本能からなる好き(恋)と理性からなる好き(愛)について

私は自分が自然と好きになった人にしかアプローチしない。好きになった人と付き合うことに意味があるし、好きでもない人と付き合うのは失礼だと思っているからだ。

自分が今まで異性に感じてきた好き(恋)という感情は全て物欲という本能から来ている感情である。例えば、欲しい物があればそれを手に入れるために何でもする。お金を稼いだり、人に頼んだり、どうしても手に入らない時は泥棒になって奪い取る。恋も同じである。好きな人と恋人になるためには必死にアプローチしたり駆け引きしたり、手に入らないときはストーカーとかしてみる。もし、上手く行き恋人になった後も、自分の物だから他の異性といる姿に嫉妬したり束縛したりする。当然飽きはやってくる。倦怠期がくるのも飽きだ。レスだったり結婚後会話が減ったりするのも飽きかも知れない。そこに理性が働くから普通は相手の気持ちを考え、ストーカーや束縛なんてしないし、飽きたからといって簡単には別れない。
つまりこの、本能からなる好き(恋)は、純粋ではあるが全く綺麗でも美しいものでもない。

理性(仮)からなる好きは、息子が好きとか母が好きとか友達が好きとかいうそれである。つまり愛だ。親は子が立派に育つように無償で教育してくれる。子は親孝行をする。これは好きだから行うことだが、そこに自分の物にしたいという思いは存在しない。つまり、本能からなる好きではないのだ。
よく人に言われることは、「付き合ってから好きになることもある」「付き合ってみないとわからない」だ。これは本能からなる好きに当てはめると全く理解できない。好きだから一緒にいたいと思ったり何かしてあげようと思ったりする。好きでもない状態で付き合っても、その人に割く時間や金は勿体ないと感じてしまう。しかし、理性(仮)からなる好きに当てはめるとかなりしっくりくる。恋愛対象は親とは違い、所詮他人だ。知らなくて当然なのである。そこに初めから子や親に注ぐような愛は存在しない。だからとりあえず付き合ってみるのだ。そこで時間を共に過ごし、愛という感情が発生するのではないか。こうやって付き合えば、後に互いに信頼尊重し合い、過剰な束縛や嫉妬は生まれない。飽きも来ないはずである。
初めから、理性からなる好きで恋愛をしている人が「とりあえず付き合ってから」などというのだろう。本能からなる好きしか知らなかった私には無責任で軽い発言にようにししか思えなかったが、今は正解なのではと考えている。

一緒にいてドキドキする人ではなく
一緒にいて安心できる人を選べとはそういうことなのか?

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