書くこと?強制力について

締め切りがないと書けない。改めてそう思う日々だ。まぁ書けなくても考えてるけど。

要因1:妹と勉強

学校に行かなかったり、親に脅されて偶に行ったりしてた妹(中1)も晴れて春休み。恫喝されることもなくなり、実家で活き活きとしていた。学校に行かなくても課題は貰えたようで、なんだかんだ自分から取り組もうとしている。

一年のふり返りとして3学期分の内容をやり直すワークが課題に出た。学校に行ってないし授業にも出てない妹は当然できない。出来ないからやりたくない。自分から「課題をしなければいけない」という義務感によって取り組もうとするのはえらいが、解らないのですぐに気が散ってお絵かきを始めてしまう。

学校に行きたくない理由は授業について行けないからのようだ。なので、課題を一緒にすることにした。中等教育レベルの学習なんて自分の頭でゼロから演繹できるレベルを遥かに超えている。指導者が必要だ。
幸い、ワークという教材が与えられたのでそれに一緒に取り組むことができた。やはり体系的な学習はどこかで必要になる。アニメやドラマ、マンガなどで拾い食いしながら学ぶには限界がある。

こうして教師・教材・時間・必要性がそろった。自分はもうそろそろひとり暮らしに戻らないといけないので、それまでに課題をすべて終わらせる必要がある。なので最近はずっと妹との学習にかかりきりだった。自分がひとりでのんびりエディタや紙に向き合う時間が取れなかったので書けなかった。
自分が起きるのが12時~で、妹が活動的な時間が21時~なので必然的に自分の執筆助走~ピークまでの22~24時はそれに充てられることになる。それにカフェインを摂取すると確実に寝込むのでそれを考えるとより使える時間は限られる(誰のせいだ!)

英語・理科・社会・数学を教えている。妹のわかってなさそうなところは前提に戻って考えたりしているので時間はかかる。1年分の授業を一気にさらっているので当然だろう。漢字や国語は友達と一緒に宿題やりに行ったりして終わらせてきてた。宿題やりにいける友達はいるのが凄いな。自分が寝てたりする時は教わらなくてもできる漢字の書き取りなどをやっているらしい。

ゲームも最近は適度に遊べている。自分がリビングの机でPCカタカタしてたりノートにグチャグチャ書いてたりしてるとおもむろに課題を持ってきて取り組み始める。やっぱり周りの人がどのように過ごしているのかは大切なのかもしれない。自分がそれのペースメイクができているなら結構なことだ。

カフェイン

そろそろ実家を離れるのでカフェインを一気に処理しようとしすぎた。自販機やスーパーを巡り、今後自分の好奇心を侵犯してきそうなものはあらかじめ試すことで先手を打っておく。そのせいで絶ってたカフェインをまた摂取する羽目になった。

締め切りを利用する

毎日投稿を続けることは、締め切りを継続させることでもある。それは即ち義務を継続にかけることに他ならない。なので写真貼っつけただけの投稿も明日の自分に締め切りを突き付ける益のない行動なのだ。許してほしい。
他者と関わっていく中でどうしても書くタイミングが得られないときはある。そういうときでも明日の自分が書いてくれることを信じて恥ずかしがらずに何とかしようとすることが重要だ。

ていうか、最近書けてなさすぎたせいで逆に書きたくて書きたくて仕方がなかった。書きたいことが沢山ある。気づいたことが沢山あるからだ。ネタがなくても時間があれば絞り出すことはできる。タネがあっても時間がなければ書くことができない。自分の欲求が溜まっていくのを感じていた。書くことは邪魔のない、夜のような環境が必要なのだ。(カフェインで書いたのは俺じゃないからノーカンなのかも)

もはや自分は「書くのが大変」どころか「書かないと気持ちわるい」の域に達してしまったようだ。おお。書くことがそのまま思考することにつながっているような気がする。そして書ききった挙句にぼーっとさんぽなり読書なり寝るなりすることによって知らんけど進んでる気がする。自分が公開したことは強烈に印象に残っているので、考えるときにとてもいいフック、足場になってくれる。強烈に印象に残った一節を引用するかのように、自分の文章から考え始めることができる。文章を書いてよかったことだ。
毎日飽きない。春休み1か月くらい働きもせずに過ごしてたけどついぞ退屈することはなかった。ゲームで徹夜したときの方が虚無感ある。

締め切りは強制力として始めたが、今ではそれを破ること自体が落ち着かない気分にさせる一助となってしまっている。書いて公開することのメリットも強烈に感じている。たぶんこれからも書きそうな気がする。いつ辞めるかは誰にもわからないけどね。