現役全落ちした私が、宅浪してうつ病になってMARCHに受かった話
みなさんこんにちは、ふじたけです。
この記事では、現役時の不合格体験記と、浪人時の合格体験記をつらつら書いていこうと思います。
このnoteを読んでくださっている現役生や受験を控える皆さんには、反面教師にしてもらいたいし、これから浪人生になる皆さんには勇気を与えられたらな、と思い記します。
なんといってもこの記事は、私がもっと大人になったときに、18歳19歳の自分が頑張っていたことを未来の私に伝えたいがために書く、記録のようなものを目指します。気軽に読んでください。
1.はじめに。
はじめに言っておきます、筆者は第1志望校には合格していません。落ちました。あくまで”MARCHに受かった”という記事なので、「全落ちでも第1志望校に行けるんだ!!」みたいな記事ではありません。そんなに期待しないでください。
言い忘れてました。筆者の志望校は国際基督教大学(ICU)でした。中3の頃学校で講義をしてくださったICU大学院に留学していたインド人の方のお話を聞いて、国際協力分野で活躍したい私は、その頃から入学を夢見ていました。
それでは現役時代の、不合格体験記へと移りましょう
2.現役 不合格体験記
では、私の黒歴史になるであろう現役時代の話をします。
手っ取り早く、先に受験校と合否を載せます。
1.国際基督教大学-不合格
2.上智大学総合グローバル学部-不合格
3.立教大学異文化コミュニケーション学部-不合格
4.立教大学経営学部国際経営学科-不合格
5.青山学院大学国際政治経済学部国際政治学科-不合格
6.中央大学国際経営学部-不合格
7.共立女子大学国際学部全学部入試-補欠→合格
…自分で書いてて涙が出てきますね。典型的なMARCH乱れ打ち人間、日東駒専は出願すらしてませんでした。2者面談で担任に「ふじたけさん、滑り止めが滑り止めになってないけれど、大丈夫?」と言われたのですが、受験の厳しさを知らない私は「大丈夫です!」と自信満々に答えました。ひどい。大量の出願費用を払ってくれた両親には頭が上がりません。
なぜ落ちたのか
こんな簡単な質問ありません。努力不足です。
完全に受験をなめ腐っていました。自分の能力を過信しすぎたのです。
高3春に学生団体を立ち上げ、夏にイベントを開きました。また、同時進行でビジコンに応募し書類審査通過や、国際理解イベントの運営にも携わっていました。
「夏まで活動する高3生はたくさんいるし、大丈夫だろう」と思っていました。
大丈夫ではありませんでした。なぜなら、勉強の習慣が身についていなかったのです。
おそらく進学校の大半の人間が、高校1年生から一日1時間でも勉強をするという習慣を身に付けていたりしていたのだとおもいますが、私は定期テスト前以外、ほとんど勉強をしてこなかったのです。(もちろん宿題とかはやりましたが)
また、塾や予備校なども通っていなかったので、完全に一人で計画を立て、こなしていかなければいけませんでした。
「いや、塾入れよ」という突っ込みが来るのは百も承知です。しかし、中学受験の頃に塾に通っていましたが、苦痛で苦痛で仕方がなく、いかにサボれるかを考える毎日でした。結果的に第一志望の中学に受かったはいいものの、他人に強制されることが苦手な私が、大学受験でも塾に通えるとは思いませんでした。
圧倒的量不足
現役時の私は質>>量だと思っていました。確かに、ある程度の基礎がある上での質は量よりも大事です(宅浪時代編に書きます)、が、現役私はそんなに質の良くないものを”質”としていました。反省。
体調管理がよく出来ていなかった。
これは女の子特有のものですが、私は生理がとんでもなく重いです。
さらにPMDDという生理前にメンタル、体調面に不調が起きる症状を患っており、生理前1週間は毎日泣き続けカッターを握っては我に返って引き出しにしまう…という生活で何も手に付きませんでした。生理中は吐き気、頭痛、めまい、メンタルブレイク、etc、と寝たきり生活が3日間続きます。生理前と生理期間中、合わせて10日が無駄になります。現役受験期を12か月とすると、生理は月に1回来るので120日、約3か月勉強できないことになります。
わけのわからない自信
私の学校はまあまあの(自称)進学校でした。卒業生の進学実績を見てもMARCH合格者は100人以上だし、早慶合格者も50人以上います。
受験未経験の私は、”こんなに受かるなら、私も受かるのでは?”と思っていました。ネットにも「3か月でMARCH合格!」とかたくさんありましたし。
