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嬉しいメールに朝から泣いた(日記)

「あなたの優しさにいつも救われてます」

今朝早く、こんなメールが届いた。

そのメールの送り主は、私が時々相談に乗っている、某カルト教団被害者の男性。

彼は過去の教団関係者からの心理的支配・呪縛により、メンタル疾患を発症し、現在、精神科での薬物治療を受けている。
しかし、かかりつけ医には話せない、話しきれない心情や過去の出来事を時々私に打ち明けてくる。

私はその教団の内部事情をよく知る立場ゆえ、日頃多くの被害者、関係者たちから様々な相談が寄せられるのだ。

とはいえ、私はカウンセリングについて専門に学んだ身ではないし、あくまで「その世界の事情に詳しい一般人」にすぎない。

そのため、個別に寄せられる相談事に対しては、途中でコメントして話しを遮ったりせず、とにかく聴き役に徹するよう努めている。

聴き役に徹する中で自分の知らない情報をキャッチすることもあるし、私の活動内容を知り、被害者サポートに役立つ専門知識を伝授してくださる方が現れたりもする。


ある意味、聴き役に徹することは私にとって大きな自己成長のチャンスでもあるし、自分の心の状態を客観的に知るチャンスでもある。

傷ついた他者の心情に寄り添うには、日頃から自分をしっかり思いやり、自分の心を労わってないと困難を極めるからだ。

相手が言いたいことを一通り言い終えて、こちらから回答・意見する際にはけして相手を傷つけないよう十分な間を置き、細心の注意を払う。

こちらの人間としての器が試されているようにも感じるし、大きな忍耐力が必要になってくる。

もちろん、その「忍耐力」とは、被害相談をしてくる相手に対して必要な力ではない。
被害者の心情に寄り添いつつも、他人の心の痛みは他人のものとして境界線を引き、一定の距離を保って話しを聴くために必要とする力だ。

それができないと、相手の心の課題を自分の課題と混同してしまい、私まで感傷的になってしまいかねないし、被害者の心の傷をさらに深く抉る言葉を発しかねない。
それがもっとも恐ろしいことだと理解している。

たとえば、
「話さなければよかった」

被害相談してくる方々にこのように思わせてしまったら、それは完全に私の落ち度だ。

彼ら・彼女らの心にまた新たな苦しみの種を(私の失態が原因で)植えつけてしまうことになれば、どんなに反省・後悔してもそれは取り消せない。

ともあれ、いつもそういう緊張感の中で個別相談に応じるようにしている。


幸い、これまで私が各種相談に応対してきた方々からは、
「あなたに話しを聴いてもらえると心が軽くなる」
「何十年も人知れず悩んできたことに自分なりの答えが出せて、心の整理がつきました」
といったお声をお寄せいただいている。

そんなメールやDM、LINEが届くたび、「ああ、よかった」と、声に出しながら胸をなで下ろす(音声でのやり取りを希望する方とはLINE電話で話す)。

さらに、時にはこんなメッセージも届く。

「あなたにいつも愚痴を言ってしまって申し訳ありません」
「心が乱れていて、つい感傷的になってしまいました、ごめんなさい」

このようなメッセージを読むと、
「大丈夫、大丈夫。ちゃんとわかってるから、安心して。ゆっくり深呼吸して」

こんなふうに声に出し、相手に対しても、自分自身に対しても優しく呼びかけるようにする。
それからゆっくり返信メッセージを打つ。

今朝メールをくれた人物に対しても、私は日頃あえて言葉がけを制限し、被害者コミュニティで彼が自分らしい言語化を実現できるよう、見守り続けてきた。

そんな私なりの配慮に対し、彼がいつもどんなふうに受け止めてくれているか、いささか心配ではあったが、冒頭に記載した彼からのメッセージを読んだ瞬間、
「私の無言のエールを、いつもちゃんと感じ取ってくれていたのね」
と感激し、瞬間、涙がこぼれ落ちた。

彼は私の優しさに救われたと言っているわけだが、私もまた、確実に彼の優しさに救われたのだ。

個人的に尊敬している、ある有名な精神科医が「人は生きている中で人に傷付いたりするけれど、その傷もまた人に救われ、癒される」と仰っているが、今日の私はこの言葉をしみじみと実感している。


ただ、こんな嬉しい出来事にけして慢心を起こしてはいけない、と自戒している。

明日からもまた謙虚な気持ちで、心新たに相談者の方々に寄り添っていけるよう、自分自身の心のケアに努めたい。



ここまでお読みいただきありがとうございましたm(__)m



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