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シリーズ 「街道をゆく」をゆく 003

第1回 「湖西のみち」

その3    淡海の国

司馬遼太郎さんの「街道をゆく」の連載が始まったのは1971年1月1日のことである。改めて考えると、すでに半世紀前のことなのだ。

その冒頭に旅をしたのが「湖西のみち」である。湖西というのは滋賀県の琵琶湖の西岸のこと、この紀行は次の一節から始まる。

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「近江(おうみ)」 
というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでももう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。
                                  司馬遼太郎 「街道をゆく」 1 長州路ほか
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この冒頭。それこそ日本文学のさまざまな冒頭の一節、たとえば、源氏物語の「いづれの御時にか。女御、更衣 あまたさぶらひ給ひけるなかに」とか、平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」とか、徒然草の「つれづれなるままに、日暮らし」、方丈記の「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」など、あまたの名文があるが、この「街道をゆく」の冒頭の一節は、これらと比肩する日本文学の精粋だと思う。

今回、僕もこの『「街道をゆく」をゆく』というというシリーズをこの近江国、湖西から始めようと思う。

近江国、元は「淡海」とかいて「おうみ」と呼んだ。司馬さんの冒頭の文章にもでてくる「あわあわとした」という表現にも通ずるのだが、要は塩水ではない淡水の海であるということだ。都に近い「うみ」ということで、琵琶湖のあるこの国を「ちかつあはうみ」ということで「近江」という字をあてた。これに対して少し遠い浜名湖を擁する国を「とほつあはうみのくに」ということで「遠江」(とおとうみ)と呼んだ。

近江国は、現在でいえば、滋賀県であるが、この国は実に豊かな歴史をもった場所である。現在は多くの産業に関わる輸出入は太平洋を経由して外国と交易されており、それもあり、太平洋側に日本の経済は集中している。最近では、その「マイナスイメージ」が強すぎるためにあまり言われなくなったものの、昭和の高度成長期には、太平洋側を「表日本」、日本海側を「裏日本」と呼ぶようなこともあった。しかし、戦国時代末期に太平洋・フィリピン海を経由して西欧から南蛮船がやってくる時代になるまで、太平洋側は外国との交易のメインルートではなかった。

一方、上古の時代、それこそ黒曜石が鉄などよりも先に交易をされた縄文時代から、海路といえば、日本海側が中心であったようだ。古墳時代から飛鳥・奈良時代・平安時代、これらの時代に文明はユーラシア大陸、特に中国や朝鮮半島を経由して日本にもたらされたものであり、東シナ海・日本海・オホーツク海が海外との交易の場であったのだ。

都があった奈良盆地や京都盆地にこれらの品々が入ってくるのは、九州の西岸や、対馬・壱岐を渡って、関門海峡を通り、瀬戸内の海を抜け、浪速の津に入るルートか、あるいは、日本海を渡り敦賀の港に入るルートだった。

この敦賀(今の福井県敦賀市)からは、陸路を南に向い、疋田を通り、琵琶湖北岸の塩津に至る「五里半越え」(今の北陸本線から湖西線にはいる鉄道ルートや国道8号線とほぼ同じルートである)や同じく疋田から同じく琵琶湖北岸の海津に至る七里半越え(国道161号線とほぼ同じルート)を経て、塩津または海津から琵琶湖を船で渡り、琵琶湖南端の大津に至り、そこで陸揚げされ、逢坂峠を越えて京都に送られたのである。つまり、近江、特に琵琶湖の西岸は古代からの物流の大動脈だったのだ。

ちなみに琵琶湖には「津」とう文字がつく地名が多い。ここまででてきた、「塩津」、「海津」、「大津」の他に「今津」、「草津」などもある。「津」とは単に港という意味でない。漁港ではなく、舟運による物流のための港と港町を意味する。こうした地名からも琵琶湖の湖上物流の重要性を偲ぶことができる。

