マガジンのカバー画像

小説

89
これまでに書いた創作小説をまとめています。 「創作」の綴りが無いものに関しては全てエッセイであるし、私の詰まらない生活の集約なので、小説を読みたい方は此方へ。
運営しているクリエイター

記事一覧

春来たりなば / 創作

春来たりなば / 創作

「おじいちゃんによろしくね」
娘からの言葉を貰って改めて、私は人の親になり、私が父と呼んでいた人間は別の名前を授かっているのだと悟った。キャリーケースを慣れない様子でゴロゴロと転がす娘が、段々と小さく、駅のホームへと消えていく。助手席に座る妻が少し寂しそうな顔をして、振り返らない娘に向かって手を振っている。一方私はというと、つきものが落ちたような感覚で、グローブボックスから煙草を取り出し、口に咥え

もっとみる
Beluga. / 創作

Beluga. / 創作

1957年11月3日ーーー。
この日はソ連がスプートニク2号を打ち上げた日であり、世界初の人工衛星として大きな注目を集めた。搭乗していたのは人間では無く、一匹の犬だった。その名をライカという。
ライカはもともとモスクワ生まれの野良犬で、数ある動物の中から適応能力の高い犬が選ばれ、数頭ばかり、宇宙への渡航を担われたうちの一頭だった。
有人飛行を目指した地球の周回軌道を巡る旅行は当時の技術では片道切符

もっとみる
やさしくない / 創作

やさしくない / 創作

「優しいばっかりが愛じゃないと思うんだよね、俺は」

そう友人に忠告された時点でもう遅く、彼女と別れてから早くも2年の月日が経っていた。ラストオーダーの時間も過ぎたグラスの中身も、氷がそのほとんどを埋め尽くす。中に注がれるのは烏龍茶のままで、至って素面にも関わらず、裏腹に顔が紅潮しているのが分かる。人が少しづつ散り散りに消えていき、その度に友人の声が繊細に耳を擽った。隣の宅に聳えていたジョッキの塊

もっとみる
Async / 創作

Async / 創作

37℃の微熱。緩く挟んだ脇の隙間から、弱々しい電子音が聞こえる。長年付き合った彼が唯一忘れていった体温計もそろそろ寿命が迫っていると見えて、その音も随分と弱々しく聞こえる。生まれつき脇で計る家系に生まれた私は、ただ彼が口腔で体温を計るという部分に拘って、付き合っている彼に倣って私もそうしていた。しかし数年前に離別してからというもの、元の鞘に立ち返り、脇で計ることに決めている。
薄く柔らかに見える、

もっとみる
暗夜に手向け / 創作

暗夜に手向け / 創作

日の入りとともに表が騒がしくなり始めた。既に閉じられているカーテンを改めてレールギリギリまで閉め直すと同時に、テレビの音量を上げる。こうすると喧騒も幾らか薄まるような気がする。
毎年この時期になると、表の幹線道路はどこもかしこも車でいっぱいになる。特にクリスマスから年末年始、足がけ2週間に及ぶ期間は酷いもので、数ブロック先に横並びになった国道の激しい往来を避ければこの道こそ空いているのではないか、

もっとみる
あのこの髪の毛 / 創作

あのこの髪の毛 / 創作

フックの2段目にシャワーのヘッドが掛けられているのを見て、大きく溜息をついた。こういう所が嫌いなんだ、そう思いながらシャワーヘッドをもとの位置に戻す。箸の持ち方が何だかおかしくて、居酒屋ではネギトロ巻きを頼みながら 「ネギが嫌いなんだ〜」と言いながら箸先で丹念にネギだけをつまみとったかと思えば、醤油差しの端っこにネギを擦り取り残骸もろとも口に運ぶ。終電の計算というものがなく、サークルに私を誘った、

もっとみる
猫とまたたび / 創作

猫とまたたび / 創作

「こいつ、捨ててきてよ」とドヤされながら飼い猫を抱えて外に出なければならない。何をしに行くって、これから猫を捨てに行くのだ。しかもパジャマで。靴を履く前に深夜ニュースで、今夜の外気温はマイナス2℃だと報じる声を聴いた。
" 防寒対策を十分に " と忠告を受ける傍らで私は裸足のまま、大きめのクロックスに足を通している。鍵をかける習慣の無くなった部屋を、ドアを開けたまま出る。とてもじゃないけれど、私は

