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自分の「月」を全肯定出来れば、現代の"性の問題"は全て解決する【占星術】

こんにちは!

またまた「月」シリーズです。今回もなかなかに強火の表現しておりますが、私自身が昨今の問題に関して常々感じてることですので、あえて誤魔化さずに、ストレートに書いていこうと思います。

(怒涛の9200文字となりました。気になるところだけでもぜひ読んでみてください!)

「自分の持つ性を生きること」に満足していますか?


この世には(生物学的に)「男」と「女」という二つの性の種類があって、この世に生まれた者は皆、どちらかの性を生きているはずです。

「どちらが優れていて、どちらが劣っているか」なんて本来ないはず。

それなのに、いつからか私たち人類は「男」と「女」というものを、大きな枠でカテゴライズし、男尊女卑だの女尊男卑だの言い出し始めました。

そもそも肉体構造もDNAレベルで遺伝子構造も違い、それぞれが一つの役割を担っているだけだというのにも関わらず、事あるごとに争いに持ち込み優劣をつけたがる人間というのは愚かな生き物なのです。


「男」がいい?それとも「女」がいい?


私たちはいつからか、争うようになりました。

「男はつらいよ」というドラマがあったり、
「女は大変なのよ!」というセリフがあったり。

そして、男性には必要以上の「男らしさ」を求める女性が増えて、
女性に必要以上の「女らしさ」を求める男性が増えました。

「男なんだから泣くんじゃない!」
「男たるもの、稼いでなんぼだ」

「女の子なんだから慎ましく生きろ!」
「女はいつまでも美しく」


そんな大人に育てられた私たちはいつからか「自分の性」を肯定できなくなりました。

「女は楽でいいよな、男に媚びてさえいれば生きていける」
「結婚っていう永久就職があるもんな」

「男は楽でいいよね、子育てしなくて済むし!」
「女は母親も、妻も、女もやらないといけないなんて!」


そんなふうにないものねだりを続けてきた現代人はやがて

「男っていいな〜、女らしく生きるのやめるわ!」と言って子供は産まなくなり、ヒールは履かなくなり、メイクをしなくなりました。

「女っていいよな〜、俺も養われてぇ〜」と言って、社会で戦う意欲を無くして、いわゆる「子供部屋おじさん」が誕生したり、付け入る隙のある女に擦り寄るようになりました。

もちろんこれは、一部を極端に切り取ったものです。

全ての人がそうである、という話ではないですし、わかりやすい比喩のためにあえて誇張して表現しています。

そして、決して子供を産まないことが悪いことでも、戦う意欲をなくすことが悪いわけでもないのですが、ちょっと考えてほしいのです。

その選択肢は、「ポジティブ」なものですか? ということ。


「自分の性」を肯定できない現代人


10年ほど前に流行った女芸人のブルゾンちえみさんのネタ「35億」が流行りましたが、その時にいつもいう決め台詞がありました。

「女に生まれて、よかった!」

さて、現代を生きる人々の中で

「女に生まれてよかった!」
「男に生まれてよかった!」

このセリフを胸はって言える人は、どのくらいいるのでしょうか?
きっとかなり人数が絞られることでしょう。


私は、昨今の「性」に関する諸般の問題はすべてこの“自分自身の性を肯定できていないこと”が全ての根源にあると思っています。

ので、いろいろなパターンにおいて占星術での「月」=「インナーチャイルド」や「潜在意識」の側面を絡めてお話をしたいと思います。


★ここから先を読む上で

⭐️最初に
LGBTQの方々の価値観や感じていること、「性の多様性」を否定しているわけではありません。また、性加害問題についてはあくまで一貫して「加害側が悪である」というスタンスであることは一言申し添えておきます。

⭐️その上で伝えておきたいこと
・この二つに関して(それ以外についても)ここから出てくる話についてはあくまで”自分側”からの話をします。なぜなら相手(過去)は変えられないからです。ですので「自分の内側を見つめる」スタンスで読んでみてください。


「フェミニズム」に私が思うこと


まずは、度々SNSで物議を醸す「フェミニスト」の存在。

生理ネタや、出産・子育て、女性の社会進出についてなどの女性ならではの話題について、度々SNSで「過激な投稿で世間に一石を投じている女性たち」という印象を持つ方が多いと思います。

そもそも「フェミニスト」についてきちんと理解しておきたいと思います。

フェミニストとは、全ての性が平等な権利を持つべきだという理由から女性の権利を主張する行為(フェミニズム)を支持する人のことだと、英オックスフォード辞書で定義されている。