また、同時にモノだけではなく、多くの大陸の人々がこの地にやってきた。いわゆる「渡来人」である。司馬さんの「湖西のみち」でも紹介される白鬚神社もあるし、天智天皇の時代に百済から亡命してやってきて、大津京の学職頭(ふみのつかさのかみ)となった百済貴族、鬼室集斯(きしつ しゅうし※1)を祭る「鬼室神社」、百済様式の三重石塔が立っている「石塔寺」など朝鮮文化とかかわり合いのある場所がこの近江には多くある。

そしてまた、京都の隣で北陸道、東山道、東海道が合流する交通の要衝でもあるこの近江という地は多くの戦いの舞台でもあった。

古くは壬申の乱(672年)では父の天智天皇が遷都した近江大津宮を拠点にした大友皇子※2 が叔父の大海人皇子(のちの天武天皇)と戦い、この地で敗死している。
源平合戦(治承・寿永の乱)(1180年~1185年)では、京都に攻め入る場合の重要な要衝である瀬田橋を巡って軍勢が争った。特に源義仲は源頼朝配下の源範頼率いる鎌倉軍と戦い、粟津(大津市粟津)で顔面に矢を受けて討ち取られた。
さらには承久の乱(1221年)や南北朝の争乱(1336年)にも重要な戦場となった。
戦国時代には尾張(今の愛知県西部)から出た織田信長や羽柴秀吉が、天下取りに向けて重要な舞台となったのも、この近江である。
信長が近江を経由して越前の朝倉攻めにかかったときに、妹婿の浅井長政の裏切りにあい、命からがら敦賀金ヶ崎から朽木谷を越えて京都に戻った有名な「金ヶ崎の退き口」(元亀元年(1570年))。
勢力を立て直して浅井・朝倉連合軍を破った「姉川の戦い」。
浅井・朝倉と連携していた「比叡山の焼き討ち」、そして浅井氏を滅亡させた「小谷城攻め」。
「本能寺の変」によって信長が明智光秀によって討ち取られると、羽柴秀吉は「山崎の戦い」で明智軍を破った後、光秀の本拠の坂本城を攻めおとした。秀吉はその後、信長の事実上の後継争いとなった越前北ノ庄(福井市)の柴田勝家の軍勢と、北近江で行われた「賤ヶ岳の戦い」で勝利を収め、その後、越前に攻め入り柴田勝家を滅ぼす。さらには「関ヶ原の戦い」の前哨戦の西軍による大津城攻めなどの多くの戦いの舞台となった場所である。

今回の旅では主に湖西と呼ばれる地域をめぐるので、近江全体の歴史の話にはならないが、これからこの国にはなんども訪れるだろう。そのくらい私は近江国が好きである。
 


※1  鬼室集斯は、百済の貴族で最高位の官僚で、660年に百済が唐によって滅ぼされた後、百済の旧臣を糾合し、百済復興運動を主導した佐平鬼室福信の親族と考えられている(ちなみに「佐平」は百済の官位のトップである)。
663年には百済の旧臣たちと大和朝廷の連合軍と唐・新羅連合軍との間に「白村江の戦い」が起こるが、この戦いで百済・大和朝廷連合軍は敗れてしまい、百済旧臣たちの多くが日本に亡命することになる。このとき、鬼室集斯も一族とともに日本へ亡命してきた。この時代に百済からの亡命者たち男女400人が、近江国近江国神前郡(後の神崎郡)に住まわされ、その後、669年には、佐平余自信と佐平鬼室集斯ら男女700余人が近江国蒲生郡に遷されたという記録が残っている。鬼室集斯が任じられた学職頭は、近江朝の職制で、のちの律令制の際に作られる大学頭の前身と考えられている。

※2 大友皇子は、明治3年(1870年)になってから第39代 弘文天皇として、諡(おくりな)をされ、歴代天皇に数えられるようになった。しかし、大友皇子が本当に即位したかどうかは不明である。


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