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短編 『 紫 』

 (約1,400字)


 苦しそうにエイトがうつむいたのを見た。

「ほんとのこと‥‥話す」

ー固唾を飲む、こういうことだ。
 普段感じない気持ちを抱えながら、私は両手に力を入れてエイトの言葉を待っていた。


「兄さんのこと、知らないと思うんだ。兄さんは昔から、女の人がほっとかないからさ。いろんな女の人と付き合ってた」

 声を出さずに頷いた。

 みどりさんに会ってからも、他に好きな人がいたんだ。好きと言っても、女の子が入れ込んでただけだったんだけど。彼女は腕に傷がいっぱいあってさ、病気だった。死にたがってて、何度も呼び出されては離れても、死ぬ死ぬって言われる度に相手をしてた。

「だから僕さ、兄さんの携帯電話が鳴ったときにその女の電話に出たんだ。
 それで一度「そんなに死にたきゃ死ねよ」って言ったんだ。真夜中だよ、2時に電話してくる?彼氏でもない男に‥‥まぁ、向こうは彼氏だと思ってたみたいでさ」

 マグカップを握ったまま、エイトはいつもとは違う口調で続けた。

 友達とか、知人とか、家族がいるところに押しかけては「恋人」だって、言って回ってた。
 兄さんは突き放さかなった。僕たちには6つ離れた妹がいたんだ。妹が交通事故で死んで、その後に死にたがりのその女に会ったんだ。
 年が同じで、最初は可愛かったんだろうな。

 あの日‥‥兄さんが呼び出されて行ったバーには、薬漬けの「死にたがり」がいたんだ。
 でも、彼女が自分で切ったんだか、誰かに切られたんだか、分からない惨状で、何人か男も倒れていて‥‥もしかしたら兄さんが彼女を助けようとしてやり合ったのかもしれない。

 でも、兄さんはバーで何が起きたのか分からない、あの「死にたがり」のことも、ぐったりしていて連れて帰って来なかったんだ。

 記憶を無くして数ヶ月経ってから、僕の連れの蓮が、この経緯を教えてくれたんだ。
 蓮は元々、兄さんとは親しかったから。

「でも、蓮も兄さんの居場所を知らない」

 がっくり肩を落とすエイトが気の毒でならなかった。背中をさすってあげたくなる衝動に駆られたが、私の右手は固く結んだままでいた。

 窓の外が急に明るくなり、私たちは外の景色に目をやった。

「この絵本は、お兄さんがくれたのね」

 私は沈黙を破ってみても、不思議と罪悪感はなかった。

「兄さんとは、母親が違うんだ。兄さんは僕のこと、ほんとに弟みたいに思ってくれて。
僕の母親は僕を産んですぐ、死んじゃった。
だから兄さんは母親代わりで、家に帰らない父親代わりもしてくれたんだ」


 兄さんと暮らしているとき、よく遊んでいたのは‥‥ビー玉を使ってさ。ビー玉みたいなモノを凹みに入れていく外国の陣地取りゲームみたいなの、もうよく覚えていないんだけど。


 うん、と私は軽く頷いた。

 頷くことしか出来なかった。



 ジンちゃんのビーフシチューをもらいに行ったのは、もう昼をとうに過ぎた時刻だった。


 エイトが一人でもらって来たビーフシチューは、どう見ても一人前ではなくて、そこに簡単なサラダと、クリームコーンで作ったコーンスープを加えて二人、夕食にした。

「ねぇ、スープとシチューって、お隣りさんぽくない?」



 エイトの笑う顔を見て、気持ちが温まるのがわかった。

 遠くの空が赤とも青とも違う、紫がかった柔らかいカーテンの色に染まっていた。


 エイトは暗くなっても帰るとは言わず、夕食の後は昔、鑑賞したアニメ映画を観て夜が更けていった。 


                  続く

         ※フィクションです


            ↓次回のお話です

            ↓前回のお話です


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