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【かわむらという生き物】僕の人生⑤

五ヶ瀬滞在時代~出水へ


台湾から帰ってきて、すぐに五ヶ瀬へ。

釜炒り茶を作り続ける興梠洋一さんの「五ヶ瀬緑製茶」に住み込みで転がり込んでいきました。師匠がご家族で住んでいるお家とは別に、木造建築の離れ、通称「木工所」で生活することになりました。

まわりまわってこんなことになろうとは。

京都をスタートに、大阪なんば→北海道ニセコ→台湾の台北。

そして今度は九州。いったん地元に戻ってから移動するので、古い友人たちは最初こそ「えー?!」とリアクションしていたものの、もはや会って少し話すと「次はどこに行くの?」と言われるようになっていました。

生産者さんのところで働くことは、店舗で接客していた時からの夢だったのですごくワクワクしていました。店舗で接客するときは、「今年のは○○で~。美味しいっす!」と言わないといけないんですけれど、行ったこともなければ会ったこともない、どこの誰がどのように作ったか、全く分からないものを販売しないといけないということがとてもストレスで、はっきり言って詐欺だと思ってました。全然知らん茶をサンプルで試飲して、さもなんでも知っているというような顔をしていないといけないことがとてもつらかったです。

ついに!という気持ちでいっぱいでした。だから、一年目はもうとにかく幸せでした。

はじめて五ヶ瀬に着いて茶園に入ったとき。初めて茶の木の管理機を使ったとき。初めて春の生葉の香りを知ったとき。すべてが黄金色に輝いていました。

そういえば、最初は農機具のエンジンのかけ方も分からなかったです。五ヶ瀬緑製茶での初日の作業は確か雨でした。裾刈機という機械を最初に使ったのですが、エンジンのかけ方が分からず。一人でバタバタしていました。


どんなに天気が悪くても、寒くても、作業は人の都合で決めません。「この時期にこの作業を終わらせなければならない」それがどういうことなのかを知る一年間でした。多分、普通に茶が好きとかじゃなければ長続きしないと思います。今は五ヶ瀬から離れ、鹿児島で生活していますが、今まではあれが普通だと思っていたことはそんなことなかったのか。。と思う日々です。五ヶ瀬緑製茶では基本的に手作業が多かったので。

僕の五ヶ瀬緑製茶での仕事は、茶園の草刈りや肥料散布など茶の木のお世話でした。斜面や山の中に点在する小さな茶園を軽トラで駆け回って草刈り。そして茶の木の間から出てくる雑草やツタ植物、笹や竹などを綺麗に除去する草引き。蛇や蜂をかわしながら一列一列、畝の間を抜けながら作業を進めていきます。最初の年は師匠の他に作業する人が全然いなくて、僕と五ヶ瀬緑製茶の後継者さん、という感じ。後継者さんはまだ在学中だったので春以降はほぼ僕と師匠だけでした。

夏には草刈り・草引きを淡々とし続ける日々。

幼木の草引きがきつくてですね。草刈り機でやると木を切ってしまうので使えないんです。炎天下の中でも、寒空の秋でも、朝露がどんなに冷たくても、膝をついて中腰で、手で抜いて回ります。3反とか。達成感がすごかったです。

基本的になんでもしてましたが積極的にしていた仕事は、SNSの情報発信とインターネット販売の商品説明文の作成、淹れ方ガイド、写真撮影。販売会があれば販売しに、休みの日は街にくだって茶屋を回りました。

来客があれば、お茶を出してと、プロの方や買い付けに来たバイヤーの方に淹れて出して。

鍛えられられました。。緊張感すごいです。突然やってくる試合みたいな感じで。

師匠が高名な方だったこともあり、有名な方や、長く茶をされている方、師匠の友人の方、新規でこれから始めるという方などたくさんの人が五ヶ瀬緑製茶に訪問されてきました。お茶を出したり、ハンドルキーパーをしたり、一緒に畑で作業したり、そんなことをしていたので、おこぼれで僕のことも認知していただけたりしました。時には厳しく指導、時には応援。一緒に畑で作業したり、茶を作ったり、いろんなことをいろんな方との出会いの数だけ経験させていただきました。


