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滑稽にのっかる虚しさほど喉がつまるものを


※これはイルコンに参加出来た人間が追加公演について書いている文章です。どうしても嫌な気持ちになる部分があると思うので、読むかどうかの判断を先にお願いします、、、



あたりめです。

何も無かったけど、仕事を休みました。(良い子は真似しない)


ごめんけど、仕事より自分が大事なんですよ私は!!!ヤダ!起床早々腹を下した上に無意識にコンタクトをヘアオイルで洗おうとした精神状態の自分に さァ働け〜、とかぜってぇ〜〜〜言えない!!!なんか無理な日!!!全身が無理だと主張している!!!今のこの "わたし" 、無視したら何かアカン!!!何かがしぬ気がする!!!


己をどうにかこうにか正当化しようとしているのがバレバレである。たいへん醜い。これが私です。




ソウル公演2日目の最中さなかに発表された追加公演。
『行く』一択だった。

海外公演の経験はおろか、海外に行くこと自体が中学生以来だったため、ほぼ何も分からない状態から必死に調べ、その日中になんとか飛行機とホテルを取った。プチパニックになり「何も分からん、助けてくれ」とエグい勢いのDMを数人に送りつけたし、逆に こちらからは何も言っていないのに「分からないことがあれば言ってください」とDMをくれた神もいた。オンラインの余韻なんぞマジでどこにもなかった。


私は自分の直感というかアンテナというか、"根拠のないこれ" をわりと真ん中に置いて生きてきた人間だと思う。それと同時に、"ヤダ" と感じたことに関してもそれを貫いて生きてきたように思う。


発表されたとき、その瞬間に、行ける行けない、というような感じではなく、『行く』がものすごく鮮明に自分のなかにあった。出来ることは全部して、必ず行くと。





翌日は申込みにおけるFCやインターパークについて確認し、まず何から準備をすればいいのか優先順位をつけた。合わせて出入国に関する事柄や保険・ネット環境など周辺に関する情報も一通り目を通しメモにまとめた。気持ち的にも、たぶんそこそこ良い状態ですすめられていたと思う。

イルコンの時を思い出すと チケットの案内がくるまでにあまり時間はないだろうなと思ってはいたものの、マジで秒だったことにすこし笑ってしまった。丁寧に案内文に目を通していき、申込み日程のところまで辿り着いたとき、あ、と思った。すべての座席がそうなのか、と。


6/24・25のソウルコンと同じかたちでくると安易に考えていた自分がシンプルに甘かったのだけど、このときに私のなかでまずひとつ、何かの流れが止まる感覚があった。


ただこれは「無理かもしれない」というものからくる感覚ではなかったことだけは確かだった。結果という部分ではない何かに対して、私の "ヤダ" が発動されたのである。





帰宅して早々、オカンに「ユンギさんの、ぜんぶチケッティングやわ」とだけ こぼした。ほんなら厳しいなぁ、と返された。

うん、厳しい。メチャクチャ厳しい。抽選であっても厳しいことに違いはないのだけど、この厳しさは別次元だ。それは以前から分かっている。わたしのなかに渦巻いている "これ" は、そこではないのである。いや、全くないわけではない。厳しさにウッとなった部分も確実にある、あるけれど、もっと違うところだと。





体内を占拠する "これ" が何なのかよく分からないまま、それを押しつぶしたいような気持ちで、ご飯を飲み込んでいた。つい24時間前、盛大に『行く』と意気込みハチャメチャDMを送りつけていた自分が、今度は「どうしようか、」と世界一困らせるDMをこれまた数人に送りつけていた。それをしたくらいから、涙が勝手に出てきたのである。



ウワ〜〜〜、滑稽だなぁ、と思った。



出処も、理由も、ちっとも分からないけれど、紛れもなく自分の身体だから、この涙が何を意味するのか分かってしまうのが心底嫌だった。もうこの時点で、「どうしようか、」の答えは出てしまったのだ。

脳みそはまだ全然「どうしようか、」に居る。なのに、私のどこかがこの答えを出してしまったのである。これが答えであり『結論』だということも、自分だから、分かる。

どうしてこんな結論が出たのか、何がそうさせたのか。出処の分からない感情の濁流を咀嚼して受容するというのは、あまりにも難しい。





これは違うところからだ、とどんなに言っても、"オールチケッティング" を認識してから生まれた感情と判断であるという事実に、何を言ったって言い訳と諦めにしか聞こえないことに、権利はあるのにトライする価値がないとでも思っているかのような今の自分の涙に、24時間前の自分の威勢を重ねて とても滑稽だなと思わずにはいられなかった。





私は実家暮らしの独身で、有給も自由に取ることが出来る人間だ。こんなに恵まれた状況であるにも関わらず、こういう選択をするということは、傍からすればどう考えても、どう見ても、『諦め』でしかないのである。

何かを諦める瞬間というのは、なかなか虚しいものがある。怒りとか悲しみももちろんダメージでありストレスなのだけど、何かに対して確かに持っていた気持ちを自らの手でずるずると引き離す瞬間というのは、わりとそのへんをゆうに超える何かがある、と個人的に思っている。

