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春来たりなば / 創作

「おじいちゃんによろしくね」
娘からの言葉を貰って改めて、私は人の親になり、私が父と呼んでいた人間は別の名前を授かっているのだと悟った。キャリーケースを慣れない様子でゴロゴロと転がす娘が、段々と小さく、駅のホームへと消えていく。助手席に座る妻が少し寂しそうな顔をして、振り返らない娘に向かって手を振っている。一方私はというと、つきものが落ちたような感覚で、グローブボックスから煙草を取り出し、口に咥えた。賞味期限もとうの昔に切れている。味は薄いが、懐かしさだけは健在だった。もし仮に今が通勤ラッシュの時間帯であれば駅前にこうして車を停め続けることすらもはばかられるし、そうしたことを気にするような人間だが、休日であるからそんな心配は無用である。しばらくは呆気に取られたような顔をしていた妻も、すぐにスマホに視線を落とす。今日まで流れ続けた娘の生い立ちを頭に浮かべながら、ゆっくりと煙草を吸い続けた。

妻とは38の頃に出会い、娘を授かったのはそれから2年後のことだった。「もう、こんな歳だから」と結婚当初からすっかり諦めていた為、ある意味では想定外だったとも言える。生まれつき病弱だった妻は晩婚夫婦ふたりで育てられるかを頻りに気にしていたが、私の心配はそもそも子供を扱えるかどうかという部分にあった。実際に産まれたての娘をこの手ですくう時、壊れてしまうのではないだろうか…という心配からガクガクと震えた。結局娘が大きくなるまで、どのように扱ったら良いのかは分からないままだった。大学進学を機に遠い街へと旅立つ娘の行き先を、私はよく知らない。気がついた頃にはすべてがひと段落していて、「何か出来ることはあるか」と聞くにも尽く遅い。
今朝、家を出る前に、娘が差し出した手を見て財布をまさぐっていると「ちがう」とぴしゃり言われて握手を交わす、なんてことがあった。まだまだ私は、娘のことがよく分からずにいた。しかし特段用がなければ口を聞かなかった私たちだから、娘の存在は偉大なものであったと感じている。病弱だった妻が風邪ひとつひかなくなったのも、娘を授かってからだと考えれば、その恩恵は言うまでもあるまい。

定年退職後、妻はボランティア業に精を出し、現役の時よりもあちこちを駆けずり回っている。そんな中、かねてより社会との接続に消極的だった私は再雇用制度にも縋ることをせず、自由気ままに自宅にへばりつくようになった。毎朝妻の出勤を見送り、新聞を開いて記事をひとつひとつ確認してから、中間にあるクロスワードを解くことに腐心していた。その合間を塗って、老人ホームに入所する父の顔を見に行く。今から4年ほど前に認知症を患うとともに粗暴になり、深夜徘徊を繰り返しては地域の人々に保護をしてもらうことが度々あって、今に至る。最近では発語もままならなくなり、頑丈に固定された車椅子の上でなにやら、パクパクと口を動かしていた。私や妻、そして娘が来訪しても様子は変わらない。そんな父に対しても、妻や娘は必死に言葉をかけ続けている。
誰の顔を見ても表情ひとつ変えないのは生前から変わらず、趣味もない為に何もしない、というのもありのままの姿だった。

錆びたチェーンに油を挿すと、父のいる場所へと自転車を漕ぐ。ホームは街のシンボルとして名高い " 椿山 " の麓に位置していて、上へ上へとわざわざ向かっていく必要があった。徒歩で向かうにはやや遠く、宅地から伸びた一本道をただ登るだけとなると、車で行くほどの距離もない。かつて父が乗っていた自転車で向かうくらいがちょうどいい。やや痛む腰を擦りながら、立ち漕ぎの要領でなだらかな傾斜を登ると、耐え難いとでも言うようにチェーンの部分がきいきいと音を立てる。父から受け継いでからおよそ20年。そろそろ限界が来ているようだが、壊れるまでは大切にしてやるものだ、という認知症初期の父の言いつけを守って、こうして乗り続けている。壊れたら買い直せばいい、そう思いながら。

" 老人ホーム つばきやま " の園庭には、その名もよろしく、色とりどりの椿の木が植えてあって、5月の温かい日差しのもとで満開を迎えていた。
入口でスリッパに履き直し、訪問者用名簿に名前を記入する。入所者の人数から考えても、ここを出入りする身寄りの人間の数は疎らで、名簿の日付には明らかな間隔がある。恨みなどはなくとも、両者の間で何らかの問題を抱えている家族も少なくないのではないかと思うと、少しも娘の力になれてない私でさえ同じ道を辿るのではないかと思うと、少しだけ胸が痛い。
フロアと廊下を隔てる珠暖簾を潜ると介護職員の眼差しは冷ややかだった。父がまた何かしたのか、と考えながらも、敢えて何も聞かないでいる。優しさだけが取り柄の父。その皮が剥がされるような事だけは避けたかったからだ。  
とにかく、昔から頼りない人だった。育児に積極的でないというより、我が子の存在すらもまるで知覚していないかのような様子で、100点の答案を見せても、学校であったことをひとしきり話しても、何かひと言声を落とすだけ。平日は人並みかそれ以上に働いていたのか、判然としないがいつまでも帰ってこなかった。一方休日になると布団の中でじっと固まったまま、ただ身体を休めることだけに全力を注いでいたから、父との思い出はまるでない。

毎度数ある頭の中から、父を探すのは容易いことだった。内気で柔軟性のない性格を持ち合わせていると、入所者の塊から外れた所にいなければならない。案の定、お手玉や折り紙に興じる老人の群れから離れた場所に、父を見つける。その父が珍しく、机上に置かれた新聞に目を通しているではないか。見たところ地方面に視線を向け、何か言いたげにモゴモゴと口を動かしている。ふらりと現れた私を一瞥すると再び、新聞の方向に視線を落とした。
「どこ」とだけ質問を投げると、地方面の中にあるひとつの記事に焦点を当て、ゆっくりと指を指す。

ーーーーーーーーー 浅葱沼、埋め立てが決定 農業用水の長い歴史に幕 ーーーーーー

沼の名前に心当たりはないが、添付されている写真には見覚えがあった。父の前で首を捻り考えても思い出せず、ホームを出て帰路に着く頃にようやく思い出す。父親との、唯一の思い出を。父と釣りに出かけた場所だった。
小学5年の時であっただろうか、近所の駄菓子屋に売っている竹で出来たのべ竿を買い、ふたりで魚を釣った。釣り上げられるのはアブラハヤやオイカワといった雑魚ばかりで、運が良ければギンブナが釣れる。自宅で取れたジャガイモを用いて練り餌を作った記憶も緩やかに思い出されてくる。こと家庭内の問題に関しては一切非干渉的な父親だったが、餌に当たってくる小魚をより分けてギンブナを釣る父の姿は、少しだけ格好良く思えたものだ。

自転車を停め自宅の物置小屋を漁っていると当時使っていたのべ竿が2本、梁の上に横たえられているのを見つけた。埃をめいっぱい被ったガラクタの中で、昨日磨いたように整えられている様子から、父が度々手入れをしていたことを知る。頼りない父を、少しだけ見直すことができるような気がした。埋め立て開始は秋時期になる。父の思いを知るためにも、娘のことを知るためにも、今年の夏は釣りに出かけてみようか、そんなことを考えながら竿を縁側で磨いてみる。軒下に拡がるバラスに向かって糸を投げ、静かに目を閉じる。父の姿を今の私に重ねるようにして、じっと魚が来るのを待ち続けた。

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