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日記というにはあまりにも

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流れる日常、更に勢いを付けて垂れ流しています 私小説もここに振り分けていたりします
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あたらよ

あたらよ

" 新しい " を何と読む。元はと云えば 「あらたしい」と読まれていたものが江戸時代からの長きに渡る誤用で、「あたらしい」と読むようになったという。その証拠に " 新たな " と書き付けたなら、「あらたな」という音が帰ってくる。間違いが長い時間をかけて正しくなってしまう。確かに「あたら」と読むより「あらた」と読むほうが遥かに耳障りが良いと感じるし、日常に飛び交う誤りを知りつつもまた少しだけ、知らな

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欠落

欠落

少し前に購入した自家用車は生産から15年経っているオンボロ車で、外装の加工に縋って外面だけは新品同様、この年を生き延びている。純正品のカーナビは2006年を最期に時が止まっていて、4年前に開通した道路の存在を彼はまだ知らず、延々と田園地帯の上を走らせる。近隣にはその昔、由緒正しき日本家屋を基調とした割烹居酒屋が建っていた。まともな人間であれば確実に寝静まるような夜更けの街に、飴色の光を煌々と差し出

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きっと、誰も読まないのだから

きっと、誰も読まないのだから

年度当初から一切引き継ぎのない状態で仕事をスタートした。" 全て " がない状態から " 全て " を構築するのだから、ハンニバル将軍のアルプス越えに匹敵するくらい、無理のあることだ。農地開拓に適さぬ荒廃した土地を前に、一度は絶望した屯田兵の気持ちが、今になれば分かるような気がする。まるで他人事のように会議内容を聞き流して、ふたつの会社から人数分の資料が届いたのは、仕事を始めてからしばらくのことだ

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震える指先、脈を攫って

震える指先、脈を攫って

雨の中で吸う煙草。その昔親族が集まる度に叔母の化粧ポーチからくすねた煙草と同じ味がする。この春から勤務地が変わって、出勤に要する時間が2倍に伸びることになっても、相変わらず会議室に揺蕩う眠気は顔色を変えない。先の職場は禁煙という制約を掻い潜る術があり、これを以て立ち上る眠気を制していたが、何処から覗いても建屋の外見が蔑ろになるような造りが、やがて私の暗躍を無きものとする。昨年よりも仕事の量も一段と

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揮発

揮発

熱々の湯が並々注がれた湯船に入ること。流れる日々の中で、ほんの少しだけ通りかかる幸福感は、何者にも変え難い。鼻をつまんで湯船に潜りながら、静かに膨らむ湯の音を聞く。その昔は1分間水中に潜ることなどなんてこと無かったのだけれど、凡そ5年ほどに及ぶ不摂生な生活がもとで、今は55秒の時を数える頃にはじたばたと苦しい思いをする。昨日よりも一昨日よりも長く潜ることが叶う度に、まだまだ呼吸ができるのだと実感し

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インソムニア

インソムニア

体調を崩して何となく仕事を休みを取った。突発的に悪くなった、という訳ではなく、ピースが抜かれ続けてグラグラになったジェンガのように、少しずつ芯がなくなってきた頃、繁忙期前日を狙って休みを取った、ただそれだけの事である。週明けのどんよりとした空を見ながら、プツンと糸が切れる音がしたような気がして、震える手元を制御しながら、覚えのいい番号を入力した。静かな部屋の中で職場に電話を掛けたところまではよく覚

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Camellia

Camellia

椿の種は思ったよりも早く丈の低い紙皿を埋め尽くし、拾った種子たちの宛先を買ったばかりのコートの胸ポケットへと移した。外殻の硬い部分を指で撫で付けながら、ラグビーボール様の塊と小石を丹念に分別する。間違えてドングリを4つばかり手にして、今日ばかりは用がないと暗がりに放った。一見見分けの付かない山茶花と椿の違いはその花の散り方にあるが、葉脈の構造も大きく異なる。しかし時は夕刻、途轍も無い勢いで落ちてく