しかしそれは、ただの勘違いだったのです。それがわかったのは受験が終わった後でした。上記の不合格理由も踏まえてですが、文科省による定員厳格化が起きており、前年度よりもセンター利用入試のボーダーが10%上がっていたり、そもそもの合格者数が激減していたりと、数年前なら早慶に受かっていた人が軒並み不合格に…みたいな現象が起きてました。
そもそもこの、”合格者50人以上”というのは、一つ受かったのを1人とカウントしているので、実際は1人で5個合格なのに5人とカウントし、合格者数を増していたんですね。気づけよな。
と、落ちた言い訳をつらつらと書いていきましたが、努力不足とはいえ、センター試験の得点は、英語180(90%)リスニング44(88%)国語143(71.5%)世界史86(86%)と、まあまあな点が取れていました。(得意な国語でコケて悲しくなりましたが)
センター後、受験生がよく陥る燃え尽き症候群になってしまいました。もちろん過去問をやったりはしましたが、必要最低限の事しかしてませんでした…。
センター後から始まった怒涛の受験ラッシュ、共立女子大学を一番初めに受け、ICUの前日に合格発表がありました。結果は不合格、私の番号は書かれていませんでした。なめ腐っていた私は、かなりショックが大きかったです。そして第一志望校、ICUの入試では、午前中の人文社会科学、総合教養の試験が終わった際、「これで英語でミスらなければ受かる…!」と思いました。午後、英語はリスニングから始まります。音声が流れ始めた途端、私は不合格を確信しました。まったく聞き取れなかったのです。もちろんリスニング対策もしてきましたが、想像よりも音声のスピードが速かったのです。焦って頭が真っ白になった私は、そのままリーディングも読めなくなってしまいました。終わった後はもう何も考えられませんでした。こんなにも本番は難しいのか…、これから先どうしようかな。と、思うと同時に、ICUに行きたかったなあ、と心の底から思いました。(もしかしたらこの時期から浪人を意識していたのかもしれません)
第1志望校の入試が終わった後の無気力感は異常です。第3志望の立教大学を受け終わった時点で、ICUの合格発表は終わっており、これからあと何個も入試があるのかー、どこも受かる気しないし、浪人したいなあ。と、思っていました。
燃え尽きた、というのもありますが、ICUに落ちた時点で諦めてしまったのだと思います。今では「なに甘えてんだよ」と思いますが、不正出血が起きたりとその時の私はストレスMAXだったのだと思います。受験期の2月はもう体験したくないですね。
そこから先の大学も、ドミノ倒しのように全て不合格でした。
「浪人する」というと、第一志望校以外のどこかの大学にはうかったが、どうしても第一志望校を諦めきれなくて浪人する場合と、どこにも受からなくて、大学生になるためには浪人せざるを得ない場合があります。
私は後者でした。情けないですね。
自業自得とはいえ、大学が決まった友人たちが学校で楽しそうに談笑しているのを見ると、あー自分はあそこにはいられないんだなあ、と悲しくなりました。
…ここまでが私の現役不合格体験記です。お読みいただきありがとうございました。
それでは、浪人合格体験記へと移りたいと思います。
3.浪人 合格体験記
こちらも現役時同様、結果から書きます。
ーセンター試験(現役±)ー
英語:181(+1) リスニング:44(±0) 国語:168(+25) 世界史:73(-13)
ー一般入試ー
記念受験(とりあえず受かると思ってないけど私大最難関だし記念に受けとくかー、的なノリです) 早稲田大学社会科学部-不合格
早稲田大学文学部-不合格
1.国際基督教大学-不合格
2.立教大学異文化コミュニケーション学部-合格
3.津田塾大学学芸学部多文化・国際協力学科-補欠→合格
4.津田塾大学学芸学部国際関係学科(センター利用入試)-合格
5.東京女子大学現代教養学部国際社会学科国際関係専攻-合格
…まあまあの健闘だと思います。個人的に。
宅浪を開始するにあたって、「次(浪人時)は5個(センター利用・一般合わせて)までしか出願費用を出さないからな」と、父親に言われていたので足りない分は自分で出しました。
宅浪前半期(~6月、うつ病になるまで)
”浪人が決まった時点から浪人は始まっている”みたいな感じで3月から勉強しだす人も多いと思いますが、私は3月はとりあえずの1年が終わったということで、卒業旅行など、友達と遊んで勉強はほとんどしませんでした。
本格的に勉強を始めたのは4月から、その時、「私大3教科で全く歯が立たないなら、国公立を目指したほうがいいのでは?」とよくわからない説得を母校の先生にされ、宅浪開始時は国立を志望していました。高2まで数学をやっていたとはいえ、ほとんど抜けている状態です。黄チャートを回しまくりました。
