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39歳、ミスコンに出る。 #とは

なにを言っとるんだ、お前は。
というツッコミを受けたら、それはもう傷つき、打ちひしがれ
咽び泣いていたんだろう。以前の自分なら。
いや、そもそもミスコンに出る、という選択肢そのものがなかったはずだ。
私や、私のようにふくよかな体型の人が表に出ることを
社会が歓迎していないことを、なんとなく察して受け流していたことと思う。


きらめきが飛びこんできた。

2021年3月末日。
日課のインスタ巡回をしていたら、ある投稿が目を惹いた。

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出典:https://www.instagram.com/p/CMJhQFpAS3A/

そこにはボリュームのある女性が黒のきらびやかなドレスを着て、豪華なティアラを手に佇んでいた。
真っ赤なリップとスモーキーなアイメイクの笑みも、ツヤのある黒髪も、一眼でパワフルさ、華やかさを備えているとわかり「なんてゴージャスなんだろう!」と、思える女性だ。
投稿をよく読む。──── Today’s Woman ウエストのサイズではなく、心のサイズを重視したプラスサイズの新しいビューティコンテストです。


「ウソでしょ!」

と、最初は思った。それは“日本的でない”と同義であると言っていい。
欧米からムーヴメントが発生して、今やファッション業界を動かし、新たな雇用を産むことになった「プラスサイズ」や「カーヴィースタイル」は、私にとっては当たり前の概念である。しかし、日本国内での浸透はまだこれからという段であり、体感として「プラスサイズ」を歓迎する向きは20代を中心とした若年層からの発信が顕著だ。
特に、摂食障害を経験したひと、ルッキズムに晒され息苦しく思うひとたちから、声を上げている。

身体がひとより大きい、それだけであらゆることから透明化されてきた。
そんな困難の伴う私たちが美しさを自称してよい、と言うのだ。
すぐにwebサイトで概要を読み、まだスポンサーも決まらず、優勝した際にはどういうメリットがあるのかの提示もないため、相当に訝しんではいたものの、これこそがプラスサイズの体を持つ私が、自分の表現を活かすことのできる場だと確信したので、「エントリーはする」と腹を括った。


いないことにされてきた私たち

ところで、ここにプラスサイズ plus-sizeという言葉がある。
市販のSでもMでもない、ひとよりも大きなからだを持つ人のための、主にモデルが名乗る肩書きのひとつで、社会的な概念でもある。
前述したように、若年層を中心にボディポジティブ body-positiveと共に、SNSでの啓蒙が盛んだ。
163cm 76〜77kg台(現時点)、胴長で短足、バランスが悪い。
指も短く、爪はほぼない。マシュマロのような丸さや、洋梨のようなカーヴィーなシルエットもない。
それでも私は、自分の身体を使って発信をしていく必要がある。

着る服に困ったことがないひとに、私の悩みや私から見た社会を知ってもらうのは難しいと感じる。
ここで言う「着る服に困ったことがない」は裕福さ、というより現実的な選択肢の話である。

私たちは長らく、ファッションと自分は遠く隔てたところにあると思っていた。
衣服とは横幅で着るものだと思い込んでいたし、子どもの頃から連れてこられるのは量販店の奥まった片隅にあるいつも薄暗い、大人の(劇的に微妙なデザインの)服のエリアか、男性もののエリアだった。幼少期はともかくとして、成長するごとに「女の子の服」に私のサイズはなかった。
中学生ごろまで性別の自認がふらついていたので、「女の子」でなくともべつに良かった。
でも、それは「女の子」に自分の居場所がなかったから、そう振る舞っていたというのが当時の本音かもしれない。

田舎という環境、選択肢の少なさも手伝い、実物にないのだからファッション誌に私を投影できるものがあるはずもなかった。開いた覚えもない。
ただ唯一、地上波時代からテレビ東京の「ファッション通信」は大好きで、ずっと見ていた。
でも、それは夢を見ているようなものだった。
頭上のステージ、空間演出の洗練、その中を歩く細身のモデルたち。
スーパーモデル全盛の時代のBMIの低い彼女たちと、摂食障害を抱えていたという共通点を見出すのは私が30代に入ってからである。
あらゆる媒体において痩身“のみ”が美しいとされ、すりこまれてきた消費者への意識は今も根強く、意図せずとも露骨に出るほどだ。(検索バーのサジェストの無慈悲さよ!)
痩せていてきれいな人の前でのみ、流暢にしゃべる人というのがある。
静観していると、それがよくわかる。
そして、「女性」とも「人間」とも認識されない、透明になる瞬間が昔から脈々とあって今も痛感する。


そんなはずではなかった。

私は元々、伝えるほどの話を抱えて生きてきたわけではない。なんにもしないはずだったのだ。
しかし、生きづらさを解剖してゆくほどに、なんにもしないはずの私は、尊重なき人間や意識に対して「怒り」を覚えるようになった。
今後も、ひとより身体が大きいことを恥じるよう揶揄する声には、正しく「怒って」いきたい。
(自分の子どもを持つか否かに関わらず、)後進の世代に今ある苦しみを贈りたくはないからだ。
むしろ、後進の世代からこそ教わることは山ほどあるし、年若い彼女たちに習い、学び、アップデートを重ねてゆく。


きらめきに飛び込んでみる。

冒頭のToday’s Womanの話に戻る。
最初は多様性の中にあるプラスサイズにおいて、金星の一番を決めるというのはどうかな、と懐疑的だった。
違いを愛することや、美に特別であることを求めない「ボディポジティブ」の信念に反してはいないかと、少しばかり悩んだ。

4月から5月にかけて数度に分け、主催との懇親会のようなZOOMミーティングが開かれ、そのうちのひとつに参加した。
10名弱の参加者の中には、インスタの巡回中によく見かける方もいた。そのうち、発言をしたのは半数程度だが、どなたも英語がとても堪能だった。

その日、主催者のスティーブン・ヘインズ氏は談笑のなかでこう言った。
「プラスサイズが美しい、それは当たり前のこと」
私もプラスサイズの持つ美しさに出会ったとき、驚きを感じ、
また私もこうあれるというロールモデルとして、非常に魅力的に感じたことを思い出した。
「女性」であり「人間」であると認められる場があるんだ、という驚きだ。

今、SNSを通じて活動するアクティビストやプラスサイズモデルの多くは、10歳下かそれよりももっと若い女性たちで、同世代、それより上の世代は、そうしたロールモデルが明確になかった。
若者から学ぶことが多いのはもとより、私たちも加齢や出産による体型変化を、心情の変化を「歳を取ったから仕方がない」と、思わないでいいと伝えたいし、そうした変化を魅力的に思う、異なる性別を持つ人たちを増やしていきたい。
ファッションの業界から需要が生まれて、プラスサイズを見る目が変わってきた。
今まで仕方なく男性のものや、子供の頃も大人のサイズというだけのあまりかわいくもかっこよくもないものを着ていたのを、ようやく主役として認めてくれるようになった。
渡辺直美さんのブランド、PUNYUSの登場によって、初めて私たちは友達と並列に買い物ができるようになったのだ。
今や、着飾ることがようやく当たり前になったことの実感を噛み締めている。


そうか、私はもう自分が美しい、って気がついちゃってんだ。


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chicca

ありがたいことに6月13日、
Today's Woman」ファイナリストのひとりとして選ばれました。
ご支援、いつもありがとうございます🌷✨


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