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揮発

熱々の湯が並々注がれた湯船に入ること。流れる日々の中で、ほんの少しだけ通りかかる幸福感は、何者にも変え難い。鼻をつまんで湯船に潜りながら、静かに膨らむ湯の音を聞く。その昔は1分間水中に潜ることなどなんてこと無かったのだけれど、凡そ5年ほどに及ぶ不摂生な生活がもとで、今は55秒の時を数える頃にはじたばたと苦しい思いをする。昨日よりも一昨日よりも長く潜ることが叶う度に、まだまだ呼吸ができるのだと実感して、この辺りで抜群の " 生 " たるものを確認するのだった。
職場にて年甲斐もなく鬼ごっこに興じた。20数人の子どもをひと抱えに追い掛けると、三分ほど経ったところで脹ら脛の痙攣が始まり、果ては視界の混濁が追い打ちをかけるような形でまともに動けもしなかった。グラウンドの砂を、幾つかの両脚が撥ね付ける、そんな音が耳を障った。物置小屋から無許可で引っ張ってきた交通安全の襷は、遊戯が終わるまでの数分間のみ、鬼役の角としての役割を果たしている。
ゆらゆらと揺れる子どもの間を、一匹のモンキチョウが飛んでいるのをぼんやりと眺めながら、春はもうすぐそこだ、とまたぼんやりと考えた。やっとの思いで身体を起こすと、汗で濡れたうなじにびっしりと張った砂粒を丁寧に取り払う。去年の春は何をしていたんだろうか。記憶を張り巡らして見ても、何も思い出すことが出来なかった。

数年ぶりに自宅の壁掛け時計が変わった。文字盤と目盛りのみで構成されたシンプルな時計を10年くらい使い続けてから、ある晩、珈琲をふた口飲んだ母が「この時計、詰まらないよね」 と呟いた。あまりの眠気に意識は果てもなく混濁したまま、返事らしい返事もできないでいる。珈琲を口に運ぶ為に、カップの端を口唇で包むと同時に「うーん」という音を立てた。陶製の厚口のカップに声が響くとともに、鼻濁音が耳を突く。返事をしたい気持ちよりも先に、何としても喉を潤すことを優先事項として、これを何となくの返事としている。
あぁ、今日は水量を一杯分誤っている味がする。こうした事象をきっかけとして、仕事に疲れている自分に気が付くのは、一度や二度には収まらない。わざわざ手動ミルを用いて豆を挽いたというのに、ガリガリと粉を落とす3分間すらも刹那、こうして水に薄まっている。

時が流れるのは早いもので、私の誕生日を忘れている実父の背中を眺めていたら3月になっていた。週末休みに親友の子どもを抱えながら、人で溢れる草加市街を見ながら鼻歌を唄った。ついこの間まで、長い時間をかけてミルクを舐めていた赤子が、すっかり人間らしくなっているのを目にするなり、ほんの少しばかりいたたまれない気持ちになった。4月になったら保育園に行くのだという話通り、チューリップ型のワッペンに平仮名で大きく名前があしらわれている。ようやく生え揃った前歯でビスケットを噛むと、小さな歯型がついている。そのどれもが愛おしく思えてならなかった。
友人が黙って外を眺める背中を目敏く捉えると「煙草でしょ」 とだけ呟いてベランダへ場所を移した。互いの銘柄を交換すると、特別記憶に残らないやり取りをする。
付き合って数年と思えば短いながらも、互いの互いを既知とする部分は多い。細やかな仕草を見ることで次の動向が大抵予想出来て、同じ場所に居ると不思議な程にバイオリズムが一致しているのを感じる。
「付き合った年数なんか関係ない」 という言葉は友人から授かったものであるが、まさにその通りだとこの頃感じるようになった。私は、父親のことをよく知らない。死別しているわけでもなければ、離別したことのない父親の実存を、よくよく理解もしないままに大人になってしまった。友人の子どもを抱えながら一緒に教育テレビを見て、画面に映る振り付けを頻りに真似てみるのだが、父親は何故、子どもを愛してやれなかったのか、目を合わせて微笑み合う度に、あまりにくだらない疑問ばかり抱いてしまうのだった。

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