自宅浪人という道を選んだため、所属集団が無くなりました。
平日も、休日も、祝日も関係なく、勉強しかやることがありません。学校や会社に所属しているということは、ありがたいことなんだなあと思いました。一番きついのは日曜日の夜。家族が「あー、明日から仕事/学校かあ…」と言ってるのを傍目に、「自分はどこにも行く当てがないんだな」と悲しくなります。
この時点では受験校がそこまで決まっていたわけではないので、出願費用の足しにしようと、金土の週2回居酒屋さんでバイトしていました。良い息抜きになりました。
5月、初めての模試 河合塾全統マーク模試 がありました。もちろん現役生はまだ受験勉強に本腰を入れていない人も多いので、(新たに国公立用に始めた科目は置いておいて)偏差値は爆上がり、いつでもE判定だった私にE以外の判定が出て、これが浪人の力か…、と思いました。
6月。現役時に受けた大学の得点開示が始まりました。
これを読んでいる皆さん、得点開示は本当にやめたほうがいいと思います、まじで。
MARCHや上智の得点開示では、合格最低点をはるかに下回っており、「ああ、まあ仕方ないな。」と諦めがつきました。
問題は第一志望校ICUの開示です。こちらをご覧ください。
…わかりますか?3点差だったんです。
それに、ICUは補欠制度がないにもかかわらず、100人以上の合格者が入学を辞退してるんです。
もちろん合格できなかった私が悪いのは百も承知ですが、100人以上が蹴っている、補欠制度があったら受かってたのではないか。という現実に打ちのめされてしまいました。
しかたない、本当にしかたないことなんです。でも、そこから心が壊れてしまいました。勉強をしようと机に向かうと、涙が出てくるんです。ずっとずっと、昼間中、泣いていました。
文字も読めなくなりました。
列強体制が分裂して、イギリス・フランス・ロシアとドイツ・オーストリアの対抗関係に移行すると、イタリアを含むこれらすべての列強の利害が交錯するバルカン諸国やオスマン帝国での動向が、列強の関心の焦点となった。
世界史の教科書のたった3行が、読めなくなったのです(当時のLINEに残っていました)。
いよいよこれはまずいぞ、と親も気付きます。いざ、心療内科へ。
うつ病 と、診断が下りました。前述したとおりPMDDを患っているので、強い希死念慮にはある程度慣れているし、突然泣き出すことにも慣れていますが、生理が来ればケロッと消えてしまうものとは違い、いつ終わるのかわからない苦しみがありました。
セルトラリン50mgとの付き合いが始まりました。
薬の副作用で変な時間に起きるし、吐き気と下痢がひどいし、でも死にたくならないし。あげくに副作用を抑える薬を飲み始め、若干薬漬けの日々でした。
6月の勉強時間はたった95時間でした。
宅浪中間期(7月~10月くらい) 宅浪というよりただのニート
7月も大して変わりません。申し込んだ模試はキャンセルしました。勉強時間は37時間。
この時期に、もう国公立は無理だな、と思いました。6月までに1A2Bの黄チャートは一通り回しましたが、数学の苦手な私はここから問題を解きまくって数学世界を広げていかなければいけませんでした。普通に考えて無理です。それに、3教科を極めることが無理だという理由で諦めていたICUに、やっぱり行きたかったから。
私立文系に変えました。国語、英語、世界史をとにかく極めることにしました。
8月、勉強時間は64時間。ここら辺は記憶がないです。”夏を制すものは受験を制す”という言葉があります。制せなかったなー、あー、就職か。と延々考えていました。
9月。世間では夏休みが終わり、現役生も本気を出してくる時期ですね。このままじゃヤバい、という焦りと、もう落ちたものはいくら泣いても受からないし、やるしかない、という悟りを開きました。徐々に勉強もできるようになりました。勉強時間は100時間。相変わらず薬にはお世話になっていたし、本調子ではありません。
10月、定期的なお医者さんとのカウンセリングで、気持ちがハイな時と沈んでるときの差が激しく、躁鬱なのではないかという疑惑が出たため、薬が変わりました。が、本作用よりも副作用が半端ない。3回目くらいに変えた薬で、結構ヤバめな副作用が出てしまい、 こんなに苦しむならもう飲まなくていいわ、と薬をやめてしまいました。
すると治ったのです。元々の原因、3点差に対してはなんとか折り合いがついていた状況だったので、完治とまではいきませんが強い希死念慮などの症状は治まっていたのかなと思います。それに薬をやめたことで副作用も消えたので、薬のお世話にならなくていいようになりました。
浪人後半期(10月~受験期) 怒涛の追い上げ(?)
