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【アルギュストスの青い翅】第5話 人魚の試練

 ヴィーの両親は運河沿いの邸宅の半地下に運河の水を引き入れた部屋を作ることにした。 ベッドや書棚やデスクなども置いてあるけれど、半分以上がプールになっている部屋だ。
 ヴィーはそこで思う存分身体を動かせるようになった。気がつけば一日の大半を水の中で過ごすようになり、ずば抜けて泳ぎがうまくなった。彼はまさに「今を生きる人魚」のように水と戯れたのだ。
 傍目にはずいぶん異常な日常だろう。けれど、それを受け入れ励ましてくれる両親のおかげで穏やかな幼少時代を過ごすことができた。

 しかし、成長とともに再び負担がかかり始め、全身にひどい痛みを感じるようになる。傷があるならば薬を塗ればいい、だけどそうじゃない。どこがどう痛むのか外側からではちっともわからない。水に入っても治まらない痛みにヴィーは苦しんだ。あんなに好きだった泳ぎもできなくなり、すっかり笑顔は消えてしまった。
 両親はそんなヴィーを心配し、彼に舟を贈ることにした。少しでも水の近くにいたがる息子を思ってのことだ。そうして誰もが、舟が彼の第二の足になることを望んだ。けれどヴィーは陸に打ち上げられた人魚のように、乾いた船底に横たわるだけだった。
 水に入れないのなら、ベッドにいようが舟にいようが同じこと。でもヴィーはできる限り水のそばにいたがった。だから毎日を揺れる小舟の中で過ごしたのだ。そして水の音や水の香りが変わることなく自分を慰めてくれることに気づいた。決して水から離れるべきではないのだとヴィーは確信した。

 結局、どんなに待っても痛みがなくなることはなかった。けれど彼を包む水の力がわずかばかりの眠りを与えてくれた。舟底での浅いまどろみの中でヴィーはひたすら自分を満たしてくれる夢を追いかける。
 憧れの王子は心の支えだった。その強さを賢さを勇気を、ヴィーは繰り返し想い描く。成し遂げられた偉業、その喜びを自分の中にも花開かせようとしたのだ。いつか自分も試練を乗り越え、思う未来を勝ち取りたいと。
 
 しかし、絶え間なく襲いかかる痛みにいつしか希望はねじ伏せられ、人魚の王子のようだと嬉しかった日々は遠ざかった。王子と自分の違いをまざまざと見せつけられ、心の中に己の弱さを蔑む思いだけが積み重なっていく。
 嘆きは絶望を引き寄せ、真っ黒に塗りつぶされそうな心はこの世界のすべてを呪えとヴィーに迫った。なにかに怒りを憎しみをぶつければ、束の間の気休めにはなる。けれど得るものはなく、己への嫌悪感が増していくばかりだ。
 それでも知る限りの罵詈雑言をなにかに叩きつけなければ、毎日を超えていけそうになかった。自分はこのまま心根の腐った醜い肉の塊になっていくのかと、薄れゆく意識の中でヴィーは自分自身を蔑んだ。

 ところが皮肉なことに日々増していく痛みがそれを遮ったのだ。あまりに大きくなった痛みに、とうとう明日のことを考えることもできなくなった。恨みつらみなど、もうどうでもよくなったのだ。痛みから抜けだすことがすべてだった。呪いの言葉を捨て、自分を助けてほしいと、それだけを祈った。

「不幸中の幸いとでも言うべきかな。僕の精神の崩壊はね、それを引き起こした原因である痛みに、最終的には救われたんだよ」

 そう言ってヴィーは苦笑したけれど、俺は想像もしなかったヴィーの毎日に圧倒されてかける言葉を見つけられなかった。そしてその頃、ヴィーの父親がうちの誰かと知り合ったようだ。全然知らなかった。しかしこれほどまでにシリアスな内容なのだ、きっと親父が顧客の秘密保守ナンタラで箝口令を敷いたのだろう。

「ディカポーネのアルギュストスに出合えたことで、さらに僕は救われた。ただ生き延びればいいって思ってたけど、もう一度この世界をこの目で見てみようって、そう思えるようになったんだ」

 俺が名乗った時、ヴィーがあんなにも喜んでくれたのはそういうことだったのだ。俺も心底嬉しくて、なんだかこそばゆいような気持ちになった。
 だけどヴィーの話はとてつもなく重く辛く悲しいものだったから、俺は一瞬緩みそうになった頬を引き締め続きを促した。

 ヴィーはアルギュストスの痛み止めを飲み始めてようやく落ち着いたようだ。うちが開発したその痛み止めは、患者の体に負担をかけないように作られていて、依存症にならないようにと飲み方にも心を配って指導している。
 けれどヴィーのケースはそうじゃない。その痛みは一生続くものだ。それはすなわちヴィーはこの薬を飲み続けるしかないということなのだ。
 さらに、ヴィーが飲む薬の量は一般的に使われる痛み止めなんて比にもならないものだった。依存症どころではない、それが効かなくなるかもしれないことが懸念された。

 いや、事態はそれ以上に深刻だった。毒から精製された薬は、その量を重ねれば元の毒と同じものになる。今やヴィーの薬は薬であって薬ではなかった。もはやそれは毒だったのだ。
 毎日大量の錠剤を飲むヴィーの姿を見て担当の誰かは心を痛めたようだ。そんなヴィーのために少しでも力になりたいと、ディカポーネの中で何度も検討された結果、ついにある可能性が試されることになった。
 その提案とは……大胆にも生きたアルギュストスを導入するというものだった。ヴィーの部屋にアルギュストスを飼うのだ。それは毒を毒としないヴィーだからこその解決方法だった。


第6話に続く https://note.com/ccielblue18/n/nbcf4e33cbf47 
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第1話はこちら https://note.com/ccielblue18/n/nee437621f2a7

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