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私のまとめ

30歳になったらしい。今までの人生何をしてきたのだろうと自問自答することがある。“何か新しいことを始めたい”と口ばかりの人生だったんじゃないかと。振り返りとともに、まず自分自身のことをざっくりまとめることにした。

習いごと

ピアノ・スイミング・硬筆・習字・塾
夏休みはボランティアやデッサン教室にも通った。
平日と土曜日は毎日のように習いごとに通って、学校が終わってから休む暇はなかった。(笑)けれど得たものは多くて、自己肯定感を高められたと思うし、友人や教えてくださる先生との関わり方も学んだ。おかげで自分の心は潤って、人の感情を上手く汲み取る人間になったと思う。(笑)
当時は何も考えられなかったけど、月謝や送迎のガソリン代諸々、両親の時間もたくさん奪ったけど一生懸命尽くしてくれて本当に感謝してる。この場を借りてアリガトウを伝えたい。

私の将来の夢

中学生の頃、とても考えられない出来事が起きた。身内は同じ感情を抱いたはず。詳細は省くが、結果的に祖母は指を失った。お見舞いに行った時、車椅子に乗って利き手に自助具を装着して一生懸命ご飯を食べていた。その光景を目にした私は自然と涙が溢れた。もちろん悲しい感情もあったけど、一人でご飯を食べていることに感動して、怪我や病気をした人の役に立つ仕事がしたいと強く思うようになった。
母の協力もあって『作業療法士』という職業を知る。どんな職業なのかピンとこなかったけど、当時記憶していることは◎怪我や病気を患った人に対して、作業を通じて身体・精神機能アプローチをしたり日常生活動作の再獲得を助けるお仕事《これだ!!!》
私は祖父母が大好きだし、音楽や書道、手作業等の細かい作業も好きだったことから母が勧めてくれたのだろうと思う。
理学療法士でも言語聴覚士でもない、作業療法士一択だった。

学校入学

既になりたい職業が決まっていたので専門学校へ入学。ここで問われる「大学は行こうと思わなかったの?」という質問。
時間を無駄にしたくなかったという返答が一番あっているのかも。他にあげるとしたら、早く就職できる・五教科なしで専門分野を学べるetc…中高で思う存分部活動に励んだ私は、サークル活動は興味がなかった。

入学してから正直、友人達の志望動機を聞いてがっかりした。皆滑り止めが作業療法士だったから。そんな生半可な気持ちで合格したセラピストに治療なんてしてもらいたくない。私以上に作業療法士への熱意がこもった人はいなかった。
たくさんの試験や長期実習に立ち向かい、次不合格だったら留年レベルまで落ちこぼれたときもあった(笑)でも、何度も志望動機を思い出し、無事に国家試験前までたどり着いた・・

国家試験

実をいうと、模試では一度も合格点に達していなかった。それでもあまり気にせず、私なりに勉強を続けた。前日はホテル泊。もちろん試験が気になり眠れなかった。
午前中の試験が終わったあと、本気で落ちたと思った。午後も難しい問題ばかりで合格できないんじゃないかと本気で落ち込んだ。
けれど、皆学校に集まって丸付けをして合計点を報告。本番に強かったらしい。合格点に達してた・・・でもまだ確実じゃない。ホッとできない日が約1ヶ月続いた。

3月下旬、合格通知が届いた。模試で一度も合格点に達していなかったのに、本番では200点超えていた。一番驚いた。嬉しい。信じられない。
念願の『作業療法士』になれたんだ。目標達成した。夢みていた医療従事者になれるんだ。そう思うと本当に嬉しかった。

祖母作の折り紙

念願のOT

リハビリといえば回復期!という固定概念が抜けず、回復期リハ病院へ就職。同期にも先輩後輩にも恵まれて、毎日勉強の日々を送った。書類等の業務も半端なく多くて大変だったけど充実しすぎて本当に楽しかった。
患者様と関わる中で、やっぱりOTは手がみれないと話にならない。と思い、無理を言って転籍させてもらった。私の大の苦手な整形・形成・急性期に配属させてもらって、自分の背中を奮い立たせて立ち向かった。オペ見学も何度もさせてもらって、Drともたくさん話をする機会を得て、多方面からの知識がついたと思う。たくさんの疾患に出会って経験させてもらった。それでもやっぱり知識不足で悔しさは残った。完璧主義の私は不完全燃焼で寿退社することになった。退職する時にお世話になったDrから「がんばってね!」と言われた一言は忘れない。

恋愛

話が前後するけど語っちゃう。
高校生の時に漫画みたいな恋をした。2年間お付き合いして、それぞれ専門学校と大学へ進学したのだけど、生活スタイルの相違でお別れすることになった。(お互い夢がかなったら報告するという約束。1・2年後無事に果たしてお別れした。(純愛すぎる笑)) 気持ちは大丈夫!と思っていても、やっぱり心の何処かで悲しさや寂しさを感じたんだろう。
少し経った頃、年上の彼氏が出来た。彼の前では自然と自分らしく居られて、異性の大親友的な、一緒にいて心安らぐ存在になっていた。優秀な彼に勉強も助けられ、実習期間では遠距離恋愛が始まったりと色々あった。生活リズムが整っていた彼には、毎朝私に鬼電して起こすという任務を与えていた(笑)
お付き合いして約5年が経過したとき、私にプロポーズをしてくれた💍