滑稽にのっかる虚しさほど喉がつまるものを、私は知らない。





『権利があるのになぜトライしないのか』、これである。

行ける行けないの結果要素からくる "ヤダ" ではないというのなら、この "ヤダ" は何なのか。トライして失うものなんて何もないじゃないか。フラットか、プラスか。

行けなかったら、6/2の思い出に何か影響があるのだろうかと考えたりもした。でもそれは違うなと思った。イルコンと追加公演が一帯の思い出になることはない。私の中では完全に別の類だ。何も影響しない。

じゃあ余計に何なのかということになってしまう。





"終えたい" と "迎えたい" の、強さの違いかもしれない。




イルコンのときの私は、行ける行けないの結果要素からくる "ヤダ" がメチャクチャ強かったように思う。自分のなかで明確な目的があったからだ。どう終えたいか、の結果が第一だった。だから終えるまでの過程がどんなにつらく寂しく悲しくても、それを許そうと、受容を努力する自分がちゃんといた。たとえチケットが手元になくても3日間 横浜のホテルで過ごす気持ちと覚悟も最初からずっとあった。



追加公演はどうだろうか。

行けなかったとき、悔しくてつらくて悲しくてオンラインを見ることも躊躇うような、そんな自分は果たして居るんだろうかと想像してみたが、何も浮かばなかった。むしろキャッキャしつつ要所要所で画面に叫び散らかす いつもの自分しか浮かんでこなかったのである。結果が伴わなくても余裕で受容している。




チケッティングにトライしたとき、結果として、終え方として、失うものはない。だけど、迎え方はどうなるか。


ものすご〜〜く、いろんなことが、とても疎かになるだろうなと、漠然と思った。


イルコンのときもそうだったけれど、とにかく公式から降ってくる情報量がハンパじゃない。しかもそのほとんどが期限や案内を伴う重要な内容なので、サッと目を通すとか、また後日確認しようとか、そういうことがあまり出来ない。

加えて海外公演になるため、当然各種準備にもかなり時間と労力が必要になる。(コロナ禍真っ只中で海外コンに参加したアミたちは本当に想像を絶するほど大変だったと思う。)

そしていちばん大きなところはやはり練習等を含めたチケッティング関連の情報収集・準備だと思う。公式からの情報確認や渡韓準備は事務的な色合いが強いが、チケッティングに関してだけは間違いなくメンタルにメチャクチャ直結する。



こういうものと日々対峙しながら当日までを過ごし、3日間を迎えることになる。



準備云々が手間だとか面倒だとかを言いたいわけじゃ決してないし、そもそもそんなことは微塵も思っていない。確かに大変ではあるが、海外公演に参加するためには全員が通る当然の道なのである。

これによって日々が疎かになることを嫌がるのなら、一生海外公演には行けない。それはそうでしかない。




『この追加公演』の私の目的って何なのかと、すごく考えた。

目的、大切にしたいこと、受容できないこと。




会いたい気持ちはもちろんある。声も音も、聴きたい気持ちは、それはそれはもちろんものすご〜〜〜く、ある。でも、25公演、たったひとりでやってのけたユンギさんに、もっと時間をゆっくり融かしたいという想いが、今の私のなかで、それを遥かに上回った。


その3日間を迎えるまでの日々は、これまでの活動を振り返ったりしながら、じっくり、じんわり、抱きしめて過ごしていきたい。すべて終わってから振り返るのも良いのだけど、抱えたまま、抱きしめたまま、それを持ち込んで迎えられる日というのは、あまりにも魅力的だし、それを生み出せるこの期間は、とても、とっっっても、愛おしくて大切じゃないか。





今回は、それが目的であり、大切にしたいことであり、それが侵されることが受容し難いのだと、本当にたくさん考えて考えて会話をして、ようやく私のなかでかたちになった。

ただ、このかたちになったのは、私がイルコンに参加出来たからという事実がとても大きく作用しているのは確かで、参加できていなかったら、このかたちにはなっていなかったのだろうと思う。


一人ひとり様々な事情や想い、価値観があるなかで、こういう文章を残すのは 正直好ましいことではないことも分かっている。嫌な気持ちになったり腹が立ったり傷ついた人もきっと居るはずだ。すみません。


それでもそんななかで、自分とにらめっこして、"大切にしたいことや受容できないこと" にピントを合わせられる人が1人でも居ればと、本当に思っている。むずかしいなぁと躊躇っていたけどトライする決断を出せたり、がむしゃらになっていたけど一旦立ち止まってみようと思えたり。

一人ひとりが最善の選択でその日を迎えられることを、ただの1人のアミとして、片隅からそっと願っている。

サポートの通知を目撃したときは涙と鼻水を渋滞させながら喜んでおります、読んでいただき本当にありがとうございます。感想はこの上ない励みに、サポートは新たな音楽を浴びにゆくきっかけになります。