見出し画像

ゆらぎを愛したいとか:0912 RM


キムナムジュンさんが今年もお誕生日をむかえた。


「ナム〜〜〜センイルチュカヘ〜〜〜いつも大切だよ〜〜〜ラビュ〜〜〜〜〜ゥ」みたいなチョケ祝いツイをするよりも前に、文字通り光の速さでご本人からお手紙が届いてしまった。そうだよ彼らはこういうことをサラッと、その上 丁寧に、してしまうひとたちだ。いそいそと開いて内容に目を通したとき、チョケる前で心底良かったと思ってしまった。おれはくそなのか?こんなんで良いのかアーミー!!!!!




ナムの言葉は必ず一度 正座をし襟を正して受けとりたくなる。自分が想像しうるひとのなかで 最も時間をかけて言葉を受けとるよう意識しているのはおそらくナムな気がする。

翻訳してくださったものを読んでいる時点でキムナムジュンそのものの言葉の質感はどうしても変化してしまっているし、どんなに丁寧で分かりやすい翻訳であっても 私のシワの少ない脳みそと柔さに欠けるこころでは、捉えたワードと結び付けられるものがあまりにも少ない。



だから私は むつかしいな、とすこしばかりそんな感情を抱えながら、一度、また一度、何度も 何度も、キムナムジュンの言葉に会いに行く。




これってものすご〜く尊いことだなと思う。すべてを分かることは出来なくても、"分かりたい" という感情は最前線で存在させていたいのだ。
("分かる" ことから続いて生まれることとして共感があるが、必ずしもすべてがそこに辿り着く必要は当然なく、ここでの "分かる" の続く先は 私にとって "受容・尊重" になる。)

冬のナム





ナムが見ている世界というよりは、ナムにみえている世界がたまらなく好きだ。

私が見ている世界とナムが見ている世界が同じでも、私にみえている世界とナムにみえている世界は違う。同じ太陽の写真をみたとき、私は朝日に見えても ナムには夕日に見えているかもしれないし、私は凛としたものがみえていても ナムにはどこか哀愁らしきものがみえているかもしれない。




どう見えているか、どう感じているか。
全身の隅々に行き渡らせるようにして 味わい感じとってきたものたち、それらによって止まることなく密度を高め続けたキムナムジュンから生まれる言葉は、いつだって新しくてみずみずしい。見たことのあるはずのものや現象や名称たちが、次々と生まれ変わるような感覚がするのだ。

そうやって 私は新しい何かと劇的に出会ったはずなのに、いつもぐんぐん身体に浸透していくのがとても不思議だなぁとも思う。ナムの言葉は浸透力がハンパねぇのだ。脳内でいつかの平匡ひらまささんが叫んでいる。

春のナム




これは私個人の話になってしまうけれど、ナムの言葉を受けとったとき、派手な感情の起伏があるかと聞かれたら、すこし違うような気がする。

言葉を通してナムにみえている世界の質感に触れたとき、私のなかでは何かがゆらゆらとする感覚が必ずある。安堵であったり、ぬくもり、はたまた切なさ、哀れみだとか、そういうものが数え切れない種類、様々な温度や香りを纏って すこ〜しずつ含まれているそれ。触れた様をひとつの感情で例えるのは とてもじゃないけれど出来ない。ただ静かに、でも確かに、こころがゆらゆらするのである。




一概に喜びや幸せとは呼べない、繊細で複雑な側面を持つものにも関わらず、このゆらぎが起こるたびに、私はどうしようもなくナムを好きになる。それをひたすらに、繰り返している。君の言葉で目を覚ます世界があることを知ってしまった私は 一体どれほど幸せなのかということです。


今年もお誕生日が終わりますね。ワカメスープは飲めましたか?


君がみせてくれる美しく不思議な世界を変わらず愛しながら、その可愛らしいえくぼが よりたくさん見られることを願って。キムナムジュンさん、お誕生日おめでとう。来年もお祝いしたいです。心から。

正確には、おめでとうございました(00:19)

サポートの通知を目撃したときは涙と鼻水を渋滞させながら喜んでおります、読んでいただき本当にありがとうございます。感想はこの上ない励みに、サポートは新たな音楽を浴びにゆくきっかけになります。