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エッセイ|第19話 めくるめく異世界は私のすぐ隣にあった

帰国当日朝、空港へ出発する前に急ぎ友人とスークを目指した。買い忘れたものがある、と友人は狭い通路をかき分けるように進む。私はというと、必要な買い物は済ませていて正直用はなかった。けれどスークの雰囲気は大好きだから、最後の時間をそこで過ごせるなら悪くはないと思ったのだ。

スーク。それは不思議な場所。光と陰が絶妙なバランスで存在し、奥へ行けば行くほど何もかもが深まる。濃縮された気配の中、水タバコ、金細工、香水瓶、ランプ、香辛料の山……あふれんばかりの物が四方八方から私たちを覗き込む。そしてそのすべてに魂があった。

迷い込んだら最後の異世界、というのは言い過ぎかもしれない。けれど十分に妖しく魅力的な空間。夥しい数の囁きに耳を傾ければ時間のことなど瞬く間に忘れてしまう。

そんなこんなで、結局何か買ったのか買わなかったのか、もう覚えていないけれど、長居しすぎてしまったのは事実で慌ててタクシーに乗り込んだ。

「だから、急いで欲しいんですよね〜」
お願いする私たちにドライバーはにっこり笑う。
「わかってる。でもまあ、お茶くらい飲むだろう?」

タクシーの中である。なぜそんなところにそんなものが。運転席と助手席の間で彼は湯を沸かし、茶葉を投げ入れかき回す。もちろんその間ずっと、前方不注意の現行犯だ。

いろんな汗が出た。急いでもらいたい。前を向いてもらいたい。けれど彼の好意を無下にもできない。結果、ドライバー以上に前方を睨みながら、隙を縫って熱いお茶を飲み、混雑するカイロの路上で息も絶え絶えだ。

最終日にまさかの展開。スリリングすぎるドライブ。こんなこと誰が想像しただろう。さらには集合時間が迫り、スークが名残惜しいなんて思う余裕はもうこれっぽっちもなかった。

今も時々、そんな嘘みたいなタクシーのことを思い出す。もしかしたら、あれもまた、スークの物たちに見せられた幻影だったのではと思った時、その珍妙な時間が金の秤に乗せられて文句なしの重さをひけらかす様子が思い浮かび、思わず笑ってしまった。何はともあれ、大いに価値ある時間であったということか。しかしこれもまた? スークの魔法が消えることは、どうやらないらしい。

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