何にでもなれた時代

数えてみたら33年ぶりの広島来訪だった。


通過したり宮島にだけ行ったりということは数度はあったが、市内をゆっくりと散策したのは実に33年ぶりのことだ。


東京で生まれて20年過ごし、就職して配属されたのが広島の事業所だった。


そこで24歳まで過ごした。


しかし、配属先は広島市内ではなく広島駅から当時は単線だったローカル線に乗って1時間弱の東広島というところ。


そこで月曜日から金曜日まで働いて土曜日と日曜日に羽を伸ばす。


ティーンエイジを東京のど真ん中で過ごした僕にとってはあまりにも刺激のない土地だった。


最初のうちは電車で、しばらくするとクルマを買ってクルマで広島市内まで週末は遊びに行かないと腐ってしまいそうだった。


社内の音楽好きとバンドを組んで市内のライブハウスでライブをするところまで漕ぎ着け、本番を週末に控えたある日、僕はバイクで事故を起こした。


内臓(肝臓)破裂で絶対安静6ヶ月の診断だった。


「週末のライブには出演できますよね?」と聞いた医師は「冗談じゃない」と一蹴。あたりまえだ。


3ヶ月入院して3ヶ月は自宅療養。半年間も基本給を支払ってくれ続けた会社には感謝しかなかったが、復帰後数ヶ月で辞表を提出した。


半年間考え続けたのは「自分じゃなければできないことをしたい」といういかにも若気の机上の空論。


しかしその想いに取り憑かれてしまった僕は周りの全反対を押し切って退職した。


その前から広島市内にはあまり行っていなかったはずなので今回行くのは34年ぶりなのかもしれない。


記憶と言うのは不思議なものだ。


今回ゆっくりと広島市内を歩き回ってみなかったら死ぬまで(いや走馬灯には出るかもしれないが)思い出すことはなかったはずの記憶がするすると出てきたのだ。


メインの商店街や細い裏路地などを何も決めずに歩き回る。近道も遠回りもなく思いつくままに行きつ戻りつする。


なんとなく思い出されたり、かと思えば鮮明にビジョンが想起される記憶たち。


行きつけだったお店はほとんど消滅していた。


なんとなく歩いていたら店の中からマスターに「おいで、おいで」と手招きされて入ってみたらカレー屋さんで、「なんか用ですか?」と訊いたら「カレー屋さんだよ。食べてかない?」と言われ、そのユーモアで気に入って行きつけになったカレー屋もなかったし、野村監督の奥さんのサッチーにそっくりのママさんがいた「とん平」が美味しいお好み焼き屋もなかった。


行きつけの店も思い出されたが、ジリジリと湧き出てきたのは当時の恋人のことだ。


まだ結婚もしていない遊んでも良い年頃だった僕は勤め先の社内と広島市内のブティックの店員とでフタマタをしていた。(このことに懲りて、その後フタマタは一切していません)


そのブティックの彼女もその店長と僕とでフタマタをしていたし、その店長は妻帯者だった。


ひどい思い出だな。


その彼女が勤めていたブティックももう無くなっていた。


街に染みついた、街から想起される思い出たちに翻弄された半日の散歩だった。


こんなことも東京から一歩も出ずに過ごしていたら起きなかったことだし、いろんな事柄に感謝もできた良い経験だった。


明日も半日自由時間があるので、新たな思い出に触れられたらと思う。

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