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朝ごはんはメロンパン【短編小説】



あとはそこから身を投げ出すだけでよかった。終わりにするために。でもやめにした。理由は自分でもよく分からない。あえて理由を挙げるとするならば気持ちの変化だろう。こうやって私は終わりにできないまま時間と共にこの先も過ごしていくのだろう。

冷たい風が色鮮やかなドレスを身にまとった木の葉を揺らす。どのくらいの時間が経ったのだろうか。朝からずっとここに座っている。あとは身を投げ出すだけでいいのに。それで終わりにできるのに。

散歩に行こうかと思ったけれど、行くための準備と帰ってきてからの諸々の作業を考えると腰が重い。やはり家の中を散歩しようと席を立つ。

人は死んだらどこに行くのだろうか。そう考えている時点で死後の世界があるという前提なのだろうか。私は死んだ後にまで生きたくないから死後の世界なんてなくていい。私のためには用意されていなくてもいい。ただ、死んでしまったあの人が生きていると感じられるのならあの人のためには死後の世界を用意してほしい。

子供たちがはしゃぐ声が聞こえる。リビングの窓を閉める。今は人の声を聞きたくない。ふと足を止める。時計を見る。もうお昼か。そういえば朝から何も食べていなかったなと思い出す。冷蔵庫には野菜や肉が入っていたが料理をする気力はない。お湯を注いで三分待つ気力もない。戸棚にはメロンパンがあった。そういえばあの人とよく朝ごはんに食べていたなと思い出す。メロンパンなら手軽に食べれそうだと思ったけれど明日の朝ごはんにしよう。希望は残しておいた方がいい。

窓を閉めても外の人の声が漏れている。机に戻り、ずっと真夜中でいいのに。の「違う曲にしようよ」を流す。

評価されるとは五より六の方が優れていることを言うのだろうか。六より七の方が優れていることを言うのだろうか。よく分からない世の中だ。

本を読もうにも集中力が続かない。並んだ本を眺めている。足がリズムを刻んでいる。それとも貧乏ゆすりなのだろうか。

来週は病院だ。病院になんて行きたくない。良くなっていない現状を話すことで惨めな気持ちになるだけだ。お医者さんは悪くない。私の話も聞いてくれるし、私のために改善策を色々と話してくれる。それが仕事なのかもしれないが。前回頂いたアドバイスを何一つも出来ていないまま病院に行くのが辛い。けれどお薬は貰いたいので病院には行く予定だ。

何回目の「違う曲にしようよ」だろうか。今日はずっとリピートしていたい気分だ。

窓の外を眺めると一台の車が通った。

そういえばここ数年はブレーキが効かない超低速暴走車に乗っているような感覚があった。いずれどこかでぶつからないと止まれないだろうと思っていたからこれでよかったのかもしれない。心が壊れてしまったが、これで車から降りてゆっくりと自分の足で人生を歩いていけそうだ。

背筋を伸ばす。大きなあくびをする。
誰からも連絡はこない。

再び席を立つ。
ドアノブをひねる。ドアを開ける。
ドアノブを戻す。ドアを閉める。

思考と行動の連結。毎日毎日そんな高度なことを無意識のうちに並行して行っているとは驚きだ。

手を洗ってふと鏡を見る。鏡に写った私を見ることで身体的特徴に対してネガティブな感情が浮かぶこともあるが、それは私が思っていることではなくて、社会的にそう思わされていることだからちゃんと「しょうもねえ」と気づくようにしている。

見た目や身体的特徴の「社会的な解」などしょうもないのだ。きちんとそれを思い続けていないと気がつかないうちにその解に飲み込まれてしまう。

再び椅子に座る。まだ「ずっと違う曲にしようよ」が流れている。

大きなあくびをして涙が流れる。悲しくて泣くことはあっても、泣いているから悲しいわけではないのだ。

今日は人と会っていない。何か話そうと思いひとりごとを話してみる。頭の中の考えを口にして言葉にすることは大切だ。

ふと頭を掻く。そういえば髪が伸びたなと感じる。でも美容室に行く気力はない。自分で切るしかない。ボコボコの頭になったからと言って何になるんだ。見た目の世間的な解などしょうもないのだ。痩せ細って見えても健康に害がないのなら「もっと食べた方がいい」なんてアドバイスに耳を傾けなくてもいいのだ。