もっとみる
桜桃忌は愛をも嫌う / 創作

桜桃忌は愛をも嫌う / 創作

借りたものは返したいけれど、今更返す宛先がない、というのも、おかしな話だ。
久方ぶりに取り出した書籍は、天の部分にうっすらと埃を積み上げている。背表紙の部分に貼られているラベルは劣化が進み、貼り直したテープが徐々に黄変しながらに層を造っている。建物の中に40年ほど置かれていた割に、中身の劣化も少ないことから、如何に生徒によって手に取られていなかったのか、ということがその見てくれより窺い知ることが出

もっとみる
高層ビルから降りておいでよ / 創作

高層ビルから降りておいでよ / 創作

不特定多数の人間を前にして、暗夜の中で彼女が呟く「誰か私を抱きしめて」 という叫びの宛先が自分自身に向けたものであるなら、と思いつつ、温くなった湯船に顔を浸ける。狭いアパートの狭いバスタブの中で耳を澄ませると、近隣の部屋の生活音が振るえて伝わるのが聴こえて、この頃は湯船に浸かる度、しばらくはこうしているようになった。昔から水泳が苦手だ。というのも、顔を水に沈めるということが極端に苦手だったことに起

もっとみる
ポムグラネイトに告ぐ  ep.3 宮前 五葉 / 創作

ポムグラネイトに告ぐ ep.3 宮前 五葉 / 創作

毎朝6時に我が子が泣く。ボサボサの頭をバレッタで整えながら、ベビーベッドにそっと腕を下ろしてその小さな身体を抱き上げる。毎日これの繰り返しで、習慣と思えば慣れてきたけれど、産まれたての頃はそれこそ、殺してしまった方が楽なのではないかと考えていた。「ハル」と名を付けた子供が生まれてからはや1年。ここまで元気に育ってくれている。出生当時、夫にこの名前を提案すると「カタカナで名前を付けるなんて、犬みたい

もっとみる
ポムグラネイトに告ぐ ep.2 宮前 隆二 / 創作

ポムグラネイトに告ぐ ep.2 宮前 隆二 / 創作

隣の隣の街の高校に入学してから、母親は僕に何も言わなくなった。母から言われるがまま中学では常に上位をキープしていたし、トップ3から漏れるとその日の夕飯はなく、気を失うまで殴られながら実の父親が物置として利用していた地下室に翌朝まで閉じ込められた。そのまま布団も敷かれていない部屋の硬い床で眠り、目が覚めれば制服を身にまとって学校へ向かった。母親は僕の顔は絶対に殴らなかった。洗面所で服を脱いで身体を見

もっとみる
  ポムグラネイトに告ぐ  ep.1 井原 傑 / 創作

ポムグラネイトに告ぐ ep.1 井原 傑 / 創作

南陵線は1963年、今から40年前に創設された。今は死火山になっている八次岳もその昔は凄まじい火山活動を起こしているような山であり、そうした地盤活動が海底だった場所を陸上へと押し上げたことで、列島から袖口のようにはみ出すように陸地が完成した。そこで取れる石炭によって何も特徴のない街が栄えて、独立国宜しく、他所の介入を許さない鉄道が出来上がったのだった。炭鉱の街で働く人間はこの電車に乗って街へ出る。

もっとみる
狭い部屋とブルーハーツ / 創作

狭い部屋とブルーハーツ / 創作

1000のバイオリンを5周ほど聴いていたら朝になった。友人と近所の居酒屋に飲みに出掛けて、よく分からない時間に眠ってしまったらしい。酔いが廻ると顔が浮腫んで、鼻が詰まる。ふらふらと部屋の中を動き回り、シンクの前で水を飲み乾した時点で時刻は3時だった。いつ眠りいつ起きたところで、生活への支障は何もないのだけれど、このまま眠ってしまえば、目を覚ますのはきっと翌日の昼頃くらいにはなる。もうすぐ夏が来るか

もっとみる
来たる朝にはシーツをかけて / 創作

来たる朝にはシーツをかけて / 創作

幼かった私は、血の気も失せた祖母の顔をじっと見つめていた。白粉の塗りが甘い頬骨と耳の間の素肌は亡くなった人間の血色をこれでもかと表しており、鼻先から曲線を描くように綺麗なグラデーションになっていた。生まれてからよく私の手を引いた柔らかい掌も、生ゴムを押しているような感覚で、すっかり硬くなっていたことをよく覚えている。
こうなる2年ほど前から祖母は重い心臓の病を患っていて、亡くなるまでに三途の川と現

もっとみる