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ストイックな自分をやめてみたら毎日が充実しはじめた

今までの自分を振り返って、自分を大事にしてくれない環境や人から、 なぜか離れずに居続けていたみたいなことが結構あったなと思います。

なんで私はあんなにストイックだったんだろう?という感じなんですが、それは結局のところ、努力についての間違った思い込みと自己肯定感の低さからきていたんだなということに気づいたので、そのことについて書いていこうと思います。

「厳しい環境にいた方が成長できる」は本当か

「自分を大事にする」っていったいなんなんだという話なんですが、私にとっての定義は、「自分の心や体の声に素直にしたがって、持続可能な幸せを感じられるようにすること」だと思っています。

そういう意味で、私は自分が大事にされていない/していないっていう自覚があんまりなかったんですよね。

むしろ、自分の体の声を無視してでも無理矢理頑張った方が自分が鍛えられるみたいな、思い込みがあったような気がします。

厳しい方が成長できるみたいなのって、結構世の中に広まっている考え方だと思うんですが、本当にそうなんでしょうか。

私の場合は、ストイックにやっていた過去の自分よりも、自分に優しく生きている今の方が圧倒的に成長率が高いような気がしています。

苦手なことを無理して克服するんじゃなくて好きなことを伸ばそうみたいな感じになるので自分がワクワクしているのと、自分のコンディションを整えて「いい状態」で物事に取り組もうとするので、一つ一つの経験から吸収できることがすごく増えたような感じがします。

一言で言うと、自分を大事にしている時の方が、時間の密度が高くて、集中力も高まって、持続可能な努力ができるような気がするんです。

今までは、身体が悲鳴を上げるまで無理したり、違和感のある職場にい続けたり、ちょっとしたストレスを感じないようにしていたり。「人生は辛いものだ」っていう思い込みでもあったんでしょうか。

無理してやってる時って、時間とエネルギーを膨大に消費して、体をぼろぼろにしてリカバリーにさらに時間がかかっていた上に、大した集中力を発揮できないことが多かったと思います。

「自分が大事にされていない状況」に気がつけること

自己肯定感が高いってどういうことなんだろう?って考えると、自分の能力に自信があるとか、声がでかいとか、そういうことではないと思うんですよね。多分、「この人は大事にしないと去っていく」っていうオーラがある人だと思うんです。

自己肯定感が高いって、「自分が大事にされていない状況」に対する感度が高くて、ちょっとしたことでも違和感を感じられて、そういう違和感に対して適切に対処できる人なんじゃないかと思います。感度が高いからこそ、そういう状況をくぐり抜ける経験を積んでいるっていう感じです。

逆に、なんか自己肯定感低くて、自分に自信なさそうで、別に自分のこと大事にして しなくてもいいって、無意識で思ってしまっている人は、なんだかそういうオーラが出ていて、「別にこの人のこと大事にしなくても、 反抗したりとか、いなくなったりとかしないし、別にいいか」って思われるようなオーラが出てしまっているっていうことがあると思っています。

そういう人って、自分を大事にしてくれない場所から抜け出す経験をそんなに積んでいないので、やり方が分からなかったりするんですよね。例えば、ただ職場に「休みをください」って言えばいいだけなのに、言えなかったり。

私自身、幼少期からストイックだったこともあって、自分を大事にするっていう感覚があんまりなかったなっていう風に思っています。

むしろ、自分を厳しく育ててくれる人とか、ハードな環境を与えてくれる人のところに、わざわざ自分 が歩み寄っていたみたいな感じがあって。そういう風に身につけたものって無駄にはならないけど遠回りだったなって今考えると思います。

クラシック音楽がそんなに好きじゃないのにクラシックピアノばかり練習してたみたいな。せっかく練習するならジャズとかコード弾きとかやってればよかったなってほんとに思います。

自分の心に嘘をついて厳しくやってても、本当にやりたいことの能力はそんな上がらないし、一生幸せになれないなっていうことに最近気が付きました。

別に厳しい環境にいなくても自分は成長できるんだっていうことに気づけるようになったので、なんかそういう厳しいところにはわざわざ行かなくなったなって思います。

自分に甘くなると、ニートになるんじゃないかと思ったりするかもしれませんが、自分が元気でいられる程度の持続可能なストレスを自分に与え続けた方が張り合いが出て楽しいなと思うので、意外とだらけた生活にはならないです。

