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シリーズ 「街道をゆく」をゆく 004

第1回 「湖西のみち」

その4    近江聖人 中江藤樹と近江高島(1)

『代表的日本人』という書物をご存知だろうか。明治期のキリスト教思想家である内村鑑三が英語で書いた本で、原題は"Representative Men of Japan/Japan and the Japanese" 。日本の代表的な偉人5人を取り上げて日本人の精神性を欧米に伝えるために書かれた本である。ここで取り上げられた5人の人物というのが、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮である。おそらく西郷隆盛と日蓮は有名なので、説明はいらないだろう。二宮尊徳は昨今は何をしたか知らない人も多いだろうが、通名の「二宮金次郎」といえば、昭和の時代に多くの小学校の校庭に薪を背負って歩きながら読書をしている少年像が多くあったので、その存在だけは知られていたと思う。上杉鷹山は経営者などが尊敬する人物ということで挙げることも多い、困窮していた出羽米沢藩(今の山形県米沢市を中心とした藩)の藩政改革をなしとげた江戸時代後期の名君である。アメリカ大統領のジョン・F・ケネディが最も尊敬する日本人として、上杉鷹山を挙げたことでも有名だし、「なせばなる、なさねばならぬ 何事も、ならぬは人のなさぬなりけり」という歌も名言として知っている人も多いだろう。

残る一人が、中江藤樹である。中江藤樹が何をした人なのか、これを知っている人は稀だろう。他の四人に比べて格段に知名度が低い。私自身、情けないことに知識としては多少聞きかじってはいたものの、具体的にどういう人だったのか、何をした人なのかという点についていえば、甚だ怪しい知識しか、10年くらいまでは持っていなかった。(日本史の教科書に江戸時代の思想家として紹介されている一文くらいの知識だった。)

しかし、この『代表的日本人』、日本人ならばぜひ一読をすべき本でもあると思う。
その後、不勉強を恥じ童門冬二氏の評伝小説『小説 中江藤樹』を皮切りに何冊かの本を読んだ。そして、中公バックスの『日本の名著』で藤樹先生自身の著作も開くに至り、教育について多少なりとも考える立場の身としても、この人についてより知るために、できるだけ早く、この偉人の育ち、そして活躍した地に赴いてみたいと思っていた。

福井県の敦賀から湖西線に乗ると、しばらく山の中を走る。いにしえ、「越(こし)の国」と言われた「北陸道」から「畿内(きだい/きない)」に入る道である。織田信長が本能寺の変で斃れた後、その事実上の後継者の座を争ったのは、織田家の筆頭家老であり、越前北之庄城(今の福井県福井市)の城主であった柴田勝家と山崎の戦いでいち早く信長を討った謀反人明智光秀を破った近江長浜城(今の滋賀県長浜市)の城主であった羽柴秀吉である。その二人が覇を争った「賤ヶ岳の戦い」があったのがこのあたりである。やがて線路は山から降りて、窓の外の遠くに青い琵琶湖の水面が輝いて見えるようになっていく。古代から日本海の海路で運ばれた様々な荷が越前敦賀(福井県敦賀市)や若狭小浜(福井県小浜市)で荷揚げされ、北陸道と畿内をわける山嶺を超えて、琵琶湖沿岸に至ると、海津や塩津という琵琶湖北岸の浦から、舟に荷を載せ、堅田や大津といった京都に向かう湊まで運ばれたのである。

湖西線は琵琶湖の西岸を高架となっていて、そこを新快速はかなり高速で走るが、湖西は比良山系からの強い山おろしの風「比良おろし」が吹くことが多い。しばしばこのため湖西線は強風のために止まることが多く、この日もそうした懸念があった。しかしながら、電車は少し定刻より遅れたものの無事、安曇川(あどがわ)駅についた。

この駅にはなんとコインロッカーがない!。今回の旅行は4泊5日だし、仕事の出張がメインなので、PCなどもある上、お土産をいただいたりしたこともあってかなり荷物が多いので、これには参った。それほどの観光地ではないということもあるのだろうが、JR西日本はこうしたところにホントに金を使わない。ロッカーもないし、トイレも昭和50年代からそのまま使っているような感じで少々びっくりした。

安曇川駅は付近に安曇川という川が流れていることからつけらた駅名(※1)だが、「安曇川」の名称は三世紀以前に近江に定着した安曇(あづみ)氏に由来するといわれている。
『古事記』では阿曇連(あづみのむらじ)は海の神である「綿津見神」(わだつみのかみ)の子、宇都志日金柝命(うつしひかなさくのみこと)の子孫であるとされている。もともとは筑前国糟屋郡阿曇郷・志珂郷(現在の福岡市東部)の漁撈を主とする人々があり、それらが淡路、摂津(今の大阪)隠岐、備中(今の岡山県の一部)、周防(今の山口県の一部)、阿波(徳島県)、伊予(愛媛県)など海上交易を通じて各地に散ったか、あるいは諸国の海の民があたかも一つの氏族のように連携したかと考えられるそうだ。そうした中で、この近江の安曇川や信濃(今の長野県)の安曇野(あずみの)※2のように内陸部に進出した人々もいたのだろう。

