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糸島のお家騒動

宗像では宗像騒動というお家騒動がありましたが、同時期に糸島でもお家騒動はあったようです。筑前國続風土記の記事を紹介します。

筑前國続風土記 巻之二十三 志摩郡 南林なんりん寺(曹洞そうどう宗) (意訳)

 岐志きしの中にあります。この場所には昔、金福きんふく寺という寺がありましたが、廃寺となり、名前だけが残っていました。
 前の国主の(黒田)忠之ただゆき公が、上座じょうざ郡宮野村八坂やさかというところにあった、昔は真言しんごん宗だったが途中で曹洞宗となった南林寺という寺を、この村(=岐志)に移し、八坂には昔のように真言宗の南林寺を再度造られました。この寺は丹波たんば永澤ようたく寺の末寺です。
 その初めにあった金福寺開基かいきの事を調べると、弘治こうじ(西暦1555年-1558年)の頃、怡土いと高祖たかすの城主は、原田はらだ越前守えちぜんのかみ隆種たかたね、後に剃髪ていはつして了栄りょうえいといいました。
 その嫡子ちゃくし五郎ごろう種門たねかど、二男三郎さぶろう繁種しげたね、三男次郎じろう種吉たねよし、この三人は母親が同じ兄弟です。四男親種ちかたねは後妻の子で、父親の寵愛が深かったのです。そのためこの親種を世継ぎにしようと考え、前妻の子供を疎んじたので、3人の兄は父親と不和になっていました。三男の種吉は、草野くさの永久ながひさの養子になり、その家に引き取られましたので、災難には遭いませんでした。父親は二人の兄を憎むことがはなはだしかったのです。この上に隆種の家臣の本木もとぎ民部みんぶの入道にゅうどう道哲どうてつという者が、讒言ざんげんを言いつけたので、隆種は嫡子種門、二男繁種の二人をともに殺害してしまいました。
 その詳細を調べるに、弘治の頃は原田氏も防州ぼうしゅう山口の大内氏に属していたが、その頃の大友おおとも宗麟そうりんが近隣国に勢力を伸ばし、諸家の多くは豊後ぶんご(=大友氏)に従う時節となっていました。隆種も老いてきたので、近隣が敵になっては危ないと思い、種門繁種兄弟は父の隆種に、大友家を頼って属するべきではないのか、と内々の話をしました。
 この本木入道道哲は天性の凶悪で器の小さい人物でしたので、隆種(文脈から種門の誤りでは?)と繁種はこの人を好きではありませんでした。道哲は、この兄弟と父の気が合わないことを前から知っていて、これを幸いと思い、隆種に讒言しました。
「五郎(=種門)殿と三郎(=繁種)殿は、大内殿に背いて、大友氏に従い、豊後勢を引き入れて父(=隆種)を討つべきとの企みをしています。これは反逆と見えることは確かです。申し上げた通りです。」
 嘘を報告したのです。隆種は老いて、後妻の生んだ子供に入れ込んで、(前妻の)2人の子供を憎んでいました。道哲の讒言を信じて、真偽を問いただすこともせず、道哲に両人の子を共に成敗することを命令しました。道哲はすぐに、その妹婿で原田家の家老で、大原おおはらの備後びんご入道にゅうどう長為ながためのところに行き、これまでの話を述べ、長為と共に、今からすぐに両人のところに押しかけて討ちましょうと言いました。長為は道哲の様子を見たが、諫めることができず承諾し、用意しますからと家に入り、22歳になった息子の備後を傍に呼びました。
「急ぎ五郎殿と三郎殿のところに行ってこの事態を報告しなさい。今から道哲が討手にそちらに行きます。一時も早くそこから立ち退いて、草野殿を頼りなさい、と申し上げなさい。お前もそのお供をして退きなさい。」
と言いつけ遺しました。
 さて、道哲と長為の両人は、種門と繁種の部屋に押しかけたが、前もって知らせておいたため、両人は早くも落ちていなくなっていました。道哲は怒り、これは長為が内通して逃がしたとして、長為を殺しました。
両人(=種門と繁種)は備後を連れて、草野宗揚そうよう?は祖父なので、彼を頼みにしようとして肥前の方へ落ちて行こうとしましたが、壱岐いき平戸ひらどにも一族があるのでそちらに行こうと思いました。井原村の曽根原そねばらより北へ落ちて行き、岐志まで逃れて来て船に乗り、壱岐平戸の方に行こうとしたところで、後を追ってきた道哲父子3人が、大勢を従え、岐志に押し寄せてきました。
 二人(種門と繁種)は随伴も少なかったため仕方なく、そこにあった家に籠り、寄せてくる追手を散々に(弓で)射ました。中でも三郎繁種は強い弓の使い手なので、寄せ手の者は多く射殺されました。それでも少ない兵では大勢に抗しがたく、ついに勝てないことを悟りました。二人は打って出て、この寺の前の七反田ななたんだという田んぼの中で共に戦い、寄せ手を追い散らして最後は切腹しました。種門は22歳、繁種は17歳でした。大原長為の子備後も、二人と共に戦死しました。現在(=江戸時代)にいたってこの話を聞いた人は哀れに思い、涙をする人は少なくありません。
 南林寺の北に井戸があります。そこに石があります。これは兄弟が腰をかけて切腹したところとのことです。これは弘治3年(西暦1557年)8月7日の事でした。
 隆種は、(後に)息子たちの罪がなかったことを聞いて、道哲を成敗しなければならないとして、高祖から兵を出し池田河原に出向して、道哲父子が岐志より帰るのを待ち構えていました。道哲はこの知らせを聞いて高祖の方へは帰らず、すぐに早良さわら羽戸はねと村に自分の縁者がいるので、彼を頼って行きました。頼りにした家の人は、匿っておいて後日に現れれば、自分が罪から逃れることができないだろう、と思いました。道哲父子3人を蔵に入れて、「夜明けに飯場越いいばごえを案内し、肥前に落ち延びさせます。安心してください。」と、蔵の奥に置きました。そして高祖へ素早く使いを出し、この事を知らせました。
 道哲父子がその翌朝に肥前へと目指して落ちて行くところに、高祖勢が来て追いかけ、道で父子共に討ち取りました。原田の家老は石井、池薗、本木、大原と四家ありましたが、本木氏はここに絶えることとなりました。
 隆種は、2人の息子が罪なく亡くなったことを悲しみ、自分から悔いてこの場所に寺(=金福寺)を建立し、二人の位牌所として寺の領地を寄付しました。
 人の親の子を思うこと、賢いことも愚かなことも関係なく、その愛はとても深いのです。しかしその心を暗く迷わせ、このような自分だけの愛に溺れ、讒言を信じ、罪のない二人の子供を殺し、その愛を失い、恥を当世に残すだけよりは、その悪名を長く後世に伝えることを、誠に愚かな事で浅ましいというのは愚かです。
 しかしながら、日本も中国ともにこのような話は古今多いので、後のこの話を聞く人は、父子君臣夫婦兄弟の間を自ら顧みて、深く怖れ戒めなければならないことでございます。
 原田家が亡びた後は、寺領もなくなってしまったので、この寺もついに廃絶しました。
 忠之公は上座郡南林寺をこの場所に移動したとき、土地を寄付したので、現在(=江戸時代)も寺領は尚十石余りありました。この兄弟の墓所は新町村の中にありました。墓は一つで、墓の前に社がありました。二人の墓がある故に、両所権現と号しました。村人たちは灯をともしました。
 最初、社はありませんでしたが、寛永の末(西暦1640年頃?)に、その霊が祟りをなしたので、社を立てて神としてお祀りしたのです。 