何度目のイントロだろうか。エアーで演奏してみる。楽器など弾けないが曲を流して空想するなら私の演奏も一流だ。

再び本棚を眺める。来週の病院のことを思い出して胸がきゅっと締め付けられたような気持ちになる。

エアーで演奏してみる。音楽的知識が無さすぎてどんな楽器が使われているかも分からないが、とりあえずエレキギターとキーボードを演奏してみる。

大きなあくびをする。髪をかき分ける。

私の身体は眠たいというサインを私に送っているのだと思う。だか今はそのサインを無視する。朝寝をしたので今日は昼寝をしないと決めているのだ。休日だからと言ってあまりに寝すぎると夜眠れなくなる。

何度目のエンディングだろうか。
再びイントロが始まる。

終わっても始まることが永遠に続いているのならば、終わりに何の意味があるのだろうか、始まりに何の意味があるのだろうか。朝起きて夜に寝ても、また次の日の朝には起きないといけない。どうせ起きるのなら寝なくていいし、どうせ寝るのなら起きなくてもいいのではないか。

生きるために、健康的に生きるために、起きて寝るのだろう。

正直生きていることに意味はない。でもどうせある一定期間は生き続けると仮定するのならばその間だけでも幸せでいたい。そのためには健康でいたい。健康が幸せとは感じないが、失った時に「あれは幸せだった」と気がつく。だから健康は幸せだと言い聞かせておく。

失って初めて気付く幸せと、失わなくても気付く幸せを並列に語ってもいいのだろうか。

n回目の「違う曲にしようよ」が流れる。さすがにボーカルのACAねさんの喉が心配になってきた。だから今回は私が歌うことにした。

何回も聞いたはずなのに歌えない箇所がある。こんな歌詞だったのかと驚く箇所がある。聞いていたはずなのに聴いていなかったのだろう。

人間なんて大抵話を聞いてるけど聴いていないものだ。聴くつもりはあっても、次私のターンになったら何を話そうなんて考えたり、この人の発言の真意は何だろうと考えている時点で聴いていない。聞きながら考えているだけだ。だから話を聴ける人にはとても感心する。

喉が渇いたのでキッチンへと移動しコーヒーをカップに注ぐ。この勢いのままソファーに寝転び、差し込む陽の光を利用して日向ぼっこをする。

気がついたらうたた寝をしてしまった。

あれだけ昼寝はしないと言い聞かせていたのにやはり身体の声は聴かないといけないのだろう。

夕方になっていた。
大きなあくびをする。

「違う曲にしようよ」はまだ流れ続けている。

軽くシャワーを浴びた後にリビングの窓の前で瞑想をする。車の音も聞こえない、ネットの声も届かない自分だけの静かな時間。

「違う曲にしようよ」は止めている。

冷たく気持ちの良い風が吹いている。シャワーと共に暗い気持ちは洗い流したのでとても新鮮な気持ちになっている。雲を見つめながら今この瞬間に生きているんだと実感する。不確かな未来について悩んだり生きづらい世の中を嘆くよりも今この瞬間に生きているんだと実感できることがどれだけありがたいことか。

軽くストレッチをしながらスキャンするように身体の状態を観察していく。

夕日にほんのりと照らされた草木を見ながらこうして落ちてゆく太陽のようにこのまま私の人生を終えることができたらなんと素晴らしいことか。今回はポジティブな意味に感じる。

軽く夕食を済ませ部屋に戻る。

再び「違う曲にしようよ」を流す。人生には主題歌もBGMも必要だ。

五+八=十三であることが不本意であり、その答えが十四にできない自分を無力に思う。五を六と仮定すればいいのではないか。そうすると五+八=十四になる。もしくは、八を九と仮定すれば良い。もしくは十三を十四と仮定すれば良い。前提を変えることによってその答えも見方も変わっていくものだ。何だってそうでしょ。

曲に合わせて身体を動かしてみる。ダンスと言える代物じゃないかもしれないが悩みは一時的にでも去って行く。

少し小腹が空いた。お昼に我慢したメロンパンでも食べようかと思ったけれどやっぱり明日の朝にしよう。希望は残しておいた方がいい。

空は暗くなっていた。

空の色と心の色は本来無関係なはずだ。
暗闇だって悪役を演じているだけでしょ。


もう寝る時間だ。昼寝をしてしまったけれど眠剤を飲めば解決する問題だ。明日の朝ごはんはメロンパンだ。生きる希望さえあればそれだけでいい。そっと目を閉じる。

次の日そっと手を伸ばしアラームを止める。朝七時だ。それもそのはず、昨晩、明日朝七時に起きるために目覚まし時計をその時間にセットしていたのだ。そして実際にその時間に目が覚めた。これは未来を予言したことになるのか。予想した未来を描いたことになるのか。

そんなことはどうだっていい。今日の朝ごはんはメロンパンだ。



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