「フェミニスト」とはどんな人?わかりやすく解説

海外から始まったこの思想は、広く日本にも広まってきました。国連でハリウッド女優のエマ・ワトソンさんのスピーチが話題になりましたよね。

エマ・ワトソンさんのスピーチは女性の社会的地位の向上を願うものだけではなく、男性に対する”性の扱い”についても触れていました。

本来の「フェミニズム」の思想というのは女性だけのものではなく、男女問わず古くからあるステレオタイプな性のあつかいに対する言及があるのです。


「男女平等」という”言葉の罠”

日本の歴史においても、女性が長らく抑圧される時代が続きました。

「男女共同参画社会基本法」が制定されたのは1999年です。まだ30年も経っていません。この法律をきっかけに女性の社会進出が一気に進むこととなりましたが、まだまだ課題も多く残っています。

この法律もそうですし、常々合言葉のように言われる「男女平等」という言葉。

私はこの言葉に違和感を覚えます。なぜなら、”平等”というのは「等しく平らに」する行為。凹凸も全て、平らな状態を目指すのが”平等”の正しい意味です。

お互いの良さを否定するかのように、打ち消し合うことで成り立つものなのです。それって本来の私たちが心から目指している姿でしょうか?


左:「平等」 / 右:「公平」

上記の絵は、「平等」と「公平」の違いをわかりやすく図にしたものを引用させていただきました。

これを見ていただいてわかったと思うのですが、私たちが本当に目指したい場所って「男女平等」ではなくて「男女公平」だと思うのです。なぜなら、体の仕組みが違うから。


”平等”というのは同じものを等しく与える・受け取ること。

赤ちゃん、幼児、学生、大人、高齢者というそれぞれ立場も状況も違う人たちが目の前にいて、それぞれに対して等しく同じ高カロリーなピザを与えることが「平等」なのです。

学生や大人は高カロリーなピザを喜ぶかもしれませんが、赤ちゃんはまだ食べられないし、高齢者にとっても体の負担になりますね。幼児もたくさんは食べられないはず。

「同じものを与える」ことが良い場合もありますが、それは登場人物の立場や条件が同じ時だけ。今回の場合で言えば学生同士、大人同士であれば良いでしょう。

私たちが目指すべき場所、目指したい場所というのは、例え高カロリーなピザが与えられる場面であっても、赤ちゃんにはミルクを、高齢者には胃に優しい食事を、幼児には発達段階にあったご飯を与えられること。

今回の例えの場合で言えば、それぞれの足りない部分を補い合いながら、みんなが楽しく食事できる環境を整えることが「公平」なのです。


昨今の議論はなぜか「平等」が主軸になってしまっています。

「女だけ生理で休めるなんてずるい!男にも休みをくれ!」だったり、
「男だけ飲み歩いてばかりずるい!女にも出歩かせろ!」だったり。

「平等」と言い始めるからこういうことが起き始めるのです。でも本来は違うはずです。

まず体の作りは違います。(もちろん個人差はありますが)基本的に女性は子宮という命を育む臓器を持っています。人間に限らず、どの動物も子宮を持っている側(メス)の体の作りは繊細です。

ですから、本来であれば繊細な体を持ち合わせた女性という生き物は、男性と等しく社会で闘う体の作りには(生物学的には)なっていないのです。


それなのに、男性と同じように働くよう求められ、さらには母親の役目まで担わされる現代の女性は明らかに肉体を酷使しています。「不妊症」や「子宮内膜症」「子宮頸がん」などなど。婦人科系の病が急増しているのも平成に入ってからなのです。

「平等」ではなく「公平」が謳われるようになっていたのだとしたら、今頃日本は「少子高齢化」なんて嘆いていないでしょう。

このことに日本人は早く気がつくべきだと私は感じています。



男女平等からくる「男性嫌悪」と「女性蔑視」は月の傷み


そして、男性と同じように女性も働くように社会が求めた結果起きたこと。それは異性に対する嫌悪感が増した、ということ。

特に、この「フェミニスト」の方々を過激に押し上げているのはこの男性嫌悪や女性蔑視の感情だと思います。

ここにも「平等」という言葉の弊害があると感じています。


先ほども述べましたが、「平等」というのは「同じく、等しく」するもの。ですから凹凸を無くさないといけません。

これは出過ぎた部分は「削れ」と言われ、足りない部分は「足せ」と言われている状態。要するに「ありのままではダメ」だと言われている状態なのです。


特に人間という生き物は、自分の「ない」に敏感なくせに、相手の「ある」にも敏感です。

女性から見た男性の出過ぎた部分は「性欲」ですし、男性から見たら女性の出過ぎた部分は「感情的思考」でしょう。ですがどちらも大昔の狩りの時代に必要だったものが名残として今もまだあるだけのもの。