 この騒動の後、結局、四男親種は嫡子となりました。元亀げんき3年の第2次池田河原の戦いにおいて筑前臼杵うすき一党を滅ぼしたこと(合わせて龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶに寝返ったことも)を大友宗麟に詰められ、父の隆種の首を要求されました。抗しきれなかった親種は城のやぐらに上がると腹を切り「我が首を大友に渡せ」と叫び、自分の頭のまげを掴んで自分の首を切って投げ落とし、壮絶な最期を迎えるのです。



用語の意味
岐志 … 福岡県糸島市
黒田忠之 … 筑前国福岡藩2代藩主
上座郡 … 現在の福岡県朝倉市辺り
丹波国 … 現在の京都府中部と兵庫県東部を占めた旧国名
開基 … 仏寺または一宗派を創立すること
永澤寺 … 兵庫県三田市永沢寺にある曹洞宗の寺院
剃髪 … 頭髪を剃る。この場合は出家する意
防州 … 周防すおう国、山口県防府市辺り
早良郡羽戸村 … 福岡市西区羽根戸
肥前 … 現在の佐賀県と長崎県(壱岐島と対馬を除く) 
飯場越 … 福岡市早良区飯場
元亀 … 西暦1570年から1573年
第2次池田河原の戦い … 福岡県糸島市波多江辺りで行われた高祖城の原田氏と柑子岳こうしだけ城の臼杵氏の戦い
筑前臼杵氏 … 臼杵氏は豊後ぶんご国大友氏の庶流戸次べっき氏の流れ、大友氏の一族
龍造寺隆信 … 肥前国の戦国大名(いつか紹介できるといいなぁ)

両所権現については、場所を確認することができませんでした。


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