2019年も残すところあと2か月、時間はどんどん過ぎていきます。やるしかないです。
いままでのブランクも多少ありましたが、”短時間でも毎日勉強”をモットーにひたすら問題を解き続けました。
10月あたりに、IELTSを受けることにしました。英語試験の外部利用入試ほど有利になるものはありません。現役時はTEAPを使用しましたが、高2の時に取ったものなので、浪人時には有効期限が切れて使えませんでした。じゃあ英検だ、ということになるのですが、お恥ずかしながら高3に2回、浪人の頭に1回、計3回準1級に落ちてしまっており、断念しました。
私は文法問題が苦手で、おそらく皆さんが想像する以上の文法の勉強をしましたが全くできません。IELTSなら海外にも通用するし、ICUの入試(B方式)も受けられるし、ということでIELTSを11月末に受けました。
結果はOverall6.0、ICUのB方式には足りませんでしたが、それ以外の早稲田、立教等には使用することができるスコアです。
あっというまに2019年が終わりました。
浪人 受験期 センター世界史爆死と第一志望不合格
年が明け1月6日あたりから出願が始まりました。パスナビで昨年度のボーダーをにらめっこをしながら、センター利用で確実に東女(ボーダー85%)を抑え、津田塾(ボーダー89%)を取る。あわよくば立教(95%)という感じでセンター利用は3つ出願しました。
1月18日、センター試験です。まさか人生で2回もセンター試験を受けるとは思いませんでした。私立文系の私は1日で終わりました。家に帰り、いざ自己採点です。
…センター試験直前までやっていたセンター対策では、国語は5割~7割、英語は6割~8割しか取れなくて、本当にやばい…という状態でした。なんでできないのかわからず若干自暴自棄で受験しました。
結果は上記した通り。
国語、英語は満足のいく点数でした。問題は世界史です。3教科の中で世界史が一番好きだし、世界史に一番時間をかけてきました。それなのに、73点???高3の初めか?? 絶望でした。
自己採点をしながら、今までやってきたことは何だったんだろう、と涙がポロポロ出てきました。母親もそれを察したのか、後ろで泣き始めました。1月18日深夜22時30分、居間で19の娘とアラフィフの母親が泣いている、地獄絵図です。
結局得点率は84%、去年のボーダーでは、若干東女すら足りません。悲しみです。
確かにその日は世界の終わりのような絶望を抱えていましたが、そもそも私文の活躍する場はセンター試験ではありません。私大には足切りなんてないんですから。そもそもICUにはセンター利用入試もないじゃないか。ここでメンタルブレイクして本命入試に影響が出るよりも、切り替えたほうが勝ちだな、と思いました。次の日に髪をバッサリ切って気合を入れました。
次の話は第一志望、国際基督教大学の受験~発表までですが、この記事はMARCHに受かったというハッピーエンドで終わらせたいので、また別の記事に。
落ちた、ということだけ踏まえてくれれば構いません。
ICUの受験後、発表が2月7日で、その前々日・前日に津田塾大学と立教大学の試験がありました。
津田塾大学は入試の時初めて校舎に足を運びましたが、とっってもきれいな校舎でした。「ええ、ここ素敵…!」といったイメージを持ち、絶対合格したいなという気持ちで試験に挑みました。
私大というのは、普通ほとんどがマークシート方式なのですが、津田塾の場合は記述式が多く、国立入試のような方式をとっています。そのため、対策が少し大変でした。
世界史で百科全書派の人物を答える、という初歩中の初歩の問題が解けなくて焦りましたが、無事1日の受験を終えることが出来ました。ちなみに答えはディドロorタランベール(他にもいます)。
手ごたえは”可もなく不可もなく”。落ちてるか、と言ったら落ちてはないと思うけれど、受かってるか、と聞かれたらうーん…というような感じでした。(結局補欠だったのでこの読みは正しかった)
さて次の日は立教大学全学部です。私はIELTS6.0を持っていたので、英語の試験は免除され世界史と国語のみで合否を判断されるグローバル方式を受けました。