新生活

結婚をきに2人で田舎町に移住した。今後の未来を見据えて良い決断だったと思う。約5年間で、あちこち旅をして遂に行き先が無くなった。今ではお気に入り場所をリピートしてる。
新婚生活を開始してから、2人で力を合わせることが多くなり、《夫婦》と感じることが多々あって嬉しかった。
農家さんが使用しなくなった畑と町内の畑を借りて、初めて桑を持って畑を耕した。畑を始めて思ったことは、毎年気候が微妙に違うから、同じようにやってもだめってこと。野菜やお花を育てるのはそう簡単ではない。毎年毎年勉強が必要みたい。

新居

土地を2年ほど探していたけれど、御縁がなくコロナ禍に突入した。アパートに数年住んで、夜中や早朝の騒音に加えてたばこ臭が強烈に気になるようになった。
当時、少しずつ貯金も増えて使うものもなく、私の軽い一言でお家を建てることが決まったのだ。何度も打ち合わせにきてくれる方々が優秀で人柄も最高だった。一年も経たずにお気に入りの我が家が完成した。驚くことに騒音は全くなく、ストレスがゼロになったのを覚えてる。

Finland製の木材を使用してるらしい

こども問題。

結婚して挙式も終えて新居を構えたなら、次は子供でしょ。
『 ん!? 』
一般的にはそうかもしれない。周りの友人も皆一般的な流れがほとんど。この時くらいから、普通・一般的って何だろうと疑問を抱き始める。

※ここからはデリケートな話題になるので、気になる方だけ目を通して欲しい。読んでくれている方の中にも、もしかしたら同じような経験をした人がいるかもしれない。子供を授かるまでに時間がかかった人は、私の気持ちを理解してくれるかもしれない。そんな期待を込めて書こうと思う。

 仕事柄ご年配の方と接することが多く、「次は子供だね」とか「子供居るの?」とか「子供はまだなの?」「夫婦でゆっくりしてるんだね」とか色々なことを言われてきた。
 昔から生理不順で周期がばらばら。それでも一般的な流れで授かると思っていた。挙式後からタイミングをとっていても半年・1年が経過してもなかなか授からなかった。毎回のように落ち込んだり、時には涙を流したり、検索魔になっていった。不妊症を認めたくなかったんだと思う。少しの可能性を信じたかった。妊活に効くあらゆるものを全てやってもだめだった。この頃、子供・妊活ワードに敏感になっていたからこそ、友人の妊娠や出産報告は嬉しいけど心から喜べなかったり、患者様から子どもの話をされると毎回「授かると嬉しいんだけどね」「今は夫婦の時間を過ごしてる」「旅行ばっかりして楽しんでるよ」なんて言って誤魔化していた。
検診も兼ねて婦人科に通うことにした。期間として、通院前もいれたらタイミング法は1年半以上?。コロナ禍で通院が出来なくなり一旦お休みした期間もあった。田舎ということもあり病院も近くない。通い疲れもあってやめちゃいたい・・と思うことも多々あった。
 夫と話し合って、テップアップすることにした。何回人工授精トライしてもだめだった。私が原因?それとも夫?自分を攻めてしまうことが多くなり、ネガティブなことを言っても夫は全部受け止めて向き合ってくれた。
 そんな中、友人から不妊症になる要因のひとつに『喉』も関係してることがあると教えてもらった。婦人科医に伝えてすぐに採血してもらった。そこで判明した『潜在性甲状腺機能低下症』はじめ聞いた時、内心やっぱりね!と納得した。問題だと思う。婦人科医も内科医も本当に適当ってこと。ちゃんと診察してる?と疑ってしまう。不信感に見舞われて、転院したいと強く思った。

腕がいいってこういうこと

 病院からクリニックに転院することにした。そこの婦人科医はエコー検査も内視鏡検査も全然痛くないし丁寧。看護師も採血が上手すぎる。(難関血管を持っている私は、今まで一回で採血できたためしがないのに、クリニックではほとんど一回で採血してくれる!)
ちょうど保険適応になるし、いいタイミングでのステップアップ。考えてもみない体外受精。今でも信じられない。(笑)
 手術着に着替え、いざ採卵。それまでの過程も過酷だった。決められた時間に内服することや、自己注射をすることが何よりも恐怖。夫にも協力してもらい、内服時間を共有したり注射するときは見守ってもらった。それだけでも本当に心強かった。

 改めて看護師のメンタルの強さを知る。太くて長い針を人間の皮膚に刺すんだよ、すごくないですか。慣れだと言っていたけど、素人は怖すぎる。インスリンの短い針でさえ恐怖だもの。(糖尿病じゃないよ、笑)
それはさておき、採卵した数の半分は受精卵になってくれた。今まで抱えていた何かがスッと抜けて、身体や心が軽くなった。
 不妊治療を実際に経験してたくさんのことを学んだ。専門用語も覚えたり(笑)何より更に夫婦仲が深まったと思う。
 治療は通院も含めて辛さのほうが大きかったけど、産婦人科医や看護師、培養師と話をする機会が得られて嬉しかったと同時に、たくさんの医療従事者に助けられてここまでこれたと思うと感謝しかない。

 クリニックの産婦人科医から、内科を紹介してもらい『潜在性甲状腺機能低下症』の治療を開始してもらうことにした。
めちゃくちゃ混むけど、ここも本当に良い医師!私は恵まれていると思った。ここ数年、私は私の身体と向き合っているけど、なかなか難しい体をしているらしい。。内服調整は約5ヶ月かかったけれど、このまま正常値を維持してくれたら良いなと願う。(笑)

 色々な経験をしてきた30年。予測していなかったことがたくさん起きている。何もしてこなかった訳ではなさそう。
 これからの未来の30年も、予測不能の人生になりそうな予感。私の人生日記、少しずつ更新していこうと思う。

                         にんじん


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