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読書の季節

やっと有機JAS認証申請書類の作成も終わりました。
(書類の作成が終わっただけで、これから修正指示や現地監査などがあると思われる)
確定申告も初めての消費税申告も終わり、苦手な書類仕事はやっとひと段落です。今年は野菜セットを組むための野菜の品目数が足りなくなるタイミングが、平年より前倒しになったため、今秋から端境期休みを頂いております。
まあ、休みって言っても野菜の出荷作業が休みなだけで、畑での生産、栽培に関してはもう農繁期に入ってきています。
とはいえ、コトコトファーム便りを書かずに済む季節なのですが、今年はnoteを始めたので、そのために週一で何かしらの文章は書こうと苦渋の決断をしております。
苦渋?そう苦渋です。
だってせっかく夜にPC作業をしないで済む1か月なんです。
普段は21時過ぎに家事・育児が終わって、そこからPC作業。
22時過ぎにPC作業が終わって、半時間ほど読書を寝落ちしそうになりながらして就寝です。
それがこの1か月だけは21時からすぐに読書ができる!
でも、滝のように流れる涙をごくごく飲んでやり始めたnoteは頑張ります!苦渋の決断です!

積読になっている本がたくさんあります。
ライフハック系、ビジネス系、自己啓発系、小説系、エッセイ、歴史関係、哲学、旅ルポ・・・。
つくづく雑食だなぁと思います。
20代前半までは小説と旅ルポものばかりでした。
それがいつしかビジネス書や自己啓発系ばかり読むようになり・・・。
また最近になって小説や、歴史関係を読み始めました。

たくさん本読むようになって初めて得られた感覚として
点と点だった知識や読書体験で得られた感覚が、
さらに別の読書体験で線になったり、面になったり。
例えば、
「熱源」というアイヌ民族が明治維新以降に、
新しくできた「日本」という国体に時に強制され、
時にうまく取り入るために、国の国威発動をかけた活動をつうじて
アイヌの存在感を締めそうとしたり・・・。
そういう物語も、明治維新そのものや、明治政府が内外の多くの問題を
綱渡りで対処しながら、危うい列強の帝国主義に対抗していた時代背景などを知っていればこそ、アイヌの青年を通じて描かれる描写が
悲しく、でも情熱的で、そして大きなうねりに飲み込まれていく無常観を味わえました。
逆に、歴史の本で日露戦争のことを学ぶときに、
あぁ、この歴史的な大きな戦いの片隅で、アイヌという民族が
突然、大きなうねりのような激流で「日本国民」として飲み込まれ、
戦地にかり出されることもあっただろうなぁ。どういう心境だっただろう?
などと、歴史の片隅に潜む小さな隠れた物語に思いを馳せることもできるようになりました。

今回は小説と歴史関連書の点と点で例えましたが
同じように繋がることは多々あるし、つながらなくても
生活や仕事において、ふと「あ、この状況でこう考えるのはあの本で
読んだあのことがベースになっているかも!?」なんて思うこともあります。これは自分の思考パターンが本に影響を受けていることを
たまたま認識でいたということですが、もしかしたら影響を受けていることを、自分で認識しないまま思考を進めていることもありそうです。

あと、「他人の立場に立って考える」というのもそうですが
自分と大きく違う人のことを、そうそう深く想像して、その人を理解しようとする労力って払えないですし、そもそも想像ためのピースすら持ち合わせていないことも多いですよね。
でも「正欲」で、性的マイノリティーの方の苦しみを想像するためのピースを得ることができた。「ケーキを3等分することができない少年たち(タイトルうろ覚え)」では発達障害や、それに対する周囲の対応が少年期に与える影響を想像するピースを。

結局、知るということは社会を、物事を見るレンズを増やしてくれる。
人間は自分の理解と知識を通じて世界を見て、認識していく。
どこまで行っても、知らないことはあるし、想像のピースすら持ち合わせていないことだらけ。でも、そのことを知るだけでも世界の認識に対する謙虚さを持てる気がする。

あの事件は○○が悪い!××なんて最低!
△△サンは神のような人だ!
今はSNSやマスメディアという他人のフィルターで世界を語られることが多い。もちろん他人のレンズを通した認識を完全否定するべきではないし、その人にとってはそれが真実なんだろう。でも、それは他人のフィルターだし、当事者のすべての要素を見えているわけではない。

その認識をもって世界を眺めると、少しだけ色々な理不尽や
分断が進んでいるように見える事柄も、怒りや失望と違った感情で認識できる。ような気がする。

そんな漠然とした気づきが
僕が雑食のように色々な本を読んで得た現在の感想です。


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