『52ヘルツのクジラたち』を読んで

今日は町田そのこさんの『52ヘルツのクジラたち』を読んだ。



ずっと読みたいと思っていた本を一気に読んでしまった。苦しかったし吐きそうになったし泣いちゃったけど素晴らしい小説だった。

嫌なことを色々思い出してしまって読んでいる間とても苦しかった。それでも読み進めた。見たくないものを、聞きたくないことを、なかったことにするのは簡単で残酷だから最後までその声を聞こうと思った。

私は心がダメになってしまってから、いや、そのちょっと前からは「誰かと関わると傷ついてしまうから遠ざかりたいけど誰かと関わらないと寂しいから近くに来てほしい」という相反する気持ちを抱えていた。

自暴自棄になりたいのに、そんなことをしたらもっと嫌な気持ちになることは分かっているから今が苦しくてもそのままでいた方がいいと思って誰にも話せずその苦しさを放置していた。

話せなかったのは、こんなダメな私を助けようとしないでほしい。私はどうせ落ちていくだけだから助けようとしたあなたをこの闇に引き摺り込みたくないという気持ちがあったからではないかと思う。

希死念慮があって死にたい死にたいなんて思っているけど、私が死んだら私のことを大切だと思ってくれている人がどんな気持ちになるか想像することで何とか命を繋ぎ止めているという感覚はあった。

苦しいとは伝えられなくても様々な人に支えてもらってるからこそ、そのお返しとして元気に振る舞わなくちゃと思ってしまう。だから余計に一人になった時に自分の殻に閉じこもってしまう。苦しいという気持ちを殻に閉じ込めてしまう。それでまた苦しくなる。

そんな時に読んだ本だったので、私の声が届かないと嘆いているのと同時に私も誰かの声を聞けずにいるんだろうなという現実を痛いほどに感じさせられた。そして、そもそも私は私の声を聴いてあげられているのだろうかとも思った。

相手に対しても私自身に対しても声が届くという希望と安心を与えないといけないのだと思った。

私たちはみんな52ヘルツの声を持っているのだと思う。でも普段はみんなに聞こえる周波数の声で話したり気持ちを伝えたりしている。それだけで楽しく暮らせる時もあればどうしても52ヘルツの声を理解してもらえなくて苦しくなる時もある。その時が人によって違うタイミングで現れるし、それが持続する時間も違うのだと思う。一瞬で過ぎ去る人もいれば、一生苦しむ人もいる。

でも私は私の声でさえ聞けない時があるのに、他者が声を届けたいと思っていることをどうやって知ることが出来るのだろう。

私たちは届かない声をどうやって聞くことが出来るのだろうか、想像に及ばないことをどうやって想像することが出来るのだろうか。自分の世界に存在しない出来事をどうやって知ることが出来るのだろうか。

おそらく一番は自分の身で経験することだと思う。でも一人の人生で経験できることなんてそう多くない。だから私たちは人の話を聴いたり、本を読んだり、ニュースを見たり、映画を見たり、ドラマを見たり、音楽を聴いたり、そうやって私の中にない物語を知る必要があるのだと思う。

私たちはひとりひとり違う存在だ。だからこそお互いのことを知らなければならない。そのためには声を聴く必要がある。一生懸命届けてくれたその声がどんなに小さくても弱くても聴かないといけないのだと思う。この声が届かないと気がついてしまうと、声を届けることさえやめてしまう。届かなくなったらもう聴くことはできないのだから。



私は割と打ちのめされた気持ちになったので、明日が休みの日にオススメしたい本かもしれないです。読んだ後にゆっくりと休んで考えることが出来る時間がある日に読む本。苦しかったですが読んで良かったです。



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