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Async / 創作

37℃の微熱。緩く挟んだ脇の隙間から、弱々しい電子音が聞こえる。長年付き合った彼が唯一忘れていった体温計もそろそろ寿命が迫っていると見えて、その音も随分と弱々しく聞こえる。生まれつき脇で計る家系に生まれた私は、ただ彼が口腔で体温を計るという部分に拘って、付き合っている彼に倣って私もそうしていた。しかし数年前に離別してからというもの、元の鞘に立ち返り、脇で計ることに決めている。
薄く柔らかに見える、37.7の横文字。少しづつではあるものの、家から程近い停留所に着いた頃からぐんぐんと熱は上がっているようだった。これしきの熱を出しても、少し前まではキビキビ動けたというのに、熱が出てもなお腹が空いて、コンビニくらいは行けたというのに、ランチ用に買っていたスティックパンの端っこすらも齧る気にすらならなかった。こうしたところで、歳の重なりには勝てないのだと感じる。

25歳の誕生日に、友人が突然買ってきたロングタイプのストローが今になって役に立つ。丸テーブルの上に置かれた天然水を、枕元に伸びたチューブを使って器用に水分を摂取する。静かな部屋の中をたった今、喉を横切る水の音だけが響く。
実家に帰らなくなってから3年の月日が流れても、かかりつけの医者は変えないままでいる。頻りに連絡を寄越した父母もようやく諦めがついたのか、季節の変わり目に連絡を入れてくる程度に留まっている。何時だって頭に浮かぶのは、学校の成績表を片手に私を執拗に叱る親の姿で、病気がちな私の体調を一切顧みない親の姿だった。それが今では、私の体調を心配する連絡ばかりを送ってくる。私が大人になる一方、両親は私が生まれた当時の優しい姿に戻っていくようで、心身ともに揺さぶられる。いたたまれない気持ちになるのも一度や二度ではなかった。
父母はおろか、親戚の誰一人として今の私の住処を知らない。19年間も寝食を続けた実家の戸口を叩くには到底困らない距離に住んでいるというのに、しばらく隔絶した生活を送ると、家族という存在を限りなく遠くに感じる。

あれは高校の卒業式を終えた晩の事だった。家族が寝静まる間に、母親のカバンから抜き取った預金通帳がATMに飲み込まれたのち、私の誕生日が暗証番号であることを知った。生活に必要なだけのありったけの現金を引き出して、何の肩書きもない人間の生活が始まった。比較的審査の緩いアパートを借りて、ほとんどが空欄になった履歴書を提出してコンビニのバイトを始めた。生まれてからここまで勉強づくめだった私は、私が思う以上に何も知らなかった。
もしひとりで暮らしたならば、やりたいことが何でも出来る、と淡い期待を抱いて家を飛び出したとて、教科書に載っていること以外を知らない私には、やりたいことすらも見当たらなくなっていた。

医者にかかるのは数年ぶりのことで、バイト漬けの生活を送り始めてから随分と身体も強くなったらしい。提出したボロボロになった診察券が受付の奥へと消えると、代わりに新しい診察券が姿を現す。かつての手書きの紙切れから、電子入力タイプのプレートへと変化を遂げた。プラスチック製の滑りの良い感触に慣れずに、待合室の暖房も手伝って手のひらに満遍なく汗をかく。30代にもなって、小児科の受付に経つのは何とも罰の悪いことだった。

めくるめく変わる日々の中で、待合室の中は変わらないままだ。木製のおままごと道具が、相も変わらず雑多に置かれている。お祝い事という段になっても、蔵書しか買って貰えなかった自分にとって、待合で手に取るおままごとの数々。それこそが、ほんの密かな楽しみだった。中央に据えられた熱帯魚水槽で色とりどりの魚が泳ぐのを見つめながら、母親が話しかけてくれるのを十数年間、待っていた。しかし水槽越しに見える母親の顔は憔悴しきっていて、その眼差しはいつも私ではなく、院内のずうっと奥の方へと注がれているようだった。

診療を手短に終えて、待合室へ戻る頃には窓の外に初雪がちらつき始めていた。道理で今日は寒く、空が真綿のように白かった。少し前まで私が座っていた長椅子に見てくれ3、4歳の男の子が窓の方を向いて膝をついているのを確かめて、向かい側の椅子に腰を掛ける。一生懸命になって袖口で窓を擦りながら、結露した窓ガラスに仮面ライダーの絵を描いているらしい。そのうち、母親らしき女性がトイレから戻ってくるなり、子どもの描く絵を前に言葉を投げる。「まぁくんはやっぱり上手だね」
その身なりから、私より若い女性であることが分かる。子どもが遊戯に興じる横顔と、線を増やしていく窓を交互に見つめながらたった2人で話し込む姿を、食い入るように見つめる。そういえば私にもこんな瞬間があったということを、とつとして思い出す。

私が描いた花の絵を見るなり、母親はハンカチを使って手早く消すとそのままくるりと受付に向き直り、院内へ向かって「すみません」と謝る母親の姿を、とつとして思い出した。まだ消え残る花びらを指差すと、再び拡げられたハンカチによってそそくさと消されてしまう。
" しょうらいのゆめ " の欄に書かれた「おはなやさん」のぎこちない文字も、家のどこにも残っていない。そう時間が経たないうちに、「弁ご士」という、平仮名と刷り込まれた漢字の羅列に変わっていた。悲しくても、不思議と涙は出なかった。

子どもが次の絵を描かんとする指先に、幼い私が描いていた花が見えるような気がする。指を使ってガラスに絵を描くことを、固く禁じられた。それというのも、指の脂はなかなか落ちないから、と母は私に言って聞かせた。もし仮にそれが事実なら、まだまだ窓ガラスには私の跡も残っているかもしれない。


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