ネットでも良く見かける

「これだからまんさんは〜」などという女性蔑視する男性、
「男の脳みそは下半身」などと揶揄する男性嫌悪な女性。

どちらも相手を見下す時に使われる言葉ですが、なぜ互いを見下す必要があるのか。それは「平等」に社会で闘ってるから負けたくない・なめられたくないのです。

ではなぜ負けたくないのでしょう?答えは簡単で「ありのままではダメ」だと思っているから。強くいないといけないと感じているから。

負けた自分ではダメ、なめられた自分ではダメ。

その根底には、弱い自分のままではいけないという月の傷みが隠されています。


「男女平等」という表向き、耳障りのいい言葉を使い続け、なんとなく同じものを平等に与えられてきたけれど、本当に欲しかったものではなかったので私たちの月は大きく傷つくことになりました。

ですが、そのことに気がつかないまま「あっちのせいだ」「こっちのせいだ」と嘆いているのが現代人なのだと思います。


思い込みを解き、男性も女性も「したたか」に生きる社会に


「したたか」という日本語をご存知でしょうか?

なかなか手ごわいこと。ひとすじなわでは相手にできないこと。

Oxford Languagesの定義

本来の意味は「粘り強くてしっかりしている」「気丈で勇猛である」という良い意味で使われていたが、いつしか「ずる賢い」「図太い」という意味でネガティブな場・表現として使われるようにもなってしまった言葉でもあります。


実はこの単語はひらがなで表記されることが多いですが、二つの漢字表現があります。

それは、「健か」と「強か」です。

「健か」は、肉体的に強くしっかりしている様。
「強か」は、精神的に強くしっかりしている様。

よくこの言葉は「したたかな女性だ」などと精神面的な表現で扱われることも多いです。

この時の「したたか」はきっと「強か」であり、もしかしたら図太さやずる賢さに対する男性からの比喩かもしれないけど、実際に図太い精神的な強さって生きてく上で大切ですから「強か」って素敵なこと。


そう、女性だって元々強いんです。男性との強さのベクトルが違うだけ。

男性のように鍛えてもムキムキにはなれないかもしれないけど、女性のように男性は子供を産めません。男性は痛みに弱いのでお産をしたら死んでしまうそうです。

体の作りも脳みその思考回路も違うんだから、仕事を含めたライフスタイルだって同じでいいはずないんです。というか、そもそも立つ土俵が違うのになんで同じ土俵で戦っているの?という話。

男女格差だったり、男女平等(いい加減「男女公平」にして欲しいところですが)というところの思い込みや固定概念を一人一人が、手放していくことがまず、性差の問題を語る上で大切なことかなと私は思っています。


「LGBTQ」についての個人的な願い


さあ、長くなってしまいましたが、ここまでは男女の問題について書いてきました。ですがここからは角度を変えてLGBTQのお話をしていきます。

私自身は当事者ではないですし、現状周囲にもいないのであまり明るくない話題ではありますが、そんな私だからこそ思うところもあるので、(もちろん当事者の方を否定することなく)素直な気持ちで書いていきます

