▲▲▲|家もいきもの

三木佐藤アーキの自邸、改修前の写真がとても衝撃的だった。あの空間に満ちてただろう、荒れた家財道具や壁紙やカーペットやベコベコになった昭和柄のフロアシートが発してるものにとらわれず、あそこに躯体としての価値を見出せることがすごい。表面はそうなっていても、奥には数十年を耐えた素材が眠っていて、柱や梁はそのまま使えて、かつそれが味わいになり、空間に良いエッセンスを加えていて、あのボロボロだった家は救われたんじゃないか、みたいなことを思った。

富山に来てから、子どもを育てるには一軒家がいいと思って、よく空き家を見に行っていた。空き家ツアーに参加したり、移住相談センターの人に物件を見せてもらったり、目星をつけた地区を車で走って、住みたい空き家らしき物件をみつけて、隣の家の人に持ち主をきいて、さらにその持ち主を訪ねて、中を見せてもらったり。

それで感じるのは、空き家が発する空気はどれも似ていること。人に住まわれている家の雰囲気はその家によって全然違うのに、空気が流れなくなって、建材が崩れていって、置きっ放しになった家財道具が発するものって、どれも同じ感じがする。食器や洗剤のプラ容器やおもちゃや壁にはってあるポスターが放つ瘴気みたいなもの。そういう空間にあまり長くはいられない。なんとなく苦しくなる。

人の気配がのこる捨て置かれたものは、どことなくこわい。まず、何もない原っぱや森より、廃墟があるほうがこわいし、そこにボロボロになった椅子や食器やぬいぐるみが密集していたらさらにこわい。

しかしなんでそうなのか、不思議なことじゃないか。ものに人の気配がのこること。気配を感じてしまうこと。不思議だけど、そういうことが確実に起きている。

ものは、大事に扱えばそういうものしか持ち得ない味わいを発揮するけど、捨て置けば、気味の悪さを帯びる。古びて空気の滞った家でも、人が住んで1週間くらい風を通せば、けっこう復活する。人はものに命を吹き込んでしまう。人とものの関係って、とても不思議。

空き家ツアーでは、よく建築関係の人と一緒になった。どこもたいてい生活用品がぶわっと残されていて、わたしは、わぁとか、うぅとかなってしまうのだが、建築関係の人はおかまいなく、「面白いですねえ」とか「ここが特徴的ですねえ」など嬉々としていた。きっと全然違うものが見えていると思ってたけど、三木佐藤アーキのビフォア・アフター写真に、やっぱりそうだと思った。全然違うものが見えているというか、見いだされてるというか。

建築に関する経験値があるからこその、表層の奥にあるものが見える目と、そこからさらに、事態をぶんっと良い方向に振る、イメージが描ける意匠力。中古物件をリノベして住みたいけど希望エリアに廃屋しかないとか、実家にある離れを何かに利用したいけれどかなり痛んでいるといった方は、相談されてみてはいかがでしょうか。物件の選択肢がすごく広がる気がする。

https://note.com/chieyabutani/n/n0f88305de250

三木佐藤アーキの家の柱や梁には、かつて使われていたものとしての痕跡が残っている。見えない場所にあったのだろう梁に、木材店の名前が書いてあったり。気配的なものをどれだけどう残すか、濃度のさじ加減によって、それらは廃墟時代をみじんも感じさせないほどさっぱりとして、爽やかな、新品にはない愛嬌をもって、そこにあるんだと思う。

ものを大事にするという意味でも、リノベーションて良いとあらためて思った。元からあったものを引きつれつつ、全然違うものとして新たに甦える家は、すごく面白い。


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