見出し画像

震える指先、脈を攫って

雨の中で吸う煙草。その昔親族が集まる度に叔母の化粧ポーチからくすねた煙草と同じ味がする。この春から勤務地が変わって、出勤に要する時間が2倍に伸びることになっても、相変わらず会議室に揺蕩う眠気は顔色を変えない。先の職場は禁煙という制約を掻い潜る術があり、これを以て立ち上る眠気を制していたが、何処から覗いても建屋の外見が蔑ろになるような造りが、やがて私の暗躍を無きものとする。昨年よりも仕事の量も一段と減り、どう動いたら良いのかなんていうことを考えさせられるようになった。大昔の人間たちは暇だから勉学を嗜んだというが、こと仕事に於いても疲弊を催すタイミングが減るとなると、逆に仕事を求めてしまうような気がする。暇を持て余した身体で、奥に聳える名山を望むのがこの頃の習慣となっている。何処を見渡しても何かしらに包まれているこの街にいるといよいよ金魚鉢の中に押し込められているようで、昨今の停滞する気温も相まって少しだけ、息が苦しくなる。

職場で行われた防災研修で他人より数段脈が早いことが判明してからというもの、頸動脈に手を当てて脈を測るのが日課になった。要検査レベルが120である一方、私の脈は一分当たり110を超えている。普通に周囲の人間と同じようなペース、いやそれよりもやや呑気に生きているにも関わらず、心臓だけはずっとフルマラソンをしているかのような状態。昔から枕に耳を当てると脈打つ音が聴こえるような人間であったから、生まれもってのものだと考えたい。しかしそうも思えず、思わない割には手元の煙草を根元までしっかりと吸い続けるのもまた、日課になっている。

6月発売のレコードを先行予約して、飼っているカエルに餌をやった。昭和生まれのパタパタ時計は3日に1度、現実から逃れていくから、側面のダイヤルを廻しながら正しい時間に戻す作業を繰り返す。撮り終わったフィルムが2本あって、はやく中身が見たい余りにうずうずしている。それに加えて、散り始めた桜がひらひらと舞う公園から1匹の蛇を持ち帰ってきた。小学校4年の頃、会議を終える母を待つ最中、軽率に掴んだ大蛇に右の手首を食われたことがあって、言うなれば蛇を捕まえるこの行動はそのリベンジでもあって、命あるものを掴みつつ、まだ私には命があるということを確認する為でもある。何かにつけて先延ばしの予定を作ることについては、祈りに等しいものである。

眠る前に首筋に手を当て、子気味のいい脈動にヒヤリとさせられる。念の為、そう思って手首の脈を確認しても変わらぬリズムで、人よりも早く波打つ感覚。生きていてもつまらない、と思う癖して、まだ生きたいなんて思ったりする。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?