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Camellia

椿の種は思ったよりも早く丈の低い紙皿を埋め尽くし、拾った種子たちの宛先を買ったばかりのコートの胸ポケットへと移した。外殻の硬い部分を指で撫で付けながら、ラグビーボール様の塊と小石を丹念に分別する。間違えてドングリを4つばかり手にして、今日ばかりは用がないと暗がりに放った。一見見分けの付かない山茶花と椿の違いはその花の散り方にあるが、葉脈の構造も大きく異なる。しかし時は夕刻、途轍も無い勢いで落ちてくる陽光を前にすると、そんなものを丁寧に確認するほどの猶予は残されていない。長い時間をかけて拾い集めたものの中には、山茶花の種も混在しているかもしれない。冬至を過ぎてから緩やかに日が伸びていることを感じるも、朝と夜の隙間をまともに過ごせる日は、まだまだ遠いようである。
帰りがけ、公園の畔に咲いていたロウバイの花弁を鼻先に手繰り寄せて、その匂いを確かめながら少しずつ歩みを進めた。確実性を持った冬の匂い。いつ鼻を通しても、大変に退屈な香りがする。ほんの香り付けになるならと思って5、6枚ばかりの花弁を拝借して家路に着く。降雪の下準備に入ったとでも言うのか、昼間びゅうびゅう吹き付けていた風が嘘のように無くなり、街がパタリと静かになった。

こうなるに至ったのは今から2時間ほど前のことで、前日の睡眠不足の負債を抱えながら職場の外をうろつき回る道すがら、ずり足の片側が椿の種を踏んだ。子気味のいい音を立てて割れた種子の中身が、小石混じりのコンクリートの表面に薄い染みを作っている。それを見るなり 「椿油を作ろう」 と身体の芯が囁いた。足元を確認するためにしゃがみこんだ体制をそのままに、砂地に埋もれた塊をひょいひょいと拾い上げる。年始からごく個人的に散々な思いをしていて、労働は愚か生活すらもクソ喰らえなどと考えていた割に、いざ何かを見つけようと腐心する時ばかりは心の中が凪いでいるのを感じる。

日頃対峙する感覚的なものの中でも、遥かに即時的な反応を感じる瞬間があって、それらを月並みな表現で「直感」と呼んでいる。生まれた頃から直感を頼りに舵を取るのが癖であり、立ち入ってはいけない場所に幾度となく立ち入り、やってはならないことをこれまた幾度となくやってきた。" 時に " という言葉ではまとめられない程度に、仇になる事態が度々起きていたように思う。しかし如何なる結果を招くとしても、自身の感覚に付き従って動いているという部分にのみ目を向けると、ここには形容し難い満足感がある。

職場から連れてきたままのハンマーを振りながら、殻に包まれた胚を取り出す。つやつやとした飴色の胚を眺めながら、特段何も考えずに口に運んでみる。甘栗のような見てくれから感じ取った甘味の部分も脆く崩れて、一瞬で唾液が苦くなった。慌てて手元にあった炭酸飲料で口を濯ぐのだけれど、甘味料の甘ったるさが益々嫌な苦味を助長させた挙句、奇妙な酸味まで運んできた。一度口に入れたものは大抵飲み込んできた私でも、こればかりは飲み込めない。生理的に受け付けない味を吐き戻してもしばらく、唾液腺が勝手にダラダラと唾を吐いた。苦いと渋いという言葉が切り離されているのは、こうした部分にあるのかもしれない。

手間のかかることをやっていると、自分の不甲斐ない思いを一瞬でも薄めることができる。手数をこなすことに注意を向けていると、余計なことを考えなくて楽だった。せっかく搾った油が、漏斗をすり抜けてシンクへと流れ出る。気を取り直して残りの油を摂取しようとすると、的が外れてIHコンロの上にばら蒔いてしまった。最後に残った上澄みだけを掬って、白色瓶になみなみ注ぐ形になったが、果たしてこのことに意味があったのかはよく分からない。精製よりも片付けの方に時間を注いだ。何もかも嫌になることが、ここのところ多かった。紛らわしに散歩に出かけて、枝振りのいい椿を見つけると胸が踊った。これは恩恵なのか、弊害なのか、考えてみてもいまいちよく分からない。


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