また、このあたりは26代天皇の継体天皇が生まれた地でもある。『日本書紀』によれば、450年頃に近江国高島郷三尾野(現在の高島市安曇川町三尾里付近)で誕生したといわれており、今回は行かなかったが「継体天皇の衣胞塚(えなづか)」というものが安曇川駅の南西800mくらいのところにあるらしい。
継体天皇は古代天皇の中でも謎の多い人物で、先代の天皇からはかなり離れた血筋にも関わらず皇位についた天皇だ※3。そのため、しばしば王朝交代説として取り上げられることが多い。
実はかつて福井県坂井市周辺の継体天皇の故地を巡ったこともあるので、今回も時間があればこの衣胞塚を訪問したかったのだが、残念ながら時間がなく、断念した。また機会があれば訪れてみたい。

さて、安曇川駅を降りると駅前のロータリーに中江藤樹の座像がある。藤樹は40代で亡くなったのですが、老成している。人というのはやはり貫禄なのかなぁと、いつも年齢よりはるかに若く見られるだけにちょっと、複雑な思いが浮かんだ。

安曇川駅前の中江藤樹坐像

駅からまっすぐ湖の方角へ進む道は、中江藤樹の通称の「与衛門」をとって「よえもんさん通り」と名付けられている。そして足元を見ると扇形の金属に中江藤樹の言葉を記載したものが、ところどころに配置されていた。
(なお、この扇形はこのあたりが扇の骨を作る伝統工芸が盛んであることによることに由来しているそうだ。)

よえもんさん通りの「藤樹先生のことば」を表示する扇型のプレート



国道161号線を渡ったところの「道の駅藤樹の里あどがわ」の前には中江藤樹が母親にあかぎれの薬を差し出している銅像が立っている。
伯耆国米子藩(今の鳥取県米子市)にいる祖父の養子になっていた藤樹は、母が冬になるとあかぎれに悩んでいると聞いて、子供ながらに心を痛め、あかぎれの薬をなんとか求めて、米子から近江国の小川まで一人で遠路、母に渡そうと帰ってきた。しかし、母は学問をして立派な人になるまで帰らないと誓って出たのになぜ帰ってきたのかと藤樹を叱り、藤樹もそのまま米子に引き返したというエピソードの場面である。
この像は「中江藤樹先生孝養像」と名付けられているのですが、このエピソードの主旨は「孝養」の部分とはちょっと違うようにも思えますね。

中江藤樹先生孝養像


そこから「よえもんさん通り」を渡ると図書館や文化芸術会館などともに中江藤樹を祀る「藤樹神社」と「近江聖人中江藤樹記念館」がある。
藤樹神社は、大正11年に創建された比較的新しい神社だが、このときに顧問となったのがかの渋沢栄一翁。今日では、大河ドラマとお札の影響で渋沢栄一の方が中江藤樹よりは知られるようになったので、境内には藤樹のことよりも(笑)渋沢栄一に関する説明板の方が多いのは面白い。

中江藤樹を祀る藤樹神社
藤樹神社の説明板
藤樹神社創建に力を尽くした渋沢栄一翁についての説明板







#近江聖人 #湖西紀行 #中江藤樹 #安曇川町 #高島市
#藤樹神社


※1 正確には安曇(あど)という地名があり、その付近を流れる川が安曇川と名付けられ、安曇町を含む自治体が1954年(昭和29年)に合併して安曇川町という自治体ができた。その後、安曇川町は、近隣の高島郡の町村と合併して2005年(平成17年)に高島市となった。

※2 本稿には関係ないが、長野県安曇野市の穂高神社はこの地の阿曇氏が先祖を祀った神社で、海から遠く離れた高地にもかかわらず主祭神は「穂高見命」(綿津見命の子の「宇都志日金拆命」と同一)、左殿に「綿津見命」と海神を祀っている。そしてその例大祭は、毎年、白村江の戦いで戦死したという安曇氏の長、安曇比羅夫の命日である9月26日・27日に行われ、大きな船形の山車「御船(おふね)」をぶつけ合う「御船神事」が執り行われる。

※3『日本書紀』によれば506年に第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したが、近親に皇位を継ぐ適当な人物がいなかったため、有力豪族が協議して、武烈天皇の5代前の15代天皇、応神天皇までさかのぼり、その5代の子孫である「男大迹王(おおどのおう)」が母の故郷である越前国三国(今の福井県坂井市三国町あたり)にいたのを探し出して皇位につけたのが継体天皇であるという。



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