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朝が来るなら / 創作

お腹が減ったわけでもなければ、制御不能な食欲に襲われたわけでもない。眠る準備を済ませたのは、もうだいぶ前のことだ。けれどもせっかくの週末、ほぼ眠り倒して使われた時間に対しては堪えきれないやるせなさがあった。こんな夜中にアイスコーヒーを用意して、いつか食べ損ねたブリュレを食べ始める。明日は普通に仕事があるし、月初に提出しなければならない書類に手付かずのまま週末を迎えたから、明日は出勤をだいぶ早めなければならないことになっている。生まれ持っての過眠体質で、9時間くらい眠らなければ体力が完全回復しないことを、昨年くらいにやっと知った。23にもなって寝起きは盛大に駄々をこね、四方八方にはだけた布団や足元に転がった抱き枕をもう一度手繰り寄せてしまう生活を、365日繰り返す。そうして今現在まで、朝が来る度に母親に起こして貰っている。母親と喧嘩をすると翌朝には人権を失うことになるからこそ、母親との関係だけは死守しなければならない。眠る前に糖質やカフェインを摂取することが宜しくないことを身体では理解しながら、休日の充足が足りなければこうして無為に食べることに逃げるのだった。

コンビニの中に知り合いが来ると何となく気まずいものだから、彼の退店を待ちながら、スイーツコーナーを物色した。何も気まずくなるような関係性も何もないが、退勤直後の草臥れた身体のまま、昔話に花を咲かせるのも気が引けて、雑誌コーナー付近でウロウロしている彼に背中を向ける形で私はスイーツを眺めていた。こちらに向かってくるのを足音から察して、最下段に屈みながら咄嗟に手を伸ばしたのがクリームブリュレだった。一度手を伸ばした物をもう一度棚に戻すのはどうにも気が引けるから、レジ前から人が消えるのを待って会計を済ませた。「85番を一箱ください」という聞き馴染みのある声を聞きながら、彼は煙草を吸うようになったのか、としみじみ思う。会計がすんなり終わるかと思いきや、研修期間らしいバイトが背後の陳列棚からではなくバックヤードからカートンを取り出してきたことで、店員と何やら問答をしている。一度はレジ前に向かおうとした身体はもう一度スイーツの方へと向き直った。

そんなことがあって、思いがけず手に入れたクリームブリュレを食べている。プリンをそのまま裏返したようなヘンテコな食べ物は、硬いカラメルの層が舌の上をざらざらと転がって、味わう暇もなく喉奥へと消えていく。スタバのフラペチーノでさえ時間をかけて飲むタチの人間だから、高いお金を払った割には物足りないと言えばその通りだった。食べた気がしないという言葉を空腹でもない時に使うのは間違いかもしれないが、食べたような気がしない。

間髪入れずに桃を剥く。祖母から貰って来た時は「まだまだ硬いからね」と聞いていたものの、キッチンの窓辺でしばらく無造作に保存されていた桃は握り潰せそうな程に柔らかい。刃先を沈めると果汁がたらたらと漏れ出て、まな板の上に滴下していく。薄紅色の出で立ちから勝手に白桃を想像していたが、ふたつに割って露出した桃の肌目は鮮やかな山吹色の黄桃だった。種を抉り出して半分皮を剥くと、もう半分は剥く気になれずに皮が付いたまま細かく切り分ける。缶詰に封入されているサイズ感が適当なのかもしれないが、フォークを数回往復させるだけで無くなってしまう桃のことを思うと、異常なまでの口寂しさがあるから、誰もが想像する大きさよりひと回り小さく、丁寧に桃を切り分けた。

皮付きの桃を口に含みながら、やっぱり剥いた方が良かったと後悔する。舌の表面に絡むうぶ毛の感触。半月ほど前に抱き上げた友人の子どもも、もうすっかりうぶ毛が生え揃って居るんじゃないかと物思いに耽りながら目を細める。秋の夜長に音はない。一時、ひとり暮らしの部屋で花を飾って生活していたことがあった。大して面倒を見ていなかったことはもちろんのこと、立地が悪く日照りを知らない部屋は朝が来ないと見紛うほどに暗く、そんな環境で育った花は直ぐに枯れた。マーガレット、ダリア、スズラン。どれも迎え入れたかと思えば枯れていた。あの部屋の中にはもう、花はない。数週間前に当時の部屋の前を通りかかった時、窓越しに緑色のカーテンが吊られているのを見つけた。道路の拡張を目的として、付近の邸宅が重機でなぎ払われたことで、きちんと朝が来ているらしい。ひょっとしたら今も、あの部屋には花が飾られているのかもしれない。

熟れた桃すらも大した肥やしにはならないから、ラップで雑に包まれた食べかけのバームクーヘンを貪る。中途半端に残された欠片を噛むと、鼻から生活臭が抜けていく。冷蔵庫内に集約された食べ物の匂いが、私たちの生きている証拠であると思う。あの頃はどんな匂いがしていたっけ。住まっている場所が違うからこそ、" もう一度 " とはならないけれど、この部屋にも花を飾ってみようかしら。


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