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一番古い記憶

自分の中の、いちばん古い記憶は、当時住んでいた婆ちゃん家のトイレだと思う。

昔の和式のトイレだった。そして私はギャン泣きしていた。

和式トイレ (2)

こういうやつ。(拾い画像です)
1970年代の一般家庭は、まだ和式が多かったと思う。

たぶん3歳の頃だと思うから、トイレに行けるようになった頃なんじゃないかな? この先っぽの部分に、今の洋式トイレみたいに腰かけて、トイレをしていたんだと思う。

その時の私は、母を亡くして、祖父母の家に預けられていた。自分自身の記憶がないから分からないけど、後から聞く情報を総合すれば、祖母が育ててくれたのだと思う。

父は、祖父母の家から車で1時間くらい離れたところで仕事をしていた。自営業で小売業をやっていたので、ほとんど休みもなく、祖父母の家に帰宅することは週に何回かあるかないかだった。週末に帰宅したときは、父は私を連れて母の実家へ行き、母の実家に私を預けてパチンコに行ったりしていたらしい。私を連れてパチンコに行くこともあり、そんなときは何故か当たりが出たらしい。(←そんな時代

祖父は、父の仕事を手伝っていた。祖父自身は定年退職をした後で、体力的にもまだ余裕があったのだろう。毎日朝から電車とバスで通ってくれていた。東京都のシルバーパスの対象年齢になってからは、無料で来れるルートを開拓し、倍以上の時間をかけて、都営バスを乗り継いで来ていた。私のバス好きは祖父の血を受け継いだのかも知れない。

さてトイレだが、記憶の中で3歳くらいの私がギャン泣きしている。

私の一番古い記憶は、婆ちゃんを大声で呼びながらギャン泣きしている記憶なのである。

なんで泣いていたのか分からないが、想像するに、すぐ近くに婆ちゃんがいなかったことで不安になったのではないか。

後々、客観的に振り返れば、ある日母親が忽然と姿を消して、父親もいたりいなかったり。いつも一緒にいるのは婆ちゃんだった。
アパート型の4世帯?同居大家族だった。同じ建物には、祖父母の他に、父の長兄夫婦と子供、次兄夫婦と子供、父の弟、末弟もいたし、アヒルとか犬もいたはずだけど、覚えているのは婆ちゃんだけ。それだけ、私にとって婆ちゃんの存在が大きかったんだろうと思う。

4歳の時に父が再婚して、祖父母の家を離れることになった。

そのあとは、たまに遊びに行くだけになってしまった。

婆ちゃんは私が小学生高学年の時に脳梗塞で右完全麻痺になり、亡くなるまでの10数年、介護を必要とした。そして、私が看護師として就職して何年かして亡くなった。

私が一番恩返しをしなければいけなかったのは婆ちゃんなんじゃないかと思っている。でも、婆ちゃんには何もできなかった。

気が付いた時には脳梗塞の後遺症で、満足に動くことも話すこともできない婆ちゃんだった。どう接すれば良いのか分からかった。私自身、成長して、勉強した時には、婆ちゃんは私を認識することができなくなっていた。

私は記憶の中で元気にスタスタ歩いている婆ちゃんの姿を、思い出すことができないことが、なんとも悔しいのです。


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