『正欲』を読んで



私はずっと思ってた。私たちの意見が異なるのは同じものを違う角度から見ているだけなんだって。でも人が見ている世界は人それぞれにあって、私が見ている世界を様々な角度から観察するだけでは足りないんじゃないか。

私たちが見ている世界をあらゆる角度から見直すだけじゃなくて私たちが見えていない世界がそもそも存在しているんじゃないか。今見ている世界をあらゆる角度から見ても見えない世界があるのではないか。

社会が病院に通うような人を「異常」とする時にその異常を正常に治すのがよいのか、異常でも正常と同じように生きることができるような社会整備を行うのがよいのか、もう一度問うべきなのかもしれない。私たちが異常なのではなく、現社会に適合しようとするその瞬間に異常と判断されるだけなのだ。

私たちが社会に適合しようと努めるのならばいつまで経っても異常者は異常な扱いをされるままだ。異常が正常に変えられるだけでは問題は解決しない。異常が異常であっても問題のない社会にどうすべきか、それが今問われるべきなのではないか。

私たちが社会に適合しようと努めれば努めるほど、社会から見えないように努めれば努めるほど、私たちと同じような状況の人が見当たらなくなるのだ。本当はいるはずなのに見当たらなくなるのだ。そうやって社会は問題を解決したと思い込んでしまう。

私たちはその異常性を見せていく必要があるのかもしれない。そうすることでそのサンプルが増えていく。異常だというのならばそれを見ればいい。目を逸らして存在しないかのように振る舞うことが私たちを追い詰める。孤独にする。多くの異常者が正常の仮面をかぶって生活しているのかもしれない。

ただ、異常性を見せるということは短期的には排除されるリスクが高いからみんな正常の方にきちんと収まるのだと思う。長期的に異常性を見せることが受け入れて「もらえる」としても、私の正しさの下剋上を起こしてもその正しさが下剋上を起こされたらまた苦しいだけなので、正しいことは正しいはずだという認識が邪魔なのかもしれない。

何が正しいかということで人を評価するならその正しさを評価する正しさは何なのかって考えていると正しさの無限遡行に陥ってしまう。

何が正しさか分からないからどんな人でもどんなことでもしていい理由にはならないと思うんだけどじゃあその境界線をどうやって作ればいいのだろう。

何をしてもいいわけではないけど、どんな人でもここは私が生きていていい世界なんだって思えるようにするにはどうしたらいいのだろう。

理解できなくても、そこに存在してもいいよと思えるためにはどうしたらいいのだろうか。

そのための普遍的な正しさってあるのだろうか。

私は人権にそれを見出そうと考えていた時期もあるんだけど結局人権は何を守ろうとしているのだろうかという点で躓いたことを思い出した。

命が一番大事なのだろうか。

私たちはいずれ死ぬ運命だけど、その日を迎えるまで心と身体の安全性が脅かされないで暮らしていく。そのためのひとつの方法として多様性を受け入れ、多様性を受け入れて「もらう」ことが大切なのだろうか。

分からない。
分からないから考え続けなければならない。


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