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きっと、誰も読まないのだから

年度当初から一切引き継ぎのない状態で仕事をスタートした。" 全て " がない状態から " 全て " を構築するのだから、ハンニバル将軍のアルプス越えに匹敵するくらい、無理のあることだ。農地開拓に適さぬ荒廃した土地を前に、一度は絶望した屯田兵の気持ちが、今になれば分かるような気がする。まるで他人事のように会議内容を聞き流して、ふたつの会社から人数分の資料が届いたのは、仕事を始めてからしばらくのことだった。幸い、異動先の人間がこれを引き取ってくれたことで事は落ち着いたのであるが、その人間というのが教員軍の上位カーストと並々ならぬ癒着を持ったとんでもない老耄で、団塊世代を根城にしている彼女から先日の会議でまともな叱責を喰らった。3年に及ぶ社会経験でペコペコ謝るワザが身に付いているし、生まれてこのかた頭を下げることにつけては抵抗もないくらいにプライドもないので、目の前の老耄が身につけているスカートの縫い目とブラウスのカフスボタンを行き来させるくらいの要領で、形ばかりの謝罪を済ませた。再任用なんていう天下り制度などいち早く撤廃して、若手を呼び込む方がどの業界に至っても得策だとは思う。しかしながら今日も、上つ方はその思いに気づいてくれそうにない。

暖かくなってきて、双頬が火照り桜色に染まる。思いがけない頼りがあって、我慢しきれず連絡を送った後に何となく、一年で一番寒かった時期のことをゆっくりと思い出した。

10月とは言えど、言い訳も見当たらないくらいに札幌は寒かった。関東周辺がまだまだ20度近くの気温を練り上げている頃に、駅前の温度計は6度から7度の間を行ったり来たりしている。宿泊先のホテルに近づけば近づくほどにニッカの大看板はみるみるうちに小さくなったところで、北の国のスケールの大きさに驚愕した。近隣のホテルと検索して出てきたワンルームも、北の縮尺に照らし合わせれば全く違うらしい。
やっとの思いで捕まえたタクシーの運転手も2週目の人生か、そう見紛う程に冷めきっていて、お決まりの世間話も泡のように流れていく。澄み渡った空気の中には風もなく、街の電装が一際煌めいて見えた。列島の中枢で見送る電子の輝きとはまた違う、鉄筋のビルでさえも呼吸をしているかのような光の数々は輝きというより、煌めきという言葉が酷く似合った。

ベッドから這い出て、すぐ脇にあるテーブルに置いてある物さえ取りに行くことを面倒と称する私が幾分前から航空券を予約し、人生初のひとり旅を決行した根幹には「人に会う」という目的があったからである。東京駅のホーム移動でさえ手こずりながら、アニメキャラクターがあしらわれたジュラルミンの塊に乗った。幼い頃から気圧の影響を喰らうことが何より嫌で、可能であれば地上での移動を選んでいた私が、こうして平然とシートに腰を下ろしているのが信じられなかった。羽田を包む空は頭痛を催しそうなほどの曇天だったけれど、4万フィート上昇した航空機は数秒間で雲を見下ろす形になって、窓越しに西陽を浴びる。不思議とその光景が平静を呼び込み、イヤホンを傍らのポケットへと仕舞う。窓越しに向かって数枚、カメラのシャッターを下ろした。
帰り際の思い出。0度の気温計を眺めながら知らない街を往来した記憶と、航空会社に泣きながら電話をした記憶、それに駅前大通りの酸素の薄さに辟易した記憶ばかりがついて廻っている。帰宅後しばらくして現像した写真の幾枚かは、まるで行き場がない。ネットに上げても他人の迷惑になるくらいの、私の心をぎゅうぎゅうと締め付けるくらいの、意味ありげで、今となってはもう意味を持たない写真ばかりである。

そんな街に昨月から、高校の友人が転居した。理系に入っておきながら、理系教科で斜線の山を叩き出しながらも、社会だけはきっちりと学年上位をキープしていた友人は、かつて高校の中庭の花壇を二人して開拓し、研究職に就く父親が丹精込めて殖やしたサトイモを更に殖やし合った仲間でもある。ふらりと大学へ行き、卒業した後は脈絡のない現場仕事をそつなくこなし、そして社会人3年目に橋渡しをしようという頃、突如として北大の大学院へ飛び立った。彼の目の中には俗世間に対するこだわりと、興味が一度として認めらない。それが常にどこか危なかしさを醸し出していたが、発言通りに合格切符を片手に握り、無事に院進を果たしている。北海道と言えば?という質問に対して、近隣を帝国と見なしていたガキンチョの私なら 「寒い場所」という漠然とした答えのみを持っていたのだが、今日「そう簡単に踏み込めない街」へと転身を遂げた。大した理由などないけれど、やはり私に寒さは似合わないようで、色恋沙汰など似合わないようである。しかし私の心は彼の顔を見たいと言うし、この際もう一度、向かってしまおうか。

今春から飼育を開始した蛇に、黙々と餌をやる。冷凍庫の中でパッキングされた、50ばかりのネズミの死骸をキッチンにて解凍し、生来ぬくもった掌でしっかりと温めてから、指先ほどのネズミを与えている。まだまだ寒かった時期に取ってきたカエルも冬眠をかなぐり捨ててなお健在で、昨夏に集めてきたトカゲ達は我が家に迎え入れてから半年が経とうとしている。生き物は私に、何も言わないから楽だった。



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