先ほどまでとはテンションが違うかもしれませんが、お許しください。


「性」は肉体の機能の一部であり、自分自身ではない


まず根本から常々思っているのですが、この手の性的マイノリティに悩む方々に向けて、一言伝えたいことがあります。

”あなたは、あなたでしかない” ってこと。

名前・顔・体つき・雰囲気…似てる人はいても、全く同じ遺伝子を持った人はいないんです。

あくまでも性に関する機能は身体的機能でしかなく、肉体というのは魂がこの地球上で願いを叶えるために授けられたある種のツールでしかないのです。

正直に申し上げて、(身近にいないというのも大きいのですが)ここ1〜2年でびっくりするようなスピードで言葉が増えているように実感します。

「トランスジェンダー」
「アセクシャル」
「ロマセク」
「デミロマンティック」
などなど。

占星術などを勉強していて感じることでもあるのですが、特に日本人は何かにカテゴライズされることで集団の仲間に入れたと安心する気質がすごく大きいと感じます。

ですから、このようにさまざまな言葉を生み出してはその度に自分をカテゴライズすることで安心を図っているのでしょう。それが悪いことだとは言いません。

でも、”あなたは、あなたでしかない” のです。

新しい言葉を生み出しては、一生懸命自分自身をそこに当てはめようとするまでもなく、あなたという人間はそもそも一人しかいないし、みんな一人ずつしかいないんです。


以前にかなり昔に別の記事でも書いたのですが、私が好きな本で、有名な美容ライターのAYANAさんのエッセイ『「美しい」のものさし』にこんな文章があります。

—— めちゃくちゃ極端な話、死ぬと肉体は崩れて消えていき、精神はどうなるのか知らないですけど、輪廻転生とかするのかな? だとしたら自分じゃなくなっちゃうわけだし。

そうしたら、自分がコンプレックスを持っている範囲のものって、なんか今は自分の所有物みたいにおこがましくも思っているけど、意外とそうではなくて誰か(神様とか)からの借り物だったりするのでは?みたいな。

【「美しい」のものさし】より

私の中の持論でもあるのですが、そもそも自分自身の肉体に感謝の気持ちが湧いていたら、自分にも自分と同じように生きる他人にも優しくできると思うのです。

そして、どんなジェンダー観を持っていようと、自分で自分自身を認められるはずなのです。


男女問題の場面でもお話ししましたが、やはり「月」=インナーチャイルドなんです。傷ついた月を癒さないといけないんです。多様性を求める側も、受け入れる側も。

日本人はみんな、現代の教育課程で自分を抑圧させられ、内なる子どもが傷ついていますがそれの修復を自分でしようとしません。

どんなジェンダー観を持っていようと、「唯一無二の自分」であることを認め受け入れることができていたら、もっと今の日本での性的マイノリティの問題もやわらかく前向きなものとなっているはずなのです。

そのために、月=心を満たして欲しいなって思います。


「反対の性を持った自分」であなたが成し遂げたいことは?


私が、この問題で一番伝えたいことは、どんなジェンダー観で生きようと好きに生きたらいいんです。

でも、「その願いはポジティブなものですか?」ということ。これが一番伝えたいことなのです。


自分の性に違和感を感じたりすることが悪いことだとは言いません。

ただ、せっかく生きるのですから。その先にも人生は続いていくし、素敵な出会いもあるのだから、たとえそれが性的マイノリティな価値観であっても「ポジティブ」なものであって欲しいのです。


現代は、性転換手術だってできます。海外では同性婚の動きもあります。確実に世界は変わってきているのです。

それなのに、肝心の本人が「つらい」「苦しい」なんてネガティブな考え方でいたら何にもならないと思うのです。

どこか引け目を感じていたり、ネガティブな感情や考え方があるのは仕方がないことかもしれませんが、それが尾を引くと「なんで多様性を認めてくれないの!」というマインドになりかねません。

それでは受け入れる側もなかなか受け入れられないでしょう。


あなたが心から願っている、ということはそう願い行動することで果たすべき使命や役割がきっとあるはずなのです。

ベースはいつだって、”あなたは、あなたでしかない” なのですから。自分のジェンダーの価値観を、まずは自分で認めることが大切です。上っ面ではなく、本当の意味でね。

ネガティブが悪だとは言いません。ですが、だからこそポジティブな理由で、ポジティブに価値観を世界とシェアしていって欲しいなって私は思っています。

そうすれば、自ずと世界は変わっていくはずです。


「性加害問題」は双方の月が傷ついているから起きる

LGBTQのお話については、あまり上手くまとめられなかった気もしますが、一番伝えたいことが伝わったらいいなって思います。

最後は、昨今のトレンドである「性加害問題」について。


「加害者」の心の弱さは月の未熟さであり、自分も傷ついている


基本的に、物理・精神問わず相手に危害を加える人間というのは言うまでもなく月が傷ついています

▼こちらもぜひ読んでみてください

こちらの記事でも以前触れましたが、加害行為をする人というのは人一倍「他者承認欲求」が強いことが多いです。


たとえば、男性から女性への性加害のベースにあるものは「女性の強かさ」に対する恐れや不安なのです。精神的な強さでは敵わないから、力でねじ伏せようとする。

男性から女性への性加害と聞くと性欲が話題になりますが、それは暴力などに比べると男性にとって一番エネルギーの発散方法として楽であり、(心身ともに)痛みが少ないからなのです。