もし、自分を大事にすることをやってみて、毎日ぐうたら生活になってしまったとしたら、一回それを思いっきり堪能してみるというのもいいと思います。身体が求めているということだと思うので。

仕事は休んでもいい

仕事をしていて、自分の体がすごい疲れていて、一回休みたいなっていう時って誰しもあると思います。

私は自分の健康状況と職場の状況を考慮して、 休んだ方がいいと思った時は遠慮なく休ませてくださいって言うようにしています。もちろんできるだけ迷惑はかけないように配慮しますが、自分を大事にできるのは自分しかいないので。

そうしていると、「なんか、この人って別に無理して働きたいとか思ってないんだな」っていう風に思われるようになってきたような気がしています。

手を抜いてるとかそういうことではなくて、自分の体調と相談して、無理のない範囲でやっていく人なんだなっていう風に思われるようになると、なんか、職場の人たちもそういう自分を理解してくれるようになったような気がします。

今までは、「この人やる気がないんじゃないか」って思われるのが怖くて休みをもらえないとか、シフト多めに出してしまうとかあったと思うんですが、別に休みを多めにとっていたからといってそれが評価に影響することってそんなにないということに気がつきました。

疲れた状態で中途半端なパフォーマンスをするくらいなら、元気で集中力があっていつも笑顔な人の方が職場にとってもいい気がするんですよね。

労りの言葉は、受け取ってくれる人に与えられる

誰かを労わる言葉とか、大事にする言葉って、その人がそれを受け取ってくれるからこそ与えられる、ということがあるんじゃないかと思っています。

例えば、「大丈夫?」って言った時に、とにかく問答無用で「大丈夫」っていう人には「もう聞かんとこ」ってなります。

自分が自分を大事にしているからこそ、相手の言葉を真っ直ぐに受け取れるものだと思いますし、それってその人のオーラみたいなものに現れるんじゃないかなって思います。

逆に、心配の言葉をかけたりとか、優しい言葉をかけた時に、あんまり受け取ってくれなそうだなっていう人には、そういう言葉をかけようと思わなくなっていきます。

私自身も昔は、人から優しい言葉をかけられたり、いたわりの言葉をかけられた時に、「いや、なんか自分なんてまだまだだし」とか、 「別にこんなん大したことない」しとか、強がっている時がありました。

やっぱり、そういう時って、どんどん自分に厳しい言葉をかけてくる人が集まってきて、厳しい状況を自分が引き寄せてるっていう感じがありましたね。

幼少期に身についた思い込みに気づく

「自分を大事にする」っていう言葉を聞いたときに、「そんなんじゃダメだ」っていう心の声が聞こえてくるとしたら、なぜそういう信念が自分の中で形成されたのか、子供時代の経験から振り返ってみると色々見えてくるような気がします。

私の場合は、「体の声を無視してでも無理して頑張ると褒められる」みたいな経験が多かったような気がします。

眠くて仕方がなくても無理矢理起きて勉強すると褒められるとか、吐きそうなくらい苦手な食べ物でも鼻つまんで飲み込みなさいと言われるとか。

そういうことの繰り返しの中で、自分の体の声を聞いて大事にするというのができなくなっていったような気がするんですよね。

自分を愛せるから幸せになれる

幸せって、外界に依存するものではなくて、自分が自分をどれだけ愛せるかによって決まるような気がするんですよね。

たとえ理想の人と結婚できたり、いい仕事につけたとしても、自分が自分を大事にできなかったら、周りの人のことも大切にできないし、周りの人も自分を大事にしてくれないと思うんです。

自分を愛する基盤があってこそ、「自己実現」とか「夢を叶える」みたいなことが考えられるんじゃないかなと私は思います。じゃないと夢をかなえても幸せになれないと思うので。

まず、自分を愛する基盤が整える。「努力」とか、「自己犠牲」とか、そういうストイックなことに対して自分がどういう信念を持って無意識のうちに行動しているのかをまずは明らかにしていくということが大事なんじゃないかと思ったりします。


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