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束縛と自由はとらえかた次第

束縛、と聞くと、嫌なイメージがある人が多いのではないだろうか。
縛られて、自分の思い通りにできない。そんなイメージがある。

環境にとらわれているから束縛されている?違うと思う。環境に縛られていたって、大空を舞うような発想に見舞われる。思考さえ自由なら小さな部屋から世界を見渡すこともできる。その思考で大空を舞うこともできるんだ。

結局どんな時も自分次第だ。
捉え方ひとつで世界は変わる。そんな話。

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私の大好きな友人は悠々自適の独身貴族だ。
趣味は海外旅行で、語学留学にも頻回に出かけた。仕事は海外に行くための資金調達の意味合いが大きい。彼女は「環境に縛られたくない」という欲望に非常に素直だ。この気持ちが常にある気がする。

引っ越しも多くて定住しない。彼氏もいない。自由が恋人だ。
人の恋人を作らない理由は、恋愛に興味が薄い以上に自由を愛しているから。

彼女は環境に縛られないことこそが自由と考えた。

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かたや私は、若い頃から寂しかった。誰でもいいわけではないけどいつもそばにいてくれる人が欲しかった。彼氏や家庭に縛られたかったと言える。

私は、泊まり木を決めて、いつもそこから大空へ羽ばたきたかった。帰る場所が必要だった。だからパートナーが必要だったし、ずっと一緒にいるために早く結婚したかった。

今は無事結婚をして子どももいる。しかし、行動は完全に制限されるようになった。子どもの体調不良があれば仕事は休まねばならないし、夫の仕事の勤務の忙しさにより、家庭をやりくりする負担は私に荷がまわる。思うように働けないし、思うように動けない。今の状況は家庭に束縛されている状態とも言える。

だけど、忙しくて目がまわりそうな現実にいても、心は自由だ。この束縛は、どちらかというと、私にとっては自由への解放だった。人がうちにいてくれること、その安心があるから、私は社会で生きていける。

そんな私にとって、環境に縛られることが自由へつながっていたと言えるだろう。

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束縛とは、行動を制限されても、心が自由なら、それは束縛とは言わない。
束縛とは、心が縛られる、その状況を言うんだろうと思う。

私の束縛は世間体だ。
女性は結婚し、子どもを産むもの。のような価値観がそれにあたる。

だから結婚し、子どもを産んだわけではないが、社会を生きていると、この価値観で縛ろうとするナンセンスな人はまだまだゴマンといる。

人種差別や、身体不自由や、ジェンダレスなど、差別をなくそうと多くの人が動く世界のなか、まだまだイケてない人はゴマンといる。

長い不妊治療の末にやっとひとり産んだ私に、疲弊しきった私に、公園で初めて会っただけの初対面の老婆、挨拶のその次の瞬間に、「お子さんひとり?」と聞かれ「はい」と私は返しただけ。次に言われた言葉は「あら、かわいそう。」私は絶句した。唐突に質問されて、返しただけの私に。何も返せなかったけど瞬間で頭に血がのぼり、クラクラし、めまいで倒れそうになった。

そんなひとがまだまだいる。

かと思えば、私の姑である義母のように、なかなか子どもができなくても、何も言わず接してくれた、神のような人もいる。

苦しみを経験したからこそ、自由とは何かが理解できる。

私は、そんな言葉をかけられることはあっても、結婚し、子どもを産んで、やっと世間の目から自由になり、今こうして羽を伸ばして生活している。

安心して好きな本を読んだり、文字を書いたり、子どもを可愛がったり、好きな仕事をしたり、心が自由だ。

思考は大空に羽ばたく。果てない宇宙を感じることもできる。まだ見ぬ未来を怖がったり、期待することもできる。心は自由だ。

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人によって自由の定義は違う。身体そのものが縛られなくて自由に動けることを自由という人がいれば、思考を縛られないことを自由と捉える人もいるだろう。

束縛と自由は、自分の捉え方ひとつで変わることもあるな、と思った話。








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