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わたしはどうやって物事を考えているのか

今回は、具体的なテーマや問いについてではなく、わたしが普段どういうふうに物事を考えているのかという、"考え方一般"みたいなことについて書いてみようと思います。

わたしは哲学を学んでいるということもありますが、もともと考えるということ自体が好きで、将棋やディベート、数学なんかをこれまでぼちぼちやってきました。

同時に、それと同じくらいにわたしを支えている大きな部分が「諦めたくない」という気持ちで、誰かが悪いとかもうどうしようもないとかそんなふうに諦めずに、どんなに無理そうでもあがいてみたい、という思いがわたしの思考の原動力になっています。

考えたいというのはわたしにとって切実な気持ちで、問いはわたしの気持ちのギリギリが溢れてきた言葉だと思うから、大切に大切に育てたい。
この人が悪い!とか、社会が悪い!とかどこかに責任を放り投げてしまうことをどうしてもしたくなくて、どこかにある「ほんとう」を諦めきれずに探し続けている。
わたしにとって「考える」とは、そういう気持ちの積み重ねみたいなものなんだと思います。


はじめに

noteやインスタで考えていることなどを書くと、「どうやったらそんなに言語化できるんですか」とか「物事を深く考えるコツが知りたいです」と質問をいただくことがあるので、大雑把にはそれに応える形で、わたしが物事をどういうふうに考えているのかを書いてみました。

ただ、「こうすれば哲学ができるようになる!」とか「これで物事を深く考えられるようになる!」みたいなhow toを書くつもりはまったくなくて、あくまでわたしがどうやって物事を考えているか、あるいは考えようとしているか、ということを分解して書き出してみるような内容になります。

どうしてこれを書こうと思ったかというと、「考える」ということについての誤解を解きたい、という気持ちがあるからです。

うまく伝わるかわからないんだけど、たとえば考えることと悩むことを混同していたり、むずかしい言葉を使って何かを考えることが「よい考え方」だと思っていたり、人と違う意見を出せることがよく考えている証拠だと思っていたり、考えることに対するそういう狭い価値観をわたしに適応してくる人がたまにいます。

でもそれは、わたしの実際にやっている「考える」ということとは結構違っていて、だから、うまくいくかはわからないけど、少なくともわたしが「考える」というときにどういうことを指しているのかとか、どういうふうに物事を考えているのかを、なんとなく説明することができたらいいなあと思ってこれを書いています。

今回はわたしのノートや大学の授業プリント、哲学対話のメモなどを記事の途中にたくさん入れています。わたしは考えかけの状態を誰かに見せるのがすごく苦手なので、これらをインターネットの海にすべてを公開する自信がなく、記事自体を有料にさせていただきました。

わたしの考える過程や言語化の途中を覗いてみたいなと思った方がいたら、ぜひ読んでくださるとうれしいです。



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