また、男性から男性への性加害(ジャニーズ問題)などでも、性の捌け口として小さな男の子がターゲットになる例もありますが、結局は感じる痛みが少ない方法を無意識的に選び取っている、という側面があるのでしょう。

なぜなら「自分自身の行動を最初に見ているのは自分だから」です。人を傷つける行動をして、傷ついているのは相手だけではなく自分も無意識的に傷ついているのです。

ただでさえ傷ついているのだから、一番ダメージの少ない方法をとりたいのでしょう。


本来、承認欲求そのものは悪いものではなく人間の心理的欲求に欠かせない要素ではあるのですが、その欲求の矛先は「自分自身(=自己承認欲求)」が望ましいもの。

ですが、月が傷ついていてもその修復には時間もエネルギーも要します。そして月が傷ついていることを、実は自分が一番よくわかっているんですね。だって傷口は染みるから。向き合うとなると痛いんです。

そして向き合ってしまえば、認めたことと同義になってしまいますから向き合いたくないのです。



「被害者」側の月の傷みと”割れ窓理論”


性加害・性被害問題になると必ずついてまわる「被害者側にも非がある」という話題。

私自身も性被害に遭い、悩んだ日々があるので「こっちに非があるわけねえだろ!加害側が100%悪いわ!!!」と怒りたい気持ちもあるのですが。

今このように占い師として、占いやスピリチュアルに触れて学ぶ中で感じているのは「被害者側にも非がある」という側面は半分間違いだけど、半分正解もあることがあるなあ、ということ。


もちろん、加害してくる側が100%悪いのです。

……が、被害者側が加害者を引き寄せてしまっているケースも結構存在します。これが「半分正解もあるかもしれない」ということ。

加害者が一人も生まれることなく平和な世界であって欲しいですが、この不安と焦りと憤りが入り混じる現代でそれは夢のまた夢と心得ていいでしょう。少なくとも自分の力だけでは変えられません。


先日のルシエル先生とのスペースでもお話しさせていただきましたが、こういった性被害の問題は、加害者だけではなくて被害者側の月も傷ついているから起こるのです。

▼ルシエル先生のnoteはこちらから!(Xにも飛べますよ)


犯罪心理学で使われる「割れ窓理論」というものがあります。

「軽微な犯罪も徹底して取り締まることで、凶悪犯罪そのものの抑制につながる」という環境犯罪学上の理論

不法投棄なんかがいい例ですが、ゴミのある場所にはゴミが増えていくのです。「ここなら捨ててもいいや」「汚してもいいや」となってしまうのが、残念ではありますがこれもまた人間の心理なのです。

そしてこれは、人間関係にも応用されます。自分を大切に扱っていない雰囲気が相手に伝わると「こいつは雑に扱ってもいい」となってしまうのです。

そして、類は友を呼ぶの法則で、月が傷ついた加害してくる人間を引き寄せてしまうのです。

ちなみにこれはいくら着飾っていても、内面に傷を抱えていたら意味がないのです。人間の直感というのはすごくて、肌の艶や、目の輝き、気を抜いた時の一瞬の表情などで瞬時に読み解くことができてしまうのです。

通りすがりにすれ違った相手が不審な人だと認識するのに時間はかからないのと同じです。それだけ人間の脳は瞬時に物事も相手も判断するのです。

だから月を癒して修復し、傷のない状態にしておくことは大切なのです。


全てにおいて言えることは「月を満たす大切さ」


結局のところ、月を満たして自己受容するから相手を認めて他者受容できるようになるのです。自分ができないことを人にしてあげることはできません。

今回、話題に上げさせてもらった諸般の問題たちのことを、日々マスコミは歪んだ報道をして私たちの意識を有耶無耶にしている状態ですが、この諸問題の答えって実はシンプルで「まず自分が自分を認めること」だけなんです。

どんな価値観を抱えた自分でも、どんなジェンダー観を持っていても、自分で自分にYESと言える強さを一人一人が持てていたら、全てにおける「生き方の多様性」はもっと軽やかに進んでいくと思うんです。


先日お誘いいただいたスペースをきっかけに、さらに「自己受容」や「女性性と男性性」について、もっと発信していきたいと感じました。

これからもまた話題になったことには積極的に切り込みたいと思います。


とても長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!

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