パスナビを見ると例年の全学部グロの合格者はたった10人です。まあ、人数的に受からないだろうな~、と思っていたので気楽に受けました(ICUが受かってると思ってたし)。
体感、世界史は超易化、国語も例年通りでした。易化したということはみんなできたということ、得意な世界史が易化したので、さらに合格可能性が低くなりました。
受験後自己採点をしましたが、世界史はなんとたった3ミス。これには喜びました。が、私がこんなにできてるということは満点はたくさんいるだろうと思っていました。国語は…、コケました。受験特有の”同じ記号が続くと不安になって別のものを書いてしまう症候群”に陥り、結構間違えてしまいました。
さて、ICUの合格発表(2/7)を挟み、2月8日は立教異コミュの一般入試でした。
が、
前日の第一志望校不合格がメンタルに来て、朝布団をかぶり泣きながら「ICU落ちたならもうどこ行っても一緒!行かない!」と言って親を困らせ、結局行きませんでした。35000円が水の泡です。ごめんねお父さん(ちゃんと返しました)
浪人 合格発表期
2月7日のICUとともに、東京女子大の発表がありました。
センターリサーチを見ても合格圏内にはいたので、そこまで心配はしていませんでしたが結果は合格。大学受験で初めて合格の二文字を見ることが出来ました。(1時間後には地獄と化したけど)とてもうれしかったです。
次、2月16日に津田塾大学の発表です。一般もセンター利用も同時でした。
休日だったので両親と一緒に見ましたが、一方は合格 もう一方は補欠。それでも、第三志望校だったので、家族で歓喜の舞です。うれしかった。その日のうちに入学手続き書類が届き、夢じゃないんだなとみんなでとにかく喜びました。
最後に、立教全学部の発表です。
センター利用入試の発表もその前にありましたが、こちらは95%必要なので、不合格は確実。そこまでのダメージもありませんでした。
10人しか受からない全学部なので、まあどうせ落ちてるだろう、と全員が思い両親は仕事に行って私一人で見ました。
サイトを開いた瞬間、合格の二文字。
「え?え?」と現実を受け入れられずに震える手、あふれ出る涙。
とにかく家族に伝えなければ、と家族グルにLINEをしましたが既読がつかない。一人で部屋をぐるぐる回りながら、これは本当に私の番号か?今日はエイプリルフールだっけ?と泣きながら考えました。
少し時間が経ってから母親から電話がきます。「よかったねええ」と声を震わせている母親、泣いてることが電話越しに伝わり、また私も泣きました。
たくさんの友人からおめでとう!と言われ、ああこれ夢じゃないんだなと胸がいっぱいになりました。
昼休みになってやっと報告を見て、冷静を装っていた父親の挙動もおかしかったようで、職場の同僚に心配されたそうです。
その日、父親はケーキを買ってきてくれました。
私は、第二志望に合格したのです。
去年は全く歯が立たなかった学校に、合格したのです。
4.終わりに
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。私の稚拙な文章は読みづらかったでしょう、お疲れ様です。
これで、2年間の受験生活に幕が閉じました。
第一志望には合格しませんでしたが、私の中で、宅浪は大成功という結果になりました。
もちろん自分の努力もありますが、毎日ご飯を作ったり、支えてくれた家族や、参考書をくれたり、手紙をくれたり、息抜きに付き合ってくれた友人、たくさんの人望に恵まれたからこそ、このような結果になれたのだと思います。
2年間でこの量の参考書をやりきったことは、大きな自信につながりました。
これから受験生になる人、浪人する人、それを支える周りの人、頑張ってください。最後まで自分を信じれば、笑顔で来年の3月を迎えられると思います。
気付けばこのnoteも9000字をゆうに超えてしまいました。ここらで筆を置かせていただきます。
2020.3.19
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