毎日の出来事、目の前の存在、すべてが学びでしたが、なんといっても「茶の木がどのように育って、どんな芽で収穫され、どう処理されたから、この茶になりました。」という流れを一年間ずっと見続けることができたことはとてつもないいい経験になりました。

茶葉を見て拾える情報が増え、香気・味わいの予想などが立てやすくなったので、産地が違ったり、国が違ったりしても根底がなんとなく分かっているので「何となく察しが付く」ようになりました。

また、いい香気・いい味わい・いい渋み(いいとは、好みで判断するものではなく、「欠陥」として判断しない要素のことです)の基準を、師匠のそばにいたことで高い水準で体験し続けることができました。品茶、品茶、品茶の毎日。師匠のご友人の方も度々、品茶会をしに来られて、その度に厳しく指導していただきました。「鑑定能力を鍛えなさい!」とことあるごとにご鞭撻いただき、おかげで品茶をする癖がつきました。「鑑定能力向上」は僕の永遠の宿題です。頑張ります。


その「何となく察しがつく」ことと「鑑定能力(要素の特定能力)」を学ぶことができたおかげで、「もうちょっと乾燥させよう」とか「もうちょと選別しよう」「きっとこの部分がいいところだから、こうやって淹れてあげよう」といったことができるようになり、また、現状いまいちな茶もここがダメだからこうすればよくなるという「調整の作業」ができるようになりました。「何となく察しがつく」ことと「調整の作業」の知識はやっぱり、実際に畑で仕事をしてこそ身につくことだろうなと思いました。こんな風に書いてますが、僕はそんなに鑑定能力が高くないので、これからも沢山頑張らないといけないのです。。頑張ります。。

こういったことを生業としている、茶農家さんをはじめお茶問屋さん、バイヤーの方は本当にすごいなあとも痛感した日々でもありました。悔しくて泣いたこともありましたが。


畑は畑で、雨の日も風の日も、猛暑の日も二日酔いの日も延々と草と闘い、畑以外の仕事では茶の技術、知識を磨き、まさにお茶漬けの日々。

仕事が終われば、「だれやみ」。師匠が木工所まで下りてきて、「飲むぞ。」と言えば一緒に焼肉や鍋をして焼酎をしこたま飲んで、来客があればそれはもうしこたま飲んで。師匠はもうめちゃくちゃ飲む人で、どこかに飲みに行ったら必ずのみなおすぞと言って、そこからブランデーやウイスキーを常温で水のように飲みます。僕も最初はビールや日本酒でしたが1年もたてば芋焼酎のお湯割りを好んで飲むようになってました。

師匠はとても熱いお人で、飲んだ日はいろんな言葉をかけていただきました。これからはこうしていかなきゃいかん。お前はこうなっていかなきゃいかん。あれはダメだった。ここはよかった。こんなのをやってこうじゃねえか。沢山、色々なことを教わりました。ぶっちゃけ僕の中では興梠洋一さんは師匠というよりお父ちゃんです。奥さんもお母ちゃんです。

五ヶ瀬は、実家より故郷らしい。そう思うようになりました。

本当に素晴らしい日々を過ごさせていただきました。今でも春には一緒に手炒りをしたり、遊びに行ったり、買いに行ったりしています。


1年目の冬の農閑期。

さすがに仕事がないのにいるのはまずいと思い、冬の間だけ街に出稼ぎにくだりました。ちょうど北九州の小倉で和紅茶を本格的に扱いたいというお店があったので、冬の間だけ仮店長として3か月入り、春になってまた五ヶ瀬に。


五ヶ瀬緑製茶でできれば3年5年お世話になって勉強し続けたいと強く思っていたのですが、ちょうどこの時期にコロナが発生しました。

どんな影響が出るのかと思っていたら、茶価の暴落。


そんな様子を見て僕は、「来年以降はきっと難しいだろう」と感じ、2年目は春から次の仕事を考えていました。「茶に関することができて、茶を作ったり、販売したり、茶を淹れたりを幅広くできないか?そんな仕事あるのか?」とぐるぐる考えを巡らせていました。

そして、最終的に行き着いた考えが「出水市の地域おこし協力隊」でした。

長かったですがここから今の生活に繋がったのです。

たった2年間しか滞在できませんでしたが、僕の人生を大きく豊かにしてくれたこの時間は財産です。



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