『傲慢と善良』を読んで
自分のことを善良だと思っていても実はその態度は傲慢だということもあるんじゃないか。
本を読み終わった後に一番にそう感じた。
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辻村深月さんの作品をずっと読みたいとは思いつつ、なかなか読めていなかったが、ついに『傲慢と善良』を勢いに任せて購入し、一気に読み進めた。
婚活要素、恋愛要素、ミステリー要素がありながらも私自身の心の奥深くに潜っていく感覚がとても楽しかった。
文字だけ読み進めていくこともできたが、自分の心を鏡に写してどこまで内省できるかという挑戦をし続けているようだった。
こころの奥に潜れば潜るほど苦しいのだが、それをやめたくないという不思議な感覚がこの本にはあった。
果たして私はどこまで私の「傲慢さ」と向き合えたのだろうか。
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私はずっと善良な人、いわゆる「いい子ちゃん」として育ってきた。しかし、私は傲慢だったのかもしれない。
優しい、謙虚だなんて言われてきたけど私は傲慢だったのかもしれない。「かもしれない」なんて言っている時点でそれを認めたくないのだと思う。
私は傲慢だ。
相手と関わる時にも傷つけられないために、「あなたは私の醜さを受け入れられないんだ」と、低く見積もった私を相手に見せることで周りに壁を作って自分を守っていたのだと思う。
私には世間一般の普通とは違う(と自認している)部分があってそれを許容してくれる人はいないんじゃないかと思い込んでいるから相手の好意も素直に受け止められなかったのではないか。
自信を持って相手と接することができないのではないか、そんな傲慢な気持ちを持っているのに相手にも同じように世間一般の普通とは違う部分があることを考えてあげられる善良さを私は持っていたのだろうか。
それを謙虚だとか、善良な人だと思っていた。
私を理解してくれないなんて思いながら相手に理解してもらうための材料をこちらから提示していなかったほど傲慢だったのに。
関係性に名前をつけるだけじゃなくて相手のことをもっと知ろうとしていたのだろうか。
私のことを知ってもらおうとしていただけではないか。関係性に名前がつけば私のことを言葉や行動を通さなくても理解してもらえると思い込んでいたのではないだろうか。
私が大切にしていることを尊重してほしいという一方で相手が大切にしていることを尊重できるのか?それができない時に私を理解していないとか、わがままだなんて思ってしまうのは傲慢なのだろう。
これほどの傲慢さに私は気が付かなかった。
目を背けていたのだと思う。
私自身を守ろうとしていたはずなのに、私自身に対しても私は傲慢だったと思う。
意思がないことは周りに流されたり誰かの言いなりになる方が楽であり、意思があることに関してもその社会的圧力によってそれに耐えるよりはその圧力が向いてる方に流されたほうが楽だと思っていた。
個人との関わりでもそうなんだと思う。圧力に耐えるよりは流された方が楽。そうやって私自身の欲から目を背けて、嫌なことがあっても、大丈夫じゃないことがあっても相手の方を優先するようになった。優先するという感覚もなかったのかもしれない。私なんてと思うことで、自分を低く見せることで私を守っているつもりだったのかもしれないが、私を大切に出来ていなかったのだと思う。
私自身に対しても私は傲慢だったのだと思う。
それなのに私は私のことを善良だと思っていた。
私自身がされて嫌だったことなどについては社会問題とか興味を持って「あれは酷い」なんて言うくせに、私が特権を持っている出来事については問題意識を持っていないのかもしれない。
傲慢だ。
私が許容できる違いについては多様性を認めるなんて思っているけれど、許容できない違いについてはその多様性から除外しているのではないか。
善良なふりをして私は傲慢だ。
相手のひとつの特徴を気に入ったり共感できると、相手の全てが自分にとって理想的な人だという妄想が膨らんでしまう。本当はそんなことないのに。その妄想で作り上げた理想と現実のギャップが見つかった時に冷めてしまうのではないか。あなたは変わったとかそういう風に思ってしまうのではないか。
傲慢だ。
私はずっとその傲慢さを善良さだと捉えていて、私は善良な人になりたいと思ってそのように考え行動していたからこそ私の中の傲慢さはどんどん成長していったのだと思う。
私は善良な人間だと思えば思うほど傲慢な人間になっていたのだと思う。だから傲慢を傲慢だと気付けたことは大きな収穫だった。
この本を読むことができてとても良かった。
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