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『子は親を救うために心の病になる』に救われる人は多いはず(後編)

前編に続けて、後編です。

子どもを許すことで、親自身も許せるように

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「生きている意味」を自問することは誰にでもあるだろう。しかし、虐待を受けた子の自問は、より日常的だし、切迫しているし、そして乾いている。(p.140)

親から愛情を受けて育つと、「欲しいものを与えてもらう」ことで、自分を認めてもらえている確信を得られる。しかし虐待を受けながら育つと、「欲しいものを与えられない」だけでなく「欲しい気持ちを我慢する」ことで、自分の存在を確認することになる

暴力を振るう親という『悪』に耐えることが『善』となるため、悪のないところでは自分を認められなくなる。素直に良いことや良い人を求めることは『悪』になるため、虐待を受けた子どもが大人になると、我慢せず欲しいものを欲しいという子どもを認められず、「耐えて、頑張る」ことを要求し、自分も子どもに虐待をしてしまう

けれどそんな負の連鎖に苦しむ親を、ときに子どもが救ってくれます。

菜々ちゃん(娘)が自分を必要としている。自分の存在を認めてくれる。娘は、自分が長い間押し殺してきた「甘える」という気持ちを思い出させている。それを自分は許せなかった、でも、今は「菜々は可愛いな」という気持ちが彼女(菜々ちゃんの母)の緊張を解く。菜々ちゃんの甘えを許せるということは、自分の甘えを許し始めているということだ。(p.163-164)

厳しくしつけ、子どもに我慢させようとする親は少なくなってきているかもしれません。しかし仕事に家事に忙しく、子どもとの時間が減ってしまうことで、子どもが「つながりがない」と感じてしまうケースは増えているかもしれません。次はそんな親子のお話です。


母との会話不足が、息子を1人にする

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恵子さんの母親は食事を出してくれただろう。でも、「美味しいかい?」とは聞いてくれなかった。すると、恵子さんはそれが美味しいものなのか、普通のものなのか、あるいはまずいものなのかを確認できない。体は美味しいものを食べて、満足を感じているが、一方で、それが何なのか理解できない。(p.189-190)

毎日の食卓。忙しい家庭では、1人ずつ済ましてしまうかもしれないし、夫婦だけで話してしまうかもしれないし、スマホばかりみて会話らしい会話もないかもしれない。そんな日もある、というのなら問題はないけれど、そんな日しかないとなると大問題だ

子どもは「自分の感覚は、合っている」という確認を積み重ねることで、「自分と周囲の人々は、噛み合っている」と感じ、社会とのつながりに確信を育んでいける。それは本書と同じように言い換えると『社会的な存在感』というものである。『社会という場所に、自分も存在しているという確信』であり『同じような欲求を抱く、共感し合える存在の一員である感覚』

小学4年という多感な時期に、福岡から愛媛の田舎へ引っ越した私は、どこか「自分は、この子たちとは違う」という感覚を抱いていました。母子家庭となったため、子どもながらに「もの」への欲求を抑え、周囲が欲しがるものを「いらない。興味ない」と思い込むようになっていたからか、『社会的な疎外感』は高まっていました。そういえば母に「これ美味しい?」と聞いても、母はいつも「好きな人は好き」と言い返していました。母とのつながりが希薄だったから、社会とのつながりも希薄になっていたのでしょう

大学生になっても、何かを成し遂げても「自分に自信がもてない」と悩んでいた私は、「普通に生きていく」ことの難しさに苦しんでいました。あのとき、この言葉があったら、救われていたのかもしれません。

「普通に」生きていくのではなく、自分の気持ちに戻って、そこから生きて行こう、とそう彼は考えを変えたのだ。社会的な「存在感」を前提として、そこから出発するのではない。その土台ができる前からすでにあったもの、その「存在」のまま、生きていく。(p.214)

団結とか一体感とか、そういった感覚を味わうことは出来ないけれど、「自分は自分のことをよく知っている」し「普通じゃない自分を受け入れてくれる人がいる」ことも信じられつつあります。ありのままの自分で『ある』ことを楽しめる日々を、最近になって、送れるようになりました。

そんな私のような人たちを、本書では『宇宙期』と名付けます。次の章は、あらゆる人たちが、同じような現象に行き着いてしまう、という話です。


「いつ死んでも構わない」と思えるか

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歳を取るに従い、いつか訪れるであろう『死』について人は考え始めます。

死という事実を受け入れるには、生=善=生きてきた実感=社会的な存在感=心理システムを根底から問い直さなければならないだろう。その作業が中年クライシスである。(p.237-238)
心理システムの中で当たり前であり、かつ絶対的であった善悪の価値の相対化である。「死」を避けながら「生」きるのではなくて、二つの対立から「離れる」。そうして、生と死はともに新しい土台の上で、同等に扱われるようになる。言い方を変えると、生を否定しない死の受容である。(p.239)

『生を否定しない死の受容』そんな感覚をもてる日が来るのでしょうか。

結婚して子どもが生まれ、社会とつながり始めた私は、この頼りないつながりにしがみつき、それがなくなることを恐れます。けれど「やりきった」と思える1日や「時がとまればいいのに」と思えるくらいの高揚感に満たされる瞬間、どこか「死んでしまっても構わない」と感じられる自分もいます。

社会から離れて生きてきた『スナフキン』は、社会とのつながりが希薄だからこそ、それを失う危機に直面することもありません。

「いつ死んでも構わない」と思える毎日を生きること。そのために、自分の『存在』を生きること。


ずっとスナフキンでいられるほど、自分を生きることもできない私ですが、スナフキンな時間をたのしめる、普通じゃない自分を認められる日々を過ごしていきたい。


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