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【アルギュストスの青い翅】第3話 月明かりの波止場

 意味がよくわからなくて首をかしげれば、さっきまで歓喜し、微笑んでいた彼がすっと眉をひそめた。

「みんながきみのことをセーゲルって呼ぶ? とんでもない、きみの名前はジョナシス=アルギュストスでしょ? そんな素敵な名前、他にはないんだから。僕はそう呼んでいいかな?」

 思ってもみなかった言葉にうろたえてしまう。一方で、じわじわと心が温かくなってきた。

「えっ、あぁ……うん、ありがとう。まぁ、なんだ……ジョナシス=アルギュストスは長いからJでいいよ」

 そう返せば彼はまた嬉しそうに笑って頷いた。

「確かに。急ぐときは大慌てだよね。うん、Jと呼ばせてもらうよ。僕はヴィクトル・ステファノス・ラ・セルダ。ヴィーって呼んで」
「あぁ、よろしくな、ヴィー。学校じゃ見かけないけど……俺んちのこと知ってるんだな」
「ちょっと事情があってね、学校へは行ってないんだ。行ってれば中等科二年かな? ディカポーネのことはよく知ってるよ。お世話になってるから。それにしても、こんなところでジョナシス=アルギュストスに会えるなんて、本当思いもしなかったよ」

 やはり同じ年か……。俺はヴィーの言葉から彼の家が親父の「特別な」顧客なんだと当たりをつけた。
 
 ラ・セルダということは旧地区の古い家柄だ。それも運河方面。旧地区が一番小さかった頃の名残である、家名の前の一文字。ラとかレとかセとか。それで大体の場所がわかる。
 それにしても学校に行っていないなんて……ずいぶん訳ありそうだ。顧客に息子と同じ年の子がいれば少しは話題になるだろうに、それが綺麗に伏せられているあたり、かなり込み入った何かに違いない、これは絶対に突っこんではいけない案件だと、俺は頭の片隅で素早く考えた。

 けれど同時に、そんなことはどうでもいいようにも思えてきた。俺は、今できたばかりのこの友人に信じられないくらい夢中になっていた。彼を取り巻く環境ではなく、彼そのものに、その存在に。なぜだろう、ヴィーの柔らかな笑顔を見たら、心の奥でがんじがらめになっていたものが、ぼろぼろと剥がれ始めたような気がしたのだ。
 こんな夜は誰かと笑い合いたい語り合いたい。そう願っていた俺に、この出会いはあまりにもぴったりだった。まだなにも話していないのに、これから始まるヴィーとの時間はたまらなく魅力的なのだと、もう知っている自分がそこにいた。

「J、それは?」

 握ったままだった瓶に注がれるヴィーの視線。蓋を開けて頭上に掲げ、俺はそれを大きく左右に振った。痛みと引き換えに、闇夜に散らばる淡い青。呻きを堪え、美しさに集中する。悪くない。まるで運河の上に柔らかな星屑が落ちてきたかのようだ。

「……それ、もしかしてアルギュストス? そんなに優しい色のものもいるんだね!」

 驚かそうと思ったら逆に驚かされた。アルギュストスを知っているだって? ジョナシス=アルギュストスという名前を知っているだけでも驚かされたのに、まさか本物を知っていたとは……。同じ年のクラスメイトたちは今朝の授業で初めて生の姿を見たのだ。それなのに、学校に行っていないヴィーがそれを知っている……。なんだかとんでもないことが起こりそうな予感がした。

 アルギュストス、町の旗にもデザインされている青い蝶。湖へと続く湿原地帯に群生しているそれを、しかし実際に見る機会は限られている。
 この蝶が、美しいその翅に毒を持っているからだ。毒の素は鱗粉で、それには幻覚作用があり、精製すれば薬になる一方、直接さらされればひどい麻痺を引き起こす可能性がある。特に生まれた直後のものの毒性は強く、大量発生する春から夏の間は誰も湖には近づかない、いや、近づけない。

「ヴィー、それって……、もっと濃い奴を見たことがあるのか?」
「うん、まぁ……。見たと言うか、いると言うか……」
「いる?」

 頷いたヴィーは俺の目をまっすぐに見て続ける。

「Jならきっと気味悪がらずに聞いてくれるよね、僕の話。でもまあ、それは次で構わないんだ。今日はきみの話が聞きたいから」

 誰かと語り合いたい、気持ちを聞いてもらいたい。そんな心を見透かしたかのようにヴィーが言う。でも俺は思った。今日はヴィーの話がいい。さっきまでは馬鹿みたいに愚痴りたかったのに……、気がつけばただ、目の前の月の精みたいに美しい友人が少しでも笑ってくれればと、なぜかそう強く思っていた。
 
 あまりに儚げで、俺の気持ちをひどくかき乱したアルギュストスの淡い青。まるで出来損ないの自分のようだ、叶わぬ夢みたいだと、苦々しさが募るばかりだったのに、ヴィーはそれを優しい色だと言ってくれた。そこにはアルギュストスに対する愛情が滲み出していた。にわかには信じられないことだ。
 
 毒とそれを生業にする俺たち一族は、実のところ、島民から敬遠されているように思う。恩恵に預かっていても、それはそれ、これはこれといった感じだろうか。近づき過ぎれば怪我をする。 
 心を開いて踏み込みたいと思っても、素のままの自分で接すると、最後の一線で拒絶されるのだ。あなたは私たちとは違うと身を翻される。挙げ句の果てには、俺も毒の一つだと言われてしまう。
 
 それでも、同級生たちとの交流を求めずにはいられなかった幼少期の俺は、相反する二つの感情の板挟みとなって、何度となく一人胸を掻きむしったというわけだ。
 年齢とともに、状況を、対応を理解できるようにはなったものの、好きなものを好きだと言えない弱い自分が嫌でたまらなくなる。蝶への愛が憎しみになりそうだった。

 けれどヴィーは違った。蝶のことをとても愛しいもののように言ってくれた。あの瞬間、もしかしたら同じ気持ちを分かちあえるのではないかと思ったのだ。俺と同じ痛みを、ヴィーも知っているのではないかと。
 だから俺は声を大にして叫びたかった。自分のことを気味が悪いだなんて、俺の前では言わなくていいんだよ! そう言いたくてたまらなかった。

「いや、今日はヴィーの話がいいな。月夜には神秘的な話が似合うって思わないか?」




第4話へ続く https://note.com/ccielblue18/n/n5ab8a38e2da9
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