはならないような、なるとしたらどういう感じか。

お坊さんの話、旅館や飲食店や製造業など掃除を重視する様々な職業の現場、醸造業など菌との共生環境における掃除、ものすごく良い建材じゃなくても手入れされることで良い感じになってる昭和の住宅、重曹とクエン酸で学ぶ化学、掃除を全くしない人、最新ロボット家電事情、掃除のいらない住宅案、掃除っていう習慣の皆無な文化集団、世界各国一般家庭の掃除頻度、湿度と掃除の相関関係、なんで日本の学校には掃除の時間があるのか、混沌から生まれる創造性、掃除をめぐる脳科学、、、『掃除考』つくりたいな。


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