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破壊的価値創造

飲まない人間による忘年会の二次会出席ほど有益性の無いもの、この世界の何処を探してもそうそうない。一次会ではまだ人間だった同僚達も、二次会会場の暖簾を潜る頃にはすっかり人間では無くなっている。日頃真人間らしく世の中を渡り歩いている大人達がたちまち、音を立てて壊れていく様子を冴え渡った目で見ることが、飲み会に出席する上での一種の通過儀礼と化している。先程訪れた店でそこそこの量の食事を摂ったと思っていたのは私だけで、アルコールが染みた者たちは風の速さで割り箸を2つに割ったかと思えば、卓上にたった今運ばれてきた30個の餃子を目にも止まらぬ速さで掠めとっていく。ニンニク増しの餃子が呼気となり、10畳程度の居酒屋の酸素がますます減っていく。一方私は、一件目からひと口もアルコールを通さずにここまで来ているから、究極にシラフだった。当たり前である。大ジョッキに並々注がれたコーラも、酩酊する人間を前にどっと汗をかくほどだった。

2000円集めます〜! という声を皮切りに、皆蜘蛛の子を散らすように店から出ていった。大ジョッキのコーラ一杯のためにそこそこの値段を払うにしても、食材を奪わないからには大変に割に合わない。しかし私は大抵、一件目から無理をする。肉バルの中でフォークを片手に徘徊しながら、各テーブルに置いてあったローストビーフを飲むように食べ歩き、2軒目の椅子に腰を下ろす頃にはあらゆる戦意が尽く消失していた。ジョッキの中身も半分を残したまま、メニューの手書きポップを見つめて過ごした。
屋外の騒がしさは年末風情によるものだとばかり思っていたが、店の前でサラリーマンと若者が決闘を繰り広げている。どちらの衣服もはだけているところと、互いに前後も不覚な状態までに酔い潰れているという部分を評価すれば、今にも手を繋いで歩けそうな間柄に見えるが、続々と到着する警官の数も増えて気が大きくなったのか、ひとりふたりと仲裁が湧く度に大きな声を出していて、酒というもののキャパシティを知らない大人はつくづくだらしがないと思う。
そろそろ一年も終わる。何もかも納めどきだというのに、かたや酒に飲まれて見ず知らずの他人と争う者がいたり、有馬記念に財産をベットして全敗して咽び泣く者がいたり、紙切れ1枚コップ1杯に飲まれてしまう、または淘汰されてしまう人間様を見ていると、つくづく弱い生き物なのだということを自覚する。そういう私だって週末の間に2箱分の煙草を空にした。信じられないような話だが、生まれてから半分くらいの期間は煙一筋すら嫌うような嫌煙家で、叔父が煙草を吸うことを察知すると一目散に逃げ出すような人間だった。しかしたった今私は煙草を吸っていて、叔父はというと10年ほど前に大病を患ったことをきっかけに煙草を辞めている。

年末になると、普段よりも数百倍「言語化」へのアンテナが鋭敏になるような気がする。世間そのものが落ち着き始めることによるものか、ひたすら下降する気温に絆されているのか、正直私にはよく分からない。これまで言葉にしなくても良かったものたちを無性に置いていけないような気がして、昨今は古びた記憶を丹念に拾い歩いては、生産性のない想像に終始対峙しているとあっという間に一日が終わる。来年はどんな一年になるであろうか。この手の台詞を昨年も呟いていたような記憶がある。社会に出始めた瞬間、毎年こんな具合でして。残り数日、2023年、良いお年を。


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