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不健康だが文化的な、最低の生活

不健康だが文化的な、最低の生活

足元がびしょびしょになった小便器を見つめながら、来世は女性がいい、と思う夜がある。ネットを開いて下スワイプを繰り返すと、振袖の着付けにあえぐ若い子たちの呟きがこちらまで漏れてきた。このことについて毎シーズン、一瞬でも頭を巡らせたかと思えば一瞬でこれらの労苦を忘れている気がする。安易に " 女性になりたい " なんて言うものじゃないかもしれない。きらきらと光る人の塊を目に入れる度に、成人の日をすごく

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破壊的価値創造

破壊的価値創造

飲まない人間による忘年会の二次会出席ほど有益性の無いもの、この世界の何処を探してもそうそうない。一次会ではまだ人間だった同僚達も、二次会会場の暖簾を潜る頃にはすっかり人間では無くなっている。日頃真人間らしく世の中を渡り歩いている大人達がたちまち、音を立てて壊れていく様子を冴え渡った目で見ることが、飲み会に出席する上での一種の通過儀礼と化している。先程訪れた店でそこそこの量の食事を摂ったと思っていた

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その一瞬のかがやき

その一瞬のかがやき

この日のために、一年待った。使い古したカーペットを物置にしまって置いたのも、こんな時間からヒートテックに袖を通したのも、この夜のためだ。夕飯は早くに食べたから、今しがた消化が始まると中途半端に腹が減る。デスクチェアの上でクルクルと廻りながら空を眺めていても、一向に雲がそこを退かなかった。仕事のみを生きがいにしてそうな同僚も、堅物な先輩も、「流星群」と1度は呟いて家へと帰った。

半分ほど開いた小窓

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味の薄い、水を飲み

味の薄い、水を飲み

起き抜けに視界を包む独特な違和感は部屋のカーテンを2枚、3枚と開く度に凄みを増した。生まれつき、視力ばかり良かった私は他人が「見えない」と唱える物があっても驚くほどよく見えた。父母の夫婦喧嘩から逃げるために始めた昆虫採集は思春期の大部分を形成するサンクチュアリになったが、そこでは特に持ち前のレンズは大きな成果を上げる。地元である群馬の山岳地に生い茂る草木の中から目当ての昆虫を見定めることなど容易い

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やわらかな

やわらかな

暗闇を照らす柔らかな光。ここのところ、自室の光源を白熱球ひとつに絞って生活している。橙色で構成されたスタンドライトを、光のない物置小屋から手探りで探して運び歩いた夜のことは、昨日の事のように覚えている。備え付けのLEDの光にどことなく冷徹さを感じていたから、思い切ったことをして良かった、と自身の行動力には感謝している。お陰で、冬の長い夜を好きになれた気がしている。もしも夜という概念が存在していなか

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月面衝突閃光

月面衝突閃光

健康診断のために訪れた内科の待合室は好々爺然とした人々で溢れ返っていた。日中、街中を闊歩するご老年の人達は皆どこへ向かっているのだろう、と考えることがあったがどうやらここに居たらしい、とまたひとつ謎が解けた。視力、聴力、身長、体重、とトントン拍子に進んだ診断もレントゲンを前にして待ったをかけられて、暫く立て付けの悪い椅子の上でうとうとする。昔から眠ってはいけないような状況で眠ることに一種の陶酔感の

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冬めく夜に

冬めく夜に

90度傾く非常口の誘導灯。今見ている方向からすると、丁度矢印の先は奈落を指している。丸い頭部に加えて幾らかの頂点で構成された浅葱色の人影でさえ、このまま突き進めば行き着く先は暗い闇の中である。今夜はいつになく天気が宜しくないようで、耳許をくすぐるくらいの音量で轟々と空気が鳴っている。冷気の中にしばらく身を置きつつ " あー " とも " うー " とも表し難いような声を上げると、反響定位によっにて

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